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2025年9月16日火曜日

【復刻記事】ロシア軍のシリア展開が確認:「R-166-0.5」通信車が目撃された


著:シュタイン・ミッツアー と ヨースト・オリーマンズ(編訳:Tarao Goo)

 この記事は、2015年9月16日に本ブログのオリジナル(本国版)である「Oryx-Blog(英語)」で公開された記事を翻訳したものです。 意訳などにより、僅かに本来のものと意味や言い回しが異なっている箇所があります。

 ここ数日、ロシア軍がダイレクトにシリアへ軍事介入しているという事実を暴く証拠が急増しています。

最近納入されたロシア製UAVとロシアの「BTR-82A」歩兵戦闘車(IFV)が目撃されたことに加え、ロシア軍関係者と思われる人物がラタキア県でのアサド政権側の攻勢に参加したことを示す音声が、(これまで多くの人が考えていたレベルよりも)ロシアがシリア内戦に深く関与していることを証明したのです。

 シリアへ向かう多数のロシア軍揚陸艦が頻繁にボスポラス海峡を通過していることや、ロシア空軍の「An-124」戦略輸送機がラタキアに向けて少なくとも15回も飛行したことは、ロシアがアサド政権の支援でどの程度関与しているのかを物語っています。これらの艦艇や輸送機は、大量の車両や装備、兵員をシリアに送り込んできました。ロシア軍部隊を収容するため、フメイミム/バッシャール・アル・アサド国際空港はロシア軍基地となり、現時点で地上・航空戦力の展開を可能にするため改築中です。

 新たに公開されたロシアの「R-166-0.5」統合指揮通信車(HF/VHF通信車)がシリアの沿岸地方を走行する様子を撮影した画像によって、今やこの国におけるロシアの意図を疑う余地はほとんど消え失せてしまいました。

 「R-166-0.5」は長距離にわたって妨害に強い音声とデータ通信を提供する能力があり、ロシア軍がはるか内陸部で行動しながら、(沿岸部の一大拠点である)タルトゥースやラタキアにある自身の基地と通信することを可能にします。

 この車両がシリア兵に護衛されている様子が見えますが、彼らはおそらく国民防衛隊(NDF)の所属でしょう。ただし、これより注目すべきなのは、車両のハッチの近くに座っている兵士です。一見すると撮影されていることに気づいていないように見える彼は、ロシア軍で一般的なデジタルフローラ迷彩の戦闘服を着ていす。これは、私たちが本当に(シリア軍やPMCではなく)ロシア軍人を分析の対象に含めたことを改めて証明していると言えるエビデンスです。

 「R-166-0.5」の後部にある車両番号がダークオリーブ色の塗料で塗りつぶされたため、この車両が所属する旅団を特定することが不可能となっています。車両番号やその他の識別マークを隠すことはウクライナ紛争で一般的な慣行となりました。

後部右側の番号が塗りつぶされている:前方には護衛の車両が見える

 非公式なロシア陸軍の編制装備定数表(TOE)によると、旅団の通信大隊には合計8台の「R-166-0.5」が装備されているとのことです。したがって、「R-166-0.5」が目撃されたということは、最近になって旅団本部か少なくとも1個強化大隊(いわゆる大隊戦術群/BTG)が最近になってシリアに到着したことを意味しています。

 参考として、「R-166-0.5」の仕様の一部をロシア陸軍のファクトシートから抜粋しました(下の画像にある車両はロシア軍で運用されている個体です)。


通信距離
  • HF/短波, 静止時 (アンテナ展開時) – 1000 km
  • HF/短波, 移動時 – 250 km
  • UHF/超短波 , 静止時– 70 km
  • UHF/超短波, 移動時 – 25 km

周波数の帯域
  • HF – 1.5-29.99999 MHz
  • UHF – 30-107.975 MHz
ロシア軍の「R-166-0.5」(参考)

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2025年8月29日金曜日

【復刻記事】予感から確信へ:シリア内戦でロシア軍の直接的な関与を示す新たな証拠が浮上


著:シュタイン・ミッツアー と ヨースト・オリーマンズ(編訳:Tarao Goo)

 この記事は、2015年8月29日に本ブログのオリジナル(本国版)である「Oryx-Blog(英語)」で公開された記事を翻訳したものです。

 ラタキア県におけるアサド政権軍の攻勢は、今まで知られていなかったロシアによる内戦の関与を示す詳細な証拠を暴露し続けています。最近納入されたロシア製「BTR-82A」歩兵戦闘車(IFV)の目撃情報とは別に、新たに登場した資料はロシア軍が攻勢を指揮する上重要要な役割を担っていることを裏付けました。

 ラタキアでの攻勢を取材した国民防衛隊(NDF)のメディア部門からのニュース・リポートの動画から聞こえてきた断片的な音声は、シリアにおける「BTR-82A」の存在を初めて明らかにしたものであり、この地域で進行中であるアサド政権軍の作戦を支援するためにロシアの軍人がラタキアに派遣されたという以前の証言を裏付けるものでした。 シリア・アラブ陸軍(SyAA)と最近到着した共和国防衛隊と共に、NDFはラタキア北東部で以前に反政府勢力に制圧された領土の奪還を目的とした新たな攻勢を開始しました。仮にこの攻勢が成功した場合、今や危機に瀕している主要都市へのアサド政権の影響は大幅に向上し、反政府勢力に深刻な打撃を与えることになるでしょう。

 会話は「BTR-82A」の「2A72」30mm機関砲自動砲から出る轟音のために聞き取りにくいものの、火力支援を再開するよう呼びかけたり、ある時点では「Павлин, павлин, мы выходим(ピーコック、ピーコック、我々は撤退する)」(注:ピーコックはコールサインと思われる)を含む特定のフレーズを聞き取ることができます(残念ながら、動画のアカウントがYoutube運営に停止させられたために現在では視聴不可)。

 動画の2:03から2:30までの間に聞き取れる会話の内容を以下に記します。
  • 2:03: ''Давай!'' - 早く!
  • 2:06: ''Бросай!'' - 落とせ!
  • 2:10: "Ещё раз! Ещё давай!'' - もう一度! もう一度だ早く!
  • 2:30: "Павлин, павлин, мы выходим" - ピーコック, ピーコック, 我々は撤退する.

 会話は少ししか聞こえませんが、どうやら「BTR-82A」の乗員に向けられたもののようで、この車両が実際にロシアの兵士によって運用されていることを示唆しています。しかし、(シリア介入に関する)ロシア軍空挺部隊トップの発言を受けて、8月4日にウラジーミル・プーチン大統領の報道官(ペスコフと思われる)にロシア兵のシリア派遣の話が提起された際、彼はシリア政府側からそのような要請がなされたことを否定しました。


 興味深いことに、ロシアが(地上部隊を通じて)シリア内戦に介入したことを示したのは、今回が初めてではありません。ニュースサイト「Souria Net」は8月12日、主にアラウィー派の住民が住む(ラタキアの東約30kmに位置する)スランファにロシア兵が派遣され、反政府勢力の進攻を阻止したと報じています。

 その結果として、親アサド政権の新聞「アル・ワタン(祖国)」は8月26日付で、ロシアが(ラタキア市から南へ25kmほど離れた)ラタキア県沿岸部のジャブラに新たな軍事基地を建設し、シリアにおけるプレゼンスを拡大しているという記事を掲載しました。この記事では、欧米とロシアによるシリア内戦への介入に関するさまざまな噂や陰謀論も言及されていました。その中には、先月にロシアから6機の「MiG-31」迎撃機が届けられたという、大々的に報じられたものの結局は嘘だった話や、ロシアが親アサド勢力に衛星画像を提供し始めたとされる話も含まれています。


 衛星画像の提供に関する証拠はこれまで見つかっていませんが、ロシアは内戦前と内戦中に「センターS」、「S-2」と(おそらく)「S-3」という情報収集施設を通じたSIGINTでシリア政府を支援していたことが知られています。「センターS」については、2014年10月5日に反政府勢力によって初めて制圧されたことを著者が当ブログとベリングキャットで取り上げました。

 この情報はシリア上空でロシア製ドローンの目撃が急増していることと同時に重なっているため、この数か月でロシアによる新たな情報収集ミッションが開始されたことをさらに示唆しています。

 以前にロシアの民間軍事会社がシリアで活動したことがあるという事実から、ロシア語で交わされた会話はロシア軍関係者によるものではない可能性があるという主張するに至る人がいるかもしれませんが、そのような民間企業が「BTR-82A」のような高度な兵器を運用する可能性は非常に低いことに留意すべきでしょう(編訳者注:この記事が執筆された当時はワグネルの存在がそれほどクローズアップされておらず、彼らが戦車を含むAFVを多用していたことも知られていなかったことに注意してください)。そして、ロシア政府は実際にシリアへの「民間企業」の派遣を禁じており、ロシア連邦保安庁(FSB)はいわゆるスラヴ軍団のトップをロシア帰国後に(2013年10月)拘束しました

 もちろん、シリアのメディアによる言及はこの国にロシア兵士がいるという説を補強するものであり、今回の映像での会話が民間軍事会社のメンバーによるものだという説の根拠をさらに覆すものと言えます。

 シリアへ関与しているという今回の証拠の件は、単発の出来事ではありません:大々的に報じられるようになったウクライナにおけるロシア軍関係者の活動や、長年にわたるアサド政権への衰えることのない(むしろ増加さえしている)支援は、たとえそれが公然と紛争にダイレクトに巻き込まれることを意味するとしても、ロシアが国外の利益を守ることに献身していることを証明するものと言えるでしょう。

 こうしたステルス介入が今や再び行われている可能性が高いという事実は、シリアの先行きに対する不確実性を増大させ、5年目を迎えようとしている戦争へのロシアによる大々的な介入の始まるを意味しているかもしれません。

改訂・分冊版が2025年に発売予定です(英語版)

 2025年現在の情報にアップデートした改訂・分冊版が発売されました(英語のみ)

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2025年8月10日日曜日

「Nu.D.40」から「バイラクタル・アクンジュ」まで:デミラー氏のレガシー


著:シュタイン・ミッツアー と ヨースト・オリーマンズ(編訳:Tarao Goo)

 この記事は、2021年5月19日に本ブログのオリジナル(本国版)である「Oryx-Blog(英語)」で公開された記事を翻訳したものです。 意訳などにより、僅かに本来のものと意味や言い回しが異なっている箇所があります。

 Benden bu millet için bir șey istiyorsanız, en mükemmelini istemelisiniz. Madem ki bir millet tayyaresiz yaşayamaz, öyleyse bu yaşama vasıtasını başkalarının lütfundan beklememeliyiz. Ben bu uçakların fabrikasını yapmaya talibim. - この国のために私に何かして欲しいなら、最も素晴らしいものを求めるべきだ。飛行機なしでは国家は生きられないのだから、私たちはこの生きる術を他人の恩恵に期待すべきではない。私はこれらの飛行機の工場を建てることを熱望している:ヌリ・デミラー

 航空大国としてのトルコの台頭について、その規模と範囲、そしてスピードの面で、近代史において比類のないものです。この偉業は、彼らが防衛分野でのほぼ自給自足を達成させるという目標に向けた不断の努力と、外国のサプライヤーやトルコに何度も制裁を加えている国への依存度を軽減させてきたことが大いに影響しています。この政策の成果はすでにトルコ軍のほとんどの軍種で活躍していますが、自給自足を達成するための最も野心的な試みは、間違いなく新型ジェット練習機「ヒュルジェット」とステルス戦闘機「TF-X(カーン)」の開発でしょう。いずれもこの10年で初の試験飛行が予定されています。(注:前者は2023年4月25日、後者は2024年2月21日に初飛行を実施しました)

 しかしながら、トルコによる軍用機開発・生産への取り組みは有人システムだけに限定されるものではありません。トルコには現在、無人戦闘機の開発計画が少なくとも2つあります。そのうちの1つは、今年後半に就役する予定のバイカル・テクノロジーが開発した「バイラクタル・アクンジュ」です。「アクンジュ」は、巡航ミサイルや視界外射程空対空ミサイル(BVRAAM)発射能力を含む斬新な能力をこの分野にもたらし、自身がそれらを実行可能な世界初の無人プラットフォームとなります。このUCAVはトルコの無人機戦能力の範囲を飛躍的に拡大させることになるでしょう。というのも、100キロメートルも離れた敵機やUAV、ヘリコプターも標的にできるようになるからです。

 「アクンジュ」の生産が意欲的に進められている一方で、もう1つの無人戦闘機「MİUS(Muharip İnsansız Uçak Sistemi)」計画が進められています。2023年までに初飛行を予定しているこの超音速戦闘無人機は、戦闘空域で精密爆撃、近接航空支援(CAS)任務、敵防空圏制圧(SEAD)を遂行できるように設計されています。(この記事を執筆した2021年5月)現在のところ、MİUS計画はまだ設計段階にとどまっていますが、トルコの防衛産業が盛況していることを示すものです。 独自の解決策で困難を克服する素晴らしい能力のおかげで新しい計画が迅速に採用され、トルコは複数の防衛分野で技術革新の最前線に立っていると言っても過言ではありません注:「MİUS」は「クズルエルマ」と命名され、試作機が2022年12月に初飛行を記録しました

 しかし、多くの人に知られていないのは、「TF-X」も現在開発中の「MİUS」も、トルコが初めて国産戦闘機の設計に挑戦したものではないという事実です。このような航空機を実現させようと最初に挑戦したのは、実は1930年代まで遡ることができます。当時、トルコの航空機設計者であるヌリ・デミラー(1886~1957年)が型破りで革新的な双発単座戦闘機の設計に着手したのです。 残念なことに、ヌリ・デミラーの功績はトルコ国外ではほとんど注目されておらず、国内でも彼の斬新な飛行機が最近まで全く知られていませんでした。


 ヌリ・デミラーの功績と「Nu.D.40」そのものについて詳しく説明する前に、より富んだ洞察力を得るために第二次世界大戦勃発以前のトルコにおける航空産業史を簡単に説明します。1930年代にはヨーロッパの大部分の国が何らかの形で航空機産業を抱えていましたが、トルコでは武力衝突や(民間)輸送における航空機の役割が急速に拡大することを見越しており、すでに1925年2月にトルコ航空協会(Türk Hava Kurumu - THK)が設立されていました。そして、彼らは初期段階のサポートと専門知識を得るために外国のパートナーとの提携を求め、ドイツのユンカース社と契約を結び、1925年8月にTayyare and Motor Türk AnonimŞirketi(TOMTAŞ)が設立されるに至りました。[1]

 ユンカースとの契約では、小型機の生産とオーバーホールを行う工場をエスキシェヒルに、大型機の生産と整備を行うより大規模な施設をカイセリに設立することが定められました。当初はドイツが中心となって運営されていたものの、ドイツの関与は徐々に縮小して現地の部品や労働者による生産に置き換えられ、最終的には真の意味での国産化へと進んでいったのです。[1] 

 TOMTAŞで最初に生産されたのはユンカース「A20」偵察機と「F13」輸送機で、それぞれ30機と3機が生産されました。同社が最終的に年間約250機の航空機を生産することを計画していたことは、この設立が国産航空機産業を立ち上げるための形だけの試み以上のものであったことを示しています。

 ところが、設立直後からユンカース側の財政難を主因として、最終的にプロジェクト全体を崩壊に導くような問題が発生し始めました 。この時すでに倒産寸前であったユンカースに対するドイツ政府の支援が打ち切られた後、同社は1928年6月にトルコとの提携を正式に解消し、その数か月後にはTOMTAŞも閉鎖されてしまったのです。[1]

 工場についてはトルコ国防省へ移管後も整備・修理事業を継続し、1931年にカイセリ航空機工場と改称され、1942年まで航空機の組み立てを続けました。[2] 現在、カイセリにあるTOMTAŞの跡地にはトルコ空軍の主要な戦術輸送航空基地である(エルキレト空軍基地)があり、「A-400M」、「C-130」、「CN-235」輸送機が配備されています。

1930年代のカイセリ航空機工場で生産中のPZL「P.24」(ライセンス生産)

 トルコの国産航空機産業の役割が、いつの日か航空機を設計・製造するという当初の目標ではなく、組み立てに絞られるようになったことで、トルコの実業家ヌリ・デミラーは、この分野におけるトルコの取り組みを再始動させるという構想を抱き始めました。彼は技術革新や大規模な建設プロジェクトを全く知らなかったわけではありません。というのも、彼の会社が1920年代の時点でトルコ全土に約1.250kmの鉄道を敷設したことがあるからです。[3] 

 トルコ鉄道発展への貢献を称え、1934年、ムスタファ・ケマル・アタテュルク大統領は彼にデミラー(鉄の網)という姓を与えました。彼の次のプロジェクトはさらに野心的なスケールのもので、私財を投じて1936年にイスタンブールのベシクタシュ地区に航空機工場を設立したのです。すでに同年、デミラーと彼の技術チームが設計した最初の飛行機が形になり始めていました。「Nu.D.36」は2人乗りの初等練習機で、最終的に24機が生産されています。[3]

 まもなく、より野心的な設計の双発旅客機「Nu.D.38」が登場しました。試作機の製造は第二次世界大戦中も続き、1944年には初の試験飛行が行われたものの、試作で終わっています。成長と航空事業をより円滑に進めるため、デミラーはイスタンブールのイェシルキョイに土地を購入し、現在のアタテュルク空港がある場所に飛行場と飛行学校(1943年まで約290人のパイロットを養成)を設立しました。[3]

 彼の幅広い野心と分野を超えた多大な取り組みは、自身の目標が航空機の設計と製造だけにとどまらず、 トルコ全体の航空関連活動に対する大衆の参加と関心を高めるプロセスを立ちあげることも目指していたことを十分に証明していると言えるのではないでしょうか。

1942年、イェシルキョイ空港に並ぶ「Nu.D.36」




1940年代初頭、「Nu.D.38」の試作機が製造されている光景

 献身的な努力にもかかわらず、やがて彼は、自国の航空産業が繁栄するために必要な環境を提供できないばかりか、その存続そのものに積極的に反対する政府に直面することになります。THKは24機の「Nu.D.36」を発注していましたが、イスタンブールからエスキシェヒルへの試験飛行後に不時着した(パイロットのセラハッティン レシット・アランが死亡に至らせた)事故を受け、同機の発注をすべてキャンセルしたのです。[3]

 これに対し、デミラーは訴訟を開始しました。何年にもわたる長引いた裁判でしたが、航空機には何の欠陥もないことを証明する複数の専門家の報告にもかかわらず、裁判所は最終的にTHKを支持する判決を下しました。[3]

 同様に、待望の「Nu.D.38」は、(ターキッシュ エアラインズの前身である)トルコ国営航空やその他の政府機関からの注文を獲得することができませんでした。さらに追い打ちをかけるように、デミラーの飛行機を他国へ輸出することを禁止する法律が制定されたことで、スペインを含む「Nu.D.36」に関心を示していた数か国との交渉が打ち切られてしまったのです。[4]

 そして、トルコ空軍からの発注も得られなかったため、彼の工場は1943年に閉鎖を余儀なくされました。 この状況を覆すため、デミラーはイスメト・イノニュ大統領を含む政府高官に何度も陳情したものの、結局は効果が得られませんでした。[3]

 こうして、彼の多大な努力は実らず、国産航空産業の有望なスタートが途絶えてしまったのです。トルコ航空界への貢献を記念して、2010年にはスィヴァス空港に彼の名前が付けられました。彼の名前が認知されるのは遅くてもないよりはマシですが、トルコの歴史においてデミラーが十分に評価されていない人物であることは間違いないでしょう。

 ヌリ・デミラーと彼の航空機工場の物語はここで終わったと思われていました。数年前、研究者のエミール・オンギュネルがトルコとドイツの公式文書から、デミラーと彼の技術チームによる別のプロジェクト「Nu.D.40」の存在を発見するまでは。その型破りなデザインとドイツで風洞実験が行われた機体という事実を考えると、この飛行機の存在が長い間にわたって忘れ去られていたことは、実に驚くべきことと言えるでしょう。

 「Nu.D.40」に関する情報の多くは、1938年にドイツのゲッティンゲンにある空気力学研究所 (Aerodynamische Versuchsanstalt, AVAが実施した風洞試験に由来します。試験終了後、AVAはデミラーに、(試験で判明した事項を詳述した)110ページにも及ぶ包括的な報告書を送付しました。[5]

 ところが、度重なる連絡ミスにより、AVAは当初要求していた資金の一部しか集めることができず、1940年には「Nu.D.40」に関する機密報告書をドイツの航空会社2社に譲渡してしまったのでした。[6]

 「Nu.D.40」について、機体の構成やエンジンの種類、武装案等はほとんど知られていません。第二次世界大戦が勃発する前に設計されたため、国産化できない部品(特にエンジンと武装)は海外から調達する必要があったものの、ヨーロッパ全土で戦火が拡大する中での調達は不可能に近いものでした。この事実を無視して、仮に完成させた場合を考えてみますと、ドイツ製の航空機用エンジン2台と、機関砲または重機関銃2挺と軽機関銃2挺という武装の組み合わせが、もっとも妥当な機体の構成だったように思われます。


 やがて、エミール・オンギュネルは自分の発見をトルコ航空宇宙産業(TAI)のテメル・コティル会 長兼CEO(当時)に対し、興奮気味に『この飛行機を絶対に作るべきだ!』と伝えたとのことです。こうして、「Nu.D.40」復活チームが結成されたわけですが、まずは3Dのデジタルモデルが作成された後、1/24スケールの模型が製作されました。次のステップには、「Nu.D.40」のUAVモデル(1/8と1/5スケールが1機ずつ)の組み立てが含まれます。[7]

 最終的には、実物大の1/1レプリカモデルが製作され、デミラーの夢である「Nu.D.40」の飛行をついに実現させる予定です。


 計画されている1/1のレプリカモデルの機体構成の場合、「Nu.D.40」は同時代にフォッカーが設計したオランダの「D.23」単座戦闘機と驚くほどよく似た姿になるでしょう(実際のところ、ヘッダー画像は第二次世界大戦時のトルコ空軍の塗装が施された「Nu.D.40」に似せて修正された「D.23」なのです)。

 「D.23」計画は、最高速度約535km/h、13.2mm機関砲2挺と7.9mm機関砲2挺を装備する迎撃機として1937年に構想がスタートしたものです。実寸大のモックアップが1938年のパリ航空ショーで初公開され、翌年の1939年3月に試作機が完成しました。[8] 「D.23」はその2か月後に初飛行を実施しましたが、1940年4月の11回目の試験飛行中に機首車輪が損傷したため、分解して修理のために輸送しなければならない状態となりました。[8]

 1940年5月にドイツ軍がオランダに侵攻したとき、「D.23」はまだ機首の車輪を修理しておらず、格納庫に保管されたままだったため、ほとんど無傷で生き残ることができました。オランダ征服から僅か2週間後、ドイツ空軍がこの飛行機の視察と、ドイツへの輸送準備をしにやって来ました。有望なプロジェクトをそう簡単に敵に引き渡すわけにはいかなかったフォッカーは、ドイツの代表団に対し、「D.23」はオランダ空軍ではなくフォッカーの所有物であり、ドイツがこれを欲しいのであれば高額の買収費用を支払う必要があることを要求したことで、ドイツ側の関心が急速に失われていったのです。 [8] 

 結局、この機体は「記念品ハンター」によって次第に分解されていき、連合軍によるスキポール空襲で破壊されました。「D.23」が就役していれば、その時代で最も興味深い航空機の一つになっていたでしょう。しかしながら、第二次世界大戦の勃発によって、この飛行機は大きな期待に応えることができなかったのは言うまでもありません。






 長年にわたる綿密な調査を経て、エミール・オンギュネルは「Nu.D.40」に関する全ての知見を『Bir Avcı Tayyaresi Yapmaya Karar Verdim』という本にまとめました。この本は、ドイツとトルコの公文書館から収集した公文書を用いて、この航空機の設計史に焦点を当てています。現在はトルコ語版しかありませんが、将来的には英語版も出版されることを期待しています。『Bir Avcı Tayyaresi Yapmaya Karar Verdim』は、トルコの有名オンラインストアやトルコ科学技術研究会議(TÜBİTAK )で260トルコリラ(約943円)で注文可能です。


 トルコ初の(無人)国産戦闘攻撃機は、「Nu.D.40」の設計から約83年後の2021年に就役する予定です。「Nu.D.40」が当時革新的であったように、「アクンジュ」も革新的なものです。ヌリ・デミラーは今ではほとんど忘れ去られてしまいましたが、近代的な国産航空産業に対する彼のビジョンを受け継ぐ人々がいることは注目に値します。

 バイカル・テクノロジーのような企業は、非常に献身的な人々のチームが何を達成できるかを実証しています。 彼らはデミラーのようにリスクを恐れず、祖国と技術への愛を第一とし、多くの利益を得ることを二の次にしているのです。100年近く前にデミラーが知っていたように、これらの目標を達成するためには人々の関心を集めることが重要です。デネヤップテクノフェストといった技術ワークショップやイベントを通じて、バイカルは同社の工場や他のトルコの技術系企業に同じ志を持つ大勢の人々を引き寄せるに違いありません。未来を見据えるこれらの企業は、空における自国の運命のみならず、人々の心にも変革をもたらそうとしているのです。

 編訳者注:「アクンジュ」は2021年8月29日に就役し、対テロ作戦など実戦に投入されています。ムラドAESAレーダーの統合試験などが実施されています(この統合によって、BVRAAMなどの運用能力が付与され、本来想定していた能力が完全に発揮できることになります)。


[1] Turkey's First Aircraft Factory TOMTAŞ https://www.raillynews.com/2020/07/The-first-aircraft-factory-turkiyenin-tomtas/
[2] TOMTAS - Tayyare Otomobil ve Motor Türk Anonim Sirketi http://hugojunkers.bplaced.net/tomtas.html
[3] Aviation Facilities of Nuri Demirağ in Beşiktaş and Yeşilköy https://dergipark.org.tr/tr/download/article-file/404341
[4] The 24 Nu.D.36s that had been produced for the THK were donated by to the local flight school and later scrapped.
[5] Nuri Demirağ’ın Almanya’da kaybolan avcı uçağı: Nu.D.40 https://haber.aero/sivil-havacilik/nuri-demiragin-cok-az-bilinen-ucagi-nu-d-40/
[6] Nuri Demirağ’ın Bilinmeyen Uçağı: Nu.D.40 https://www.havayolu101.com/2019/01/10/nuri-demiragin-bilinmeyen-ucagi-nu-d-40/
[7] We’re very proud to realize Nuri Demirağ’s dream https://defensehere.com/eng/defense-industry/we-re-very-proud-to-realize-nuri-demirag-s-dream/75967
[8] Fokker D.23 https://geromybv.nl/home/fokker-d-23-willem-vredeling/



 2025年現在の情報にアップデートした改訂・分冊版が発売されました(英語のみ)

2025年7月11日金曜日

【復刻記事】影から姿を現す:シリアで「BM-30 "スメルチ"」の存在が確認された



著:シュタイン・ミッツアー と ヨースト・オリーマンズ編訳:Tarao Goo)

 この記事は、2014年12月27日に本ブログのオリジナル(本国版)である「Oryx-Blog(英語)」とベリングキャットで公開された記事を翻訳したものです。 意訳などにより、僅かに本来のものと意味や言い回しが異なっている箇所があります。

 新たに入手した画像によって、シリアで悪名高い「BM-30 "スメルチ"」多連装ロケット砲(MRL)の存在がついに明らかとなりました。その「9M55K」300mmロケット弾は、ハマ北方のカフル・ジタAl-Tahで使用されたことが記録されているものの、発射機の画像はまだ確認されていなかったのです。発射機の登場を長く待たなければいけなかった理由としては、「ブーク-M2」や「パーンツィリ S-1」、「BM-30」といった高度な兵器の位置が特定されることを避けるため、その近くでの撮影が禁止されたことに関係していると思われます。

 シリアは内戦中にベラルーシか(より可能性が高いと思われる)ロシアから数台の「BM-30」を調達し、2014年初めに納入されたことが確認されています。その数か月後、「UR-77 "メテオリット"」地雷除去車がダマスカスのジョバルに出現したことで、ロシアがアサドにあらゆる兵器を供給する意志があることが改めて強調されました。

 内戦前からシリアで長く運用されている「BM-27 "ウラガン"」に見られるように、「BM-30」も同じような緑色の塗装が施されています。こうしたカラーリングはハマーに見られるような緑豊かな地域に最適です。


 これらの「BM-30」をダマスカスに投入するの合理的だと思われるかもしれませんが、反政府勢力の進撃を阻止するため、全「BM-30」がハマー近郊に配備されています。ハマーはアサドにとって戦略的に重要な場所です。これは何も戦略的な位置にあるという理由だけではありません。空軍基地があるほか、南部には地下ミサイル施設もあるからです。

 ダマスカスには多数の「BM-27 "ウラガン"」やIRAM(Improvised Rocket-Assisted Munition or Mortar:急造ロケット推進弾・迫撃砲)も配備されており、戦闘の多くは共和国防衛隊の拠点であるカシオン山から近距離で行われているほか、砲兵部隊も定期的に投入されているため、この地における「BM-30」の必要性が低いことも理由に入るでしょう。

 ハマーとその周辺における全戦闘はシリア軍と国民防衛隊(NDF)、その他の民兵組織によって行われているため、シリアの「BM-30」は共和国防衛隊ではなくシリア軍の管轄下にあります。下の画像は、Al-Tahで「BM-30」が発射した「9M55K」ロケット弾の残骸です。


 「9M55K」は「BM-30」から発射できるロケット弾の一種に過ぎませんが、野外に晒された歩兵に対して絶大な威力を発揮するために今でも好んで使用されています。ちなみに、このロケット弾には72個の「9N235」対人クラスター子弾が搭載されています。


 作戦がシリア全土で展開されるにつれ、「BM-30」はしばらく仕事に困ることないため、シリア内の別の地域に投入される可能性が十分に考えられます。このMRLの引渡しはロシアがアサド政権を支援していることを改めて示すものであり、両国の関係は時間とともに強まってきています。シリアに最近納入された「BM-30」や「UR-77」、その他の兵器は、今後の展開の兆しなのかもしれません。

【編訳者による補足】この記事が執筆された10年後の2024年12月にアサド政権が崩壊したことは周知のとおりです。この間にシリアの「BM-30」がキャッチされる機会がありませんでしたが、崩壊前日の12月4日の時点でアレッポのアル・サフィラとその郊外で放棄された個体が2台確認されました。[1]

 こうした発射機の損傷状況が修復可能なレベルか否かは判然とせず、ほかに存在するかもしれない個体を含めて新シリア軍が運用するのかは不明です。

アル・サフィラでシリア軍が遺棄した「BM-30」

[1] https://x.com/clashreport/status/1864188921598402660

改訂・分冊版が2025年に発売予定です(英語版)

2025年7月6日日曜日

【復刻記事】鋼鉄の野獣: シリア軍のT-62戦車


著:シュタイン・ミッツアーとヨースト・オリーマンズ(編訳:Tarao Goo)

 この記事は、2014年11月27日に「Oryx」本国版(英語)とベリングキャットで公開された記事を日本語にしたものです。10年前の記事ですので当然ながら現在と状況が大きく異なっていたり、情報が誤っている可能性があります(本国版ブログは情報が古くなったとして削除)。ただし、その内容な大いに参考となるために邦訳化しました。 

 登場当時の「T-62」戦車は技術的な奇跡の産物と考えられていました。なぜならば、最先端の115mm滑腔砲を搭載していたからです。しかし、この戦車は「T-55」から多くの問題を受け継いだだけでなく、さらに多くの新たな問題も生み出してしまいました。

 NATOが恐れていた115mm砲については、「T-55」の100mm砲で新型の砲弾が使用可能になったため、冗長なものとなってしまいました。この理由と毎分僅か4発という受け入れがたい発射速度が合わさって、「T-62」は同時代の戦車の中で「厄介者」となったのです。

 実際、ブルガリアを除くワルシャワ条約機構加盟国は「T-62」を導入せず、より多くの「T-55」を調達する道を選びました。

 それでも、この戦車は中東や北アフリカのソ連勢力圏内にある国々に広く輸出されています(注:2010年代後半においてもシリアやリビアへ供与された)。エジプトとシリアは実戦で「T-62」のテストを試みており、その後1973年の第四次中東戦争で投入したものの、期待に応える結果を得ることはできませんでした。

 1960年代の終わりから70年代にかけて、シリアは最大で800台の「T-62」を入手したと推測されています。このうち500台弱が依然として現役か予備兵器扱い、あるいは保管状態にあります。

 1962年に形式不明の戦車の追加バッチが納入されたとされていますが、結局その情報は誤ったものであり、実際は「T-55A」戦車のバッチでした。また、リビアから供給された「T-72」戦車に関する情報もありますが、独自には確認できていません。

 「T-62」の "1967年型"と"1972年型"の両モデルがシリアに納入されました。このうち後者がシリア陸軍で最も運用された型です。この型は空中からの脅威に対する防御力を高め、地上目標への使用も可能にする大口径の「DShK」12.7mm機関銃を装備しています:"1967年型"にはこうした対空用の機関銃はありません。


 「T-62」は1982年のレバノン戦争にも投入されました。ところが、シリア軍の戦車は第四次中東戦争よりも活躍したにもかかわらず、イスラエル軍の歩兵や戦車、そしてヘリコプターによる攻撃の結果、約200台もの「T-62」戦車が失われました。

 この戦争では「RPG-7」や「RPG-18」、「9K111 "ファゴット"」「ミラン」対戦車ミサイルで武装した遊撃対戦車部隊の方がはるかに活躍したことが知られています。ベイルートとその周辺で活動する彼らは、狭い路地で攻撃を実施して圧倒的な優位に立ったのでした。

 興味深いことに、シリア軍が保有していた「T-62 "1967年型"」の1台が南アフリカ国防軍に配備されていることが明らかとなっています。同軍はすでに仮想敵(OPFOR)訓練用としてだけでなく、アンゴラで将来起こりうるこれらの戦車との衝突に備えて評価するために「T-55」の部隊を運用しているのです。


 シリア軍の「T-55」とは対照的に、「T-62」は戦闘能力を向上させるための大幅な近代化改修を受けていません。その代わり、90年代には一部の「T-62」が保管庫送りにされています。現役で残っていた「T-62戦車」については、被占領地であるゴラン高原から遠く離れた場所に配備され、主に予備部隊によって運用されていました。

 少数の「T-62」戦車には、風力センサーを搭載するという小規模な改修が実施されました。本来ならば将来実施されるかもしれない近代化計画の試作車両として用いられる可能性が高かったものの、改修された戦車の数が極めて少なかったこともあり、同計画が開始されることはなかったようです。

 少なくともこの1台がシリア内戦で反政府軍に鹵獲されたことが確認されています。下の画像の改修型「T-62」には、「بشار(バッシャール)」と「منحبك يا بشار(我らはバッシャールを愛す)」の文字がペイントされています。


 シリア内戦は、シリア軍における「T-62」戦車の3度目の実戦投入でした。その大部分はシリア・アラブ陸軍に配備されていますが、ある程度は民兵組織である国民防衛隊(NDF)スクーア・アル・サハラ(デザート・ファルコン)にも配備されています。

 なお、残りの一部は戦略予備として保管状態のままです。 これは、シリア政府がいつでも数百台の戦車を投入することで戦闘による損失を埋め合わせができることを意味しています。もちろん、この状況はシリア・アラブ軍にとって有益なものとなっています。というのも、シリア軍が保有する戦車の数は減少し続けているからです(注:上述のとおり損失の埋め合わせに困らないため)。

 2台の「T-62」がタブカ市で活躍しました。残存した航空機やヘリコプターが空軍基地から脱出できるよう、滑走路の周囲を長時間にわたって防御したのです。

 他の「T-62」は砂漠地帯でスクーア・アル・サハラの攻撃部隊に参加しましたが、これらの戦車がこの部隊の指揮下にあったのか、それともシリア軍の管理下にあったのかは定かではありません(注:スクーア・アル・サハラはシリア軍の支援を受ける民兵組織だったため)。


 少数の「T-62」は僅かながらも防御力の向上が図られました。こうした改良は、一般的に戦車の運用者がどれだけの労力とリソースを投入したかによって度合いが左右されます。つまり、改良と一口で言ってもレベルはピンからキリまであるということです。例えば、単に土嚢で覆うという策(下の2番目の画像)から装甲版の追加といった大幅な改良まで、全く異なる改良がなされる場合があるわけです。

 このような応急的な改良は通常のロケット擲弾(RPG)に対して多少は役に立つ可能性があるものの、「T-62」をシリアの戦場に蔓延する非常に変わりやすい対戦車戦をめぐる情勢に持ちこたえる助けにはなりそうもありません。


 それでも、内戦によってシリアにおける鋼鉄の野獣が徐々に減少し、すぐに使用できる戦車の数も少なくなっているため、「T-62」戦車が今後の極めて過酷な戦いで非常に重要な役割を果たす可能性は高いと思われます。


2025年5月16日金曜日

イスラム国の機甲戦力:モスルに出現した「戦闘トラム」


著:シュタイン・ミッツアー と ヨースト・オリーマンズ(編訳:Tarao Goo


 この記事は、2020年1月15日に「Oryx」本国版 (英語)に投稿された記事を翻訳したものです。意訳などにより、僅かに本来のものと意味や言い回しを変更した箇所があります。

 2016年11月、モスルの北にあるバシジの町の木の下にトラムか装甲戦闘バスのような車両が置かれていました。以前の所有者によって放棄されたこの怪物は、かつてモスル北部のナヴァラン近郊で行われた今や悪名高いイスラム国(IS)の攻勢に登場したものです。その攻勢を撮影した動画は、参加した数人の戦闘員の滑稽な動きで急速にネット上で拡散されました。戦闘員アブ・ハジャールはインターネットのあらゆる場所でミームのネタとなりましたが、この攻勢でISが投入した装甲強化型トラックやその他の車両は、軍事的側面に注目する人々にとって特に興味深い存在でした。

 ISが手掛けたDIY式装甲戦闘車両(AFV)の多くは、車体に鉄板を貼り付けただけの非常に粗雑なものでした。ただし、彼らのニーズにより適合させるように車両を改造することを目的とした大規模な工廠が存在しており、そこからシリアやイラクの戦場で展開する戦闘に完璧に適したAFVが生み出されたのです。これらの兵器の改修を担当したAFV工廠はIS支配地域内にあり、最大のものはシリアのタブカイラクのモスル近郊にありました。

 モスル占領の直後、ISはイラク軍と警察がモスルからの撤退時に残した大量の車両と装備を運用するために複数の装甲部隊を創設しました。一部の車両は事実上全く手を加えられずにイラクとシリアの戦場に直ちに配備されたものの、他の車両は車両運搬式即席爆発装置/自動車爆弾(VBIED)として使用するために改造されたり、「襲撃大隊」向けとして、モスルの平原で使用するAFVに改造されたのです。

 インギマージ...生還を期することなく敵陣に突入することを任務とする突撃部隊...の作戦において、「襲撃大隊」は重くて遅い装軌式AFVではなく、より高速が出る装輪式車両を主に使用しました。実際のところ、イラクのISでは少数の戦車が積極的な戦闘行動(攻撃)で運用されていましたが、そのほとんどは「アル・ファルーク機甲旅団」と「防御大隊」の所属でした。したがって、即席かつ装甲が強化されたAFVを使用したのは、主に「襲撃大隊」です。


 「襲撃大隊」用に改造された車両の大半は基本的に装甲兵員輸送車(APC)であり、戦闘員が立って射撃するためのキャビンを備えているのが特徴です。モスル周辺におけるISの攻勢は実質的な自殺行為のため(詳細はこちらを参照)、「襲撃大隊」の攻勢については、その大部分が目的に到達する前に車両が撃破されて終わりを迎えました。

 しかし、改造できるトラックやその他の車両が豊富に残されていたため、「襲撃大隊」向け車両の「生産」は継続されました。これらは実質的に同じクラスの車両に僅かな違いが見られる程度であり、ある程度は規格化がなされていたことが見受けられます。今回取り上げる戦闘トラムは3台が確認されており、それぞれが「201」と「202」、そして(おそらく)「200」の番号が振られました。下の画像では、「202」(1枚目の右)と「200」(1枚目の左と2枚目)が見えます。ちなみに、後者は詳細不明な原因で失われています。



 戦闘トラムは重装甲が施されたキャビン前部が特徴であり、(少し想像力を働かせると)鳥のような顔や、バリエーションによっては「きかんしゃトーマス」のキャラクターを彷彿とさせます。これが「戦闘トラム」という名称の由来です。戦闘員を収容する区画には空間装甲が設けられており、8個あるホイールの外側には保護する鉄板のサイドスカートが装備されています。この戦闘トラムについては、(特徴を考えると)2014年にモスル周辺で鹵獲されたソ連製「BTR-80」APCの車体を改造したものであることはほぼ間違いないでしょう。

 事実上のトラックである車両を改造することは実に不思議な選択ではあるものの、このような大型APCを製造しようとした今までの取り組みでは、ダンプトラックをベースにした(見応えがあるが不格好な)車両が数多く作られました。こうした車両とは対照的に、戦闘トラムは比較的バランスの取れたデザインに見えます。



 戦闘トラムの武装は過去に登場した怪物のようなDIY車両から変わっておらず、重装甲のキューポラに軽機関銃や重機関銃が取り付けられるようになっています。興味深いことに、「202」は前面に4本のラムを装備しているように見えますが、そのうちの2本は車体構造を補強する機能を兼ねているのかもしれません。これらのラムはある程度の障害物を突破するのに効果的ですが、起伏のある地形を走行中にスタックしやすくなるリスクがあります。そして、突破した障害物の破片が兵員区画にいる戦闘員の頭上に落下するだろうことは言うまでもありません(編訳者注:無蓋式のオープントップのため)。

 ペシュメルガの陣地の前に立ちはだかる塹壕をよじ登るための梯子については、「200」と「201」には装備されていたにもかかわらず、「202」にはありませんでした。

 戦闘トラムのキャビンは、「襲撃大隊」が使用した他の車両とほぼ同様の構造です。高速移動を伴う作戦中にキャビン内の戦闘員を支えるため、小型車に見られるシートベルトの代わりに(キャビンの縁に)金属製の手すりが設置されました。 軽機関銃や重機関銃用のピントルマウントは装備されていないため、戦闘員は安定装置を欠いた状況で金属製の手すりの上から射撃することを余儀なくされました。このため、経験の浅い戦闘員が射撃した場合はほとんど命中弾を得られないことが明らかとなりました。

 「202」は「200」や「201」とはキャビンのレイアウトが若干異なっており、小さな出入口扉が後面に設けられています(注:「200」と「201」は側面に扉がある)。



 最初の戦闘トラムは、モスル北部のナヴァラン近郊で展開された、今では(悪)名高いISの攻勢に登場しました。この攻勢には、アブ・ハジャールとアブ・アブドゥッラー、そしてアブ・リドワーンたちの装甲強化型「M1114」以外にも、「襲撃大隊」の大幅に改造されたトラックやその他の車両も数台参加したことが知られています。前者には初代戦闘トラム「201」が含まれており、攻勢開始の直前と失敗した直後にその存在が確認されました。この姿は下の画像でも確認できます。



 この戦闘トラムは、ペシェルメルガ陣地前にある巨大な塹壕の埋め立てを担っていたブルドーザーが撃破されたことで、他の「襲撃大隊」の車両と一緒に事実上身動きが取れない状態となってしまいました。この直後、トラムは(アブ・ハジャ-ルの車両のように)命中弾を受けて放棄されました。

 車体側面に設けられた空間装甲の存在はここでもはっきりと確認できます。様子を見る限り、少なくとも1発の命中弾を阻止するのに効果を発揮したようです。


 上の画像: アブ・ハジャールの「M1114」から撮影されたナヴァラン近郊を走行中の戦闘トラム「201」:装甲キャビンに立って発射の機会をうかがうRPG砲手の姿が見えます。装甲を増強したことで重量が増加したにもかかわらず、このトラムは適度な速度で戦場を駆け抜けることにあまり問題はないようです。後方の装甲強化型「M1114」と比べると、車体の圧倒的な大きさは一目瞭然です。ただし、そのおかげでペシュメルガのATGMチームやRPG砲手にとっては格好の標的になりやすいというデメリットがあることは言うまでもありません。 

 実際、モスルの平原でこうした車両を使用した場合は、前述の理由で失敗に終わることは避けられないでしょう。戦闘トラムは平原より都市部での使用が適している可能性があります。


 数種類のAFVを自力で製造しようとするISの取り組みは、結果的にISの典型的な攻撃手法に適した(高度に発達した)車両を数多く生み出すことに至りました。ところが、ATGMの拡散とISの大規模な攻勢に有志連合軍の航空機やヘリコプターが登場したことで、これらのAFVがイラクの戦場で完全に場違いな存在となってしまったことは否めません。それでも、勝利という成功の可能性に賭ける彼らの信仰が挑戦に次ぐ挑戦に至らしめ、そのたびに同じ結果、つまり全滅という形で終焉を迎えたのです。

 設計と生産の分野におけるISの努力は確かに見事なものでしたが、そもそも最初から事実上絶望的な攻勢に投入する車両を大量生産することは彼らが他の地域で展開している作戦とは大違いであり、そう長くはできない贅沢と言えます。

改訂・分冊版が2025年に発売予定です(英語版)

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2025年4月28日月曜日

【復刻記事】イスラム国+マッドマックス:リビアでバトル・モンスターが登場した


著:シュタイン・ミッツアー と ヨースト・オリーマンズ(編訳:Tarao Goo)

 この記事は、2016年3月20日に本ブログのオリジナル(本国版)である「Oryx-Blog(英語)」で公開された記事を翻訳したものです。 意訳などにより、僅かに本来のものと意味や言い回しが異なっている箇所があります。

 これまで存在した中で最も洗練されたテロ組織と化した「イスラム国(IS)」の隆盛は、戦闘員に(形だけの)装甲防御力と重火力を装備させるべく無数のDIYプロジェクトを行うまでに至っています。こうしたプロジェクトの大半はシリアとイラクの戦場に限られる運命にあったものの、リビアのIS部隊が、映画「マッドマックス」からそのまま飛び出してきたかのようなワンオフの逸品を完成させることに成功しました。

 2016年3月に初めて目撃されたこのバトル・モンスターはリビアの北東部のデルナで建設され、リビア国民軍(LNA)やムジャヒディーン・シューラ評議会と戦闘しました。(敗北する前の)デルナにおけるIS戦闘員たちはリビア国内にある他のIS支配地から完全に切り離されていたため、リビアに存在する巨大な武器庫や敵対勢力から鹵獲した少数の装備だけで対処を強いられたという事情があります。

 今回取り上げるバトル・モンスターは、6x6トラックをベースにしたものであり、多種多様な装甲板とスラット装甲を備えているほか、「BMP-1」の砲塔のみならず車体自体を組み込んだものです。ただし、「2A28 "グロム"」73mm低圧砲と同軸の「PKT」7.62mm機関銃は撤去され、その代わりに「M40」106mm無反動砲(RCL)1門を備えるオープントップ式の砲塔が本来の砲塔の上に搭載されています。言うまでもありませんが、「M40」を旋回させるためには砲塔内に操作要員がいなければなりません。高い位置にあるRCLはバルコニーや屋上からの敵の射撃にさらされやすいという弱点があるものの、それでも(その高さゆえの)優位性を有しています。


 バトル・モンスターの装甲は控えめに言っても特別です。「BMP-1」の車体側面の装甲防御力は前面下部にも追加されたスラット装甲によって強化されていることに加え、「BMP-1」の車体とスラット装甲の間は土嚢によってさらに強化されています。スラット装甲以外でモンスターを覆っているのは、車体にボルト留めされた厚さと強度の異なる鉄板です。最も特徴的と言えるのは、露出したホイールとタイヤを保護しているのが再利用された「BMP-1」の履帯でしょう。

 モンスターの武装は、砲塔の「M40」RCL1門と「BMP-1」の車体に備えられた8個(車体後部のドアにあるものを含めると9個)の銃眼から発射される小銃や軽機関銃で構成されています。主砲の「2A28 "グロム"」が撤去された理由は不明ですが、損傷したか、あるいは過去に目撃されたテクニカル搭載用として撤去された可能性があるのではないでしょうか(編訳者注:リビアで「グロム」だけを装備したテクニカルを転用した事例が確認されているのはISではなくイスラーム系民兵組織「リビアの夜明け」であるが、こベースとなったBMPがISに鹵獲されたり、あるいは同様のテクニカルをISが使用している可能性は否定できない)。


 上の画像が示すように、この車両の役割は装甲兵員輸送車(APC)や歩兵戦闘車(IFV)に似ているものの、「BMP-1」の車体が高い位置にあるため、乗降が相当困難になっています。小型の梯子があればこのプロセスは大幅に楽となるはずですが、モンスターには装備されていないようです。

 特筆すべき点としては、このバトル・モンスターのドライバーが、デルナの狭い通りで運転するのに四苦八苦したに違いないということが挙げられます。もちろん、外を覗く窓が非常に小さかったため、後退時も進行方向を確認できないまま動くこと余儀なくされたであろうことは言うまでもありません。下の画像で、ドライバーが外に向けて「AK-103」7.62mmで狙いを定めていますが、これは単にカメラ用のカットでしょう(つまりプロパガンダ用)。


 リビアは間違いなく突飛なDIYプロジェクト発祥の地です。終わりの見えない長期にわたる内戦で勝利を確実なものとするため、各勢力が敵対陣営より優位に立つことを目的とした改造兵器が今後も数多く生み出されることでしょう。リビアへの武器禁輸措置を順守する意思のある国は少ないものの、各勢力に供給される(実用的な)重火器が不足しているということは、(実際に役立つかどうかは別として)今回のようなDIYプロジェクトを継続する必要があることを意味しています。


改訂・分冊版が2025年に発売予定です(英語版)

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