2026年7月16日木曜日

そして近代へ:イスタンブールの都市史を形づくった通勤列車


著:シュタイン・ミッツアー と ヨースト・オリーマンズ(編訳:Tarao Goo)

 この記事は、2023年9月6日に本ブログのオリジナル(本国版)である「Oryx-Blog(英語)」で公開された記事を翻訳したものです。 意訳などにより、僅かに本来のものと意味や言い回しが異なっている箇所があります。

 わが国を世界で最も繁栄し、文明化された国々の水準にまで引き上げよう (ムスタファ・ケマル・アタテュルク)


 イスタンブールの大陸間を結ぶマルマライ線は、現代のシルクロードとして称賛されています。ボスポラス海峡の下を走るトンネルを通じてイスタンブールのヨーロッパ側とアジア側を結ぶマルマライ線は現代技術の賜物であり、多数の駅を網羅し、地下鉄やトラム、バス高速輸送システム(BRT)などの他の交通機関との接続を実現することで、イスタンブール全域の交通網を劇的に改善したのです。全長76.6kmの路線には43の駅があり、そのうち14駅がイスタンブールのヨーロッパ側に位置しています(編訳者注:ボスポラス海峡横断地下鉄整備事業について、日本政府は円借款を1999年より供与したほか、海底を横断するトンネル建設については、大成建設がトルコ企業との協力のもと取り組んだ。しかし、トルコ側はトンネルの追加工事費用を大成建設に今も未払いのままであることも記してしておく

 あまり知られていないことですが、マルマライ線はイスタンブールの都市公共交通における最初の革命ではありません。1955年12月、トルコ初の電化鉄道として開通したイスタンブール・ハルカリ線が初の革命と言えます。同路線は、ヨーロッパで最も早く電化された25kV交流路線の一つにしてトルコ初の通勤路線でもありました。技術的な詳細については割愛しますが、25kV交流電化は、高速鉄道や通勤路線のような利用頻度の高い路線に最適なものです。それまで25kV交流電化は広く普及していなかったものの、その後、世界中で急速に普及しました。

 トルコ国鉄(TCDD – Türkiye Cumhuriyeti Devlet Demiryolları)は、フランスのアルストム社が設計した「E8000」系電車(EMU)28編成を購入し、イスタンブール・ハルカリ線での運行に投入しました。[1]

 これらの車両はフランスのアルストム、デ・ディートリッヒ・フェロヴィエール、ジュモン社によって製造されたものです。「E8000」系は当時としてはかなり近代的な車両で、丸みを帯びた前面形状を採用し、電子設備は車体の下部に配置されているという特徴がありました。その頑丈さにより、1970年代のイスタンブールにおける急速な人口増加に伴う過酷な使用にも耐えることができたのです。

 1979年以降、「E8000」系はアルストム社が設計し国内のTÜVASAŞ(トゥバサシュ)が製造した「E14000」系の導入で更新され始め、続く2010年には、(トルコと韓国の合弁企業である)ユーロテム社によって設計・製造された「E23000」系が導入されました。[2]

 「E23000」系は、2014年にマルマライ線の建設のためにイスタンブール・ハルカリ線が廃止されるまで、さらに4年間同線で運行されました。マルマライ線は、ビザンチン時代の遺跡が発見されたことにより4年の遅れが生じたものの、2019年に本格運行が開始されたことは周知のとおりです。

 ちなみに、マルマライ線は、イスタンブールのハルカリ線と1969年に電化されたアジア側のハイダルパシャ・ゲブゼ線を結んでいます。


イエディクレ駅を通過する2両編成の「E8000」系 EMU:1956年4月撮影

 「E8000」系と共に、同じ仏アルストム社が設計・製造した「E4000」系電気機関車3両も導入されました。[3] [4]

 「E4000」系はトルコで初めて就役した電気機関車として知られています。1955年までは、全旅客列車と貨物列車が環境汚染の原因である蒸気機関車によって牽引されていたのです。この電気機関車は、ハルカリ駅で特急列車や貨物列車を引き継いでイスタンブールへの最終区間を走行することを目的として導入されたものであり、沿線の地域における大気汚染の低減に大きく貢献しました。[4]

 「E4000」系が運行された全長28kmのイスタンブール・ハルカリ線は平坦な路線であったため、往復の短い区間では高速走行は必要とさていなかったようです。その結果、この機関車の設計は比較的シンプルなものとなり、変圧器から直接給電される単相交流モーターを採用していましたが、この技術はすぐに時代遅れとなってしまいました。1957年までに直流式電機機関車の製造は終了し、それ以降、「E4000」系は技術的に時代遅れとなってしまったわけです。[3]

 この機関車は仏ポール・アルザン社によって設計されたものであり、その美しい独特なデザインは長く人びとの記憶にとどまり続けています。

「E4000」系電気機関車

 「E8000」系は、2両の動力車と1両の中間客車で構成されていました。駆動ユニット自体は、Cユニットにのみ荷物室が設けられている点を除くと全てが同じです。「E8000」系は最大3両まで連結可能で、合計で9両編成となることが可能という特徴を有していました。

 国内で製造された中間車を追加することで、この電車が4両編成に延長された時期もありました。しかし、重量の増加により、当初から低かった「E8000」系の加速性能がさらに低下したおかげで、この仕様はすぐに廃れたようです。 [2]

 イスタンブールのアジア側にあるハイダルパシャ・ゲブゼ線で短期間使用されたことを除けば、この電車は56年にわたる運用期間中、一貫してイスタンブール・ハルカリ線で運行されていました。


 1970年代以降、イスタンブールの人口は、郊外に建設された新しい工場が全国各地から労働者を呼び寄せたことで、急激に増加し始めました。人口が急増した結果、かつては郊外だった地域が急速にイスタンブール大都市圏に飲み込まれていったため、公共交通の需要が高まったことは言うまでもないでしょう。


これに加え、「E8000」系では編成が最大でも9両という点が問題となりました。列車が過密状態になり、乗客が乗り降りすするために車外に身を乗り出さなければならないような事態も時折発生したのです。


 1970年代までに、トルコの蒸気機関車のほとんどは電気機関車やディーゼル機関車に取って代わられたものの、「E4000」系イスタンブール・ハルカリ線でのみ運行され続けました。

 信頼性が低下し続け、より現代的な機関車がすでに容易に入手可能となっていたため、これらの旧式機関車は1990年代末に引退させることが決定されました。[3]

 引退後、これらの機関車はハルカリ車両基地の使われなくなった線路に放置され、2010年代半ばまでそこにありました。その後、姿が見かけなくなりましたが、同所にマルマライ線の「E32000」系電車用の新車両基地を建設されたことを踏まえると、おそらくは解体されたものと思われます。[3]


 「E4000」系は3両と台数が少ない上に整備を要する交流モーターを搭載していたため、運用の継続は非現実的と判断された一方、「E8000」系は1990年代初頭以降、少なくともあと20年は運行が続けられる予定でした。

 これらの電車はヴィンテージ風の白ベージュと赤の塗装は、窓の下に赤いストライプが入った、よりモダンな外観の白と青の塗装に塗り替えられました。しかしながら、内外装にはそれ以外の改造や改良が一切加えられず、2011年に引退するまで、1950年代当時のままの状態で運行され続けたことは特筆に値するでしょう。

 「E8000」系の大部分はスクラップとなりましたが、今日でも僅か4編成が生き残っています。


 マルマライ線のより現代的で快適な「E32000」系への更新に伴って「E8000」系が段階的に廃止されたことは、イスタンブール・ハルカリ線を日常的に利用する乗客にとって間違いなく喜ばしいことでした。「E8000」系が、イスタンブール・ハルカリ線に初めて導入された当時の斬新さを思い起こさせる存在として記憶されることを願うばかりです。

 現在のマルマライ線と同様に、イスタンブール・ハルカリ線も当時としては画期的なものであり、ヨーロッパの他の多くの都市に先駆けて、イスタンブールの公共交通機関を飛躍的に改善したことも忘れてはいけません。

 マルマライ線はこの偉業をさらに上回るものであり、2022年後半にハルカリからイスタンブール空港行きのM11号線への接続が実現すれば、イスタンブールの公共交通機関の魅力と利便性はさらに高まるでしょう。


[1] E8000 http://www.trainsofturkey.com/pmwiki.php/MUs/E8000
[2] E14000 http://www.trainsofturkey.com/pmwiki.php/MUs/E14000
[3] BB 4 000 Alsthom https://users.metu.edu.tr/tonuk/E40003/4000/
[4] E4001 to E4003 http://www.trainsofturkey.com/index.php/Traction/E4000


 お知らせ2025年7月に上記本の改訂・分冊版である「The Armed Forces of North Korea Volume 1: Part 1: Korean People's Army Ground Forces Organisation, Strategy and Infantry」が発売されました。残りの巻も完成次第発売される予定です(記載情報は2025年現在のものにアップデート済み)。
 お知らせ2:2025年10月に「Volume 1: Part 2(陸軍AFV)」が発売されました。 
 お知らせ3:2025年12月に「Volume 2(空軍)」が発売されました。
 お知らせ4:2026年2月に「Volume 3(海軍) 」が発売されました


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2026年6月19日金曜日

隠れた参戦国: トルコ軍に導入されたドイツと連合国の兵器類(一覧)



著:シュタイン・ミッツアー と ヨースト・オリーマンズ(編訳:Tarao Goo)

 この記事は、2023年9月6日に本ブログのオリジナル(本国版)である「Oryx-Blog(英語)」で公開された記事を翻訳したものです。 意訳などにより、僅かに本来のものと意味や言い回しが異なっている箇所があります。

Ancak, ulusun hayatı tehlikeye girmedikçe, savaş bir cinayettir - 国家の存亡がかかっている場合を除けば、戦争は犯罪である (ムスタファ・ケマル・アタテュルク)


 第二次世界大戦中、中立を保ち続けることは一種の芸術であり、トルコは巧みな外交によってそれを見事に成し遂げました。トルコがようやくナチス・ドイツと日本に対して宣戦布告したのは1945年2月のことだったが、それでも大戦の残りの期間において、トルコ軍が実際に参戦することはありませんでした。実際、トルコの遅い参戦は、連合国が同国を国際連合に加盟させる条件として完全なる交戦国としての立場になりことを求めたためであり、要は形式的なものに過ぎなかったわけです。

 ただし、実戦への参不加は、イギリスの側にとって間違いなく大きな失望をもたらしました。というのも、イギリスは、イタリアがギリシャへの侵攻を開始した1940年10月28日の時点で、トルコがドイツに対して宣戦布告するものと期待していたからです。この期待は、1939年10月19日にトルコ、イギリス、フランスが締結した軍事同盟に端を発するものでした。[1]

 僅か一か月前に始まった第二次世界大戦へのトルコ参戦を確実なものにしたいと考えたイギリスとフランスは、旧式化が進んだトルコ軍を大幅に近代化するため、大量の兵器を供給することを約束しました。

 アンカラは、近隣諸国のいずれにも勝るか、少なくとも同等の戦力を有する500機の近代的な航空機からなる第一線部隊の整備に、特に強い意欲を示していたことが知られています。ただし、その半数すら購入する資金がなかったため、最終的に英仏はトルコへ300機以上の最新鋭戦闘機を供給することで合意しました。

 それでもなお、トルコがイタリアやドイツのような大国と、ほぼ単独で戦うことになるとは、ほとんど予想されていませんでした。海軍力が乏しく、陸軍の大半が依然として騎馬部隊であることを踏まえると、トルコ軍が新たな装備をすべて吸収し、それらを用いた戦術を練り上げ、他の軍種と連携して展開するには、相当の時間を要するであろうことは言うまでもありません。

 予想されるトルコの戦闘能力の不足を補うため、必要が生じた場合には将来的に英仏軍を同国に派遣することが構想されました。これもあって、英仏およびトルコ軍が使用するための仮設飛行場が約95か所もトルコ全土で建設が開始されたのです。[1]

 しかし、ヨーロッパで戦争が激化する中、トルコは要望した装備の一部しか受け取ることができませんでした。

 1939年10月、トルコ空軍は、「スピットファイア」や「ハリケーン」といった戦闘機、「ブレニム」や「バトル」といった軽爆撃機を含む、計159機のの供給をイギリスに要請しました。最終的に引き渡されたのは、要望(と注文)したうちのたった半分だけでした。おまけに、この中に含まれていた「スピットファイア Mk I」は僅か2機でというありさまだったのです。[1]

 1940年にイタリアが隣国であるギリシャへの侵攻を開始した時点で、トルコ軍は自国の国境を守るのがやっとの状態であり、その地域に展開していたイタリア軍(そして後にドイツ軍)に対して攻勢に出るなど、到底考えられない状況でした。

 トルコ軍のスピットファイアとハリケーンの列(1940年):トルコが1939年に発注した15機の「スピットファイア」のうち、引き渡された2機だけだったというのは上述のとおりであるが、1939年10月にポーランドが陥落した後に同国向けだった別の1機が引き渡されたものの、3機はスペアパーツの不足で1940年12月には退役に追い込まれた。

 フランスから供給された武器の量も、トルコの期待にはほど遠いものでした。1940年初頭には、36機の「MS.406C1」 戦闘機(ヘッダー画像参照)と100台の「R-35」戦車が納入されたものの、1940年5月のドイツフによるフランス侵攻以降は納入が途絶えてしまいました。

 イギリスもまた、ダンケルクやバトル・オブ・ブリテンで甚大な損害を被った後、1940年と1941年にトルコから繰り返し寄せられた要請(その数はその間に546機にまで膨れ上がていた)に応えることができなかったのです。

 1941年にドイツがアンカラに対して「He 111爆撃機」の予備部品の供給をこれ以上行えないと通告した後、バトル・オブ・ブリテンはトルコにとって同型機の部品を入手する絶好の機会となりました。詳しく説明すると、トルコはイギリスに対して、1940年のロンドン大空襲の際に不時着した「He 111」から回収された部品を供給できないかという異例の要請を行い、ロンドン側から肯定的な回答を得たわけです。[2][3]

 戦争に関連した、あまり知られていないもう一つの動きとして、ドイツ軍による地上侵攻からイスタンブールを守るため、マルマラ海から黒海へと続く大規模な掩蔽壕と地下トンネル網が建設されたことが挙げられます。考案者であるムスタファ・フェヴズィ・チャクマク元帥の名にちなんで「チャクマク線」として知られるこの防衛線は、1940年のフランス戦で簡単に突破された「マジノ線」を参考にして構築されたものです。このプロジェクトには莫大な資金とコンクリートが投入され、要塞の建設には(当時のトルコのセメント生産量に匹敵する)推定35万トンのセメントが使用されました。[4]

 1944年にドイツ軍がギリシャから撤退した後、チャクマク線はその唯一の存在意義を失い、すぐに放棄されてしまいました。

チャクマク線のトーチカは今でも多数が残っている(画像はイスタンブール西部の個体)

 1942年以降、戦況が連合国に有利に傾き始めると、イギリス(そして、その程度は低いもののアメリカも)は、トルコからの大規模な軍需物資の要請に初めて応えることができるようになりました。この時点で、連合国はトルコの防衛能力だけでなく、トルコにおけるドイツの影響力の拡大も懸念せざるを得なくなっていたのです。

 1941年1月、アンカラが依然としてイギリスと公式に軍事同盟を結んでいたにもかかわらず、ドイツとトルコは友好条約を締結しました。ドイツ軍がソ連深部へと進撃を続ける中、ベルリンはドイツのUボートがボスポラス海峡を通過して黒海へ入る許可と、クロム鉄鉱の供給についてトルコに要請しました。アンカラは最初要請は拒否したものの、ドイツの最新鋭の装備を有利な条件で入手できることを条件に、ベルリンへのクロム鉄鉱の供給にはより前向きな姿勢を示したわけです。

 アンカラが天才的手際でベルリンとの交渉の詳細を米英側にリークしたところ、彼らはドイツを凌ぐ条件を提示しようと、急いでアンカラへ赴きました。ベルリンがこの情報を耳にすると、直ちにアンカラの条件を受け入れ、その結果、1943年に「Fw 190 A-3」戦闘機72機、「III号戦車」と「IV号戦車」が35台ずつ発注されるという結果に至っています。[5]

 ロンドンとワシントンが再びトルコを同盟に引き入れようとしていたため、連合国による大規模な武器供与も継続されました。

 1943年12月、チャーチル、ルーズベルト、そしてムスタファ・イスメト・イノニュ大統領がカイロで会談したものの、合意には至りませんでした。結果として、1944年初頭に、連合国は、アンカラがドイツへのクロム鉄鉱の輸出を停止し、空軍基地を提供するまで、武器の供給を大幅に削減し、トルコへの石油輸出を事実上すべて停止すると発表したのです。

 1944年4月にドイツへのクロム鉄鉱の出荷を停止するという要求には応じた一方で、トルコの空軍基地は依然として外部の軍隊には開放されませんでした。

 鉄鋼生産に用いられるクロム鉄鉱の輸出停止に続き、1944年8月にはドイツとの外交・通商関係が完全に断絶され、1945年2月にはベルリンに対して宣戦布告が行われました。興味深いことに、ベルリンはトルコがいずれ宣戦布告を行うことをすでに予期しており、その場合に備えてイスタンブールへの戦略爆撃を計画していました。結局のところ、トルコがどちらかの側につくという決断を下したのは、そのような報復措置が実行可能となるには遅すぎたようです(つまり、1945年2月の時点でドイツにそのような能力が残されていなかったということ)。[5]

 もしドイツが当初の計画を実行していたならば、トルコ空軍に配備されていたドイツ製「Fw 190 A-3」が、ドイツ空軍の「He 111」を迎撃したかもしれません。

 明らかに、トルコが第二次世界大戦に参加しなかったからといって、その戦時中の功績が研究対象として興味深いものではないとは限りません。このテーマに関する資料が全般的に不足していることからそう思われがちではありますが、そうではないのです。

トルコ空軍の「スピットファイアMk. Vb(左)」と「フォッケウルフ Fw 190 A-3(右)」

  1. 以下の一覧は、第二次世界大戦直前、戦中、および終戦直後にトルコへ納入された重装備を網羅することを目的としています。
  2. 以下の項目は兵器の種類ごとに分類されています(納入国を示す国旗が付いています)。
  3. 牽引砲及び対空砲はこの一覧には含まれていません。
  4. この一覧の目的は、大戦中におけるトルコの戦力を概観することではなく、1933年から1949年の間に受け入れた第二次世界大戦時代の装備という、トルコ軍のユニークな装備を紹介することにあります。
  5. 兵器の名前をクリックするとトルコで使われた当該装備の画像が表示されます。

陸軍

戦車

装甲車

自走砲
  • 49 ビショップ [1943-194?]
  • ディーコン AEC マークI ガンキャリアー [194?-194?]

空軍

戦闘機

攻撃機

爆撃機

練習機

汎用機

輸送機
  •  5 Ju-52 [1944-194?] (トルコ航空で運用)
  • ~110 C-47/DC-3 [1947-1998]

飛行艇

海軍

潜水艦
  • 1 ギュル級 [1934-1947]
  •  3 サルディライ級 [1939-1958] (1隻がナチス・ドイツ軍に接収)
  • 3 オルチュ・レイス級 [1942-1958] (WWIIで1隻が英軍に拿捕後、海没処分)

駆逐艦

掃海艦・機雷敷設艦

魚雷艇
[1] The Turkish Air Force, 1939-45: The Rise of a Minor Power https://www.jstor.org/stable/4283380?origin=JSTOR-pdf
[2] Bye Bye Berlin: Türkiye’s He 111 Bombers https://www.oryxspioenkop.com/2023/01/bye-bye-berlin-turkiyes-he-111-bombers.html
[3] The Turkish Air Force, 1939-45: The Rise of a Minor Power https://www.jstor.org/stable/4283380
[4] Another Section of the Çakmak Line of Defense in Çatalca Surfaced http://en.istanbul.gov.tr/another-section-of-the-cakmak-line-of-defense-in-catalca-surfaced
[5] https://twitter.com/ResuALKAN/status/1618572734602293248

Special thanks:Ole Nikolajsen, GekhoMark Bevis.


 お知らせ2025年7月に上記本の改訂・分冊版である「The Armed Forces of North Korea Volume 1: Part 1: Korean People's Army Ground Forces Organisation, Strategy and Infantry」が発売されました。残りの巻も完成次第発売される予定です(記載情報は2025年現在のものにアップデート済み)。
 お知らせ2:2025年10月に「Volume 1: Part 2(陸軍AFV)」が発売されました。 
 
お知らせ3:2025年12月に「Volume 2(空軍)」が発売されました。
 お知らせ4:2026年2月に「Volume 3(海軍) 」が発売されました

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