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2023年10月7日土曜日

アハトゥンク・パンツァー!:トルコで運用された「Ⅲ号戦車」と「Ⅳ号戦車」


著:シュタイン・ミッツアーとヨースト・オリーマンズ(編訳:Tarao Goo

 トルコ陸軍による「レオパルト1A3」「レオパルト2A4」戦車の運用は非常によく知られており、後者は2016年末の「イスラム国」との戦闘に投入されたこともあります。

 しかし、トルコにおけるドイツ製戦車の歴史は1980年代から始まった最初の「レオパルド1」の受領から始まったわけではありません。実際には1943年にナチス・ドイツから「III号戦車M型」「IV号戦車G型」が引き渡された時点がその歴史の始まりなのです。これらの戦車は、すでにトルコ陸軍で運用中の戦車やその他の装甲戦闘車両の魅惑的なコレクションに加わりました。

 トルコは(ソ連・イギリス・ドイツ・アメリカ・フランスを含む)第二次世界大戦の主要国が開発したほぼ全ての戦車を運用した世界で唯一の国です。

 1932年、トルコはソ連から「T-26 "1931年型"(機関銃塔2基搭載型) 」軽戦車2台と「T-27」タンケッテ(豆戦車)4台の寄贈を受け、これらの戦車で得た有益な経験は、最終的にトルコが1934年にソ連から「T-26 "1933年型"Mod. (45mm砲搭載)」64台と「T-37A」水陸両用軽戦車1台、そして「BA-3」装甲車34台を発注することに至る結果をもたらしました。

 これらのソ連戦車が、トルコ軍で就役した初の本格的な戦車でした(ただし、歩兵を戦車に慣れさせる目的で1928年にフランスから「FT-17」が1台調達されています)。1940年には、イギリスから少なくとも12台のヴィッカース「Mk VI」軽戦車を導入したほか、フランスが侵攻される僅か数か月前に100台のルノー「R35」軽戦車もトルコに納入されました。

 残念なことに、1930年代から1940年代にかけて導入された戦車を撮影した画像はほとんど残っていません。確かに言えることは、第二次世界大戦中もトルコによる戦車獲得の勢いが衰えなかったということでしょう。

 この国は1945年2月にナチス・ドイツと日本に宣戦布告するまで中立を保っていたものの、トルコ陸軍は国境付近で激しく展開する戦争の中で戦力拡充を図ることを決定しました。

 枢軸国と連合国は互いに自陣営でのトルコの参戦(または忠誠)を望んでいたため、フランス・イギリス・アメリカ・ドイツはトルコ軍に膨大な数の兵器を供与しました。このような取り組みの結果、トルコはイギリスの「ハリケーン」や「スピットファイア」からフランスの「MS.406」、さらにはドイツの「Fw.190」に至るまでのあらゆる戦闘機を入手して運用するまでになったのです。

 また、イギリスは1941年から1944年にかけて「バレンタイン」戦車と「M3"スチュアート"」軽戦車を各200台程度を供給することによって、トルコの機甲戦力の大幅な増強しようと努めました。どちらも当時の時点で既に旧式化していましたが、それでも「R35」と「T-26」に比べて飛躍的な性能向上をもたらし、1943年に残存する「T-26」の退役を可能にさせました。

 トドイツもイギリスに負けじとばかりにトルコへ戦車の売り込みをかけた結果、(砲弾と予備部品と一緒に)1943年に「III号戦車」35台と「IV号戦車」35台を調達するに成功しました。[1]この数はイギリスが納入した500台近い戦車と比べると見劣りますが、もしかするとドイツ側の戦況が反映されているのかもしれません。

パレード中の(少なくとも7台の)「IV号戦車」:戦後に約30台の「M4A2 "シャーマン"」が納入されるまで、トルコ軍が保有する中で最も高性能な戦車であり続けた

 最終的にトルコが受領した戦車の総数については、いまだに謎のままとなっています。ニーダーザクセン・ハノーヴァー機械工場(MNH)が1943年1月から2月にかけて合計56台の「III号戦車」を組み立て、そのうち35台がトルコに引き渡される予定でしたが、56台のうちの相当数がドイツ国防軍に配備されてしまいました(第505重戦車大隊:Schwere Panzer-Abteilung 505にも割り当てられました)。[2]

 納入された「III号戦車」及び「IV号戦車」はトルコ軍ではそれぞれ「T-3」と「T-4」と呼称され、数年前に入手したドイツの「統制型乗用車(アインハイツ-PKW)」と一緒に運用されました。ただし、予備部品の不足と保有数の少なさが原因で、これらの戦車は1940年代末に退役したようです。

 ちなみにトルコだけがドイツの工業生産力に失望した国ではなったことを疑う余地はありません。というのも、一部の枢軸国でさえ長い間待たされた挙句、結局は発注した戦車が僅かしか納入されなかったからです。

 第一次世界大戦や第二次世界大戦の勃発でイギリスやドイツから何度も徴発されたことがあったため、トルコ軍からすれば発注した兵器が接収されることは全く目新しいことではありません。実際、イギリス政府が国内で建造中の「ドレッドノート」級戦艦2隻を接収したことでオスマン帝国に多大な反感を与え、同帝国政府が中央同盟に加わる決定を下す一因となった過去がありました。

 隣国のブルガリアが(訓練用の3台は納入されなかったものの)91台の「IV号戦車」を完全に受け取ることに成功したのは、同国が枢軸国側として積極的に戦争に関与してきたことが関係していることは明らかでしょう。ブルガリア陸軍は1943年に合計で88台の「IV号戦車のH型とG型を受領しましたが、1944年に43台が、もう11台も1945年に失われました。 [2][3]

 ブルガリアが連合国側に寝返った後の1945年3月以降、ソ連から合計で51台の「IV号戦車」が供与されました。[4]

 これらの戦車は1958年まで現役であり、それ以後はNATO加盟国であるトルコとの国境沿いに固定式のトーチカとして車体が埋められましたが、これらが掘り起こされたのは2010年代に入ってからのことだったのです! [5]

「IV号戦車」の前でポーズをとる兵役中の俳優ケマル・スナル(1944-2000)(アンカラのエティメスグットにて)

 主都アンカラ近郊のエティメスグット戦車博物館には、トルコ軍の「III号戦車M型」と「IV号戦車G型」が各1台ずつ展示されています(ただし、博物館は軍事基地の敷地内にあるため、一般人は立ち入り禁止です)。

 都市開発事業の余波や、国家情報機構(Millî İstihbarat Teşkilatı)の新本部庁舎と建設中のトルコ版ペンタゴンが演習場のスペースの大半を占めることになるため、基地と博物館の移転が予定されています。

 こうした現代の気晴らし的な事業が、 展示されている装甲戦闘車両の整備に少しも労力が費やされていないという残念な結果を招いているのかもしれません。この一例としては、(奇妙なことに)砲身が小さすぎると判断された戦車に偽の砲身が搭載されたということが挙げられます。幸いにも、「T-3」と「T-4」はすでに十分に大きな砲身を最初から装備していたことから、このような骨抜きにされる運命から免れることができました。


アンカラのエティメスグット戦車博物館における「III号戦車M型」と「IV号戦車G型」:前者はシュルツェンが外された状態で展示されているが、トルコに納入されたものには最初から装備されていなかったものと思われる

 ドイツ製戦車の納入数が少なかったことは、その長年にわたる運用が決してトルコ軍の運用に本当の影響を与えることがなかったことを意味しました。

 他国から何百台もの戦車やAFVを受領したこともあり、ドイツによる戦車の供給は同国が戦争に負けていることに加えて、自身が同盟国や潜在的な同盟国をしっかりと自国の味方にさせ続けるための十分な兵器を供給できなかったことを示すのに役立った程度でしかなかったことは間違いないありません。

 とはいえ、第二次世界大戦中に急速に変化した戦車の設計思想を十分に観察する機会を得たというだけの理由で、トルコは手に入れられるものなら何でも喜んで受け入れたと思われます。

 皮肉なことに、トルコ軍は1990年代初頭までブルガリア軍の埋められた「パンツァー」に直面していた事実は注目に値します。つまり、第二次大戦時代のドイツ戦車は戦力としてよりも、脅威としてはるかに長く生き残ったのです。

しかし、今やその両方の役割を明確に放棄した旧式のドイツ製戦車は、興味をかき立てる物語を今日のトルコ(と関心を持つ当ブログの読者に)に思い起こさせてくれる存在であり続けるに違いありません。


[1] Unearthing WWII aircraft buried in Kayseri https://www.dailysabah.com/op-ed/2019/03/06/unearthing-wwii-aircraft-buried-in-kayseri
[2] Surviving Panzer III Tanks http://the.shadock.free.fr/Surviving_Panzer_III.pdf
[3] Matev, Kaloyan, The Armoured Forces of the Bulgarian Army 1936-45, Helion, 2015, pp. 120-122
[4] The Krali Marko Line https://wwiiafterwwii.wordpress.com/2021/12/25/the-krali-marko-line/

特別協力: Mark Bevis(敬称略)

※  この翻訳元の記事は、2022年12月23日に「Oryx」本国版(英語)に投稿された記事   
  を翻訳したものです。意訳などにより、僅かに本来のものと意味や言い回しを変更した箇    
  所があります。



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