著:シュタイン・ミッツアー と ヨースト・オリーマンズ(編訳:Tarao Goo)
当記事は、2015年9月10日に本国版「Oryx」に投稿されたものを翻訳した記事です。 意訳などにより、僅かに本来のものと意味や言い回しが異なっている箇所があります。
3年近くも窮地に立たされていたアブ・ズフール空軍基地は、2015年9月9日、とうとうアル・ヌスラ戦線を中心とする反政府勢力によって占領されてしまいました。シリア内戦で最長の包囲戦を展開したところで、空軍基地の陥落を最終的に避けられないことが明らかとなったわけです。アブ・ズフールはシリア政府に敵対する多数の勢力によって失われた8番目の空軍基地であり、これでシリア・アラブ空軍(SyAAF)が出撃に使用できる空軍基地は15となりました。
この基地でシリアのイドリブ県上空を飛ぶ航空機やヘリコプターをいまだに格納していると頻繁に噂がなされていましたが、最後の運用可能な機体はこの基地が陥落する数か月前に離れています。というのも、この基地の陥落が差し迫っていることを十分に認識した上で、数少ない運用可能な「MiG-23MF」と「MiG-21MF」、そして「MiG-23bis」をハマ基地に対比させることが決定されたからです。
基地にはグーグルアースや画像や動画で確認できる18機以上の退役機があるために見応えのある光景となっているものの、その大部分は10年から15年前に放棄されたものです。したがって、アブ・ズフール基地の陥落は、シリアの空を支配するシリア空軍の能力に少しも影響を与えることはないでしょう。
アブ・ズフールは他の政府支配地域から完全に孤立していたため、この基地への補給はシリア空軍の手に委ねられていました。彼らは主に「An-26」と「Mi-8/17」を用いて食料から武器に至るまであらゆる物資を運び込んでいましたが、反政府軍が基地の周囲に接近し続けるにつれて、その危険性は徐々に高まっていったようです。年間を通して数機のヘリコプターが撃墜・破壊・損傷を受けたほか、2機の「MiG-21」と1機の「An-26」も失われてしまいました。
アブ・ズフール空軍基地への襲撃は中東を吹き荒れる極めて異例な砂嵐と重なったため、シリア空軍は守備隊を支援するための出撃を行うことができませんでした。それでも、最終的に空軍基地の占領につながったのは、絶え間ない砲撃と3年近くにわたる包囲によって生じた消耗、そして反政府軍の数的優位があったからです。
守備隊の大半は捕虜になるか殺害されましたが、ごく一部は政府軍の支配地域に逃亡しました。アブ・ズフールの司令官であるイッサン・アル・ズフーリ准将は戦死したと伝えられています。
アブ・ズフールは、「MiG-23MS」、「MiG-23MF」、「MiG-23UB」を擁する第678飛行隊と、「MiG-21MF」、「MiG-21bis」、「MiG-21UM」を擁する名称不明の飛行隊の拠点でした。
1973年に納入され、間違いなく史上最悪の軍用機の一つである「MiG-23MS」は、今世紀に入って(すでに十分に引き延ばされていた)寿命が尽きました。第678飛行隊は2000年代初頭を通じて徐々に「MiG-23MS」の運用を縮小し、2005年頃に正式に退役させたのです。
結果として、僅か数機の「MiG-23MF」と「MiG-23UB」「MiG-21」がこの基地で唯一の稼働状態にあるアセットとして残りました。
下の画像の機体は、状態が良好な往事の「MiG-23MS "1614"」 です。
アブ・ズフールを占領しようとした最初の本格的な試みは2013年4月30日に行われており、その際に自由シリア軍の兵士たちが基地の周囲に侵入することに成功しました。しかしながら、守備隊が自由シリア軍を撃退したことにより、初めて空軍基地へ侵入するという試みは頓挫してしまいました。基地の防御線はその後すぐに強化され、その後の数か月間は全ての攻撃を受け流すことができたようです。
2012 年3 月 7 日、自由シリア軍の兵士たちは 「9M131 (9K115-2 "メチス-M")」対戦車ミサイルで基地を攻撃し、すでに運用状態になかった「MiG-23MS」の 1機に損傷を与えました。ちなみに、この機体は彼らが基地を強襲した際に再び登場します。
全長5km近いアブ・ズフールの境界線は、空軍基地を取り囲む平坦な地形を見渡せるような高い建物がなければ、防衛することはほとんど不可能な状態でした。というのも、空軍基地の周辺にある村や農場の多くは、反政府軍の動きを封じるためにすでに平らにされていたからです。
13基の強化型航空機シェルター(HAS)は大部分が空っぽになっていたものの、さまざまな軽火器や重火器で守備隊のグループを収容する砦に変貌しました。そして、重機関銃や対戦車ミサイルがHASの上に備えられたことで、防御側はクリアな射界を得ることに成功したのです。こうしたHASの存在が、この空軍基地が3年近く存続する上で重要な役割を果たしたことは言うまでもありません。
防衛側は防衛線に沿った複数の検問所に配備された数台の戦車や装甲戦闘車両の支援を当てにすることができましたし、これらを即応部隊として展開させることもできました。
実際、包囲されたとはいうものの、アブ・ズフールの守備隊は何度も基地を離れて敵の陣地に対する襲撃を行ったことがあります。これらの攻撃は反政府軍の火砲を叩くことが目的だったようです。
この空軍基地への攻撃では、(イスラム国から逃亡した多くのデリゾール地方の部族民を含む)ヌスラ戦線は数台の戦車を防御側に奪われてしまい、そのうちの何台かはかつての所有者であった自身に敵対することがありました。
空軍基地が反政府軍に大量の武器や弾薬を提供することはありませんが、基地の占領は彼らの士気を著しく高めることになります。鹵獲したミグ戦闘機は、運用可能であろうがなかろうが、彼らにとって勝利の象徴であることに変わりはありません。
(有用な)「ガニーマ(戦利品)」という点では、アブ・ズフール基地は反政府軍に数台の戦車と装甲戦闘車両、1台の「ZSU-23-4」自走対空砲、数門の「M-46」130mm野砲、対空砲、トラック、小火器と弾薬をもたらしました。
航空機やヘリコプターの撮影が車両の撮影よりも人気があることに加えて、どれだけの車両や装備が敗走する守備隊の手で避難させられたかは不明であることから、鹵獲された装備に関する実際の数量を特定することは困難を極めます(注:FSAの兵士らが飛行機やヘリの撮影に気が向くことで鹵獲した戦車や銃火器の画像が少なくなる傾向を示したものです)。
HASの一つで鹵獲された10発の対戦車ミサイルの内訳は「9M111 "ファゴット"」3発、「9M113 "コンクールス"」5発、「9M131 "メティス-M"」2発でしたが実際はキャニスターが空っぽだったようです。
予想されたとおり、かつてジェット機の運用に使われていた車両や機材の多くも鹵獲されました。これらの車両の損傷や錆は、この基地で戦闘機の運用が最終的に不可能に近くなり、ほとんど注意を払われずに放棄されたことを示しています。
アブ・ズフールに配備されていた「MiG-21」や「MiG-23」が使用していた多くのロケット弾ポッドや空対空ミサイルも、HASの至る所に散らばっている様子が見られました。
これらのロケット弾ポッドやミサイルを避難させる際に使用するべきだった燃料は装備そのものよりも価値があったためか、これらの装備は空軍基地に残されてしまいました(注:ロケット弾ポットを避難させるくらいなら放置した方が貴重な燃料を浪費せずに済んだということ)。その結果として、数十個の「UB-16」と「UB-32」ロケット弾ポッドが、かつてのラックの横に立っているのが発見されるに至ったわけです。
地上ベースの多連装ロケット砲として使用するためにトラックに搭載するには完璧だったものの、肝心の「S-5」57mmロケット弾は1発も鹵獲されなかったと思われるため、「UB-16/32」は使い物にならなかったようです。
下の画像が示すとおり、約10基もの多連装エジェクターラック(MER)も鹵獲されました。
下の画像で見られるのは、「R-23R」セミアクティブレーダーホーミング式空対空ミサイルと「R-23T」赤外線誘導空対空ミサイルです。かつてアブ・ズフールの「MiG-23MF」の武装として使われたものですが、そのほとんどは約35年前に納入されたときの保護カバーに包まれたままでした。
「MiG-23MF」の近接戦闘用の兵装である短射程の「R-60M」空対空ミサイルもありました。かつてはイスラエルとの戦争で使用されたミサイルですが、シリア内戦によってその出番が完全に消えたこともあり、今では埃をかぶっています。
SyAAFが独自に開発したチャフ/フレア用ディスペンサー数基と、空対空ミサイルやロケット弾ポッドを収納する多数の箱が積まれていました。
多数の「MiG-21」や「MiG-23」用の増槽も発見されましたが、その大半には多数の弾痕が残されていました。どうやらヌスラ戦線の戦闘員が射撃訓練に使ったようです。
紛れもなく最も興味深くも役に立たなかった戦利品はアブ・ズフールで「発見」された17機の戦闘機と2機のヘリコプターでしょう。これはタブカでイスラム国の戦闘員によって鹵獲された18機のMiG-21と同等のものです。機体の状態は、半分に切断されたものから概ね無傷のもの、あるいはその中間の状態とバラバラでした。
機体の大部分を保有していたのは第678飛行隊であり、基地の北西部に11機の「MiG-23MS」と2機の「MiG-23UB」、1機の「MiG-23MF」が残されていました。2000年代以降に退役した「MiG-23」の大半がここに放置されています。
興味深いことに、この基地にある「MiG-23MS」の一部は、1982年のイスラエルと戦ったレバノン戦争でシリア空軍が被った甚大な損害を補うために、カダフィ大佐が寄贈した元リビア空軍の機体でした。この知られざる物語の詳細については、こちらをご一読ください。
「MiG-23UB "1750"」は最近になってスクラップヤード(上の画像はその一部)から、より広大な機体の廃棄エリアに移されました。この機体は(上述した)反政府軍によってまだ運用可能と判断されたと思われて対戦車ミサイルの直撃を受けたものでしたが、実態としては過去に廃棄された機体を損傷させただけだったわけです。
手前の「MiG-23MS」には、シリア国産のチャフ/フレアディスペンサー用の固定具が2つ備えられています。
下の画像では、おそらくこの基地で最も劣化した機体を見ることができます。その状態は迷彩パターンさえも完全に色あせているほどです。
機首右側に施されたマークは、この「MiG-23MS」はかつて、ナイラブ基地/アレッポ国際空港にあるSyAAFのオーバーホール・整備施設である「工廠」でオーバーホールされた過ことを示ししています。
「MiG-23MF "3677"」は、このモデルで唯一ハマへ避難させられなかった機体でした。僅かに残留していた整備員たちはATGMの被弾で甚大な損傷を受けた尾翼を修理することができなかったようですが、いずれにせよ鹵獲されても敵に役立つことはないだろうと放置することを選択したと考えられます。
「3677」はアブ・ズフールでATGMの攻撃を受けた3番目の機体で、ミサイルは全弾が機体の尾翼に命中しました。他の2機は被弾した時点で稼働状態になかったことを踏まえると、ATGMを用いた「3677」への攻撃は「敵が実際に使用している作戦機を破壊する」という目的を達成した唯一の事例となります。
アブ・ズフールで鹵獲された(ゲートガードの「MiG-21F-13」を除く)「MiG-21」は合計で4機であり、内訳は「MiG-21MF」が2機、「MiG-21bis」が1機、「MiG-21UM」が1機でした。どの機体も少なくとも1年半は稼働状態になかったため、ハマに避難させることができなかったものです。
この文章の上下に写っている機体は「MiG-21MF "1518"」で、アブ・ズフールで発見された機体の中で最も無傷に見える機体の一つです。
唯一の「MiG-21UM」は下のHAS(左のシェルター)内に格納されていました。
下の画像の機体は「MiG-21MF "1942"」です。
ところで、発見された全ての機体は基地の陥落前に機関砲が取り外されていました。おそらくは即席の基地防御用の火器として使用されたか、あるいは僅かに残った運用可能な「MiG-21MF」と「MiG-21bis」で使用するためにハマに持ち去られたのでしょう。
戦闘員たちは基地で2機の「Mi-8」にも遭遇しました。そのうちの「Mi-8 "1282"」は地雷散布装置を搭載していました。修復不能な故障や戦闘中の損傷によって現地のスクラップ置き場行きになったものと思われますが、その前にアブ・ズフール近郊で地雷を空中散布する任務に就いていたのでしょう。
機体の奥に見えるのは前述の「MiG-23MS」で、尾翼が胴体から分離した状態で放置されて様子がよくわかります。
もう1機の「Mi-8」はATGMか迫撃砲弾の餌食になったものと思われます。炎が機体を焼き尽くしたおかげで、このヘリが二度と飛ぶことがなかったことは言うまでもありません。
アブ・ズフールで発見された機体の数が膨大であったにもかかわらず、この基地の占領がシリア上空におけるSyAAFの航空作戦に影響を与えることはないと思われます。実際、アブ・ズフールにいた相当な規模の守備隊への補給という困難な任務から解放されたことを考えれば、この占領はSyAAFに必要な一息つく猶予を与えたとすら言えるでしょう。
ただし、空軍基地の陥落は、アサド政権にとって勝利どころか存続も保証されていないという国外の支援者たちが見過ごすことがない事実を思い起こさせる重要な出来事なのです。
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