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2024年7月7日日曜日

消えゆく歴史:トルコ軍のソ連戦車


著:シュタイン・ミッツアー と ヨースト・オリーマンズ (編訳:Tarao Goo)

 当記事は、2023年1月4日に本国版「Oryx」(英語)に投稿された記事を翻訳したものです。当記事は意訳などにより、僅かに本来のものと意味や言い回しを変更した箇所があります。

 あまりにも珍しいという理由で、熟練した軍事愛好家でも正確な識別ができない戦車は滅多にありません。

 とはいうものの、このケースには1934年にトルコへ1台輸出されたソ連の「T-37A」世界初水陸両用偵察戦車が該当すると思われます。なぜならば、この戦車はMKE「クルッカレM-1943」と呼称される国産の水陸両用軽戦車と誤って識別されていたからです。

 このような無知な誤解が生じたのは、1930年代前半から中期にかけて、ソ連がトルコ陸軍に送った兵器に関する情報が不足していたためかもしれません。

 武器市場におけるシェアの拡大や、広大な国境を越えて自身の影響力を拡大することを熱望したソ連邦は、1932年にトルコ軍へ「T-26 "1931年型(7.62mm機関銃塔2門を搭載)"」を2台、「T-27」タンケッテ(豆戦車)4台、若干数のトラックやオートバイを供与しました。[1]

 ソ連は、供与された戦車でトルコ軍が得た成功体験が、彼らによるソ連製兵器の大量発注につながることを期待していたようです。このアプローチは大きな成果を上げ、トルコは1934年に合計で64台の「T-26 "1933年型 "」と1台の「T-37A」軽戦車、そして34台の「BA-3」装甲車を発注するに至りました。[1]

 「T-26」はトルコ軍で就役した初の正真正銘の戦車であり、ギリシャとの国境付近にあるリュレブルガズに駐屯する、第2騎兵師団内に新設された第1戦車連隊に配備されました。[1]

 (この国の戦車隊は)すぐにイギリスから供与された多数のヴィッカース「Mk VI」軽戦車と1940年にトルコに到着した100台のフランス製ルノー「R35」によって補充を受けたものの、比較的強力な45mm砲の貫徹力が「T-26」 を(1941年にイギリスから最初の「バレンタイン」戦車が到着するまで)トルコで最も有能な戦車としての立場を確実なものにさせました。

 当時、戦車第1連隊は第102戦車師団・第103戦車師団・予備師団から構成されており、「BA-3」は第1及び第2装甲車師団に配備されました。[1]

 「T-26 "1931年型」と「T-27」は混成戦車中隊としてグループ化され、(1928年にフランスから「FT-17」を1台導入した理由と同じく)主に歩兵に対する戦車への習熟と他部隊への戦車の有効性を実証するために配備されました。[1]

 この編成は、1943年に最後の「T-26」と「BA-3」が退役するまで維持されたと考えられています。

リュレブルガズの第1戦車連隊に配備された「T-26 "1933年型"」戦車と「BA-3」装甲車

 第二次世界大戦のトルコは1945年2月まで中立だったおかげで、結果的にソ連から受領した「T-26」と「BA-3」が外敵と戦うことはありませんでした。

 ただし、これらのソ連製AFVがトルコ陸軍における戦車運用の基盤になったという事実は現在でもあまり知られていません。

 こうしたソ連製AFVの引き渡しから20年後にはトルコにその痕跡が残されておらず、その代わりに同国がソ連との戦争で用いられるであろう大量のアメリカ製戦車を得たことを考慮すると、この情報はさらに不可解なものと言えるでしょう。

1934年にソ連から供与された唯一の「T-37A」:この戦車は時折「クルッカレ」と呼ばれる国産戦車と思われるものと混同されている

 「T-26」とは対照的に水陸両用軽戦車のコンセプトはトルコ陸軍に全く受け入れられなかったため、「T-37A」は追加発注されることはありませんでした。

 武装はたった1丁の「DT」7.62mm軽機関銃である上に薄い装甲(前面で3mmから10mm程度)はだったため、この戦車には水陸両用能力以外に特筆すべきものはありません。

 それにもかかわらず、ソ連軍はこのコンセプトが自身のドクトリンに最適と見なし、1930年代に2500台以上の「T-37A」、後継の「T-38」を1300台以上、さらにその後継の「T-40」を350台以上も調達しました。

 「T-37A」と同様にタンケットのコンセプトもトルコ軍の首脳部を納得させることができなかったことから、トルコはソ連から供与された4台を除いて「T-27」や同様のものを他国から導入することはありませんでした。

 もちろん、第二次世界大戦後にタンケッテのコンセプトは(ドイツの「ヴィーゼル」を除いて)おおむね放棄され、それらが担っていた偵察の役割は軽戦車や 装甲車によって代替されたことは言うまでもないでしょう。

 トルコの「T-37A」と「T-27」については、その双方が現代に残ることはありませんでした。おそらくは1940年代後半にはすべてスクラップにされたものと思われます。

1933年のパレードに登場したソ連製「T-27」タンケッテ:後ろの横断幕には「ムスタファ・ケマル(のような人物)が生まれることは、私たちの国にとってどれほど幸運なことでしょうか」と書かれている

 「BA-3」装甲車は「T-27」や「T-37A」よりも僅かに好評であり、それは45mm砲1門と 「DT」 7.62mm軽機関銃1丁を装備した「T-26」と同じ砲塔を搭載しているという重武装のおかげでした(注:「DT」は車体にも1丁が装備されていました)。

 この装甲車の大きな弱点は機動性に欠いていることであり、その著しい重量の結果として運用は固い地面に限定せざるを得ない場合が頻繁にあったようですが、後輪への履帯をの装着で悪路における機動性を若干向上させることが可能でした。

 車体の装甲厚が9mmだった「BA-3」は、小火器の射撃や砲弾の破片に対する全方位的な防御力を備えていました。

トルコ軍の「BA-3」装甲車:後輪のフェンダー上にある(悪路走行用の)履帯に注目

 一部の「レオパルド2」 が運用から40年を超えるなど、現代の戦車は数十年の運用寿命を持つことが一般的となっていることとは対照的に、トルコにおける「T-26」の寿命は10年に満たないものでした(それでもこの同時代の戦車の平均寿命よりはるかに長かったのですが)。

 1940年代初頭までにソ連製戦車は酷使され、その悲惨な状態は(もはや戦争に突入したソ連から輸入できない結果として生じた)スペアパーツの不足によってさらに悪化してしまいました。こうした結果を受け、すでに1943年の時点で全ての「T-26」が退役しています。 [1]  

 生き残った2台の「T-26 "1933年型"」は、イスタンブールのハルビエ軍事博物館の敷地とアンカラ近郊のエティメスグット戦車博物館に展示されていますが、残念ながら当時の迷彩塗装のままではありません。

この「T-26 "1931年型"」は1932年にソ連から入手した2台のうちの一つである

歩兵との共同演習で塹壕を乗り越えるトルコ軍の「T-26 "1933年型"」

 今ではドイツやアメリカ製の戦車を大量に運用しているトルコにとって、ソ連製の戦車を装備した戦車部隊(事実上、この国で最初の戦車連隊)の設立は、まさに歴史上の奇妙な出来事と言えるでしょう。

 トルコは(ソ連・イギリス・ドイツ・アメリカ・フランスを含む)第二次世界大戦の主要国が開発したほぼ全ての戦車を運用した世界で唯一の国です。

 今ではこの歴史を示す痕跡はほとんど残っておらず、歴史家や作家たちが失われつつある情報を記録しようと試みているに過ぎません。

2024年2月28日水曜日

欧州の北朝鮮:アルバニア軍の人民軍の軍用車両・重火器(一覧)


著:シュタイン・ミッツアー と ヨースト・オリーマンズ(編訳:Tarao Goo

 当記事は、2023年3月21日に本国版「Oryx」ブログ(英語)に投稿された記事を翻訳したものです。当記事は意訳などにより、僅かに本来のものと意味や言い回しを変更した箇所があります。

 アルバニア社会主義人民共和国は、1946年から1991年まで存在した一党独裁のマルクス・レーニン主義国家です。存在した期間の大部分を通じて、この国はホッジャ主義として知られるスターリン主義的な政治スタイルを確立してアルバニアを統治したエンヴェル・ホッジャによって率いられました。

 北朝鮮と極めて酷似しているにもかかわらず、この国の独裁的な支配者は間違いなく冷戦時代の忘れ去られた一章を築いています。

 アルバニアは1961年の断交まではソ連と、続く1978年の断交までは中国と緊密な関係にありましたが、最終的に1978年以降はほぼ完全に国際的に孤立した事態は、アルバニア人民軍(UPSh)の装備と作戦即応性に大きな悪影響を与えました。今日に至るまで、アルバニア軍は中国製の兵器、航空機、船舶、その他の装備の大半を保有している欧州で唯一の軍隊であり続けています。

 アルバニアは、現在でも山岳地帯の至るところに多くのバンカーが点在していることでよく知られています。隣国ユーゴスラビアからの侵略を妨げるという被害妄想に陥ったエンヴェル・ホッジャは、全国各地に(300万人に満たない人口用として)約75万個ものバンカーの建設を命じました。これらには第二次世界大戦時代の「モシン・ナガン」小銃や「PPS(h)」短機関銃で武装した市民が籠城することになっていたものの、携帯式の対戦車火器は著しく不足していました。より実用的な発展は、アルバニアの山々に掘られた大規模なトンネル群という形でもたらされました。 これらは陸海空軍の重装備の多くを格納することが可能だったほどです。

 もしユーゴスラビアがアルバニアへの侵攻を本気で検討していたのであれば、膨大な数のバンカーが...機械化部隊の攻撃を阻止するという本来意図した用途では役不足だったかもしれませんが...ユーゴスラビアがそれらを破壊したり迂回したりする労力を認識させるだけで、全土をアルバニア全土の占領を阻止することに成功した可能性はあったかもしれません。

 北朝鮮が経済的・軍事的に最大の利益を得るために慎重にソ連と中国と駆け引きを繰り広げた一方、ホッジャは1961年にソ連と断交し、中国の外交政策を公然と批判したことによって1978年に同国とも国交断絶しました。その時点からアルバニアは事実上の鎖国状態となり、兵器類のスペアパーツを調達したり、旧式化した装備を更新することも不可能となってしまったのです。

 1980年代初頭に中国との貿易が再開されたことで、アルバニアは再びスペアパーツを入手できるようになったものの、この国が再び(「HJ-8」対戦車ミサイル:ATGMと「HN-5」携帯式地対空ミサイルシステム:MANPADSで構成される)新兵器群を調達するのは1990年代になってからでした。[1]

 1990年代以前にATGMやMANPADSのような装備が皆無だったUPShは、その代わりとして約700台の戦車群や1,600門の火砲、大量の対空機関砲を配備することで近代兵器の不足をカバーしていました。

 1970年代後半から1980年代の間に経験した新規調達の失敗を少なくとも部分的に補うため、アルバニアはすでに生産されていたボルトアクション式の「モシン・ナガン」小銃と「SKS」半自動小銃に加えて、中国の「54式」重機関銃、「56式」及び「69式」RPG、そして「56式」自動小銃を含む小火器の大量生産も開始しました。これらの中国製小火器は、1990年代まで製造された数多くの独自型の基礎となったことはよく知られています。[2]

 皮肉なことに、アルバニアはソ連の「モシン・ナガン」を生産した最後の国でした。最終ロットを1961年後半まで生産していたのです![3]

 1997年に発生したアルバニア暴動は国内各地の兵器庫から多くの武器が略奪されるという結果をもたらし、その相当な量が後日にコソボへ渡りました。その他の中国製やソ連製の兵器の大部分は、その後にスクラップにされたか、今でも博物館で生きながらえています。

 それでも、一部の武器は2022年にウクライナに送られるまでの十分な年月を現役のストック品として持ちこたえることができました。その中国製のマークは今まで報じられていなかった中国からウクライナの武器供給に関する憶測を引き起こしましたが、その実際の出自はもっと古いものだったです。

  1. 以下の一覧は、1991年までアルバニア人民軍で運用された全ての装甲戦闘車両(AFV)などを網羅することを試みたものです。
  2. この一覧は、(画像などから視覚的に)確認できた車両や装備のみを掲載しています。
  3. 各兵器の名前をクリックするとアルバニア人民軍で運用されている当該兵器の画像を見るころができます。

戦車

自走砲

装甲戦闘車両

装甲兵員輸送車

牽引砲

多連装ロケット砲

対空砲

固定式地対空ミサイルシステム

レーダー

汎用車両