2024年12月1日日曜日

内戦最大の包囲戦が終結へ:アブ・ズフール空軍基地の陥落


著:シュタイン・ミッツアー と ヨースト・オリーマンズ(編訳:Tarao Goo)

 当記事は、2015年9月10日に本国版「Oryx」に投稿されたものを翻訳した記事です。 意訳などにより、僅かに本来のものと意味や言い回しが異なっている箇所があります。

 3年近くも窮地に立たされていたアブ・ズフール空軍基地は、2015年9月9日、とうとうアル・ヌスラ戦線を中心とする反政府勢力によって占領されてしまいました。シリア内戦で最長の包囲戦を展開したところで、空軍基地の陥落を最終的に避けられないことが明らかとなったわけです。アブ・ズフールはシリア政府に敵対する多数の勢力によって失われた8番目の空軍基地であり、これでシリア・アラブ空軍(SyAAF)が出撃に使用できる空軍基地は15となりました。

 この基地でシリアのイドリブ県上空を飛ぶ航空機やヘリコプターをいまだに格納していると頻繁に噂がなされていましたが、最後の運用可能な機体はこの基地が陥落する数か月前に離れています。というのも、この基地の陥落が差し迫っていることを十分に認識した上で、数少ない運用可能な「MiG-23MF」と「MiG-21MF」、そして「MiG-23bis」をハマ基地に対比させることが決定されたからです。

 基地にはグーグルアースや画像や動画で確認できる18機以上の退役機があるために見応えのある光景となっているものの、その大部分は10年から15年前に放棄されたものです。したがって、アブ・ズフール基地の陥落は、シリアの空を支配するシリア空軍の能力に少しも影響を与えることはないでしょう。

 アブ・ズフールは他の政府支配地域から完全に孤立していたため、この基地への補給はシリア空軍の手に委ねられていました。彼らは主に「An-26」と「Mi-8/17」を用いて食料から武器に至るまであらゆる物資を運び込んでいましたが、反政府軍が基地の周囲に接近し続けるにつれて、その危険性は徐々に高まっていったようです。年間を通して数機のヘリコプターが撃墜・破壊・損傷を受けたほか、2機の「MiG-21」と1機の「An-26」も失われてしまいました。 

 アブ・ズフール空軍基地への襲撃は中東を吹き荒れる極めて異例な砂嵐と重なったため、シリア空軍は守備隊を支援するための出撃を行うことができませんでした。それでも、最終的に空軍基地の占領につながったのは、絶え間ない砲撃と3年近くにわたる包囲によって生じた消耗、そして反政府軍の数的優位があったからです。

 守備隊の大半は捕虜になるか殺害されましたが、ごく一部は政府軍の支配地域に逃亡しました。アブ・ズフールの司令官であるイッサン・アル・ズフーリ准将は戦死したと伝えられています。


 アブ・ズフールは、「MiG-23MS」、「MiG-23MF」、「MiG-23UB」を擁する第678飛行隊と、「MiG-21MF」、「MiG-21bis」、「MiG-21UM」を擁する名称不明の飛行隊の拠点でした。

 1973年に納入され、間違いなく史上最悪の軍用機の一つである「MiG-23MS」は、今世紀に入って(すでに十分に引き延ばされていた)寿命が尽きました。第678飛行隊は2000年代初頭を通じて徐々に「MiG-23MS」の運用を縮小し、2005年頃に正式に退役させたのです。
結果として、僅か数機の「MiG-23MF」と「MiG-23UB」「MiG-21」がこの基地で唯一の稼働状態にあるアセットとして残りました。

 下の画像の機体は、状態が良好な往事の「MiG-23MS "1614"」 です。


 アブ・ズフールを占領しようとした最初の本格的な試みは2013年4月30日に行われており、その際に自由シリア軍の兵士たちが基地の周囲に侵入することに成功しました。しかしながら、守備隊が自由シリア軍を撃退したことにより、初めて空軍基地へ侵入するという試みは頓挫してしまいました。基地の防御線はその後すぐに強化され、その後の数か月間は全ての攻撃を受け流すことができたようです。

 2012 年3 月 7 日、自由シリア軍の兵士たちは 「9M131 (9K115-2 "メチス-M")」対戦車ミサイルで基地を攻撃し、すでに運用状態になかった「MiG-23MS」の 1機に損傷を与えました。ちなみに、この機体は彼らが基地を強襲した際に再び登場します。

 全長5km近いアブ・ズフールの境界線は、空軍基地を取り囲む平坦な地形を見渡せるような高い建物がなければ、防衛することはほとんど不可能な状態でした。というのも、空軍基地の周辺にある村や農場の多くは、反政府軍の動きを封じるためにすでに平らにされていたからです。

 13基の強化型航空機シェルター(HAS)は大部分が空っぽになっていたものの、さまざまな軽火器や重火器で守備隊のグループを収容する砦に変貌しました。そして、重機関銃や対戦車ミサイルがHASの上に備えられたことで、防御側はクリアな射界を得ることに成功したのです。こうしたHASの存在が、この空軍基地が3年近く存続する上で重要な役割を果たしたことは言うまでもありません。

 防衛側は防衛線に沿った複数の検問所に配備された数台の戦車や装甲戦闘車両の支援を当てにすることができましたし、これらを即応部隊として展開させることもできました。

 実際、包囲されたとはいうものの、アブ・ズフールの守備隊は何度も基地を離れて敵の陣地に対する襲撃を行ったことがあります。これらの攻撃は反政府軍の火砲を叩くことが目的だったようです。

 この空軍基地への攻撃では、(イスラム国から逃亡した多くのデリゾール地方の部族民を含む)ヌスラ戦線は数台の戦車を防御側に奪われてしまい、そのうちの何台かはかつての所有者であった自身に敵対することがありました。


 空軍基地が反政府軍に大量の武器や弾薬を提供することはありませんが、基地の占領は彼らの士気を著しく高めることになります。鹵獲したミグ戦闘機は、運用可能であろうがなかろうが、彼らにとって勝利の象徴であることに変わりはありません。

 (有用な)「ガニーマ(戦利品)」という点では、アブ・ズフール基地は反政府軍に数台の戦車と装甲戦闘車両、1台の「ZSU-23-4」自走対空砲、数門の「M-46」130mm野砲、対空砲、トラック、小火器と弾薬をもたらしました。

 航空機やヘリコプターの撮影が車両の撮影よりも人気があることに加えて、どれだけの車両や装備が敗走する守備隊の手で避難させられたかは不明であることから、鹵獲された装備に関する実際の数量を特定することは困難を極めます(注:FSAの兵士らが飛行機やヘリの撮影に気が向くことで鹵獲した戦車や銃火器の画像が少なくなる傾向を示したものです)。

 HASの一つで鹵獲された10発の対戦車ミサイルの内訳は「9M111 "ファゴット"」3発、「9M113 "コンクールス"」5発、「9M131 "メティス-M"」2発でしたが実際はキャニスターが空っぽだったようです。




 予想されたとおり、かつてジェット機の運用に使われていた車両や機材の多くも鹵獲されました。これらの車両の損傷や錆は、この基地で戦闘機の運用が最終的に不可能に近くなり、ほとんど注意を払われずに放棄されたことを示しています。



 アブ・ズフールに配備されていた「MiG-21」や「MiG-23」が使用していた多くのロケット弾ポッドや空対空ミサイルも、HASの至る所に散らばっている様子が見られました。

 これらのロケット弾ポッドやミサイルを避難させる際に使用するべきだった燃料は装備そのものよりも価値があったためか、これらの装備は空軍基地に残されてしまいました(注:ロケット弾ポットを避難させるくらいなら放置した方が貴重な燃料を浪費せずに済んだということ)。その結果として、数十個の「UB-16」と「UB-32」ロケット弾ポッドが、かつてのラックの横に立っているのが発見されるに至ったわけです。

 地上ベースの多連装ロケット砲として使用するためにトラックに搭載するには完璧だったものの、肝心の「S-5」57mmロケット弾は1発も鹵獲されなかったと思われるため、「UB-16/32」は使い物にならなかったようです。



 下の画像が示すとおり、約10基もの多連装エジェクターラック(MER)も鹵獲されました。


 下の画像で見られるのは、「R-23R」セミアクティブレーダーホーミング式空対空ミサイルと「R-23T」赤外線誘導空対空ミサイルです。かつてアブ・ズフールの「MiG-23MF」の武装として使われたものですが、そのほとんどは約35年前に納入されたときの保護カバーに包まれたままでした。





 「MiG-23MF」の近接戦闘用の兵装である短射程の「R-60M」空対空ミサイルもありました。かつてはイスラエルとの戦争で使用されたミサイルですが、シリア内戦によってその出番が完全に消えたこともあり、今では埃をかぶっています。


 SyAAFが独自に開発したチャフ/フレア用ディスペンサー数基と、空対空ミサイルやロケット弾ポッドを収納する多数の箱が積まれていました。

 多数の「MiG-21」や「MiG-23」用の増槽も発見されましたが、その大半には多数の弾痕が残されていました。どうやらヌスラ戦線の戦闘員が射撃訓練に使ったようです。



 紛れもなく最も興味深くも役に立たなかった戦利品はアブ・ズフールで「発見」された17機の戦闘機と2機のヘリコプターでしょう。これはタブカでイスラム国の戦闘員によって鹵獲された18機のMiG-21と同等のものです。機体の状態は、半分に切断されたものから概ね無傷のもの、あるいはその中間の状態とバラバラでした。

 機体の大部分を保有していたのは第678飛行隊であり、基地の北西部に11機の「MiG-23MS」と2機の「MiG-23UB」、1機の「MiG-23MF」が残されていました。2000年代以降に退役した「MiG-23」の大半がここに放置されています。

 興味深いことに、この基地にある「MiG-23MS」の一部は、1982年のイスラエルと戦ったレバノン戦争でシリア空軍が被った甚大な損害を補うために、カダフィ大佐が寄贈した元リビア空軍の機体でした。この知られざる物語の詳細については、こちらをご一読ください。




 「MiG-23UB "1750"」は最近になってスクラップヤード(上の画像はその一部)から、より広大な機体の廃棄エリアに移されました。この機体は(上述した)反政府軍によってまだ運用可能と判断されたと思われて対戦車ミサイルの直撃を受けたものでしたが、実態としては過去に廃棄された機体を損傷させただけだったわけです。

 手前の「MiG-23MS」には、シリア国産のチャフ/フレアディスペンサー用の固定具が2つ備えられています。


 下の画像では、おそらくこの基地で最も劣化した機体を見ることができます。その状態は迷彩パターンさえも完全に色あせているほどです。

 機首右側に施されたマークは、この「MiG-23MS」はかつて、ナイラブ基地/アレッポ国際空港にあるSyAAFのオーバーホール・整備施設である「工廠」でオーバーホールされた過ことを示ししています。


 「MiG-23MF "3677"」は、このモデルで唯一ハマへ避難させられなかった機体でした。僅かに残留していた整備員たちはATGMの被弾で甚大な損傷を受けた尾翼を修理することができなかったようですが、いずれにせよ鹵獲されても敵に役立つことはないだろうと放置することを選択したと考えられます。

 「3677」はアブ・ズフールでATGMの攻撃を受けた3番目の機体で、ミサイルは全弾が機体の尾翼に命中しました。他の2機は被弾した時点で稼働状態になかったことを踏まえると、ATGMを用いた「3677」への攻撃は「敵が実際に使用している作戦機を破壊する」という目的を達成した唯一の事例となります。


 アブ・ズフールで鹵獲された(ゲートガードの「MiG-21F-13」を除く)「MiG-21」は合計で4機であり、内訳は「MiG-21MF」が2機、「MiG-21bis」が1機、「MiG-21UM」が1機でした。どの機体も少なくとも1年半は稼働状態になかったため、ハマに避難させることができなかったものです。


 この文章の上下に写っている機体は「MiG-21MF "1518"」で、アブ・ズフールで発見された機体の中で最も無傷に見える機体の一つです。

 唯一の「MiG-21UM」は下のHAS(左のシェルター)内に格納されていました。


 下の画像の機体は「MiG-21MF "1942"」です。


 ところで、発見された全ての機体は基地の陥落前に機関砲が取り外されていました。おそらくは即席の基地防御用の火器として使用されたか、あるいは僅かに残った運用可能な「MiG-21MF」と「MiG-21bis」で使用するためにハマに持ち去られたのでしょう。

 戦闘員たちは基地で2機の「Mi-8」にも遭遇しました。そのうちの「Mi-8 "1282"」は地雷散布装置を搭載していました。修復不能な故障や戦闘中の損傷によって現地のスクラップ置き場行きになったものと思われますが、その前にアブ・ズフール近郊で地雷を空中散布する任務に就いていたのでしょう。

 機体の奥に見えるのは前述の「MiG-23MS」で、尾翼が胴体から分離した状態で放置されて様子がよくわかります。




 もう1機の「Mi-8」はATGMか迫撃砲弾の餌食になったものと思われます。炎が機体を焼き尽くしたおかげで、このヘリが二度と飛ぶことがなかったことは言うまでもありません。



 アブ・ズフールで発見された機体の数が膨大であったにもかかわらず、この基地の占領がシリア上空におけるSyAAFの航空作戦に影響を与えることはないと思われます。実際、アブ・ズフールにいた相当な規模の守備隊への補給という困難な任務から解放されたことを考えれば、この占領はSyAAFに必要な一息つく猶予を与えたとすら言えるでしょう。

 ただし、空軍基地の陥落は、アサド政権にとって勝利どころか存続も保証されていないという国外の支援者たちが見過ごすことがない事実を思い起こさせる重要な出来事なのです。


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2024年11月10日日曜日

メイド・イン・アルメニア:トルクメニスタンで運用される「K6-92」短機関銃


著:シュタイン・ミッツアーとヨースト・オリーマンズ(編訳:Tarao Goo)

※  この翻訳元の記事は、2021年2月6日に「Oryx」本国版(英語)に投稿された記事を翻訳したものです。意訳などにより、僅かに本来のものと意味や言い回しを変更した箇所があります。

 アルメニア共和国は軍事産業では特に知られた存在ではなく、武器輸出はこれまで記録に残されてきませんでした。1990年代の大半を通じて有望な兵器の研究開発をしたにもかかわらず、資金不足と発注に至らなかったことで、開発は本格化する前に頓挫してしまったからです。

 少数生産された武器の派生型は後にチェチェンや独立国家共同体(CIS)全域の犯罪者の手に普及しましたが、アルメニアの小火器産業の功績はそこで潰えたと考えられていました。ただし、その考えはアルメニアが開発した短機関銃(SMG)がトルクメニスタンで突如として姿を現したことで一変したのです。

 この小火器は「K6-92(92は最初に製造された年:1992年を示す数字)」であり、当時迫っていたナゴルノ・カルバフをめぐるアゼルバイジャンとの全面戦争を想定し、安価で製造が容易な武器として1991年に開発されたシンプルなブローバック式のSMGです。「K6-92」の最も特筆すべき点は、その独特の粗末な仕上がりでしょう。ほとんどDIYで製造した銃器のような外観となっています。

 見た目はともかく、「K6-92」は非常に優れたSMGであり、その影響力によってアルメニアで最も成功した武器でもあります。実際、読者の中には、すでに「K6-92」とチェチェンの「ボルツ(狼)」SMGの類似性に気づいた人もいるかもしれません。 後者の名称は主にチェチェン由来の即製SMG全般に付与されたものです。当初は「K6-92」の設計に倣って作られたものでしたが、その後の改良で外見以外の共通点はほとんど見られなくなりました。


 1991年にアルメニアがソ連から独立すると、「AK(M)」及び「AK-74」アサルトライフル、「PK(M)」機関銃、そして「SVD」狙撃銃を補完するため、ほぼ即座に国産小火器産業の確立に着手しました。

 銃器製造における最初の試みの一つは、ヴァハン・S・ヴァハンによって行われた自身の名前が付けられたアサルトライフルの開発です。5.45x39mm口径の「ヴァハン」はアサルトライフルの設計としては時代遅れとはいえ興味深い試みだったものの、軍で(採用に向けた)本格的な検討がされることはありませんでした。

 「ヴァハン」は革新的な特徴に欠けていたかもしれませんが、アサルトライフル開発におけるアルメニアの次の取り組みは、それを補って余りあるものでした。5.45x39mm口径の「K3」ブルパップ式アサルトライフルは、アルメニアが生んだ小火器の中で最も先進的な設計な誇っています。それにもかかわらず、(おそらくは発注を得られなかったせいか)1996年の登場から程なくして生産が中止されたようです。

 時折、ごく少数が生産された「K-3」が選抜されたアルメニアの特殊部隊に配備されたのではないかと推測されていますが、こうした情報の全てが2006年のアルメニア独立記念日のパレードで、特殊部隊の一部が同ライフルを手にしている姿を目撃したことに起因しているようです。それ以降、「K3」は二度と(運用される)姿を見せることはありませんでした。パレードでの登場は一度限りの宣伝的効果を意図したものだったと思われます。

 同じ頃、アルメニアの武器メーカーであるガルニ-レール社「K11」として知られる一連の狙撃銃の設計に着手していました。見た目は猟銃や成功な玩具の銃に似ていますが、このプロジェクトは試作段階を脱していないようです。

 「K2」自動式拳銃や「V1」SMG、「K15」12.7mm対物ライフルを開発する試みも、全て同様の運命をたどったようです。外国製兵器の継続的な調達と(ごく最近に始まった)ロシアの「AK-103」アサルトライフルのライセンス生産によって、アルメニアで設計された武器が実用化される可能性に終止符が打たれたものと思われます。[1]

 もちろん、定評のある「AK-103」の生産は決して容易なことではありません。アルメニア(と国内の小火器メーカー)にとって、このライセンス生産がいかなる自国の設計品よりも恩恵をもたらすことは言うまでもないでしょう。

 こうして、アルメニア初にして(ほぼ)間違いなく最も野心的でなかった国産銃が最も成功した小火器にもなりました。

 「K6-92」SMGは、単発またはフルオート射撃が可能なシンプルな構造の銃器です。銃弾は9x18mm口径のマカロフ弾で、24連の着脱式の箱型弾倉を使用しますが、16連の弾倉も存在します。後者は持続的なフルオート射撃には全く不向きであるものの、コートの下やバッグの中にSMG全体を隠匿しやすくなる利点をもたらします。

 1990年代のある時点で「K6M」として知られるようになった改良版が登場しました。発射速度が向上したほか、セレクタースイッチの位置が変更され、SMGの全長が大幅に短縮された。

 「K6-92」は少数ながらもアルメニア陸軍や警察で採用された一方で、「K6M」や前述の「V-1」SMGは採用されなかったようです(ただし、少なくとも1丁の「K6M」はシリアに渡ったようですが)。

 それでも、「K6」シリーズにはいくつかの派生型が存在します。最も注目すべき点としては、一部の"K6M"とされるSMGは本物の「K6M」ではなく「K6-92」の短縮版であったり、ほかには折り畳み式ストックを備えたタイプもあることです。下の画像で「K6-92(上)」、「短縮版K6-92(中)」、「K6M(下)」を比較することができます。


 間違いなくシンプルな構造のおかげで、「K6-92」は紛争に苦しむチェチェンのガンスミスの間で人気の的となりました。

 チェチェンがどのようにして「K6-92」を入手したのかは依然として議論が続いています。首都グロズヌイに同SMGの生産ラインが設置されたという主張さえあるほどです。別に考えられるものとしては、1994年の第一次チェチェン紛争以前に、チェチェン・イチケリア共和国が少数の「K6-92」をアルメニアから直接輸入していた可能性が挙げられます。

 いずれにせよ、この「K6-92」のデザインが多数の即製SMGのモチーフになったことは言うまでもありません(下の画像のとおり)。ただ、戦争が進行して物資が不足するにつれて、オリジナルとの共通性は大幅に減少てしまいました。


 四面楚歌となった戦闘員たちにあらゆる種類のDIY小火器をもたらすべく、チェチェンのガンスミスたちが依然として残業に励むうちに、アルメニアはすでに「K6-92」の2度目の輸出契約を結んでいたようです。賢明な読者ならこの時点で察しがつくでしょうが、この契約はトルクメニスタンへの納入に関するものでした。

 トルクメニスタンがこのSMGを入手した正確な時期は不明ですが「K6M」ではなく「K6-92」が引き渡されたという事実は、1990年代初頭から半ばにかけて納入された可能性を示唆しています。それにもかかわらず、このSMGの存在が初めて確認されるまでにはトルクメニスタン国境警備庁と国内軍の演習で目撃された2019年までかかったのです。この演習では「ARX-160」や「TAR-21」アサルトライフル、「MP5」や「X95」SMGといった現代的な武器が山ほどある中で、「K6-92」明らかに異彩を放っていました。

 大規模な小火器の調達がなされているにもかかわらず、「K6-92」は明らかに退役していないどころか、保管状態にも入っていません。「K6-92」がこのような現代的なライバルの隣でいまだに使用されていることは、その設計の頑丈さを証明しています。


 そのレガシーは控えめなままですが、今や「K6-92」はアルメニアがまだ独自の小火器を開発していた時代の証しとして、また、最も無名の武器でさえ予測不可能な影響力を持つことを思い出させる存在として語り継がれるものとなっています。

 どんなに生産数が少なくても、武器は常に世界の思いがけない場所に出現するものであり、その過程で、これまで知られていなかった国際的な武器取引の興味深い一面が明らかになることも少なくありません。

 アナリストにとって、大局的な視野の中から小さなものを追求することほど魅力的なトピックはないでしょう。


[1] Armenian assault rifle factory begins production https://www.janes.com/defence-news/news-detail/armenian-assault-rifle-factory-begins-production


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2024年10月27日日曜日

思わぬ伏兵:PKKのDIY式対空砲


著:シュタイン・ミッツアー と ヨースト・オリーマン(編訳:Tarao Goo)

 当記事は2021年に本国版「Oryx」(英語)に投稿されたものを翻訳した記事です。意訳などで僅かに本来のものと意味や言い回しが異なっている箇所があります(本国版の記事はリンク切れです)。

 トルコから公式に撤退してから約8年経過した今でも、クルド労働者党またはクルディスタン労働者党(PKK)はゲリラ戦を展開しており、イラク北部の山岳地帯からトルコに潜入しています。脅威を絶つことを決心したトルコ軍は、隠れ家や武器庫を無力化するためにPKKの勢力圏への攻勢を頻繁に実施してきました。

 トルコ軍ヘリコプターによる襲撃や攻撃ヘリの脅威を食い止めるべく、PKKは独自に改造した各種の重機関銃(砲)を使って、ヘリコプターのみならず機体から降り立つ兵員も狙った攻撃をしています。

 広い視野を得られ、迫りくる空中の脅威を遠くから発見することが可能な山間部の高い位置に備えられてきた場合が一般的だったこともあり、PKKの対空砲とその操作要員は過去数年間でトルコ軍のヘリコプターに対して小さな成果を上げてきました。

 これらの成功の大半はヘリコプターの撃墜ではなく損傷を与える程度のものでしたが、PKKの支配地域への不時着に至るケースもありました。トルコのヘリボーンへの対抗や抑止には少しも成功していないものの、PKKの対空砲は依然として強力な脅威であり、真剣に対処する必要があります。

 一般的にシリア軍やイラク軍から鹵獲した旧ソ連または中国製の兵器を原則としたPKKの対空砲に求められる主要な条件は、荒れた地面や山岳地帯を輸送するためにいくつかに分解できることです。その理由で、ありふれた(中国製コピーを含む)「DShK」12.7mm重機関銃と「KPV」及び「ZPU-1」14.5mm機関砲は特に人気が高く、その他にも数種類の対空砲が混在していることが判明しています。

 ごく最近では、PKKは隣接する地下洞窟内の安全な場所から操作可能なリモート・ウェポン・ステーションを導入し始めています。このシステムを運用する部隊については、ほとんど知られていません。

 PKK内には「殉教者デラル・アメド防空部隊」と呼ばれる部隊が存在しますが、これまでのところ、その任務は潜入用パラモーターと自家製の爆弾で武装した攻撃用ドローンの運用に限定されているようです。したがって、対空砲は各作戦区域のPKK部隊によって運用されている可能性が高いと思われます。おそらく、トルコ軍のヘリコプターの飛来を別の区域に警告するための全域的な警報システムも備えているのでしょう。

 対空砲が所定の場所に運び込まれて組み立てられた後は、使用する必要が生じるまで秘匿され続けるのが一般的な流れです。対空砲は頻繁に点検され、現地の状況下で確実に継続的な運用ができるように整備されていると思われます。

 下の画像の「KPV」14.5mm機関砲は、秘匿された対空砲の典型的な様子を見せています。被発見率を下げるために木の下に配置され、布と木の枝で覆われているため、上空どころか地上の遠距離からでさえ視認することが不可能に近くなっています。[1]


 この「KPV」は、ほとんどの重機関銃に施された改造の一部も披露しています- 特に注目すべきはマズルブレーキ、三脚、銃床、肩当てです。異彩を放つマズルブレーキは「KPV」に特有の強烈な反動を幾分和らげてくれるものの、命中精度をある程度維持するためには短いバースト射撃しかできません。さらに照準を合わせやすくするため、銃身のキャリングハンドルの後方に照星が追加されました(注:機関砲の後部には照門も追加されています)。


 もう一つの簡易対空システムは、「ZSU-23-4 "シルカ"」自走対空砲(SPAAG)から取り外された「2A7/2A7M」機関砲をベースにしたものです。[1]

 前述の「KPV」と同様に、この機関砲も新たにマズルブレーキ、照星、三脚が装着されました。その大口径ゆえに、「2A7」は反動が大きいおかげで単発かごく短い連射しかできません。このため、実質的には対空砲というよりは対物ライフルに近い性格となっています。

 それでも、23mm砲弾はヘリコプターに対して非常に強力な損傷を与えます。つまり、砲手が「KPV」で同様の(あるいはそれ以上の)効果を得るよりも、目標に命中させるのに必要な弾数は大幅に少なくなるというわけです。

 改造型「KPV」と同様に、この対空砲は2020年6月から9月にかけて実施されたトルコのクローイーグル・タイガー作戦の際に鹵獲されました。[1]


 「KPV」がPKKによって対空砲として使えるように改造されたのに対し、「ZPU-1」は最初から軽量の対空砲として設計されたものです。

 「ZPU-1」は通常であれば二輪式の砲架で移動しますが、ラバや人力で輸送できるように数個のコンポーネント(重量80kg)に分解することが可能となっています。「KPV」と同様の砲弾を約2km先まで発射可能な最大射程、容易な操作性と専用の対空照準器、そして大容量の弾倉はPKKに重宝されているに違いありません。

 下の画像の個体は2021年4月と5月に実施されたクローライトニング・クローサンダーボルト作戦でトルコ軍に鹵獲されたものですが、砲と砲架の大部分が錆で覆われています。これは、おそらく全ての対空砲が適切な手入れをされていたわけではないことを示しています。


 より近年における発明品は、「DShK」12.7mm機関銃(またはその中国の派生型である「54式」や「W85」)をベースにした一連のリモート・ウェポン・ステーション(RWS)です。こうしたRWSの主な利点は、砲手が敵に晒されるリスクを冒さずに安全な洞窟から操作できることにあります。

 欠点としては、状況認識の大幅な低下と弾倉が空になるごとに人力で再装填する必要があることが挙げられます – どのヘリコプターも交戦圏内の飛行時間が短いことを考慮すると、後者は想像以上に問題とはならないかもしれません(注:交戦時間自体が短いため)。

 前述の対空砲と同様に、「DShK」RWSも山の谷間を進む歩兵を標的にする副次的な役目を担っています。

 クローライトニング・クローサンダーボルト作戦の際に、少なくとも3基のRWSがトルコ軍に鹵獲されました。どれもが地下洞窟の付近に配置されていたようです。[2]

 これらは近くにいる敵兵への強力な抑止効果をもたらす一方で、その存在はトルコ軍にPKKが潜む洞窟が本当に近くにあることを即座に警告するデメリットも生じてしまいます。
作戦機やUCAVから投下される精密誘導弾や火砲によってさらに強化されたトルコ軍の数的・戦術的優位を考慮すれば、後に彼らの洞窟が全滅するのはほぼ確実と言ってもいいでしょう。[3]



 前述の多用途兵器システムの開発に多大な努力を注いでいる一方で、PKKが保有している中で最も恐れられている兵器は、いまだに携帯式地対空ミサイルシステム(MANPADS)であり続けています。明らかに、システムの複雑性と精密な電子機器が搭載されているおかげで、MANPADSが積極的に使用されたケースはほとんどなく、過去には使用前にトルコ軍に鹵獲されたものもありました。

 PKKにとって最も注目すべき成功例は、2016年5月に「9K38 "イグラ"(NATOコード:SA-18 "グロウス")」MANPADSでトルコ軍の「AH-1W "スーパーコブラ"」攻撃ヘリコプターを撃墜したことです。[4]

 この撃墜はMANPADSがもたらす深刻な脅威を際立たせましたが、これ以降に撃墜に成功したことはありません。


 トルコ軍のヘリコプターがイラク北部で自在に飛び回るのを阻止するため、自由に使用可能な(ATGMを含む)手段を何でも活用しようとしているPKKの試みが紛れもなく機知に富んでいるものの、同時に、トルコ軍のヘリボーン作戦に直面した彼らが対処しなければならない全体的な欠点を象徴しています。

 相応の武器なしに、利用可能なアセットと革新的な能力の双方で優勢な敵に対抗できる希望はほとんど残されていません。それでも、PPKのDIY式対空砲の脅威は強力と言えます。なぜならば、ローテクゆえに対抗することが困難だからです。

 トルコ側には、対空銃座に対して何らかの対抗策を実行に移せるかどうかが注目されます。例えば、無人機に作戦予定区域内の稜線をスキャンして不審な形状や動きの有無を確認させることが挙げられます。

 武器や通貨の流入不足だけでなく、近年におけるPKKの対空砲の消耗率は、彼らが対抗するトルコの装備に損耗をはるかに上回っている可能性があります。新たな重機関銃を入手するよりも早く重機関銃を失った場合、トルコが実行可能な対抗策を考え出す前に、重機関銃の配備と運用上の有効性が低下することも否定できません。


[1] Northern Iraq PKK-Weapon Caches of Operation ‘Claw Tiger’ https://silahreport.com/2020/08/27/northern-iraq-pkk-weapon-caches-of-operation-claw-tiger-miles-check-this/
[2] Claw-Lightning and Claw-Thunderbolt: Turkey Engages PKK In Iraq https://www.oryxspioenkop.com/2021/04/claw-lightning-and-claw-thunderbolt.html
[3] https://twitter.com/COIN_V2/status/1389131420614991874
[4] Video appears to show Kurdish militants shooting down Turkish military helicopter https://www.washingtonpost.com/video/world/video-appears-to-show-kurdish-militants-shooting-down-turkish-military-helicopter/2016/05/14/d64e96e2-19f6-11e6-971a-dadf9ab18869_video.html

ヘッダー画像:Abdullah Ağar、特別協力:COIN_V2(敬称略)


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