2026年4月10日金曜日

【復刻記事】シリア戦線:要塞と化すクワイリス空軍基地


著:シュタイン・ミッツアー と ヨースト・オリーマンズ(編訳:Tarao Goo)

 この記事は、2015年5月10日に本ブログのオリジナル(本国版)である「Oryx-Blog(英語)」とベリングキャットで公開された記事を翻訳したものです。 意訳などにより、僅かに本来のものと意味や言い回しが異なっている箇所があります。

 ラスム・アル・アッバードとしても知られるクワイリス空軍基地は、2015年5月上旬以降、この基地の占領を目論むイスラム国(ISIL)戦闘員による激しい攻撃を受けていると報じられています。ISILが敷いたSNSの検閲は戦闘員に攻撃に関する画像や情報の投稿を控えさせているため、現在のクワイリスで実際に何が起きているのかを把握することは困難です。この検閲は、タブカ空軍基地への襲撃で得られた痛ましい教訓の結果と言えるでしょう。と言うのも、この襲撃で防衛側(シリア軍)はISIL戦闘員がオンラインに投稿した情報から敵の位置を特定できたからです。そのため現在では、彼らが実施するあらゆる大規模攻勢においてこの検閲が徹底になされています。

 クワイリス基地は、シリア空軍(SyAAF)と陸軍(SyAA)が掌握している17の(稼働中の)空軍基地の一つです。ただし、クワイリスは空軍基地としての価値が低く、2012年12月から包囲されている状態が続いています。それにもかかわらず、同基地は現時点でも運用状態を維持してるようです。当初は自由シリア軍に完全に包囲されていたものの、約1年前にシリア東部で急速に勢力を拡大したISIL戦闘員が包囲網を奪取したのでした。ISIL戦闘員は基地を何度も襲撃しましたが、これらの攻撃は基地の占領よりも空軍基地の防衛体制を探ることに重点が置かれていた可能性が高いと考えられます。それにもかかわらず、シリア空軍は基地防衛のため多数の出撃を続け、士気高揚のため少なくとも1発の「ファテフ110 "ティシュリーン"」地対地ミサイルが基地内の敵部隊に向けて発射されました。[1]※現在は閲覧不可

 クワイリス基地は完全に稼働状態にあるにもかかわらず、その軍事的価値は現時点における空軍基地の中で最も低いものです。この点と同基地が事実上の不落の要塞であるという事実はISIL側も理解していたようで、この基地を完全に包囲しながらも本格的な占領を試みたことは一度もありません。散発的な砲撃、迫撃砲やロケット弾が頻繁に基地に撃ち込まれるのの、これによる重大な損害は確認されていません。驚くべきことに、ISIL戦闘員は(基地とその周辺への砲撃に使用されている)イラクで鹵獲したアメリカ製 「M198」155mm榴弾砲の標的を探すために無人機(UAV)を活用しています。[2]※現在は閲覧不可

 ISILがクワイリス基地に用いた戦術は、これまで自由シリア軍とほぼ同様のものでした。そもそも、彼らには基地を強襲する戦力が不足していたのです。シリア・アラブ通信社(SANA)のテレビクルーが最後に同基地を訪れたのが2014年2月であり、その映像と写真はこちらで閲覧可能です。現在の攻勢を記録するためにテレビクルーが派遣されることはありませんでした。以前にSANAがタブカ空軍基地で同様の取材を行った際、同基地が「イスラム国の戦闘員を撃退した」と誇らしげに報じられた僅か1日後に陥落してしまったたためでしょう。

 なぜISILが今まさにクワイリス基地への攻撃を開始したのかと言えば、かつて誇っていた抑止力を維持するため、彼らが躍起になって大規模な宣伝戦を展開しようとしているという事実で説明できます。つまり、この基地の占領がまさにそれに該当するわけです。

 ところで、シリアのISILの攻勢は時点で期待した目標を達成できていません。これまでに、彼らはクワイリスよりもさらに厳重に防御されたデリゾールとT4空軍基地の占領に失敗しています。2014年の夏、第17師団、第121連隊、第93旅団、タブカ空軍基地、そしてシャエル地区のガス田が、当時無敵と思われたISIL戦闘員たちの手に落ちました。ただし、ガス田を除けば、これらはすでに長期間包囲されており、内部に閉じ込められた兵士たちは差し迫った最終攻撃を待っているにすぎなかったという事情があります。デリゾールとT4基地はこれらと完全に別の話であり、仮に制圧が可能だとしても、そのために必要となる甚大な兵力は彼らにとって代償が大きな勝利にしかならないでしょう。


 クワイリス空軍基地は1960年代初頭にポーランド人によって建設され、シリア空軍の主要な訓練基地として運用されてきました。同基地の入口に掲げられた標識は上記の写真で見ることができます。

 現在も公式にはシリア空軍アカデミーの拠点であり、同校は「MBB-SIAT 223K1 "フラミンゴ"」とPAC「MFI-17 "ムシュシャク"」を使用する初級操縦学校と、「L-39ZO/ZA」を使用する上級飛行訓練学校で構成されています。シリア空軍パイロットの大半がここで飛行訓練を修了しているため、この基地が極めて象徴的な価値を有していることは言うまでもないでしょう。

 ところが、内戦勃発後に初級操縦課程はすぐに活動を縮小し、訓練機は現在も基地内のさまざまな場所に保管されたままとなっています。このため、シリア空軍は国内で新たなパイロットを養成できず、すでに疲弊し、頻繁に憂鬱な状態に追い込まれているパイロットたちの負担をさらに増大させているのです。彼らの大半はロケット弾や樽爆弾の攻撃目標のほとんどが民間人であることを十分に認識しています。

 もう一つの訓練拠点:ヘリコプター操縦学校があったミナク基地については、2013年8月5日にはすでに制圧されていました。上級飛行訓練は、シリアの別の場所にある「L-39」とヘリコプターを用いた限定的なものが継続されているようです。

 クワイリス空軍基地の「L-39」は、2012年7月末に実施された反乱の鎮圧に初めて積極的に関与した航空機として不名誉な記録を残しました。当時、上級飛行訓練学校が「L-39ZO/ZA」をアレッポとその郊外への爆撃任務に投入したのです。これらの作戦では主に病院や学校などの民間施設が攻撃対象となり、当然ながら数多くの民間人犠牲者を出しました。しかし、アレッポ上空への「L-39」の出撃回数は次第に減少し、2013年5月には完全に停止されました。


 「L-39」の出撃が徐々に減少するにつれ、その機体数も次第に減っていき、2013年2月12日に(現在はシリア初の反政府空軍の拠点として知られる)クシェシュが占領された際、「L-39」群は壊滅的な打撃を受けました。その後、生き残った「L-39」は、ハマ、タブカ、アレッポ国際空港(ナイラブ)に分散配備され、後者で一部はオーバーホールを経て 「B-8」80mmロケット弾ポッドを搭載できるように改修されたのです。クワイリス基地に配備されていた「L-39」飛行隊の規模は当初約40機で機体数はほぼ維持されたものの、長年わたるスペアパーツの不足と自由シリア軍やISILによる迫撃砲の攻撃により深刻な被害を被り、2013年時点で運用可能な機体は僅か十数機となっていました。

 しかし、2013年5月26日に撮影された衛星画像でクワイリスを精査すると、少なくとも89機の航空機と12機のヘリコプターが確認できます。仮にこの基地が占領されたとしても、航空機とヘリコプターが果てしなく続くように並ぶ光景は、ISILが渇望するプロパガンダ用写真を提供し続けるに違いありません。こうした膨大な数の機体の状態は運用可能なものから残骸同然まで多岐にわたっていて、基地に存在する十数機のイギリス製「ミーティア」戦闘機は半世紀以上前にここに放棄されたものです。また、この基地に現存する2機の「MiG-23」戦闘機のうち、かつて訓練用として使用されていた1機が下の画像の機体です。

 それでも、クワイリスの「L-39」は基地の防衛を支援できるだけの数が稼働状態を維持していました。報じられるところによれば、基地周辺にあるISILの拠点を攻撃するため、1日に最大20回の出撃をしたこともあったとのことです。特に彼らの強固な陣地があるアイン・アル・Jamajimahは激しい空爆を受けました。2015年4月20日、こうした任務の一つで「L-39」1機の墜落が確認されています。[3]


 クワイリスの防衛については、シリア陸軍、国民防衛隊(NDF)、シリア空軍の兵士、パイロット、整備兵等から構成される規模不明の部隊が担っており、その大部分は革命勃発時からこの基地に駐留しています。2014年夏、つまりISILの進撃で自由シリア軍が基地周辺の陣地を放棄せざるを得なくなった後、守備隊が増強されたと見られています。

 クワイリス近郊に配備されていた「S-125」地対空ミサイル部隊は、2012年から2013年かけての時期に自由シリア軍による制圧を回避するため、全装備と要員をクワイリス基地へ撤退させました。同部隊は後に同基地で再展開し、2013年時点では稼働状態を維持していましたが、現在も稼働している可能性は低いと思われます。そもそも空からの脅威が存在しない以上、このSAMを運用する要員は地上からの攻撃に対する防衛面で有効活用される可能性が高いでしょう。


 クワイリスはISILの手で完全に包囲されているため、シリア空軍のヘリコプター部隊が空軍基地と(アサド政権が掌握する)シリアを結ぶ唯一の生命線となっています。彼らは食料から武器弾薬に至るまであらゆる物資を絶え間なくこの基地に供給しているのです。この任務を支援するため、クワイリスには1個の「Mi-8」飛行隊が常駐配備されています。



 基地の防衛でクワイリス守備隊はほぼ軽火器だけに依存せざるをえない状況となっています。空軍の現状と、基地を包囲するISIL戦闘員にとって大型輸送機が格好の標的となることから、重火器の空輸は不可能だからです。守備隊が使える武器はヘリコプターで空輸されてきました。こうした武器には、「SVD "ドラグノフ"」狙撃銃やイラン製「AM.50」12.7mm 対物狙撃銃、(重)機関銃、RPG-7、対戦車ミサイル、そして守備隊の夜間戦闘能力を向上させるためのロシア製AKM用暗視装置が多数含まれていました。

 基地に配備された26門の対空砲(このうち2門は近隣の「S-125」陣地から回収したもの)が重火力を形成しているものの、基地には戦車や火砲は配備されていません。このために守備隊は創意工夫を余儀なくされ、4つの対空陣地から調達した 「ZPU-4」14.5mm機関砲や 「ZU-23」23mm機関砲、「 AZP S-60」57mm機関砲を、戦術的効果を最大化するため基地の全域に戦略的に配置しました。中には基地に設けられている11基の航空機用強化シェルター(HAS)の屋上に設置された例さえあったほどです。興味深いことに、ほとんどの「ZPU-4」は4門ある砲身のうち2門が取り外され、その後、重火器がカバーできる範囲を拡大するためにDIY式の架台に装備されました(編訳者注:これは「ZPU-4」をそのまま配置するより機関砲を2門ずつに分けて配置した方が有効と判断したものと思われる)。


 この基地を取り囲む平坦な地形は防衛側に極めて有利であり、この戦術的優位性によって、ISIL戦闘員は基地に到達するために遮蔽物の少ない広大な野原を駆け抜けざるを得なかったのでした。この優位性は特に北、東、南側で際立っていました。驚くべきことに、ISIL戦闘員がまさに北東の角を攻撃したのです。ISIL部隊は強化シェルター2基の占領に成功したものの、すぐに撃退されてしまいました。下に3枚ある「AZP S-60」陣地の画像は皆さんに平坦な地形の様子を明らかにしています。そして、広大な野原を突破しようとした場合、多大な犠牲を払うことになることもはっきりと示しているのではないでしょうか。




 基地の防御をさらに強化するため、守備隊は北側と東側に配置された11基の強化シェルターを最大限に活用しています。これらは文字通り要塞と化し、屋上に対空砲か重機関銃が備えられているのが一般的です。もちろん、大型爆弾の直撃にも耐えられる構造となっているため、仮にISILが砲撃でこれを破壊を試みたとしても無駄でしょう。強化シェルターとその周辺に設けられた塹壕は、割り当てられたルートの守備を任された兵士たちの隠れ場所となります。シェルター内に大量の弾薬が備蓄されているため、これを奪取しようとする試みは極めて困難な任務となるはずです。さらに、基地の至る所に築かれている巨大な砂の土塁が守備隊の動きを覆い隠しているため、各部隊への補給も容易にさせる効果をもたらしています。さらに、守備隊は「ZU-23」対空機関砲と重機関銃を装備した複数のテクニカルを運用しています。これらを装備した部隊は即応部隊として活用されており、必要に応じて基地内のいかなる地点にも展開可能です。

 忘れてはいけないのは、この空軍基地はすでに2年半前から完全に包囲されており、守備隊には防御体制を完璧に整える十分な時間があったということでしょう。主にISILによって実行された無数の小規模な攻撃は、守備隊が基地の防備を適切に維持する方法を学習する上での助けとなったに過ぎません。



 基地の西側に位置する軍用住宅エリアでも激しい戦闘が続いており、その様子は下の衛星画像でも確認できます。ISILによる激しい砲撃でこの団地の大部分が破壊され、残存する建物や塹壕では家から家へと激しい戦闘が繰り広げられているのです。下の画像の団地複合施設は基地西側を防御する上での要衝となっているため、守備隊は団地を維持するためにリソースを投入し続けねばならない状況に陥っています。そうしなければ、基地全体が危険に晒されるリスクを負うことになってしまうからです。



 軍用住宅エリアが死守できない場合、第二(かつ最終)防衛線でISIL戦闘員を食い止めて、空軍基地への流入を妨げなければなりません。(下の衛星画像に見える)この最終防衛線も、要塞化された建物、塹壕、対空機関砲、重機関銃で構成されています。


 クワイリスは完全に包囲されているものの、アレッポ東部に駐留するシリア軍とNDFは、理論上は空軍基地が制圧されるのを防ぐための攻勢をかけることが可能です。しかし、既に疲弊しきったアレッポの部隊がそのような攻勢を実行する可能性は極めて低いでしょう。なぜならば、クワイリスには貴重な人的資源と戦力を浪費するほどの戦略的価値が単純に存在しないからです。

 空軍基地があまりにも危機的な状態に陥った場合、守備隊はアレッポ方面への突破を試みる可能性が高いと思われます。その際には空軍の戦闘爆撃機やヘリコプターの支援を受けることでしょう。

ISILがクワイリス空軍基地守備隊に撒いたビラ

 クワイリス守備隊が本当に制圧されることを認識させるため、ISILは彼らに悔い改める機会を与え、大量処刑の運命から救われると説くビラを作成しました。

 ”アッラーは汝らが剣によって殺されねばならぬと定められた。我らは汝ら一人たりとも容赦せぬことを誓う。ゆえに悔い改め、この背教者の政権と決別せよ。我らがそちらへ赴く前に降伏するならば、汝らの悔い改めを受け入れようぞ。その時となれば暴君(アサド)は汝らを救えぬ。タブカ空軍基地の戦友たちが迎えた末路を心に刻むがよい。

 以下の電話番号を通じてイスラム国の者たちに連絡されよ:
 0937699604
 0935007806
 WhatsApp: 00905378489193”


 守備隊の兵士がISILへの投降を真剣に考えることはまず起こり得ません。クワイリス基地の士気は依然として高く、その大半がすでに4年以上も共に生活してきた兵士たちは、ISILに降伏するよりはむしろ死ぬことを選ぶでしょう。


 2015年5月7日、戦死した戦友たちをコラージュした画像がある守備隊員によって公開されました。これまでに戦死した11名の追悼を目的としたもので、クワイリス基地の司令官であるアル・ムハンナ将軍も含まれています。


 もちろん、シリア内戦は(執筆当時)4年に及ぶ戦闘の中で、どの勢力がどの戦闘で勝利するかという特定の予測がいかに誤りになり得るかを何度も示してきました。しかしながら、本記事で概説した基地の守備隊に有利な大規模な防衛体制やその他の要素を考慮すると、クワイリス空軍基地が近い将来にISILの手に落ちることはないと予想されます。



 結論から言えば、ISILによるクワイリス空軍基地へのあらゆる動きも、軍事戦略というよりシンボリックな勝利の必要性から生じています。仮にISILのクワイリス攻撃が一部の情報源が主張する通り大規模なもので戦闘員が基地の占領に成功した場合、それは彼らが求めているものをほぼ確実に実現させることになるでしょう。


 お知らせ2025年7月に上記本の改訂・分冊版である「The Armed Forces of North Korea Volume 1: Part 1: Korean People's Army Ground Forces Organisation, Strategy and Infantry」が発売されました。残りの巻も完成次第発売される予定です(記載情報は2025年現在のものにアップデート済み)。
 お知らせ2:2025年10月に「Volume 1: Part 2(陸軍AFV)」が発売されました。 
 
お知らせ3:2025年12月に「Volume 2(空軍)」が発売されました。
 お知らせ4:2026年2月に「Volume 3(海軍) 」が発売されました


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2026年4月4日土曜日

永遠に残り続けるために:BEAの「A300」

Image 1 by Matteo Lamberts

著:シュタイン・ミッツアー と ヨースト・オリーマンズ(編訳:Tarao Goo)

 この記事は、2021年5月12日に本ブログのオリジナル(本国版)である「Oryx-Blog(英語)」で公開された記事を翻訳したものです。 意訳などにより、僅かに本来のものと意味や言い回しが異なっている箇所があります。

 飛行機でイスタンブールのアタテュルク国際空港に着く際、右側の座席に座ったことのある人なら、ヘッダー画像に写っているこの航空機を見たことがあるはずです。イェシルキョイ近くの空港の片隅には、3機の青と白のエアバス「A300」が、まるで近い将来に必ず訪れるであろう解体処分を待っているかのように佇んでいます。初めてアタテュルク空港に着陸して以降、私はこの3機に関心を抱き続けてきました。なぜあそこに駐機されているのでしょうか?この塗装でどれくらいの期間運航され、どうして退役することになったのでしょうか?

 こうした疑問がずっと私を悩ませていましたが、ついに先日、いつの日かこれらの「A300」が解体されて人々の記憶から消え去ってしまう前に記事として残すべく、できる限りの情報を集めることに決めました。

 日頃の軍事分析を求めている一般の読者にとっては、この記事は必ずしも期待通りの内容ではないかもしれません。しかしながら、民間航空や激しい競争で知られる業界で事業を営む航空会社や旅客機が直面する過酷な運命に深い関心を抱いている方々にとって、この記事はまさにうってつけの内容となるでしょう。今回は、ボスポラス・ヨーロピアン・エアウェイズ(BEA)が保有する3機の「A300」にまつわるものです。


 BEAは2001年にチャーター航空会社として設立され、2002年3月に、座席数298席、貨物積載量約10トンのエアバス「A300B4」旅客機3機の運航を開始しました。[1] 

 「TC-COA」、「TC-OIM "カーン"」、「TC-OYC"ハーカン"」の3機は、2001年12月にBEAが入手した時点で、すでに製造から約20年が経過していました。これら3機全てが1980年代初頭にスカンジナビア航空(SAS)に納入された後、デンマークのチャーター航空会社であるスカンエア、コンエアー、プレミエアへと引き継がれるという過去を持っています(その間に、別の複数の航空会社にもリースされていました)。[2]


 「A300」がBEAに引き渡されてからの数か月間は、2002年の行楽シーズン開始を見据え、乗務員が同機への習熟を図るための訓練に費やされたと推測されます。チャーター航空会社であるBEAにとって最も重要な顧客層は、トルコ沿岸の行楽地を訪れる観光客やヨーロッパ各地でのサッカーの試合を観戦するファン、そしてヨーロッパで働くトルコ人でした。BEAは、その短い歴史の中で、ドイツ、オランダ、スイス、フランス、イギリス、キプロス、イラン、イラクを含むヨーロッパや中東の都市へのフライトを運航していたことが確認されています。[1] [3]

 BEAにとって残念だったのは、1990年代から2000年代初頭におけるトルコのチャーター航空会社の平均寿命は極めて短いものだったことでしょう。例えば、その僅か7年前(1995年)には、アクデニズ・エアラインズも「A300」を3機導入してチャーター航空事業への参入を試みています。1995年6月に大きな期待を胸に運航を開始したものの、たった6か月つまり1995年12月には運航停止となってしまったのです。[4] 

 BEAの運命も例外ではなく、その活動も資金が底を突くまでの僅か6か月(2002年3月から8月まで)で終わってしまいました。結果的に、BEAの功績と呼べるものは、「A300」が空を飛んでいた時よりも地上で放置されていた時に撮影された写真の方が多いという、奇妙な記録を残したことぐらいに過ぎません。

 フランクフルト空港における「TC-COA」。背景には巨大な「C-5  "ギャラクシー"」輸送機が駐機している。そこにまだラインマイン米空軍基地が存在していた時代のことだ。

マンチェスター国際空港に着陸寸前のTC-OIM "Kaan"」

 2002年の夏休みシーズンが終わりに近づくのと時を同じ頃、BEAの運航業務も終わりを迎えました。同社の保有機はアタテュルク国際空港で長期保管に入りましたが、結局BEAは2004年に正式に事業終了に追い込まれてしまいました。業務停止から事業終了まで2年もかかりましたが、この期間は新たな投資家による事業の再始動という、ごく僅かな可能性に賭けるために設けられていたものと思われます。

 しかしながら、年月を重ねるにつれて、その見通しはますます不透明なものとなっていきました。当初、「A300」はアタテュルク空港の整備棟の前に数機の放置された航空機と共に保管されていたものの、時が経過するにつれて、機体の状態と運命は次第に絶望的なものと化していったのです。



 3機の「A300」については、BEAの事業再開や他社による買収に備えて直ちに再稼働できるよう保管されていたものの、最終的にエンジンを覆っていたカバーまでもが取り外され、機体はトルコの気候に完全に晒された状態となってしまいました。
 なお、この時期でもエンジンカバーには依然として「SAS」の文字が記されていました。同機が元オーナのスカンジナビア航空で使用されたのは1981年から1983/1984年までです。[2]


 興味深いことに、「TC-OYC "ハーカン"」は保管されるという事実上の放棄を逃れ、2003年8月にトルコのチャーター航空会社であるフライ・エアに2か月間リースされ、その後2003年10月にはスーダン航空に数週間(!)リースされたとのことです。[2]

 後者の運用において、この機体はスーダン航空のマーキングを施されたものの、尾翼のBEAの塗装と文字はそのまま残されました。これは、BEAの機体がたどる「忘却の彼方までの長い道のり」で唯一の救いとでも言うべきものでしたが、最終的にアタテュルク空港の格納庫で保管されていた他の2機のもとへ戻ることになったのはまさに悲劇と言えるでしょう。

 2015年には、整備棟前のスペースを空けるために3機全てが現在の場所へ移動されました。


 2017年には「TC-OYC "ハーカン"」のノーズコーンが撤去された:左手前はCATカーゴで運用されていた「An-12 (TC-KET)」だ。

 ここ数年のうちに、2機の「A300」の尾翼にあった馴染み深い青色の塗装とBEAの文字が消去されました。この措置の正確な理由はいまだに不明ですが、2021年1月に3機全てが1機あたり73,954ドル(当時のレートで約770万円)で競売に出されたことが判明しています。[5]


 現在のアタテュルク空港は民間旅客便の運航を停止しており、貨物便、ビジネス便、VIP機のみが運航されています。それでも、空港の前を車で通りかかると、長年の放置にもかかわらずその威容を損なうことなく高くそびえ立つ尾翼が必ず目に入ってくるはずです。

 見捨てられ、忘れ去られた彼らが二度と空を飛ぶことはないでしょう。風変わりなキョフテ料理店として第二の人生を送ることも望み薄そうです。それでも、こうしてこの記事で永遠に記録された以上、スクラップヤードの掘削機の爪がどんな最悪な最期を与えたとしても、BEAの「A300」が忘れ去られることはないでしょう。

image by Ivica Ramljak

[1] https://web.archive.org/web/20020719232036/http://www.bea-air.com/
[2] https://www.planespotters.net/airline/Bosphorus-European-Airways
[3] https://www.airliners.net/search?airline=13001&display=detail
[4] Akdeniz Airlines https://en.wikipedia.org/wiki/Akdeniz_Airlines
[5] Istanbul-Atatürk versteigert herrenlose Flugzeuge https://aviation.direct/istanbul-atatuerk-versteigert-herrenlose-flugzeuge?print-posts=pdf


 お知らせ2025年7月に上記本の改訂・分冊版である「The Armed Forces of North Korea Volume 1: Part 1: Korean People's Army Ground Forces Organisation, Strategy and Infantry」が発売されました。残りの巻も完成次第発売される予定です(記載情報は2025年現在のものにアップデート済み)。
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 お知らせ3:2025年12月に「Volume 2(空軍)」が発売されました。
 お知らせ4:2026年2月に「Volume 3(海軍) 」が発売されました

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2026年3月8日日曜日

世界最初の(金で輝く)VIP用ジェット機:サウジ王室のデ・ハビランド DH.106 コメット4C


著:シュタイン・ミッツアー と ヨースト・オリーマンズ(編訳:Tarao Goo)

 この記事は、2022年12月25日に本ブログのオリジナル(本国版)である「Oryx-Blog(英語)」で公開された記事を翻訳したものです。 意訳などにより、僅かに本来のものと意味や言い回しが異なっている箇所があります。

 当ブログで "世界一醜いエアフォースワン":ガンビアのジャメ大統領のひどく装飾された「Il-62」を紹介したので、今度はその正反対にするする存在を紹介する時が来ました。[1]

 鋭い目を光らせる航空愛好家ならすでに気づいているかもしれませんが、ヘッダー画像の立派なデ・ハビランド 「コメット4C」は、サウード・ビン・アブドゥルアズィーズ・アル・サウード国王用のサウジ・ロイヤル・フライト(王室専用機)として飛んだものです。

 金で埋め尽くされたVIP用の客室と際立つ金・緑・白の配色で装飾が豪華に施されたこの機体は、世界初のエグゼクティブジェットでした。残念ながら、この機体の美しさは長くは続くことはありませんでした。なぜならば、1963年にアルプスで発生した墜落事故で短い生涯を終えたからです。

 プロペラ機が依然として空を支配していた時代、しかもそれが国家元首の主要な移動手段であった時代に、金ピカのデ・ハビランド・「コメット4C(SA-R-7)」は、どこに降り立ってもまさに目を奪われる存在でした。しかし、サウジ・ロイヤル・フライトがこの機体を導入したことは、それまでこの王国で同型機が使用されたことがなかっただけに、奇妙な決断だったと言えます。実際、当時の国営航空会社(注:現サウディア)は新型の「ボーイング720B(汎用機である「ボーイング707」の小型派生型)」を2機導入したばかりで、中東で旅客ジェット機を運航する4番目の航空会社となったばかりだったのです。ちなみに、「コメット4C」と「ボーイング720」の航続距離は約5,500kmでほぼ同等でした。

 サウード国王の「コメット4C」の機内についてはほとんど知られておらず、残念なことに機内を撮影した写真は一切残されていません。知られているのは、機体前部に国王専用として華やかに装飾されたVIP用のキャビンが設置されていたことです。これは機内で最も静かなエリアで、主翼基部に収められた4基のロールス・ロイス「エイヴォン」ジェットエンジンのかなり前方に位置していました。加圧キャビンの中部と後部は側近用でした、おそらく黄金のトイレも備わっていたかもしれません。

サウジアラビアの「コメット4C」の塗装図。右側に初期バージョンのサウジアラビア国旗が確認できるが、珍しいことに剣が1本ではなく2本描かれている(注:国旗ではなく国章やサウード家の紋章という可能性もあるが、リサーチ不足のため不明)。

 イギリスのデ・ハビランド「コメット」は、1952年にデビューした当時は世界初の民間ジェット旅客機でした。しかし、就航から1年以内に大きな悲劇に見舞われました。3機のコメットが、金属疲労と機体への過負荷による構造破壊を原因とする空中分解事故で墜落したのです。[2]

 言うまでもなく、解決策が見つかるまで同機種は運航停止となりました。その結果、「コメット」は大幅な設計変更がなされてジェット旅客機製造における貴重な教訓をもたらしたものの、その代償として、他社メーカーに対する優位性が失われてしまいました。と言うのも、競合他社が「コメット」から得た教訓を迅速に自社ジェット旅客機(「ボーイング707」と「DC-8」)の設計に反映させたからです。

 再設計は最終的に大幅な改良を施した「コメット4」へと発展し、1958年のデビューから旅客機としての運用は1981年まで続き、研究プラットフォームとしての使用は1997年まで続けられました。「コメット4」はホーカー・シドレーの「ニムロッド」対潜哨戒機(MPA)のベース機ともなり、「コメット」初飛行から60年以上経った2011年までイギリス空軍で運用されたのです!「コメット」の機首部とコックピットの設計は、フランスのシュド・アビアシオン製ジェット旅客機「カラベル」に採用されています。

 商業的な成功を収めることはなかったにせよ、「コメット」がジェット旅客機の発展に多大な影響を与えたことについては疑いの余地がありません。

「コメット」のスマートなラインについては、このフランスUAT航空の「コメット1A」で十分に実感できる。注目すべきは側面の四角い窓で、窓周辺の構造が機体に深刻な負荷を与える原因と判明したため、後に楕円形の窓に交換された。

 サウジ・ロイヤル・フライトは、VIP用「コメット(4C)」唯一の運用者と終わる運命にありました。悲しいことに、この機体は初期のコメットと同様の不運に見舞われ、初飛行から僅か1年後に墜落したのです。ジュネーブ(スイス)発ニース(フランス)行きのコメットは、標高2,700mでイタリアアルプスのモンテ・マットに激突、機体は完全にバラバラとなり、サウード家の関係者10名を含む乗員乗客18名全員が死亡しました(国王は搭乗しておらず無事)。[4]

 この機体の残骸は今日まで山頂に残されており、60年前にこの地で起きた悲劇を恒久的に伝える遺構となっています。[3]

イタリア アルプスには「コメット4C (SA-R-7)」の残骸が今なお残っている

 アル・サウード国王の「コメット4C」の残骸だけが同機のレガシーではありません。現代のサウジアラビア政府専用機には、1960年代初頭の「コメット4C」にルーツを持つ塗装が施された機体が数多く存在しています。

 サウジアラビアは軍民問わず飛行機に人目を引く塗装を施す国としても有名です。おそらく最も美しい(少なくとも筆者の意見では)ものは、1980年代から1990年代にかけてサウディア(旧サウジアラビア航空)が使用した塗装でしょう。現在は機体表面の半分以上がサンドカラーに置き換えられてしまいましたが、旧塗装の意匠は特別に装飾された「ボーイング777-300ER」に受け継がれています


サウジアラビア政府のVIP専用機「ボーイング BBJ 787-8 "ドリームライナー"」

 現在では主にボーイングとエアバス機で構成される大規模なVIP専用飛行隊を運用するサウジアラビアですが、王室のために使用された同国初のエグゼクティブVIP機の物語は、すっかり忘却の彼方へと消え去りつつあります。デ・ハビランド「コメット4C」が初飛行から僅か1年で墜落したにもかかわらず、その象徴的な塗装(そして間違いなく金メッキの内装)は、最後の飛行から60年を経た今も、後継機の中に生き続けているのです。


[1] Behold The World’s Ugliest Presidential Jet: The Gambia Air Force One https://www.oryxspioenkop.com/2022/12/behold-worlds-ugliest-presidential-jet.html
[2] Why You Wouldn't Want to Fly The First Jet Airliner: De Havilland Comet Story https://youtu.be/v0Cg2ZeYa5E
[3] de Havilland DH-106 Comet 4C - SA-R-7 https://aviation-safety.net/database/record.php?id=19630320-0
[4] Crash of a De Havilland DH.106 Comet 4C on Mt Matto: 18 killed https://www.baaa-acro.com/crash/crash-de-havilland-dh106-comet-4c-mt-matto-18-killed


 
 お知らせ2025年7月に上記本の改訂・分冊版である「The Armed Forces of North Korea Volume 1: Part 1: Korean People's Army Ground Forces Organisation, Strategy and Infantry」が発売されました。残りの巻も完成次第発売される予定です(記載情報は2025年現在のものにアップデート済み)。
 お知らせ2:2025年10月に「Volume 1: Part 2(陸軍AFV)」が発売されました。 
 お知らせ3:2025年12月に「Volume 2(空軍)」が発売されました。
 お知らせ4:2026年2月に「Volume 3(海軍) 」が発売されました

2026年1月16日金曜日

つつましやかな始まり:トルコ航空の「Ju 52」


著:シュタイン・ミッツアー と ヨースト・オリーマンズ(編訳:Tarao Goo

 この記事は、2021年4月5日に「Oryx」本国版 (英語)に投稿された記事を翻訳したものです。意訳などにより、僅かに本来のものと意味や言い回しを変更した箇所があります。

 トルコ航空(ターキッシュ・エアラインズ)は世界最大級の航空会社の一つであり、世界で最も多くの便を運航しています。今では350機以上のエアバスとボーイングの旅客機を運用し、国内・国際線合わせて約300の航路で運航させているのです。1933年に国内の4路線で始まった会社が2003年には103路線まで持つまでに拡大したことから考えると、飛躍的な成長を遂げたと言えます。過去1世紀にわたってトルコ航空は数多くの航空機を運航してきましたが、その全部が今の機体ほど注目を浴びてきたわけではありません。その目立たなかった機種の一つがドイツの「Ju 52」です。この機体は、トルコでの運用中に画像や映像で記録された事例が極めて稀でした。

 ユンカース「Ju52」は史上最も有名な航空機の一つです。1930年代初頭のドイツで(当初は)民間市場向けの単発旅客機として設計されたこの飛行機は、すぐに3発機として再設計され、現代の私たちが知る「Ju52」となりました。このエンジンの配置のおかげで、「Ju52」はすぐに世界中の航空会社で評判を得て南米やアジアまで旅客便を運航することになったわけです。第二次世界大戦が差し迫る中、多くの「Ju52」がドイツ空軍に爆撃機や輸送機として導入されたことは誰もが知るところでしょう。

 「Ju52」が最初に投入された主要な作戦は、1940年4月のデンマーク侵攻における空挺部隊の輸送任務です。デンマークはドイツの侵攻が迫っているという情報をキャッチしていたものの、完全に油断していたため、武力での抵抗を開始してから僅か2時間で降伏してしまいました。この驚異的な戦果に勇気づけられたドイツ空軍は、それから1か月後のオランダ侵攻においてこの成功の再現を試みようとしました。ところが、歴史の必然として、オランダの空は彼らにとって特に過酷なものとなったようです。結局、数日間の間に約250機の「Ju52」が失われました。[1] [2]

 1940年までに既に著しい旧式化が進んでいたにもかかわらず、「Ju52」は第二次世界大戦終結までドイツ空軍の主力輸送機として活躍し続け、ドイツ軍が戦っていたほぼ全ての戦場に兵士と物資を輸送しました。「Ju52」の後継機としてより現代的な機体(「Ju252」と「Ju352」)の開発が試みられましたが、「Ju52」の生産は1944年まで続けられたのです。戦後の生産については、フランスでアミオ「AAC.1 トゥーカン(1945-1947)」として、スペインでは「CASA 352(1945-1952)」として続けられ、旅客機や軍用輸送機として1970年代初頭まで使用されたことが知られています。

 しかし、今回のテーマを始めるには、そこから数年 – つまり、5機の「Ju52」がイスタンブールのイェシルキョイ空港に着陸した 1944年4月2日– に遡らなければなりません。ドイツのハーケンクロイツを施されたまま到着したおかげで、この機体の売り手について疑問の余地を残さなかったようです。その後、これらの「Ju52」はトルコ航空(Türk Hava Yolları)の前身である国営航空(Devlet Hava Yolları:DHY)で就航を開始しました。[3]

 トルコにおける「Ju52」の運用に関する情報は極めて少なく、機体の写真もほとんど残っていません。


 国営航空は、1933年5月20日にトルコの主要な人口密集地を結ぶ国内線の航空会社として設立されました。当初はドイツのユンカース「F13」2機や同数のアメリカ製カーチス「モデル55 "キングバード"」、そして1機のソ連製ツポレフ「ANT-9」といった多種多様な航空機を導入したものの、国内航空の需要増加に伴ってDHYの保有機リストが拡大し、1930年代後半から1940年代初頭にかけて、イギリスから4発エンジンのデ・ハビランド「D.H.86 "エクスプレス"」を含むデ・ハビランド機を調達しました。[4] [5]

 ところが、第二次世界大戦中に連合国が航空機の供給を拒否したことにより、トルコは自身に航空機を調達する意欲のある供給源:つまりドイツに頼らざるを得なくなったわけです。

この美しいイラストは1946年4月の航空便の時刻表の表紙に描かれたものだ:トルコの農村上空を飛ぶDHYの 「Ju52」が描かれている。




 第二次世界大戦の大部分で、トルコは隣国のギリシャやブルガリア、カフカス地方のみならず中東が瞬く暇もなく戦争に引きずり込まれていく中で、中立をどうにか維持し続けました。結局、この国の中立は1945年2月まで続き、トルコはついにドイツと日本に対して宣戦布告して連合国に加わることで中立に終止符を打ちました。ちなみに、その約1年前の1944年4月の時点でトルコはドイツへのクロム鉱石の輸出を停止し、続く同年8月には国交と貿易を完全に断絶しています。

 鋼の生産に用いられるクロム鉱石は、ドイツの軍事産業を維持するために極めて重要な役割を果たしていました。この貴重な資源の供給を保証する見返りとして、ドイツはトルコに対して連合国から入手する見込みがほぼ完全にない物資や軍備を提供していました。したがって、「Ju52」がこうした条件での取引を通じて入手された可能性は高く、土独関係が完全に断絶する直前に受け取った最後の兵器だったことも想定されます。

 1944年4月にトルコに到着した「Ju52」については、尾翼の大きなハーケンクロイツやその他のマーキングは急いで塗りつぶされ、必要最小限の塗装に塗り直されました。これらの機体の旧塗装を見ると、少なくとも一部の機体がナチス・ドイツの国営航空会社であるドイツ・ルフト・ハンザによって運用されていたことを示しています。一方、新たに導入した「Ju52」は乗客を約17名しか乗せることができなかったものの、それでもDHYの主力機となっていた大多数のデ・ハビランド機よりも2倍のペイロードを有していました。

 下の画像は、トルコ軍で運用された「Ju52」の現存する数少ない写真です。この機体には、機体番号「TC-RUH」と尾部に「18」のシリアル番号、そして(トルコ国旗の一部と推定される)三日月のマークが確認できます。また、別の写真(ヘッダー画像)の機体には、機首側面の窓の下に「Devlet Hava Yolları」のステッカーが貼られている姿が一目瞭然となっています。

 第二次世界大戦中におけるDHYの「Ju52」はトルコ国内の路線だけで運航されていたため、トルコの所属を示す大きな旗や目立つ識別マークは不要だったようです。1940年代後半にアメリカから供与されたダグラス「DC-3」に置き換えられるまで、引き続きこのシンプルなカラーリングのまま運用されていた可能性はおおいに有り得るでしょう。


 「Ju52」には別の塗装が施された可能性も否めません。ただし、こちらの根拠はより信憑性の低い情報が由来です:下にある、1946年にトルコ赤新月社が発行した記念切手を見てください。この切手には、翼と機体に大きな赤い新月マークを付けた「Ju52」が医療搬送機として描かれています。[6]

 トルコの「Ju52」が実際にこのような塗装で運用されたのか、あるいは切手用に特別にデザインされた架空の塗装であるかは不明ですが、後者の方が可能性が高いと考えられます。


 ユンカース「Ju52」は別として、2種類のユンカース機:「G24」とより小型の「F13」が戦間期のトルコで運用されていました。「G24」は「Ju-52」の精神的な先駆者と言える存在で、似たような3発エンジンの配置と波型外板を特徴とした機体です。興味深いことに、トルコで運用された唯一の機体は実はトルコが所有していませんでした。というのも、1920年代半ばから後半にかけてユンカースが実施した(最終的に失敗した)マーケティングキャンペーンの一環として運用されていたからです。[7]

 その一方で、3機の「F13は」1930年代後半に退役するまで、旅客機や連絡機、空中探査機、郵便機として運用されたことが記録されています。[9]

 一時期、トルコ初の航空機製造工場であるトムタシュ(Tayyare ve Motor Türk Anonim Şirketi)で約20機の「F13」の生産が計画されましたが、財政難によりこのプロジェクトは中止に追いやられ、最終的にTOMTAŞが倒産するという形で国内航空産業の有望なスタートは残念な終わりを迎えました。[8]


トルコの国籍マークが施されたユンカース「G24」:実際にはトルコがこの機体を所有したことはなかったが、同国で1925年から1927年までの約2年間運航された。

 トルコにおける「Ju52」の運用期間は僅か数年と短かったかもしれません。しかし、この機体はトルコの航空産業の humble beginnings( つつましやかな始まり)の物語において際立つ章を刻んだ機体であり、後世に語り継ぐ価値のある物語の断片です。そのつつましさは長く続きましたが、約30年後、トルコ航空は3発エンジン搭載の旅客機:「DC-10」を運航する最初の航空会社の一つとなりました。

 現在、この国は航空宇宙分野のパイオニアとして、多種多様な先進的な航空機やその試作機を生産しています。ただし、「TRジェット」計画を通じて国産旅客機の生産を目指す取り組みは2017年に中止されました。しかし、忘れ去られた過去にたった数機の「Ju52」を運用していた時代から(イスタンブールの交通渋滞を実際に体験した人なら、その価値を高く評価するであろう)バイカルの「ジェゼリ」のような開発に至るまでの驚くべき進化は、つつましやかな始まりは偉大さの誕生を予感させるということを私たちに教えてくれます。

ジェゼリ・フライングカー

[1] Mei 1940 - de verdediging van het Nederlandse luchtruim http://www.bataafscheleeuw.nl/db/main/assortiment/index.php?book_id=514
[2] De gebroken vleugel van de Duitse adelaar https://uitgeverijaspekt.nl/boek/de-gebroken-vleugel-van-de-duitse-adelaar/
[3] 1/48 Revell Ju-52 3/m TC-RUH Turkish Airliner https://www.aircraftresourcecenter.com/Gal3/2701-2800/Gal2785-Ju-52-Gerdan/00.shtm
[4] Turkish Airlines History http://www.thy-heritage.com/history/
[5] Turkish Airlines Fleet http://www.thy-heritage.com/flit/
[6] Kızılay uçak resimli pullar, Sanayi Kongresi ve ilk uçuş zarfları https://pulveposta.com/2018/02/11/kizilay-ucak-resimli-pullar-sanayi-kongresi-ve-ilk-ucus-zarflari/
[7] 1/72 Plastikart Junkers G 24 https://www.aircraftresourcecenter.com/Gal3/2901-3000/Gal2904-Ju-G24-Gerdan/00.shtm
[8] JUNKERS F13 Limuzin http://www.tayyareci.com/digerucaklar/turkiye/1923ve50/junkers-f13.asp
3枚目の画像: Gökhan Sarigöl via Stuart Kline.

2025年に改訂・分冊版が発売予定です(英語版のみ)

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