著:シュタイン・ミッツアー と ヨースト・オリーマンズ(編訳:Tarao Goo)
当記事は、2023年8月28日に本国版「Oryxブログ」(英語)に投稿されたものを翻訳した記事です。 意訳などにより、僅かに本来のものと意味や言い回しが異なっている箇所があります。
私を愛さない者は生きる価値がない:ムアンマル・カダフィ
リビアの元指導者であるムアンマル・カダフィは40年にわたる統治期間の間に、個人崇拝、G8サミットでのスイス分割の提案、リビアの6つの隣国中4か国への侵略、エジプト(!)の潜水艦を説得してイギリスの「クイーン・エリザベス2」を沈めさせようとしたこと、1988年のロッカビー事件の画策で世界的な悪名を轟かせました。
それにもかかわらず、いまだにカダフィに関する多くの神話が蔓延し続けています。例えば、「彼の人民」に無料の電気、無料の医療、無料の金銭を提供する一方で、自分自身はほとんど贅沢をしない質素な生活を送っているというものです。カダフィは在任中、このイメージを広めるための努力を惜しまず、海外を公式訪問する際には高級ホテルではなくテントで寝ることを好みました。ただし、現実のカダフィは42年間にわたる統治の間に何十億ドル(数千億円)もの資産を蓄え、1億2000万ドル(約187億円)もするジャグジー付きの個人用エアバス「A340」で世界中を旅していたのです。
カダフィはまた、リビアの指導者以上の偉大な人物になるという不穏な夢に執着していました。熱烈なアラブ民族主義者の彼は、(自分を国家元首とする)モロッコからイラクに至る統一アラブ国家の構想を推進し、1970年代にはいくつかのアラブ諸国と交渉に入りました。そのたびに、彼は自分一人だけが指導者であるべきだと主張して、交渉の決裂を招いたことは言うまでもありません。彼の構想を否定した全ての国は、(つまらない報復として)すぐにクーデター計画と暗殺の波にさらされました。
リビアの国境を越えた存在を率いたいというカダフィの野望は、1990年代にアフリカ連合を設立しようとした際に復活し、そこで彼は(もちろん)自分を国家元首とするアフリカ合衆国構想を提唱しました。大佐は、提案した合衆国についてカリブ海諸国まで範囲が広がる可能性があるとさえ示唆しました:これは、大量のアフリカ系移民を抱える国であれば、どこでも加盟を招待されるだろうという持論によるものです。ここでのカダフィは、(アフリカ合衆国の構想を否定するために)アフリカの民主的に選出された指導者とそうでない指導者のほぼ全員を団結させるという類まれなる偉業を成し遂げたのでした。
アフリカ大陸全体のリーダーになる計画が無残に失敗したとき、あなたはどうしますか?そのとおり!スーパーカーのデザインを個人的に監修することで、余った時間を活用するのです。ただし、これは単なるスーパーカーでありません。この車は、自動車事故による死者を減らすために特別に設計されたものなのです。2009年、カダフィ政権のスポークスマンはこう述べました:「(交通事故に対する)効果的な解決策を考えるために、我らが指導者は貴重な時間を何時間も費やしました。これは世界で生産された中で最も安全な車です」。[1]
(少なくとも設計者であるカダフィ大佐の見解では)この車はロケットの形状をしており、「صاروخ الجماهيرية :サルーク・エル・ジャマーヒリーヤ (人民体のロケット)」と名付けられました(注:ジャマーヒリーヤこと人民体はカダフィ時代のリビアにおける独特の国家体制・統治形態のことである)。
ポルシェ「パナメーラ」と同様に「人民体のロケット」にも4枚のドアが設けられている:類似点はそれだけだ |
「人民体のロケット」という名前は、自動車のショールームを見ている家族連れには特に魅力的ではないかもしれないし、世界一安全だと称する車には特にふさわしいとも思えません。それでも、実際のロケットや核兵器開発計画を推進する試みが頓挫した際に、ある程度の埋め合わせにはなるでしょう。
2009年にリビアで開催されたアフリカ連合の会議で発表されたこの車は、同年に首都トリポリに工場が建設され、そこで生産される予定でした。[2]
「ロケット」は3リットルのV6ツインターボエンジンを搭載し、出力は230馬力を誇ります。ひどく尖ったノーズとテールルが際立っていますが、これについては、カダフィが「正面衝突の際、この車はあらゆる物体から弾き飛ばされるだろう」と主張しました。[2]
さらに好奇心を駆り立てる設計要素としては、車両後部に出入りするためのスライドドアや、当のイベント主催者でさえその意味と機能について説明するのに困惑した「電子保護フレームワーク」があります。[2]
「ロケット」にはダークグリーンとホワイトの2種類が存在したが、どちらの色もその下に隠された奇抜なデザインを上手に隠すことはできなかった |
「ロケットは丸すぎる、尖らせる必要がある」 |
さらに興味深いのはここからです。実は、これがカダフィが最初に手掛けた自動車ではありません。ちょうど10年前、1999年のアフリカ統一機構の会議で、カダフィはすでに最初の車を発表していたのです。それで...その名前が何だと思いますか?そう、まさしく「人民体のロケット」です!2009年型と同様に、1999年型も世界で最も安全な車として設計され、同年に首都トリポリに専用の工場を建設して生産される予定でした。[3]
当時、カダフィが自動車のデザインを探求した背景にあった理由について、 「大佐が世界中の人びとの命を守る方法を長い時間を費やして考えた結果である」と説明されていました。その約10年前、アメリカとフランスに対する卑劣な復讐を果たすために、彼が「ボーイング747」と「DC-10」旅客機を爆破して440人の罪のない人々を殺害するテロに関与したことを考えると、実に厚かましい主張としか言いようがありません。
1999年型「ロケット」:2009年型は基本的に同じデザインの大幅な改良型である |
さて、この時点でおそらく誰もが気になっているであろう差し迫った疑問に触れてみましょう: カダフィは本当にこの車を設計したのでしょうか?そももそ、このプロジェクト自体が本物だったのでしょうか?
もちろん、そんなことはありません。2種類の「ロケット」のデザインは、1999年に285万ドル(約4.4億円)のデザイン料でイタリアのテスコSpAに発注して設計されました。各モデルは2台ずつ、つまり合計で4台しか製造されなかったようです。イタリア人によれば、この車のスタイルはカダフィ自身のアイデアと提案によるものだと言われています。[2]
全乗員用のエアバッグ、駐車支援カメラ、ランフラットタイヤ、引込み式のフロントバンパー、国産の原材料を用いて(2009年当時で)1台あたり僅か5万ユーロ(約815万円)という小売価格が約束されるなど、あらゆる(安全性を中心とした)特徴がもてはやされていたにもかかわらず、現実には、これらの自動車が実際に生産されることを意図したものではありません:その唯一の目的は、単にプロパガンダ用の道具として使用することだったわけです。
カダフィ時代のリビアについて多く語られる事柄と同様に、「ロケット」も大部分が神話に基づいて作り上げられました。「ロケット」発表会の主催者が1999年と2009年後半に(すでに完成あるいは未だに建設中の工場で)生産を開始すると断言していたにもかかわらず、2種類の自動車は技術的特徴さえも一見すると同一であり、2009年のプレスリリースを1999年のものを再利用したに過ぎません。[2]
1999年型の引込み式バンパーは正面衝突しても、確実に相手を跳ね返せるようにするためのものだった:というのも、時速130kmで障害物に衝突してもボールのように跳ね返すことがバンパー本来の役割だからだ |
カダフィはスーパーカーの 「創作」の監督に強い関心を示したものの、独裁者の中では珍しい高級車やスーパーカーを所有することにほとんど関心を示さなかったことは興味深い事実です。リビアの国営プロパガンダは、カダフィが贅沢を嫌う、大衆とつながっている人物であるという男というイメージを一段と強めるために、どんな苦労も惜しみませんでした。
独裁者には典型的に見られた豪勢なライフスタイルとは対照的に、カダフィは1970年代にシンプルなフォルクスワーゲン「ビートル」に乗っていました。この「ビートル」については、なんと(後日に)彼の個人的な命令でトリポリの古代博物館に常設展示されたのです![4]
カダフィはトリポリにあるバブ・エル=アジジアの居住区と地下トンネルを移動するためにゴルフカートを使用していたほか、1990年代は主にプライベート・バスで移動していました。その後、2000年代後半にはイタリアのカロッツェリア・カスターニャが手掛けた個性的な電気自動車の「フィアット500C」を手に入れました。この車には34kwのパワーパックが搭載され、最高時速は160kmに達したとのことです。[5]
カダフィはトリポリにあるバブ・エル=アジジアの居住区と地下トンネルを移動するためにゴルフカートを使用していたほか、1990年代は主にプライベート・バスで移動していました。その後、2000年代後半にはイタリアのカロッツェリア・カスターニャが手掛けた個性的な電気自動車の「フィアット500C」を手に入れました。この車には34kwのパワーパックが搭載され、最高時速は160kmに達したとのことです。[5]
(カダフィのような)伝統的なアラブの服を着た乗客が乗り降りしやすいように、このフィアットの改造にはドアの撤去と低いサスペンションへの交換が含まれていました。緑色の塗装については、カダフィ大佐の政治哲学を記した短編著書「緑の書」の色にちなんで選ばれたことは言うまでもないでしょう。キャンバスで覆われた電動ソフトトップは、砂漠の砂を連想させる色調に変更されました。また、フロントとリアにあるフィアットのエンブレムは、ジャマーヒリーヤのものに交換されています。
カダフィの「フィアット500C(特注仕様)」がトリポリのバブ・エル=アジジアの居住区から押し出されている |
福祉国家を建設するために42年もの歳月があったにもかかわらず、カダフィは国の資源を武器とテロリズムに費やしました。
スイスで2人の家政婦を暴行した息子が逮捕された後、スイス分割を提案したことに代表されるように、常に卑小な復讐を追い求め、リビアの指導者よりも偉大な存在になろうとする彼の42年間の探求の旅が、最終的に自身を悲劇的な人物にしてしまったことは今ではよく知られています。
「世界中の人びとの命を守る」という口実でスーパーカーの開発に着手し、基本的人権を手に入れるために自国民が立ち上がったときに「私を愛さない者は生きる価値がない」と宣言するほど不名誉な結末は考えられないでしょう。
彼の遺産の名残は今日までリビア全土に根強く残っています。「人民体のロケット」は、おそらくその最たる例でしょう。実際、2009年型の少なくとも1台は現在でも生き残っていることは、神話が創作者よりもはるかに長生きできるということを痛切に物語っています。
[1] Libyan Rocket: Colonel Muammar Gaddafi designs a "safe" car https://www.autoblog.com/2009/09/02/libyan-rocket-colonel-muammar-gaddafi-designs-a-safe-car/
[2] Failure to Launch https://driventowrite.com/2021/02/13/failure-to-launch-gaddafi-rocket-car/
[3] LADICO - Sayarat Saroukh El-Jamahiriya (Libyan Rocket) https://www.allcarindex.com/production/libya/ladico/sayarat-saroukh-el-jamahiriya-libyan-rocket/
[4] In Tripoli's museum of antiquity only Gaddafi is lost in revolution https://www.theguardian.com/culture/2011/sep/11/tripoli-museum-antiquity-shattered-gaddafi-image
[5] Unique Castagna Bodied Fiat 500 ''Liberated'' From Gaddafi's Battle-Scarred Tripoli Compound http://www.italiaspeed.com/2011/cars/fiat/08/500_castagna_tripoli/2508.html
2025年前半に改訂・分冊版が発売予定です |
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