著:シュタイン・ミッツアー と ヨースト・オリーマンズ(編訳:Tarao Goo) 当記事は、2023年9月13日に本国版「Oryxブログ」(英語)に投稿されたものを翻訳した記事です。意訳などにより、僅かに本来のものと意味や言い回しが異なっている箇所があります。 ウダイ、お前は何者だ?ビジネスマン?それともプレイボーイなのか?私はお前をどう見たらいいのか分からん:サッダーム・フセイン イラクの独裁者サッダーム・フセインの長男であるウダイ・フセインが、この地球上で最も恐るべき人間の一人だったことに疑いを挟む余地はありません。彼はプレイボーイにして、スーパーカー、酒、キューバ産の葉巻、(特に黄金の)銃、そしてスター・ウォーズを愛する病的な人殺しだったのです。
ウダイの常軌を逸したライフスタイルは、自らを若い頃から死と破滅への道へと導きました。
数えきれないほどのビジネスを展開していたウダイの犯罪帝国は、「スーパーチキン」というファストフード店のチェーンや「ザ・ウェーブ」という名のアイスクリーム会社を経営する傍ら、石油やタバコといった制裁対象の品物やコカインの密輸にも関与していたのです(「ブレイキング・バッド」のガス・フリングというキャラクターの背景にある実在の人物について、まだ興味が残っていれば、ここで検索を打ち切りましょう)。
ウダイはテレビ局やラジオ局のトップも務めていたどころか、7社もの新聞社の取締役会長でもあり、イラクで最も成功したスポーツクラブを支配していました。彼は自分が作り上げた恐ろしいイメージに特別な誇りを持ち、「アブ・サルハン(狼の父)」と自称していました。
ウダイを知らしめた悪名の多くは、イラク・オリンピック委員会のトップとして、イラクのアスリートたちのパフォーマンスを向上させるという名目で拷問に訴えたことから生じたものです。
1993年、サッカーのイラク代表チームが1994年のFIFAワールドカップ出場の予選で敗退したことを受け、ウダイは選手たちにコンクリート製のボールを使ったトレーニングを強要しました。彼によれば、特に成績の悪かった選手は砂利採取場に引きずり出され、感染症にさせるために汚水タンクへの飛び込みを強要されたとのことです。[1]
またある時は、オリンピック委員会の建物の地下に設けた私設監獄にバレーボール代表チーム全員を詰め込みました。監獄の天井は低く、誰も座ったり立ったりすることができないようになっていました。こうした悪行の全てが、彼が言うところの「やる気を起こさせるための訓練」の名の下で行われたのです。[2]
ウダイと出会った人は、だいたいは2パターンいずれかの結末を迎えることになります:不運な人物が悲惨な運命を背負って残忍な拷問に何日も耐え忍ぶか、あるいは予期せぬ運命のいたずらによって、彼がその人に思いがけない好意を抱くかのどちらかです。なお、後者のケースでウダイの友情を獲得するには、(ウイスキー、ブランデー、ウォッカ、コニャック、ビールをブレンドし、大きな「友情の杯」に注いだ)「ウダイ・サッダーム・フセイン」と称されるカクテルを飲む必要がありました。新しい友人になったと告げられた人は、そのカクテルを最後の一滴まで飲み干さなければなかったのです。[3]
ウダイとの良好な関係を長きにわたって維持できた人は、平凡な友情の証を超えた贈り物を受け取ることができました。これらの褒美には、金メッキの
「タリク」けん銃や
「タブク」自動小銃、さらには
「アル・カーディーシーヤ」マークスマンライフル(編訳者注:いわゆるタブク狙撃銃)も含まれていました。ただし、
2003年に米軍がバグダッドにあるウダイの宮殿で数十挺のニッケルや金メッキを施された銃を発見したことを踏まえると、彼の親しい友人たちは長年にわたって大幅に減少していたようです。[4]
ウダイは生涯を通じてさまざまな悪習の中毒に陥りましたが、セックスとポルノへの執着ほど他人の興味を集めるものはなかったでしょう。
2003年、アメリカ兵がバグダッドにあるウダイの宮殿に突入した際、偶然にも彼らは彼のハーレム専用の別荘に遭遇しました。そこでは、ウダイのセックス中毒の痕跡が宮殿全体に漂っていたのです。その豪邸には裸婦の絵が飾られていたほか、インターネット上にある娼婦の画像をプリントアウトしたものが山積みにされており、それぞれに手書きの評価が添えられていました。あるプリントされた書類には、ウダイとヨーロッパ人の女性との刺激的な会話が記されていたようです:そこには「ダーリン、かわいい人ね、私にセクシーな添付ファイルを送るにはタイミングが悪いわ」と書かれていました。[5]
宮殿を捜索していたアメリカ兵にとって幸いなことに、''セクシーな添付ファイル''が発見されることはなかったようです。彼らが見つけたのは、女性たちの名前と写真、電話番号のリストが山のように掲載された一冊の本でした。
あるアメリカ陸軍の大尉は、この建物を「今まで見た中で最大の裸の女性のコレクションだった」と評しています。[5]
権力への欲求と性的享楽の強さにもかかわらず、ウダイが非常に知的であったことは広く知られています。1998年にはバグダッド大学で政治学の博士号を取得し、「冷戦後の世界」と題する博士論文を完成させました。[6]
かつては父の後継者となる運命にあったウダイですが、愚かな殺人への欲望によって、代わりに弟のクサイが優遇されることになりました。
ウダイの政治的没落は19歳の時に始まりました。というのも、彼はサッダームの側近で友人のカーミル・ハンナ・ジョジョを撲殺したからです。現場に駆けつけたサッダームは、「カーミルが死ぬならお前も死ぬ」という最後通牒を息子に突きつけました。カメルはその夜遅くに亡くなりましたが、ウダイの母親の仲裁によって、彼の死刑は何とか減刑されたのでした。[7]
釈放後、サッダームはウダイをスイスに(外交官という名目で)追放しました。もっとも、スイスの平和と静けさが彼の粗暴癖を鎮めるにはほとんど役立たなかったことは言うまでもありません。
数年後の1995年、ウダイは叔父のワトバーン・イブラーヒーム・ハサンを銃撃し、彼の足を切断しなければならないほどの深刻な重傷を負わせるという悪行を繰り返しました。ウダイの処罰について、サッダームは自分が撃たれた時と同じ方法でワトバーンにウダイを撃たせるなどの多種多様な選択肢を検討したようですが、結局はウダイのガレージの一つだけに火をつける決定を下しました。[7]
敵の数が増えるにつれ、ウダイの運は必然的に尽きる運命にありました。実際、ワトバーン銃撃事件から1年後の1996年12月、ウダイはバグダッドでポルシェを運転中に待ち伏せされ、少なくとも7発の銃弾を受けたのです。ちなみに、イラクにおけるウダイの恐怖政治に終止符を打とうと試みた襲撃者たちについては、家族の大半と一緒に処刑されました。[7]
ウダイは襲撃で負った傷から完全に回復することはなく、残る生涯を足を引きずりながら歩くことになったのはよく知られています。一般に信じられているのとは反対に、この襲撃で彼は性機能障害になったのではありません。むしろ、すでに抱えていたセックスと殺人への激しい欲求に火をつけたのです。
ウダイによる殺人や性的暴行に関する報道はしばしば誇張されがちで、多くの場合は完全に捏造されたものですが、彼のサディスティックな性向と性欲が次第に彼の人生を狂わせていったことは間違いないでしょう。
しかしながら、2003年の体制崩壊後、ウダイに関する虚偽の作り話の増殖が急激に拡散したおかげで 、どれが真実で虚構なのか区別がつかなくなってしまったことが多く見られます(編訳者注:それほどウダイの悪行が突飛なものだったということ)。確実に言えることは、サッダーム・フェダイーンと呼ばれる残忍な準軍事組織の支配を通じて、イラク国民が2003年までウダイの圧政の下で生きる運命にあったということです。
フェダイーンは完全に非合法に運用されるウダイ直属の組織であり、事実上、彼の私兵の役目を果たしていました。フェダイーンを活用して彼の邪魔者を排除してイラクの人びとを恐怖に陥れるだけでなく、この準軍事組織に対する彼の権力は、コカインやイラクのクウェート侵攻後に国連が指定した制裁品の密輸に携わる巨大な犯罪帝国を築き上げることも可能にしたのです。
スター・ウォーズの熱狂的な愛好家であったウダイは、フェダイーン・サッダームのヘルメットと制服をダース・ベイダーの服装に似せてデザインさせたことは有名な話ではないでしょうか。見た目の滑稽さに加えて、これらのヘルメットはグラスファイバー製の低品質なものだったので、戦闘中に着用していた人を少しも保護することはできなかったでしょう。
イラクの独裁者の息子が、なぜ出来損ないのスター・ウォーズみたいな脚本に出てきそうなダース・ベイダーのコスチュームを着た兵士たちを使って自国を恐怖に陥れるに至ったのか、と疑問に思う人がいるかもしれません。その答えは、彼のもう一つの道楽であるスポーツでのチート行為が、サッダームによって取り上げられたという事実にあるのかもしれません。
熱狂的なサッカーファンであったウダイは、1983年に自身のスポーツクラブ、アッ=ラシードSCを設立し、数多くのイラクのトップ選手たちにクラブとの契約を強要したのです。
彼は(利害の対立が絶対に存在することがない)イラクサッカー協会会長としての二役の中で、アッ=ラシードがイラクサッカー界の支配的立場になるまでに急成長するよう画策し、イラク国民の怒りを買ったのでした。イラクのサッカーファンの間に不満が広がっていたにもかかわらず、ウダイのクラブが自身の名にちなんで命名された1987年のウダイ・フセイン選手権で優勝を果たしたことは言うまでもないでしょう。この偉業で、彼はイラクサッカー協会の会長という立場で、自分自身にメダルを授与するパフォーマンスを披露しました。
それでも、イラクサッカー界の不公平に対する不満が高まったことで、クラブは3年後にサッダームの指示は解散させられました。