著:シュタイン・ミッツアー と ヨースト・オリーマンズ(編訳:Tarao Goo)
当記事は、2023年9月21日に本国版「Oryxブログ」(英語)に最後に投稿されたものを翻訳した記事です。 意訳などにより、僅かに本来のものと意味や言い回しが異なっている箇所があります。
あなた方アメリカ人はイラクの農民が新婦にするように第三世界を扱っている...3日間のハネムーンが終わったら、あとは畑へ放り出すだけだ:サッダーム・フセイン
オリガルヒのスーパーヨットは、その巨大なサイズと豪華な内装で多くの注目を集めています。こうした船の多くには、ヘリポート、プール、映画館、スピードボートや高級車専用の格納庫、義理の両親を泊めるのに十分なだけの豪華な客室が備わっています。
実際、最大のスーパーヨットは、大きさの点ではフリゲートに匹敵するほど巨大です。それに比べると、ヘッダー画像のヨットについては、一見するとクルーズ船やバルト海で見るフェリーと同等のレベルに見えるかもしれません。
しかし、その見た目に騙されてはいけません。なぜならば、この洋上宮殿は、その時代で最も豪華なものだったのです。
「アル・マンスール」と名付けられたこの船は、大量の大理石と金メッキで装飾された部屋、印象的なアトリウム、200人収容可能なダイニングルーム、格納庫付きのヘリポート、そして脱出ポッド(小型潜水艦)などを備えていました。このヨットには、2基の「9K31 "ストレラ-1"」対空ミサイルの発射機が船の上部構造に隠される形で装備されていたという噂もあります。
少なくとも贅沢をしないふりをする努力をしていたムアンマル・カダフィとは異なり、サッダーム・フセインは、その贅沢なライフスタイルを実に堂々と誇示していました。それには、膨大な数の高級外車のコレクション、豪華な専用列車、フランス、イギリス、ドイツ、アメリカ製の(個人用)ヘリコプター群、(現在は売りに出されている)「ボーイング747SP」4発旅客機、さらには別のVIP専用機が含まれていたほどです。
こうした多くの交通手段によって、彼は、一つの宮殿と別の宮殿を楽々と移動することができました(これらの宮殿それぞれが、都市全体に匹敵する広さであったことにも言及しておきます)。
イランと戦争していないとき、あるいはイラクの村々全体を壊滅していないとき、サッダームとその家族は、イラク海軍の総排水量を上回る3隻のプライベート・ヨットのうちの1隻に乗ってリラックスできたわけです。2003年に失脚するまで、サッダームとその家族が極めて贅沢な生活を謳歌していたと言えば十分に伝わるでしょう。
ヨットによっては不運だったのは、サッダームが贅沢な暮らしに溺れること以上に大切にしていたことがあったことです:それは外国に侵略を仕掛けることでした。
敵の海軍や空軍の標的になることなく外洋クルージングで潮風を楽しむため、彼は近隣諸国への侵攻を控える必要がありました。と言うのも、イラクの海岸線は58キロメートルと短い上に実質的な領海が存在しないため、彼が持つ大型ヨットの運航には支障があったからです。それでも、サッダームは正式に政権の座に就いてから僅か1年後にイランを攻撃して、最初の侵攻を開始しました。
著しく弱体化したイランを相手に迅速な勝利を見込んでいたにもかかわらず、イラン・イラク戦争が結局8年近くも続いたことはご存知のとおりです。この戦争中、イランが(港の)船舶を標的にすることに関心を示さなかったため、彼のヨットはイラクや外国の港に安全に係留されたままでした。
1988年にイラン・イラク戦争が終結した後、サッダームはようやくヨットを使えるようになりました。しかし、彼はそのヨットに乗る前にクウェートへの侵攻を開始したのです。1990年のクウェート侵攻は、サッダームの圧政と途方もない贅沢な暮らしの終わりの始まりでした。
その11年前の1979年、サッダームは正式に大統領の座に就き、最高権力者となりました。その年は、彼がバアス党の粛正を画策して党の臨時会議中に対立する党員たちの名前を読み上げ、彼らを外に連れ出して処刑させたほか、デンマークにプライベート・ヨット2隻を発注した年でもあります。
そのヨットは「カディシヤット・サダーム」と「アル・カーディシーヤ」で、後者はユーフラテス川とチグリス川で運行するために特別設計された河川航行用ヨットです。デンマークの船舶設計企業であるクヌーズ・E・ハンセン社によって設計され、ヘルシンゲル造船所で建造された2隻は、それぞれ1981年と1982年に納入されました。[1] [2]
イランとの戦争が続いていたおかげで、サッダームは全長80メートルの「カディシヤット」を利用することができませんでしたが、やがて、サウジアラビアの国王が彼に戦争を終結させるだけの説得力のある動機を与えることになります。
「アル・マンスール」には遠く及ばなかったかもしれないが、「カディシヤット・サッダーム」も豪華さに満ちあふれていた |
サウジアラビアのハーリド国王は、イラン・イラク戦争の資金として数百億ドルを提供し、イラク・フランス間のさまざまな武器取引に資金を援助したほか、新品のヨットを贈呈することで(少なくとも一部の湾岸諸国から見れば)イランの脅威に対抗したサッダームに報いました。
「アル・マンスール(勝者)」は全長120メートルという見事なものでした。その巨体ゆえに、「カディシヤット・サッダーム」の影が完全に消えてしまったほどです。
驚くべきことに、この船はサッダームが「カディシヤット・サッダーム」を引き渡される前からサウジアラビアに発注されていました。
同じくクヌーズ・E・ハンセン社が設計し、フィンランドの造船企業であるバルチラによって建造されたこのヨットは、1982年に完成したことが記録されています。
「アル・マンスール」は、大きさだけでなく設備の面においても「カディシヤット」を凌駕していました。装甲甲板、防弾窓、泳いで侵入して来る者に対する防護設備、病院、格納庫付きヘリポート、サッダームのスイートルームと脱出ポッド(小型潜水艦)を結ぶ脱出ルートを誇っており、伝えられるところによれば、2基の「9K31 "ストレラ-1"」 対空ミサイル発射機も搭載していたとのことです。
バルト海で海上公試中の「アル・マンスール」:後方のヘリポートと中央の大きなアトリウムに注目 |
1982年に「アル・マンスール」が完成した後は、このヨットをイラン・イラク戦争が続く中のイラクまで航行させるという困難な任務が残されていました。2005年に行われた「アル・マンスール」の船長へのインタビューでは、1984年に新品のヨットをバスラに到着させることができたのは、綿密な計画の結果というよりも、むしろ奇跡に近い幸運のおかげだったと語られています。[3]
航海のクライマックスは、1984年2月の暗い夜に狭いホルムズ海峡を抜けてペルシャ湾に入ったときのことでした。というのも、イランの支配下にある海域を通過するという極限の状況だったからです。ウム・カスルの港に到着した後、「アル・マンスール」はすでに同港に停泊していた「カディシヤット・サッダーム」と合流しました。
サッダームがこのヨットをイラクまで危険な船旅をさせ、結果的に使用不能にすることを選んだ正確な理由は謎のままです。しかし、確実なのは、彼がこの船を一度も目にしたことがないということでしょう。それが、イランとの戦争で抱える過密なスケジュールのためだったのか、それとも船を訪れることでイランの標的になることを懸念してのことだったのかは分かっていません。
とはいえ、サッダームが自分のヨットを使うためにイランとの戦争を終わらせたわけではないことは明らかです。 したがって、ハーリド国王からの贈り物は太っ腹だったとは言えますが、途方もない無駄遣いに過ぎなかったことに議論の余地がありません。
この船の豪勢な内装を見れば、いかに巨額の浪費だったことか分かります。
サッダーム・フセインは、内装のデザイン担当に建築家のDinkha Latchinを起用しました。彼が手がけた略図をここで見ることができます。
サウジアラビアが費用を負担したおかげで、Latchinは事実上、あらゆる創作意欲を満たすことができました。彼によれば、サッダームは「アル・マンスール」を自身の洋上宮殿としてだけでなく、国家的な会議を開催したり、外国の要人を宿泊させたりする場としても想定していたとのことです。[4]
彼は次のとおり述べました:「あれは多くの会議室を備えたクルーズ船で、湾岸諸国の中心部で会議をするためのものでした。無人の地で公正な会議を開くのであれば中心地でなければならない、それがこの船のコンセプトだったのです」。[4]
それまでLatchinがサッダームのためにやってきた仕事は、主にイラク大使館や世界各地の文化センターの設計でしたが、彼に与えられた新たな役割は、船内の設計のみならず(経験のない)船の設計顧問として働くことでした。
それにもかかわらず、クヌーズ・E・ハンセン社の設計士は、6階建ての建物と同じ高さのフェリーの設計図を見せてLatchinを安心させ、「私たちがこのフェリーを浮かべることができれば、あなたが設計したものは何でも浮かべることができます。だから何も心配しないでください。私たちがやってみせますから。」と力説したのです。[4]
彼は船の外装のデザインも担当し、前部を延長してダウ船を想起させる外観にしたものの、波浪による損傷に脆弱であるとの懸念から、この延長部分については最終的に短縮を強いられてしまいました。[4]
航海のクライマックスは、1984年2月の暗い夜に狭いホルムズ海峡を抜けてペルシャ湾に入ったときのことでした。というのも、イランの支配下にある海域を通過するという極限の状況だったからです。ウム・カスルの港に到着した後、「アル・マンスール」はすでに同港に停泊していた「カディシヤット・サッダーム」と合流しました。
サッダームがこのヨットをイラクまで危険な船旅をさせ、結果的に使用不能にすることを選んだ正確な理由は謎のままです。しかし、確実なのは、彼がこの船を一度も目にしたことがないということでしょう。それが、イランとの戦争で抱える過密なスケジュールのためだったのか、それとも船を訪れることでイランの標的になることを懸念してのことだったのかは分かっていません。
とはいえ、サッダームが自分のヨットを使うためにイランとの戦争を終わらせたわけではないことは明らかです。 したがって、ハーリド国王からの贈り物は太っ腹だったとは言えますが、途方もない無駄遣いに過ぎなかったことに議論の余地がありません。
まだ安全なフィンランド領海内を航行中に撮影された「アル・マンスール」 |
この船の豪勢な内装を見れば、いかに巨額の浪費だったことか分かります。
サッダーム・フセインは、内装のデザイン担当に建築家のDinkha Latchinを起用しました。彼が手がけた略図をここで見ることができます。
サウジアラビアが費用を負担したおかげで、Latchinは事実上、あらゆる創作意欲を満たすことができました。彼によれば、サッダームは「アル・マンスール」を自身の洋上宮殿としてだけでなく、国家的な会議を開催したり、外国の要人を宿泊させたりする場としても想定していたとのことです。[4]
彼は次のとおり述べました:「あれは多くの会議室を備えたクルーズ船で、湾岸諸国の中心部で会議をするためのものでした。無人の地で公正な会議を開くのであれば中心地でなければならない、それがこの船のコンセプトだったのです」。[4]
それまでLatchinがサッダームのためにやってきた仕事は、主にイラク大使館や世界各地の文化センターの設計でしたが、彼に与えられた新たな役割は、船内の設計のみならず(経験のない)船の設計顧問として働くことでした。
それにもかかわらず、クヌーズ・E・ハンセン社の設計士は、6階建ての建物と同じ高さのフェリーの設計図を見せてLatchinを安心させ、「私たちがこのフェリーを浮かべることができれば、あなたが設計したものは何でも浮かべることができます。だから何も心配しないでください。私たちがやってみせますから。」と力説したのです。[4]
彼は船の外装のデザインも担当し、前部を延長してダウ船を想起させる外観にしたものの、波浪による損傷に脆弱であるとの懸念から、この延長部分については最終的に短縮を強いられてしまいました。[4]
「アル・マンスール」内部の様子:この船は誕生から一度も使用されず、2003年以降は略奪者によって内装が全て奪われてしまった |
ウム・カスルで、「アル・マンスール」は、 (アラブ・イスラム世界がイランを征する契機となった)西暦636年の「アル・カディシヤの戦い」にちなんで命名された「カディシヤット・サッダーム」に隣接して係留されていました。
イラン軍がイラクとの国境に接近し、続いてイラクに侵入すると、「カディシヤット・サッダーム」は安全のため、1986年にサウジアラビアに移されました。「アル・マンスール」については、待避させられることなくイラクに残されたままとなりましたが、理由が何なのかは分かっていません。
イランとの戦争が終結した後になっても、サッダームはサウジアラビアからヨットを取り戻す動きを見せなかったようです。その代わり、イラン・イラク戦争で生じた借金の返済を拒否したことが引き金となってクウェートに侵攻し、続く湾岸戦争で不運にもサウジアラビアにも侵攻したことで、サウジアラビアに「カディシヤット・サッダーム」を接収されてしまいました。[5]
ただし、サウジ国王や王家の面々が新しいヨットを必要としていなかったことから、「アル・ヤマーマ」と改名されたこのヨットは全く使用されなかったようです。
サッダーム・フセインが「カディシヤット・サッダーム」の所有で恩恵を受けたわけではありませんが、大統領専用ヨットの調達を担当した彼のスタッフが利益を得たことは間違いありません。というのも、彼らがこのヨットに関する交渉を通じて、5%の手数料に加えて「善意の心遣い」として10台のバスと4台のメルセデスを用意するよう要求し続け、最終的にヘルシンゲル造船所に契約を認めさせたからです(編訳者注:発注の見返りに便宜供与を約束させたということ)。もっとも、デンマーク側はその要求を履行しませんでしたが。[5][6]
ヨットの建造中、サッダームの指示を確実に厳守するため、イラクの当局者たちが造船所を入念にチェックしました。その際の注目すべき出来事として、ある役人がサッダームのスイートルーム用のベッドカバーを交換するよう要求したことがありました。なぜならば、休憩中の作業員がほんの少しだけベットで休んでしまったからです。[7]
デンマーク人が大いに驚いたことに、高価なベッドカバーが交換された後、件の作業員には(交換前の)ベッドカバーを持ち帰ることが認められました。その後、彼はそれを長年にわたって自分のベッドで使用したとのことです。[5]
「カディシヤット・サッダーム」内のサッダーム専用ベッドと悪名高い新品のベッドカバー |
1990年代初期にサウジアラビアが「カディシヤット・サッダーム」を接収して以降、このヨットが何に使われたかは全く知られていません。後に「オーシャン・ブリーズ」と改名されたこのヨットについては、ヨルダンのアブドラ2世国王に贈られた可能性が伝えられています。
「オーシャン・ブリーズ」の正式登録はケイマン諸島の企業と関連付けられていましたが、これは真の所有者を偽装するためにスーパーヨットの世界で用いられる一般的な手法のため、特に珍しいものではありません。
2000年代から2010年代にかけて、イラクの新政権は在外資産の所在を突き止め、本国に引き揚げることを決定しました。2007年に「オーシャン・ブリーズ」がフランスのニースでドック入りした際、イラク当局は同船の所有権を自国に移転するよう申し入れました。[5]
数年にわたるフランスでの法廷闘争の結果、2009年に裁判所がイラクに勝訴の判決を下しました。こうして、イラクによるヨットの接収が認められたのです(編訳者注:2008年という情報もある)。 大規模な修理の後、ヨットは2010年にバスラに帰還し、「バスラ・ブリーズ」と改名されてバスラ大学海洋科学センターの研究プラットフォームとして再利用されました。[5]
2018年にバスラ港のイラク人水先案内人用の水上ホテルに転用されたヨットの役目は、今でも続いています(編訳者注:2021年の時点で、バスラの地で洋上博物館として再利用される案が浮上したが、その後の経過については不明)。[11]
「アル・マンスール号」と同様に、サッダームが「カディシヤット・サッダーム」に足を踏み入れることは一度もありませんでした。
サッダームが「カディシヤット・サッダーム」を待避させるという選択をしたことが、このヨットが今日まで現存している理由であることは言うまでもないでしょう。
より大型の「アル・マンスール」をイラクに残すという決定は、最終的にこのヨットに全く異なる運命をもたらすことになります。イラク沖に展開するアメリカの空母打撃群と遭遇するリスクなしに航行することができなかった「アル・マンスール」は、1991年から2003年まで休眠状態にありました。
2003年、サッダームはこのヨットをウム・カスルからバスラの内港に移動させるよう命令を出しました。この動きについては、フセイン政権が差し迫った侵攻に何とか耐えられるというサッダームの未練に似た希望を反映したものであり、ヨットが攻撃されることを回避するべく行われたものだったと思われます。ところが、彼の意図は脆くも崩れ去ってしまいました。有志連合軍が「アル・マンスール」がイラク軍及び共和国防衛隊の通信センターあるいは司令部として機能していることを確信し、この船を無力化する決定を下したからです。[8]
第一撃はアメリカ海軍の空母艦載機ロッキード「S-3B "バイキング」の空爆で始まり、同機がミサイルを1発撃ち込みましたが、機能停止に追い込むことはできませんでした。第二撃として2機の「F/A-18 "ホーネット"」が攻撃しましたが、誘導爆弾は同艦に命中しなかったようです。[8]
最新鋭の攻撃機と誘導兵器が無防備なプライベート・ヨット相手の攻撃に2度も失敗したことを考慮すると、この時点でアメリカは不満を大きく抱いたのかもしれません。その後、2機の「F-14」に「Mk.82」500ポンド(227kg)爆弾を使用しての「アル・マンスール」攻撃が命じられました。[8]
1機目の「F-14」は早いタイミングで爆弾を投下したため、結果的に1発が「アル・マンスール」の前面装甲を貫通せずに爆発してしまいました。続く2機目は正確な攻撃に成功し、中央部のアトリウムに命中して炎上を生じさせたものの、沈没に至るほどの致命的な損傷を与えることはできなかったようです。
この時点で「アル・マンスール」の防御力が見せた強靱性は、この国が経験した全戦争におけるイラク海軍の数少ない成功例を示しました。アメリカとしては、目標の無力化自体が達成されていることから、攻撃が十分に行われたと判断し、沈没まで至らせるようなことをしなかったと見受けられます。
このヨットは空爆から数年後に転覆という形で最期を迎えましたが、これはアメリカの空爆によるものというよりは、何もせず放置し続けた結果です。
想像できる限りの豪華な設備を備えた2隻の外洋ヨットを所有しながらも、イラン(後にアメリカ)との戦争により、サッダームにとってそれらは事実上使用不可能な代物となりました。
後に「オーシャン・ブリーズ」と呼ばれ、その後「バスラ・ブリーズ」改名された 「カディシヤット・サッダーム」は再びイラク人の手に戻り、バスラ大学の海洋科学センターで利用されている(ただし、今では将来を危ぶまれている) |
サッダームが「カディシヤット・サッダーム」を待避させるという選択をしたことが、このヨットが今日まで現存している理由であることは言うまでもないでしょう。
より大型の「アル・マンスール」をイラクに残すという決定は、最終的にこのヨットに全く異なる運命をもたらすことになります。イラク沖に展開するアメリカの空母打撃群と遭遇するリスクなしに航行することができなかった「アル・マンスール」は、1991年から2003年まで休眠状態にありました。
2003年、サッダームはこのヨットをウム・カスルからバスラの内港に移動させるよう命令を出しました。この動きについては、フセイン政権が差し迫った侵攻に何とか耐えられるというサッダームの未練に似た希望を反映したものであり、ヨットが攻撃されることを回避するべく行われたものだったと思われます。ところが、彼の意図は脆くも崩れ去ってしまいました。有志連合軍が「アル・マンスール」がイラク軍及び共和国防衛隊の通信センターあるいは司令部として機能していることを確信し、この船を無力化する決定を下したからです。[8]
第一撃はアメリカ海軍の空母艦載機ロッキード「S-3B "バイキング」の空爆で始まり、同機がミサイルを1発撃ち込みましたが、機能停止に追い込むことはできませんでした。第二撃として2機の「F/A-18 "ホーネット"」が攻撃しましたが、誘導爆弾は同艦に命中しなかったようです。[8]
最新鋭の攻撃機と誘導兵器が無防備なプライベート・ヨット相手の攻撃に2度も失敗したことを考慮すると、この時点でアメリカは不満を大きく抱いたのかもしれません。その後、2機の「F-14」に「Mk.82」500ポンド(227kg)爆弾を使用しての「アル・マンスール」攻撃が命じられました。[8]
1機目の「F-14」は早いタイミングで爆弾を投下したため、結果的に1発が「アル・マンスール」の前面装甲を貫通せずに爆発してしまいました。続く2機目は正確な攻撃に成功し、中央部のアトリウムに命中して炎上を生じさせたものの、沈没に至るほどの致命的な損傷を与えることはできなかったようです。
この時点で「アル・マンスール」の防御力が見せた強靱性は、この国が経験した全戦争におけるイラク海軍の数少ない成功例を示しました。アメリカとしては、目標の無力化自体が達成されていることから、攻撃が十分に行われたと判断し、沈没まで至らせるようなことをしなかったと見受けられます。
このヨットは空爆から数年後に転覆という形で最期を迎えましたが、これはアメリカの空爆によるものというよりは、何もせず放置し続けた結果です。
2003年のアメリカ軍による空爆で損傷を受けた「アル・マンスール」:Mk.82爆弾が装甲を突き破れなかった船首部分に注目 |
ヨットの反対側では、2回目の攻撃で命中したMk.82爆弾による被害を見ることができる:この爆弾は船の最も脆弱な部分に命中し、壊滅的な火災を引き起こした |
想像できる限りの豪華な設備を備えた2隻の外洋ヨットを所有しながらも、イラン(後にアメリカ)との戦争により、サッダームにとってそれらは事実上使用不可能な代物となりました。
彼にとって幸いだったのは、イラクにはユーフラテス川とチグリス川という、大型船が航行可能な大きな河川があったことです。どうやら、彼はこれらの河川を無駄にするのは惜しいと考えたらしく、1979年にクヌーズ・E・ハンセン社とヘルシンゲル造船所の協力を得て、豪華な河川用ヨットを設計・建造させたのでした。[2]
このヨットは西暦636年のアル・カーディシーヤの戦いの戦いにちなんで、サッダームの「ボーイング747SP」と同じ「アル・カーディシーヤ」と名付けられました。全長が67メートルで、ユーフラテス川とチグリス川に架かる橋の下を通過できるように低く設計されたデザインが特徴です。
小型ボート用の格納庫を含む、想像しうる限りの豪華な設備を備えた「アル・カーディシーヤ」は、1982年にサッダームに引き渡されました。このヨットがイラクで使用された情報についてはほとんど存在せず、イラク国内で撮影されたことも確認されていません。
サダムにとっては不運だったのは、自分が心の底から楽しむことができた唯一のヨットが最初に沈んだヨットになってしまったことでしょう。「アル・カーディシーヤ」は湾岸戦争中の1991年初頭に沈められてしまったのです。[2]
このヨットについては、今でもイラクの河底に横たわり続けていると考えられています。
今日、かつてサッダームが所有していた豪勢な洋上宮殿の名残は、水路に浮かぶ錆びついた船体とホテルとして再活用されたヨットだけです。
ヨットの1隻がイラクの人々に返還されたことは、少なくとも一つの前向きな結果を示していると言えるでしょう。とはいえ、「アル・マンスール」が誇ったかつての栄華の記憶はいまだにイラクに残っており、沈没船の保存を求める声が上がっています。[9]
このような事業に資金が得られるかどうか、略奪に遭った沈没船を保存することが本当に価値のある行為なのかどうか、いまだに不透明なままです。それでも、錆びた船体が河川の水質を脅かしているため、この船に何か手を打たなければならないことに議論の余地はありません。[10]
この先どのような展開になろうとも、否定できない事実が一つだけあります:それは、サッダームが所有したヨットが(誕生から)40年後に再び人びとの好奇心をそそる物語となったことです。
[1] Qadissiyat Saddam - Design of 80 m luxury yacht https://www.knudehansen.com/reference/qadissiyat-saddam/
[2] Al Quadisiya - Conceptual Design of 67 m river yacht https://www.knudehansen.com/reference/al-quadisiya/
[3] The Best of the Best of the World http://peacework.blogspot.com/2005/04/best-of-best-of-world-now-this-is.html
[4] Saddam’s Love For The Sea — Interview with Architect Dinkha Latchin. https://medium.com/@samt_60363/saddams-love-for-the-sea-interview-with-architect-dinkha-latchin-f0b6ed43a44e
[5] Whatever Happened To Saddam Hussein's Yacht? https://www.boatinternational.com/yachts/editorial-features/basrah-breeze-saddam-hussein-yacht
[6] Inside Saddam Hussein’s abandoned gold-encrusted superyacht with missile launcher and secret passage to mini-sub https://www.thesun.co.uk/news/21705213/saddam-husseins-abandoned-gold-encrusted-superyacht-missile-launcher/
[7] Grusom diktators vilde danske luksus https://jyllands-posten.dk/kultur/article6383273.ece
[8] March 27, 2003: The U.S. Navy F-14 Tomcats Attack On Saddam's Yacht https://theaviationist.com/2013/03/27/saddams-yacht/#.UVRoRqp5LYS
[9] Saddam Hussein's rusting yacht al-Mansur now serves as a picnic spot for Iraqi fishermen https://www.abc.net.au/news/2023-03-17/saddam-s-rusting-yacht-serves-as-picnic-spot-for-iraqi-fishermen/102109946
[10] Al-Mansur: How Saddam Hussein’s largest yacht became a local fishing spot in Iraq https://www.boatinternational.com/yachts/editorial-features/al-mansur-saddam-hussein-yacht
このヨットは西暦636年のアル・カーディシーヤの戦いの戦いにちなんで、サッダームの「ボーイング747SP」と同じ「アル・カーディシーヤ」と名付けられました。全長が67メートルで、ユーフラテス川とチグリス川に架かる橋の下を通過できるように低く設計されたデザインが特徴です。
小型ボート用の格納庫を含む、想像しうる限りの豪華な設備を備えた「アル・カーディシーヤ」は、1982年にサッダームに引き渡されました。このヨットがイラクで使用された情報についてはほとんど存在せず、イラク国内で撮影されたことも確認されていません。
サダムにとっては不運だったのは、自分が心の底から楽しむことができた唯一のヨットが最初に沈んだヨットになってしまったことでしょう。「アル・カーディシーヤ」は湾岸戦争中の1991年初頭に沈められてしまったのです。[2]
このヨットについては、今でもイラクの河底に横たわり続けていると考えられています。
「アル・カーディシーヤ」はユーフラテス川とチグリス川での使用を目的としていた:1982年に引き渡されたが、湾岸戦争で戦没した |
船尾部分から見た「アル・カーディシーヤ」:後部にはプレジャーボートやジェットスキー専用の格納庫が設けられている |
今日、かつてサッダームが所有していた豪勢な洋上宮殿の名残は、水路に浮かぶ錆びついた船体とホテルとして再活用されたヨットだけです。
ヨットの1隻がイラクの人々に返還されたことは、少なくとも一つの前向きな結果を示していると言えるでしょう。とはいえ、「アル・マンスール」が誇ったかつての栄華の記憶はいまだにイラクに残っており、沈没船の保存を求める声が上がっています。[9]
このような事業に資金が得られるかどうか、略奪に遭った沈没船を保存することが本当に価値のある行為なのかどうか、いまだに不透明なままです。それでも、錆びた船体が河川の水質を脅かしているため、この船に何か手を打たなければならないことに議論の余地はありません。[10]
この先どのような展開になろうとも、否定できない事実が一つだけあります:それは、サッダームが所有したヨットが(誕生から)40年後に再び人びとの好奇心をそそる物語となったことです。
横転・着底した「アル・マンスール」:2024年現在もバスラ港で無残な姿を晒している(座標: 30°31'34.53"N、 47°50'25.67"E) |
[1] Qadissiyat Saddam - Design of 80 m luxury yacht https://www.knudehansen.com/reference/qadissiyat-saddam/
[2] Al Quadisiya - Conceptual Design of 67 m river yacht https://www.knudehansen.com/reference/al-quadisiya/
[3] The Best of the Best of the World http://peacework.blogspot.com/2005/04/best-of-best-of-world-now-this-is.html
[4] Saddam’s Love For The Sea — Interview with Architect Dinkha Latchin. https://medium.com/@samt_60363/saddams-love-for-the-sea-interview-with-architect-dinkha-latchin-f0b6ed43a44e
[5] Whatever Happened To Saddam Hussein's Yacht? https://www.boatinternational.com/yachts/editorial-features/basrah-breeze-saddam-hussein-yacht
[6] Inside Saddam Hussein’s abandoned gold-encrusted superyacht with missile launcher and secret passage to mini-sub https://www.thesun.co.uk/news/21705213/saddam-husseins-abandoned-gold-encrusted-superyacht-missile-launcher/
[7] Grusom diktators vilde danske luksus https://jyllands-posten.dk/kultur/article6383273.ece
[8] March 27, 2003: The U.S. Navy F-14 Tomcats Attack On Saddam's Yacht https://theaviationist.com/2013/03/27/saddams-yacht/#.UVRoRqp5LYS
[9] Saddam Hussein's rusting yacht al-Mansur now serves as a picnic spot for Iraqi fishermen https://www.abc.net.au/news/2023-03-17/saddam-s-rusting-yacht-serves-as-picnic-spot-for-iraqi-fishermen/102109946
[10] Al-Mansur: How Saddam Hussein’s largest yacht became a local fishing spot in Iraq https://www.boatinternational.com/yachts/editorial-features/al-mansur-saddam-hussein-yacht
[11] バスラの地元住民が、サダム・フセインの豪華ヨットを展示する計画を提案https://www.arabnews.jp/article/middle-east/article_43641/
2025年前半に改訂・分冊版が発売予定です |
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おもしろかったです。出典も提示され、よくぞ調べられたと感心しました。
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