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2025年1月18日土曜日

カダフィ大佐の車:異様なデザインのスーパーカー


著:シュタイン・ミッツアー と ヨースト・オリーマンズ(編訳:Tarao Goo)

 当記事は、2023年8月28日に本国版「Oryxブログ」(英語)に投稿されたものを翻訳した記事です。 意訳などにより、僅かに本来のものと意味や言い回しが異なっている箇所があります。

私を愛さない者は生きる価値がない:ムアンマル・カダフィ

 リビアの元指導者であるムアンマル・カダフィは40年にわたる統治期間の間に、個人崇拝、G8サミットでのスイス分割の提案、リビアの6つの隣国中4か国への侵略、エジプト(!)の潜水艦を説得してイギリスの「クイーン・エリザベス2」を沈めさせようとしたこと、1988年のロッカビー事件の画策で世界的な悪名を轟かせました。

 それにもかかわらず、いまだにカダフィに関する多くの神話が蔓延し続けています。例えば、「彼の人民」に無料の電気、無料の医療、無料の金銭を提供する一方で、自分自身はほとんど贅沢をしない質素な生活を送っているというものです。カダフィは在任中、このイメージを広めるための努力を惜しまず、海外を公式訪問する際には高級ホテルではなくテントで寝ることを好みました。ただし、現実のカダフィは42年間にわたる統治の間に何十億ドル(数千億円)もの資産を蓄え、1億2000万ドル(約187億円)もするジャグジー付きの個人用エアバス「A340」で世界中を旅していたのです。

 カダフィはまた、リビアの指導者以上の偉大な人物になるという不穏な夢に執着していました。熱烈なアラブ民族主義者の彼は、(自分を国家元首とする)モロッコからイラクに至る統一アラブ国家の構想を推進し、1970年代にはいくつかのアラブ諸国と交渉に入りました。そのたびに、彼は自分一人だけが指導者であるべきだと主張して、交渉の決裂を招いたことは言うまでもありません。彼の構想を否定した全ての国は、(つまらない報復として)すぐにクーデター計画と暗殺の波にさらされました。

 リビアの国境を越えた存在を率いたいというカダフィの野望は、1990年代にアフリカ連合を設立しようとした際に復活し、そこで彼は(もちろん)自分を国家元首とするアフリカ合衆国構想を提唱しました。大佐は、提案した合衆国についてカリブ海諸国まで範囲が広がる可能性があるとさえ示唆しました:これは、大量のアフリカ系移民を抱える国であれば、どこでも加盟を招待されるだろうという持論によるものです。ここでのカダフィは、(アフリカ合衆国の構想を否定するために)アフリカの民主的に選出された指導者とそうでない指導者のほぼ全員を団結させるという類まれなる偉業を成し遂げたのでした。

 アフリカ大陸全体のリーダーになる計画が無残に失敗したとき、あなたはどうしますか?そのとおり!スーパーカーのデザインを個人的に監修することで、余った時間を活用するのです。ただし、これは単なるスーパーカーでありません。この車は、自動車事故による死者を減らすために特別に設計されたものなのです。2009年、カダフィ政権のスポークスマンはこう述べました:「(交通事故に対する)効果的な解決策を考えるために、我らが指導者は貴重な時間を何時間も費やしました。これは世界で生産された中で最も安全な車です」。[1]

 (少なくとも設計者であるカダフィ大佐の見解では)この車はロケットの形状をしており、「صاروخ الجماهيرية :サルーク・エル・ジャマーヒリーヤ (人民体のロケット)」と名付けられました(注:ジャマーヒリーヤこと人民体はカダフィ時代のリビアにおける独特の国家体制・統治形態のことである)。

ポルシェ「パナメーラ」と同様に「人民体のロケット」にも4枚のドアが設けられている:類似点はそれだけだ

 「人民体のロケット」という名前は、自動車のショールームを見ている家族連れには特に魅力的ではないかもしれないし、世界一安全だと称する車には特にふさわしいとも思えません。それでも、実際のロケットや核兵器開発計画を推進する試みが頓挫した際に、ある程度の埋め合わせにはなるでしょう。

 2009年にリビアで開催されたアフリカ連合の会議で発表されたこの車は、同年に首都トリポリに工場が建設され、そこで生産される予定でした。[2]

 「ロケット」は3リットルのV6ツインターボエンジンを搭載し、出力は230馬力を誇ります。ひどく尖ったノーズとテールルが際立っていますが、これについては、カダフィが「正面衝突の際、この車はあらゆる物体から弾き飛ばされるだろう」と主張しました。[2]

 さらに好奇心を駆り立てる設計要素としては、車両後部に出入りするためのスライドドアや、当のイベント主催者でさえその意味と機能について説明するのに困惑した「電子保護フレームワーク」があります。[2]

「ロケット」にはダークグリーンとホワイトの2種類が存在したが、どちらの色もその下に隠された奇抜なデザインを上手に隠すことはできなかった

「ロケットは丸すぎる、尖らせる必要がある」

 さらに興味深いのはここからです。実は、これがカダフィが最初に手掛けた自動車ではありません。ちょうど10年前、1999年のアフリカ統一機構の会議で、カダフィはすでに最初の車を発表していたのです。それで...その名前が何だと思いますか?そう、まさしく「人民体のロケット」です!2009年型と同様に、1999年型も世界で最も安全な車として設計され、同年に首都トリポリに専用の工場を建設して生産される予定でした。[3]

 当時、カダフィが自動車のデザインを探求した背景にあった理由について、 「大佐が世界中の人びとの命を守る方法を長い時間を費やして考えた結果である」と説明されていました。その約10年前、アメリカとフランスに対する卑劣な復讐を果たすために、彼が「ボーイング747」と「DC-10」旅客機を爆破して440人の罪のない人々を殺害するテロに関与したことを考えると、実に厚かましい主張としか言いようがありません。

1999年型「ロケット」:2009年型は基本的に同じデザインの大幅な改良型である

 さて、この時点でおそらく誰もが気になっているであろう差し迫った疑問に触れてみましょう: カダフィは本当にこの車を設計したのでしょうか?そももそ、このプロジェクト自体が本物だったのでしょうか?

 もちろん、そんなことはありません。2種類の「ロケット」のデザインは、1999年に285万ドル(約4.4億円)のデザイン料でイタリアのテスコSpAに発注して設計されました。各モデルは2台ずつ、つまり合計で4台しか製造されなかったようです。イタリア人によれば、この車のスタイルはカダフィ自身のアイデアと提案によるものだと言われています。[2]

 全乗員用のエアバッグ、駐車支援カメラ、ランフラットタイヤ、引込み式のフロントバンパー、国産の原材料を用いて(2009年当時で)1台あたり僅か5万ユーロ(約815万円)という小売価格が約束されるなど、あらゆる(安全性を中心とした)特徴がもてはやされていたにもかかわらず、現実には、これらの自動車が実際に生産されることを意図したものではありません:その唯一の目的は、単にプロパガンダ用の道具として使用することだったわけです。

 カダフィ時代のリビアについて多く語られる事柄と同様に、「ロケット」も大部分が神話に基づいて作り上げられました。「ロケット」発表会の主催者が1999年と2009年後半に(すでに完成あるいは未だに建設中の工場で)生産を開始すると断言していたにもかかわらず、2種類の自動車は技術的特徴さえも一見すると同一であり、2009年のプレスリリースを1999年のものを再利用したに過ぎません。[2]

1999年型の引込み式バンパーは正面衝突しても、確実に相手を跳ね返せるようにするためのものだった:というのも、時速130kmで障害物に衝突してもボールのように跳ね返すことがバンパー本来の役割だからだ

 カダフィはスーパーカーの 「創作」の監督に強い関心を示したものの、独裁者の中では珍しい高級車やスーパーカーを所有することにほとんど関心を示さなかったことは興味深い事実です。リビアの国営プロパガンダは、カダフィが贅沢を嫌う、大衆とつながっている人物であるという男というイメージを一段と強めるために、どんな苦労も惜しみませんでした。

 独裁者には典型的に見られた豪勢なライフスタイルとは対照的に、カダフィは1970年代にシンプルなフォルクスワーゲン「ビートル」に乗っていました。この「ビートル」については、なんと(後日に)彼の個人的な命令でトリポリの古代博物館に常設展示されたのです![4]

 カダフィはトリポリにあるバブ・エル=アジジアの居住区と地下トンネルを移動するためにゴルフカートを使用していたほか、1990年代は主にプライベート・バスで移動していました。その後、2000年代後半にはイタリアのカロッツェリア・カスターニャが手掛けた個性的な電気自動車の「フィアット500C」を手に入れました。この車には34kwのパワーパックが搭載され、最高時速は160kmに達したとのことです。[5]

 (カダフィのような)伝統的なアラブの服を着た乗客が乗り降りしやすいように、このフィアットの改造にはドアの撤去と低いサスペンションへの交換が含まれていました。緑色の塗装については、カダフィ大佐の政治哲学を記した短編著書「緑の書」の色にちなんで選ばれたことは言うまでもないでしょう。キャンバスで覆われた電動ソフトトップは、砂漠の砂を連想させる色調に変更されました。また、フロントとリアにあるフィアットのエンブレムは、ジャマーヒリーヤのものに交換されています。

カダフィの「フィアット500C(特注仕様)」がトリポリのバブ・エル=アジジアの居住区から押し出されている

 福祉国家を建設するために42年もの歳月があったにもかかわらず、カダフィは国の資源を武器とテロリズムに費やしました。

 スイスで2人の家政婦を暴行した息子が逮捕された後、スイス分割を提案したことに代表されるように、常に卑小な復讐を追い求め、リビアの指導者よりも偉大な存在になろうとする彼の42年間の探求の旅が、最終的に自身を悲劇的な人物にしてしまったことは今ではよく知られています。

 「世界中の人びとの命を守る」という口実でスーパーカーの開発に着手し、基本的人権を手に入れるために自国民が立ち上がったときに「私を愛さない者は生きる価値がない」と宣言するほど不名誉な結末は考えられないでしょう。

 彼の遺産の名残は今日までリビア全土に根強く残っています。「人民体のロケット」は、おそらくその最たる例でしょう。実際、2009年型の少なくとも1台は現在でも生き残っていることは、神話が創作者よりもはるかに長生きできるということを痛切に物語っています。


[1] Libyan Rocket: Colonel Muammar Gaddafi designs a "safe" car https://www.autoblog.com/2009/09/02/libyan-rocket-colonel-muammar-gaddafi-designs-a-safe-car/
[2] Failure to Launch https://driventowrite.com/2021/02/13/failure-to-launch-gaddafi-rocket-car/
[3] LADICO - Sayarat Saroukh El-Jamahiriya (Libyan Rocket) https://www.allcarindex.com/production/libya/ladico/sayarat-saroukh-el-jamahiriya-libyan-rocket/
[4] In Tripoli's museum of antiquity only Gaddafi is lost in revolution https://www.theguardian.com/culture/2011/sep/11/tripoli-museum-antiquity-shattered-gaddafi-image
[5] Unique Castagna Bodied Fiat 500 ''Liberated'' From Gaddafi's Battle-Scarred Tripoli Compound http://www.italiaspeed.com/2011/cars/fiat/08/500_castagna_tripoli/2508.html

2025年前半に改訂・分冊版が発売予定です

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2025年1月11日土曜日

クラブ・自動車・残虐の王:ウダイ・フセイン


著:シュタイン・ミッツアー と ヨースト・オリーマンズ(編訳:Tarao Goo)


 当記事は、2023年9月13日に本国版「Oryxブログ」(英語)に投稿されたものを翻訳した記事です。意訳などにより、僅かに本来のものと意味や言い回しが異なっている箇所があります。

 ウダイ、お前は何者だ?ビジネスマン?それともプレイボーイなのか?私はお前をどう見たらいいのか分からん:サッダーム・フセイン

 イラクの独裁者サッダーム・フセインの長男であるウダイ・フセインが、この地球上で最も恐るべき人間の一人だったことに疑いを挟む余地はありません。彼はプレイボーイにして、スーパーカー、酒、キューバ産の葉巻、(特に黄金の)銃、そしてスター・ウォーズを愛する病的な人殺しだったのです。

 ウダイの常軌を逸したライフスタイルは、自らを若い頃から死と破滅への道へと導きました。

 数えきれないほどのビジネスを展開していたウダイの犯罪帝国は、「スーパーチキン」というファストフード店のチェーンや「ザ・ウェーブ」という名のアイスクリーム会社を経営する傍ら、石油やタバコといった制裁対象の品物やコカインの密輸にも関与していたのです(「ブレイキング・バッド」のガス・フリングというキャラクターの背景にある実在の人物について、まだ興味が残っていれば、ここで検索を打ち切りましょう)。

 ウダイはテレビ局やラジオ局のトップも務めていたどころか、7社もの新聞社の取締役会長でもあり、イラクで最も成功したスポーツクラブを支配していました。彼は自分が作り上げた恐ろしいイメージに特別な誇りを持ち、「アブ・サルハン(狼の父)」と自称していました。

 ウダイを知らしめた悪名の多くは、イラク・オリンピック委員会のトップとして、イラクのアスリートたちのパフォーマンスを向上させるという名目で拷問に訴えたことから生じたものです。

 1993年、サッカーのイラク代表チームが1994年のFIFAワールドカップ出場の予選で敗退したことを受け、ウダイは選手たちにコンクリート製のボールを使ったトレーニングを強要しました。彼によれば、特に成績の悪かった選手は砂利採取場に引きずり出され、感染症にさせるために汚水タンクへの飛び込みを強要されたとのことです。[1]

 またある時は、オリンピック委員会の建物の地下に設けた私設監獄にバレーボール代表チーム全員を詰め込みました。監獄の天井は低く、誰も座ったり立ったりすることができないようになっていました。こうした悪行の全てが、彼が言うところの「やる気を起こさせるための訓練」の名の下で行われたのです。[2]

 ウダイと出会った人は、だいたいは2パターンいずれかの結末を迎えることになります:不運な人物が悲惨な運命を背負って残忍な拷問に何日も耐え忍ぶか、あるいは予期せぬ運命のいたずらによって、彼がその人に思いがけない好意を抱くかのどちらかです。なお、後者のケースでウダイの友情を獲得するには、(ウイスキー、ブランデー、ウォッカ、コニャック、ビールをブレンドし、大きな「友情の杯」に注いだ)「ウダイ・サッダーム・フセイン」と称されるカクテルを飲む必要がありました。新しい友人になったと告げられた人は、そのカクテルを最後の一滴まで飲み干さなければなかったのです。[3]

 ウダイとの良好な関係を長きにわたって維持できた人は、平凡な友情の証を超えた贈り物を受け取ることができました。これらの褒美には、金メッキの「タリク」けん銃や「タブク」自動小銃、さらには「アル・カーディーシーヤ」マークスマンライフル(編訳者注:いわゆるタブク狙撃銃)も含まれていました。ただし、2003年に米軍がバグダッドにあるウダイの宮殿で数十挺のニッケルや金メッキを施された銃を発見したことを踏まえると、彼の親しい友人たちは長年にわたって大幅に減少していたようです。[4]

 ウダイは生涯を通じてさまざまな悪習の中毒に陥りましたが、セックスとポルノへの執着ほど他人の興味を集めるものはなかったでしょう。

 2003年、アメリカ兵がバグダッドにあるウダイの宮殿に突入した際、偶然にも彼らは彼のハーレム専用の別荘に遭遇しました。そこでは、ウダイのセックス中毒の痕跡が宮殿全体に漂っていたのです。その豪邸には裸婦の絵が飾られていたほか、インターネット上にある娼婦の画像をプリントアウトしたものが山積みにされており、それぞれに手書きの評価が添えられていました。あるプリントされた書類には、ウダイとヨーロッパ人の女性との刺激的な会話が記されていたようです:そこには「ダーリン、かわいい人ね、私にセクシーな添付ファイルを送るにはタイミングが悪いわ」と書かれていました。[5]

 宮殿を捜索していたアメリカ兵にとって幸いなことに、''セクシーな添付ファイル''が発見されることはなかったようです。彼らが見つけたのは、女性たちの名前と写真、電話番号のリストが山のように掲載された一冊の本でした。

あるアメリカ陸軍の大尉は、この建物を「今まで見た中で最大の裸の女性のコレクションだった」と評しています。[5]

談笑しているウダイ(右)とクサイ(左):ウダイが吸っている葉巻は特注で作らせたハバナ製で、「ウダイ・サッダーム・フセイン」と目立つようにラベルがされていた[11]

 権力への欲求と性的享楽の強さにもかかわらず、ウダイが非常に知的であったことは広く知られています。1998年にはバグダッド大学で政治学の博士号を取得し、「冷戦後の世界」と題する博士論文を完成させました。[6]

 かつては父の後継者となる運命にあったウダイですが、愚かな殺人への欲望によって、代わりに弟のクサイが優遇されることになりました。

 ウダイの政治的没落は19歳の時に始まりました。というのも、彼はサッダームの側近で友人のカーミル・ハンナ・ジョジョを撲殺したからです。現場に駆けつけたサッダームは、「カーミルが死ぬならお前も死ぬ」という最後通牒を息子に突きつけました。カメルはその夜遅くに亡くなりましたが、ウダイの母親の仲裁によって、彼の死刑は何とか減刑されたのでした。[7]

 釈放後、サッダームはウダイをスイスに(外交官という名目で)追放しました。もっとも、スイスの平和と静けさが彼の粗暴癖を鎮めるにはほとんど役立たなかったことは言うまでもありません。

 数年後の1995年、ウダイは叔父のワトバーン・イブラーヒーム・ハサンを銃撃し、彼の足を切断しなければならないほどの深刻な重傷を負わせるという悪行を繰り返しました。ウダイの処罰について、サッダームは自分が撃たれた時と同じ方法でワトバーンにウダイを撃たせるなどの多種多様な選択肢を検討したようですが、結局はウダイのガレージの一つだけに火をつける決定を下しました。[7]

 敵の数が増えるにつれ、ウダイの運は必然的に尽きる運命にありました。実際、ワトバーン銃撃事件から1年後の1996年12月、ウダイはバグダッドでポルシェを運転中に待ち伏せされ、少なくとも7発の銃弾を受けたのです。ちなみに、イラクにおけるウダイの恐怖政治に終止符を打とうと試みた襲撃者たちについては、家族の大半と一緒に処刑されました。[7]

 ウダイは襲撃で負った傷から完全に回復することはなく、残る生涯を足を引きずりながら歩くことになったのはよく知られています。一般に信じられているのとは反対に、この襲撃で彼は性機能障害になったのではありません。むしろ、すでに抱えていたセックスと殺人への激しい欲求に火をつけたのです。

 ウダイによる殺人や性的暴行に関する報道はしばしば誇張されがちで、多くの場合は完全に捏造されたものですが、彼のサディスティックな性向と性欲が次第に彼の人生を狂わせていったことは間違いないでしょう。

 しかしながら、2003年の体制崩壊後、ウダイに関する虚偽の作り話の増殖が急激に拡散したおかげで 、どれが真実で虚構なのか区別がつかなくなってしまったことが多く見られます(編訳者注:それほどウダイの悪行が突飛なものだったということ)。確実に言えることは、サッダーム・フェダイーンと呼ばれる残忍な準軍事組織の支配を通じて、イラク国民が2003年までウダイの圧政の下で生きる運命にあったということです。

 フェダイーンは完全に非合法に運用されるウダイ直属の組織であり、事実上、彼の私兵の役目を果たしていました。フェダイーンを活用して彼の邪魔者を排除してイラクの人びとを恐怖に陥れるだけでなく、この準軍事組織に対する彼の権力は、コカインやイラクのクウェート侵攻後に国連が指定した制裁品の密輸に携わる巨大な犯罪帝国を築き上げることも可能にしたのです。

 スター・ウォーズの熱狂的な愛好家であったウダイは、フェダイーン・サッダームのヘルメットと制服をダース・ベイダーの服装に似せてデザインさせたことは有名な話ではないでしょうか。見た目の滑稽さに加えて、これらのヘルメットはグラスファイバー製の低品質なものだったので、戦闘中に着用していた人を少しも保護することはできなかったでしょう。

タトゥイーンの戦いで反乱同盟軍に照準を定める銀河帝国の兵士を撮影したカットと勘違いするかもしれない:実際はイラクにおける演習に参加するサッダーム・フェダイーンの兵士である(手前)

 イラクの独裁者の息子が、なぜ出来損ないのスター・ウォーズみたいな脚本に出てきそうなダース・ベイダーのコスチュームを着た兵士たちを使って自国を恐怖に陥れるに至ったのか、と疑問に思う人がいるかもしれません。その答えは、彼のもう一つの道楽であるスポーツでのチート行為が、サッダームによって取り上げられたという事実にあるのかもしれません。

 熱狂的なサッカーファンであったウダイは、1983年に自身のスポーツクラブ、アッ=ラシードSCを設立し、数多くのイラクのトップ選手たちにクラブとの契約を強要したのです。

 彼は(利害の対立が絶対に存在することがない)イラクサッカー協会会長としての二役の中で、アッ=ラシードがイラクサッカー界の支配的立場になるまでに急成長するよう画策し、イラク国民の怒りを買ったのでした。イラクのサッカーファンの間に不満が広がっていたにもかかわらず、ウダイのクラブが自身の名にちなんで命名された1987年のウダイ・フセイン選手権で優勝を果たしたことは言うまでもないでしょう。この偉業で、彼はイラクサッカー協会の会長という立場で、自分自身にメダルを授与するパフォーマンスを披露しました。

 それでも、イラクサッカー界の不公平に対する不満が高まったことで、クラブは3年後にサッダームの指示は解散させられました。

犯罪帝国の監督やその他の極悪非道な活動をしていないとき、ウダイはこのMBB/川崎重工「BK117」のような、数多くあるVIP用ヘリコプターを使って頻繁に狩猟旅行に出かけていた

 独裁者の息子であるウダイは、ボディガードの助けを借りてバグダッドの路上から連れ去った女性たち、ダース・ベイダーのコスチュームで着飾られた自分だけの軍隊、世界中から収集された最新で最も高価な車と、人生の中で望むものは何でも手に入れる特権を与えられていました。

 彼は1980年代から2000年代初頭を通じて、約1,300台で希少な高級外車をコレクションしていたと言われています。[8]

 もちろん、この数字に根拠はなく、ウダイが実際に所有していた台数はこの10分の1にも満たなかった可能性が高いです。同様に、1995年のワトバーン銃撃としてサッダームに破壊されたウダイの車の数は300台から13台と伝えられていますが、実際には後者が最も正確な数字だと思われます。

 ウダイのコレクションには、相当数のポルシェやフェラーリ、そしてランボルギーニが含まれていました。その豪勢さは、「ランボー・ランボ」として知られる希少なランボルギーニ「LM002」オフロード車もあったほどです。ポルシェは特に彼のお気に入りだったようで、「986 ボクスター」と「993 ターボ」3台を含む少なくとも4台を所有していました。さらに、彼のコレクションには、ランボルギーニ「ディアブロ」やフェラーリ「550 マラネロ」といった高性能を誇るスーパーカーもありました。

 ウダイがベントレー、ブガッティ、アストンマーチン、さらにはマクラーレン「F1」を所有していたという情報もあるが、それを裏付ける証拠はありません。

 ウダイは1920年代と1930年代のデザインにインスパイアされた車に愛着を持っており、ロンドン・タクシーやフォード「ウッディワゴン」といった数多くの珍しい車も所有していました。

埃にまみれたフェラーリ「テスタロッサ」(左)とポルシェ「カレラ」(右):どちらもウダイが所有していたものだ

 2003年にアメリカ軍がバグダッドにあるウダイの宮殿を占領したとき、彼の途方もないライフスタイルの全貌がすぐに明らかになりました。そこで兵士たちは、100万ドル(約1.56億円)相当の酒と最高級ワイン、彼の高級車コレクション用の複数のガレージ、さらには2頭のチーターや5頭のライオン、さらには1頭の熊もいる個人用の動物園まで発見したのです。[9] [10]

 アメリカ軍のすぐ後ろから、ウダイの車を奪い取るチャンスを手に入れようとした大勢のイラク市民たちが押し寄せてきました。その混乱の中で、略奪者たちが彼の車を何台も奪い去ったことは容易に想像できるでしょう。全ての車のイグニッションキーが差し込まれた状態だったことが、この事態を余計に悪化させたのでした。

 ウダイの車の一部は後になって国庫に返還されたものの、その大部分は二度と姿を見せることはありませんでした。その多くは、今日に至るまでイラク全土に隠されたままになっていると思われます。

 ウダイの宮殿の略奪は、彼の自動車コレクションの規模に関する噂の元凶の一つです。彼が所有していた車は1,300台と言われているほか、イラクにあるスーパーカーや高級車は事実上その全てが(何の根拠が存在しなかったにもかかわらず)彼と関係があったかのように伝えられています。この誤解は、(Gクラスへの愛着で知られる)弟のクサイやサッダーム自身を含む、著名なイラク政府の要人が所有する車にも及びました。

 1967年にイラクの権力の座に就いたサッダーム・フセインは、かつての政治家たちが使用または所有していたヴィンテージカーの膨大なコレクションを掌握しました。こうした車の中で注目すべきものとしては、エルドマン&ロッシ「1935ロードスター(メルセデス・ベンツ 500K)」メルセデス・ベンツ「770 "グロッサー・メルセデス"」が挙げられます。ウダイはサッダームのコレクションを羨ましく思ったかもしれませんが、彼がそれらの車の所有権を引き継いだことを示す証拠はありません。

 ウダイは自動車に熱中することに加えて、オートバイにも情熱を注いでいました。しかし、1996年の暗殺未遂事件後、彼が負傷のおかげで普通のバイクに乗れなくなったことは、二輪車の一部を三輪車に改造する結果に繋がりました。

 普通のバイクに乗れないことは、ウダイにとってすぐに些細な問題となりました。というのも、アメリカが1991年に達成できなかった目標を完遂させるべく、2003年にイラクに侵攻したからです。

 バグダッド陥落後のウダイとクサイは、ここなら安全だと信じたモスルの邸宅に潜伏していました。ところが、明らかに兄弟にかけられた3,000万ドル(約47億円)の懸賞金に誘惑された邸宅の所有者は、賞金を得るため、近くのアメリカ軍基地まで歩いて出頭したのです。それから間もなく、この邸宅はアメリカ兵に包囲されてしまいました。

 戦わずに降伏することを拒否した後のウダイとクサイについては、邸宅に撃ち込まれた12発の「TOW」対戦車ミサイルによって彼らの銃が沈黙させられるまでの4時間にわたってアメリカ軍と死闘を繰り広げたことは周知のとおりです。

家族を大切にする男としてのウダイ:ここで書かれていることとは逆に、彼が実質的に結婚をすることはなかった(結婚を予定していた3人の婚約者に肉体的虐待を加えていたためである)
  • 以下の一覧は、ウダイ・フセインが所有していた自動車等をリスト化したものです。
  • ここにはウダイが所有していたものだけを掲載しています、したがって、父親のサッダーム・フセインが所有していたものは含まれていません。
  • 2003年にウダイの宮殿が略奪されたことで彼が所有していた自動車やバイクの実際の台数は謎に包まれていますが、ここに記録した数(39台)よりは確実に多いでしょう。
  • したがって、この一覧はウダイのコレクションを包括的にリスト化したものを目指したものではなく、むしろ彼の自動車に対する興味についての独特な見識を読者に提供するものです。
  • 各自動車等の名称に続く数字をクリックすると、当該対象の画像を見ることができます。

スーパーカー (11)
  • 1 ポルシェ ボクスター(986): (1)
  • 1 ポルシェ 993 ターボ: (1)
  • 1 ポルシェ 964: (1)
  • 1 ポルシェ 993 カレラ: (1)
  • 1 フェラーリ テスタロッサ: (1)
  • 1 フェラーリF40: (1)
  • 1 フェラーリ 348 TS: (1)
  • 1 フェラーリ 550 マラネロ: (1)
  • 1 ランボルギーニ ディアブロ: (1)
  • 1 ランボルギーニ LM002: (1)
  • 1 ジャガー XK8 コンバーチブル: (1)

高級車 (15)
  • 2 BMW 5シリーズ (E34): (1) (2)
  • 1 BMW Z1: (1)
  • 1 メルセデス・ベンツ W116: (1)
  • 1 ゲンバラ メルセデス・ベンツ W126 クーペ : (1)
  • 1 ゲンバラ BMW M635CSI : (1)
  • 1 ロールス・ロイス コーニッシュV(コンバーチブル): (1)
  • 4 ロールス・ロイス シルヴァースパー: (1 と 2) (3) (4)
  • 1 ロールス・ロイス コーニッシュV: (1)
  • 1 シボレー コンバーチブル: (1)
  • 1 シボレー クーペ (1)
  • 1 スタッツ ブッラクホーク: (1)
  • 1 プリムス プラウラー: (1)

クラシック/ヴィンテージカー (9)
  • 1 オースチン 8: (1)
  • 1 ロンドン・タクシー(オースチン FX4): (1)
  • 1 ロールスロイス シルヴァーシャドウ: (1)
  • 1 フォード フェアレーン 500(1958年型クーペ): (1)
  • 1 フォード ウッディワゴン: (1)
  • 2 ジマー ゴールデンスピリット: (1 と 2)
  • 1 リヴォン・ジープ(形式不明): (1)
  • 1 形式不明のヴィンテージカーのレプリカ(Tフォードを模したもの?): (1)

子ども用自動車 (2)
  • 1 トイランダー 1: (1)
  • 1 形式不明のバギー: (1)

バイク (2)
  • 1 BMW 1100 RT: (1)
  • 1 ホンダ CBX750P: (1)
[1] Torture, Threats and Imprisonment – How Uday Saddam Hussein Destroyed Iraqi Football https://iraqfootball.me/2017/06/10/torture-threats-and-imprisonment-how-uday-saddam-hussein-destroyed-iraqi-football/
[2] 'SNAKE' & PLAYBOY HAD ONLY LUST FOR BLOOD IN COMMON: UDAY HUSSEIN 1964-2003 https://nypost.com/2003/07/23/snake-playboy-had-only-lust-for-blood-in-common-uday-hussein-1964-2003/
[3] Interview «Ma vie au service d'Oudaï, un cauchemar» https://www.liberation.fr/planete/2003/11/25/ma-vie-au-service-d-oudai-un-cauchemar_453002/
[4] GWT: Custom-made weapons found in Uday's house https://youtu.be/w6kY15nIFlQ?si=XgrbsscrDuqHPkHN
[5] Oasis of Hedonism In Nation of Poverty https://www.washingtonpost.com/archive/politics/2003/04/15/oasis-of-hedonism-in-nation-of-poverty/5bbfa271-2129-4bef-b2a9-b1fc06c19be3/
[6] Uday Hussein: Playboy turned academic http://news.bbc.co.uk/2/hi/middle_east/197389.stm
[7] Sons Of Saddam Hussein - Full Documentary https://youtu.be/WFxn_f_B9dQ?si=WdzY1IvDSp04hc7R
[8] Saddam, Car Guy https://www.caranddriver.com/news/a15132128/saddam-car-guy-car-news/
[9] Saddam Hussein's family tape https://youtu.be/OidUxhuATHo?si=4Oifcw51FPlW2lKE&t=448
[10] GWT: WRAP Marines clear Saddam's sons palace, plus luxury cars found https://youtu.be/1rgcEvNGFyo?si=w5CqmhgAqd3c2UFb
[11] https://i.postimg.cc/281gcySB/222.jpg

2025年前半に改訂・分冊版が発売予定です

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