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2025年7月19日土曜日

アタテュルクの潜水艦:トルコ海軍で運用されたドイツのUボート


著:シュタイン・ミッツアー と ヨースト・オリーマンズ(編訳:Tarao Goo)


 この記事は、2023年4月4日に本ブログのオリジナル(本国版)である「Oryx-Blog(英語)」で公開された記事を翻訳したものです。 意訳などにより、僅かに本来のものと意味や言い回しが異なっている箇所があります

 Yeni dört denizaltı gemimiz için bildirdiğimiz isimler şunlardır; 1) Saldıray, 2) Batıray, 3) Atılay, 4) Yıldıray. Bunların manalarını izaha bile hacet olmadığı kanaatındayım. Manaları, som Türkçe olan bu kelimelerin kendisindedir, yani saldıran, batıran, atılan, yıldıran. – 私たちが発表した4隻の新潜水艦の名称は次のとおりです:1) サルディライ、2) バティライ、3) アティライ、4) イルディライ。これらの名前の意味については、説明の必要はないと思います。これらは純粋なトルコ語であり、それぞれ「攻撃する者」「沈める者」「射る者」「威圧する者」を意味します:ムスタファ・ケマル・アタテュルク

 1930年代の急速に近代化を進めるトルコは、社会や公共サービスなどのさまざまな分野での近代化に大きな関心を寄せていたため、ドイツの高度な産業に目を向けました。それからの10年間を通じて、ナチスから逃れた約300人のドイツ系ユダヤ人科学者がトルコに温かく歓迎され、研究を続けたのです。その一方で、トルコ空軍は1937年にドイツから合計24機の 「He 111」爆撃機と26機の「Fw 44 /58K」練習機を注文する動きを見せています。[1]また、 1940年、国営の鉄道会社であるTCDDは、当時ヨーロッパと世界で最も先進的な列車と肩を並べるドイツの「MT5200」気動車6両を発注しました。[2]

 ドイツのハイテク技術を導入する試みの中で最も重要と言っても過言でないものは、1936年にトルコ海軍がドイツの「UボートIX」級を基に設計された「280号計画型/アイ」級潜水艦4隻を発注したことでしょう。

 「アイ」級は、オランダのダミー会社「NV Ingenieurskantoor voor Scheepsbouw」によって正式に開発された艦です。同社はドイツの潜水艦開発のフロント企業でした。というのも、この時点で自国での潜水艦の設計等はヴェルサイユ条約で禁止されていたからです。発注された潜水艦について、2隻はドイツで、残りの「アティライ」と「イルディライ」はイスタンブールのタシュキザク造船所で建造される予定でした。ドイツで建造された「バティライ」は機雷敷設用潜水艦として完成したものの、完成後の1939年にドイツ海軍に接収・就役するという運命を迎えたので、トルコ海軍とは無縁の存在となっています。

 トルコにとって幸いにも、「サルディライ」は「バティライ」よりも数か月早く完成したため、接収される運命から免れることができました。 Uボートの建造は1937年2月にキールのクルップ・ゲルマニア造船所で開始され、翌年7月にドイツとトルコの高官の立会いの下で進水しました。その後、大規模な艤装を経て、1939年初頭に引き渡し可能な状態になったのです。[3] 

 ところが、戦争前の緊迫した情勢下で、完成した潜水艦をトルコへ航行させるための十分な人員を確保できないという事態に陥ってしまいました。これにより、「サルディライ」の出航は1939年4月2日まで延期されることになり、最終的ドイツ国旗を掲げ、トルコ人水兵とドイツ人将校で構成された乗組員の手によってエーゲ海へ出航したのでした。[3]

1938年7月、「サルディライ」の進水式でクルップ・ゲルマニア造船所で働く作業員たちがナチス式敬礼を行ってい(背後には敬礼するドイツ海軍将兵の姿が確認できる)。右側は建造中の「バティライ」である。

 トルコ政府が自国の水兵をドイツに派遣するという決定は、「サルディライ」をトルコから救った最大の要因と考えられます。仮に回航が数か月遅れていれば、同艦もドイツ海軍に接収されていたはずだからです。1939年6月5日、イスタンブールの金角湾で「サルディライ」の就役式典が実施された時点で、「イルディライ」と「アティライ」は、僅か数キロメートル離れたタシュキザク造船所でまだ建造中でした。これらの潜水艦はドイツの指導の下でトルコの作業員によって建造され、主に現地で調達された資材が使用されました。[4]

 「アティライ」は1939年に進水して翌年に就役しましたが、第二次世界大戦の勃発に伴うドイツ人技術者の帰国や部品の供給が途絶えたため、「イルディライ」は進水から6年後の1946年にようやく就役しました。

1939年、金角湾で進水した際の「アティライ」。

1939年の「イルディライ」進水式の様子。ドイツの技術支援の打ち切りと重要な部品の供給停止により、トルコ海軍が同艦の実戦配備に成功したのは1946年になってからだった。

 4隻の高度な洋上型Uボートの調達と国内での建造はトルコの防衛にとって極めて重要なものです。そうした理由もあって、トルコ共和国初代大統領ムスタファ・ケマル・アタテュルクは自ら潜水艦の名前を命名することを決定しました。1938年1月17日、彼はマフムト・ジェラル・バヤル首相宛てに4隻の潜水艦の名前を通知する書簡を送ったものの、同年11月に死去したため、最初の潜水艦がトルコに到着する光景を目にすることはありませんでした。 

 アタテュルクが潜水艦の命名について手書きで記した大統領令についてはイスタンブール海軍博物館で展示されており、それがトルコ海軍にとって重要な意味を有していること(そして、おそらく象徴的な意味では今でも)を物語っています。

高速で航行中の「アティライ」。司令塔の前方に装備されている10.5cm砲に注意。

 「アイ」級潜水艦は533mm魚雷発射管を6基(船首に4基、船尾に2基)装備しており、合計14発の魚雷を搭載可能です。この潜水艦は3,500馬力の出力を誇るデンマークのブアマイスタ・オ・ウェーイン製ディーゼルエンジン2基と2基のモーターを装備し、水上で約20ノット(約37km/h)、潜航時で約9ノット(約16.5km/h)で航行することができました。[4]
 なお、「バティライ」の航続距離は水上10ノットで13,100海里(19,400km)、潜航時4ノットで最大75海里(144km)でした。[5]

 他の3隻は、水上では10ノット(18.5km/h)の速度で8,000海里(14,800km)の航続距離を誇っていました。乗組員は約45名の士官と水兵で構成されています。「アイ」級潜水艦4隻は、司令塔の前方に「L/45」10.5cm砲を装備していました。なお、「サルディライ」と「アティライ」は、司令塔の後方にエリコン製20mm対空機関砲も装備しています。「バティライ」は、魚雷発射管から射出できる機雷を最大で36発も搭載することができました。

 ところで、「アイ」級はトルコ海軍に就役した最初の(ドイツ起源の)潜水艦ではありません。1925年、ドイツのダミー企業であるNV Ingenieurskantoor voor Scheepsbouw(IvS)は、トルコ海軍向けに第一次世界大戦時代の「UB III」級潜水艦をベースにした「46号計画型」沿岸型潜水艦2隻を受注しました。両艦はオランダのロッテルダムにあるウィルトン・フェイエノールト造船所で1927年に建造され、1928年にそれぞれ「ビリンジ・イノニュ」と「イキンジ・イノニュ」と命名されてトルコ海軍に就役しました。[6]

 「46号計画型」に続いて「111号計画型」設計されましたが、この設計も同じくIvSによって行われています。そもそも、この潜水艦の建造は1930年にスペイン海軍向けに開始されたわけですが、同海軍が関心を示さなかったため、1935年にトルコ海軍に売却され、「ギュル」として就役しています。[7] 

 そして、イタリアから2隻の潜水艦を調達したことで、1930年代におけるトルコの海軍整備事業が完了したのでした。 [8] [9]

「46号計画型」沿岸型潜水艦は、IvS社によって第一次世界大戦時代の「UB III」級をベースにトルコ海軍用に開発されたものだ。トルコ海軍は1925年に2隻を発注し、1928年に就役した。名称はオスマン語のアラビア文字で表記されているが、1928年にラテン文字を基にした現代のアルファベットに置き換えられた。

 「サルディライ」と「イルディライ」は、1957年に元アメリカ海軍の「バラオ」級潜水艦に更新されるまで、トルコ海軍で平穏無事な経歴を送りました。

 「アティライ」は、1942年7月14日にダーダネルス海峡で触雷して沈没し、乗員38名全員が艦と運命を共にする悲惨な運命を迎えました。この潜水艦が目的地に到着にしなかったことから捜索救助作戦が開始され、同日午後8時30分頃に海面に「アティライ」の浮標が発見されました。浮標に設置された電話は正常に機能していたものの、何度かけても「アティライ」からの応答がなかったことから、その悲惨な運命が確認されたのでした。「アティライ」沈没から52年後の1994年、この潜水艦の残骸は海岸から約6km離れた地点の深さ68メートルの海底でついに発見されました。

 「アティライ」と悲しい運命を共にした乗員たちについては、当時の著名なトルコ人歌手ハミイェト・ユジェセスの歌『Gitti de Gelmeyiverdi(彼は行き、そして帰らなかった)』で偲ばれています。彼女の夫も乗員の一人だったのです。

「アティライ」と運命を共にした乗員たち。1942年7月、同艦は1915年のガリポリの戦いで敷設された機雷によって沈んだ。画像は沈む数か月前に撮影された。

 1939年に完成直後に接収された「バティライ」については、同年9月20日に「UA」としてドイツ海軍に就役しています。機雷敷設用の潜水艦として装備されていたものの、ドイツはこれを(「バティライ」のベースとなった)通常のUボート「IX」型として運用しました。運用期間(1940年6月から1941年3月まで)中、同艦は6回の航海を実施し、その間に連合軍の艦船8隻を沈めるという戦果を挙げています。これらの中には、イギリスの補助巡洋艦である「HMSアンダニア」も含まれていました。

 第二次世界大戦中にドイツ海軍に配備された14隻の外国潜水艦によって沈没した艦艇は10隻ですが、その中の8隻が「UA」によるものです。この潜水艦は1942年7月から訓練用として使用され、それ以降は戦闘任務に就くことはありませんでした。結局、1945年5月3日にキールで自沈処分されるという運命を迎えています。

トルコ海軍の「バティライ」は引き渡し前にドイツに接収され、「UA」という名で就役した。

 1930年代に確立された "ドイツ先進的な潜水艦を運用する" という伝統は、完全にドイツが設計した潜水艦で構成された現代のトルコの潜水艦隊で継承されています。

 今後は、すでに就役している「209型」潜水艦に加えて、2020年代に就役する(ドイツの「214型」潜水艦をライセンス生産した)6隻の「レイス」級潜水艦によって潜水艦隊の強化が図られる予定です。 これらのいずれにも「アイ」級潜水艦の名称が付与されることはありませんが、これらの謎多き潜水艦の精神は、ほぼ1世紀後に登場する後継艦に受け継がれることでしょう。

 「アティライ」の遺産をより具体的な形で継承するため、その残骸を水深30メートルの海底博物館の一部として移設する試みが提起されています。こうした計画は依然として実現に至っていません。そもそも、船体の状態が構想を実現不可能にする可能性すらあります。38名の乗員の最後の安息の地として、この船が静かな海で残りの時を過ごすことが最善かもしれません。


Gitti de gelmeyiverdi - 出て行ったあの人は戻ってこなかったわ
Gözlerim yolarda kaldı - あの人の帰りを待つわ (道を見ながら)
Hele nazlım nerde kaldı - あの人は何処へ?
Ne zaman ne zaman gelir - いつになったらあの人は帰ってくるの?
Gel a nazlım lahuri şallım - 来て、私の愛しいラウリ・シャリム
Sağı solu dolaşalım - 一緒に歩きましょうよ
Ne zaman ne zaman gelir - いつになったらあの人は帰ってくるの?

海底で眠る「アティライ」

[1] The unlikely haven for 1930s German scientists https://physicstoday.scitation.org/do/10.1063/pt.6.4.20180927a/full/
[2] Presaging Modernity: Turkey’s MT5200 Trains https://www.oryxspioenkop.com/2021/12/presaging-modernity-turkeys-mt5200.html
[3] TÜRK DENİZALTICILIK TARİHİ http://www.denizalticilarbirligi.com/db.dztarih.htm
[4] SALDIRAY submarines (1939-1946) https://www.navypedia.org/ships/turkey/tu_ss_saldiray.htm
[5] BATIRAY submarine https://www.navypedia.org/ships/turkey/tu_ss_batiray.htm
[6] BİRİNCİ İNÖNÜ submarines (1928) http://www.navypedia.org/ships/turkey/tu_ss_birinci_inonu.htm[7] GÜR submarine (1934) http://www.navypedia.org/ships/turkey/tu_ss_gur.htm
[8] DUMLUPINAR submarine (1931) http://www.navypedia.org/ships/turkey/tu_ss_dumlupinar.htm
[9] SAKARYA submarine (1931) http://www.navypedia.org/ships/turkey/tu_ss_sakarya.htm



【お知らせ】この本の英語版については、2025年7月15日に改訂・分冊版の1冊目が発売されました。

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2024年10月13日日曜日

さらばベルリン:トルコの「He111」爆撃機


著:シュタイン・ミッツアー と ヨースト・オリーマンズ(編訳:Tarao Goo)

 当記事は、2022年11月24日に本国版「Oryx」に投稿されたものを翻訳した記事です。意訳などにより、僅かに本来のものと意味や言い回しが異なっている箇所があります。

 タイトルとヘッダー画像を見ると、この記事で私たちが機種を間違えたと容易に結論付けられてしまうかもしれません。誰もが知っているハインケル「He111」が備える特徴的な全面ガラス張りのコックピットはどこにあるのか、と問いたい人もいるでしょう。*

 それでも、画像の機体は正真正銘のドイツ製ハインケル「He111」であり、これは1937年後半から1938年前半にかけてトルコ空軍 (Türk Hava Kuvvetleri) に引き渡された24機のうちの1機なのです。

 「He111」の最大の特徴がない理由については、トルコが購入した機体が初期の「J」シリーズであったことや、機首の全面がガラスで覆われた風防のデザインが、より一般的なタイプである「P」シリーズから導入されたことで説明できます。

 以上で話を進めるための厄介な障害が取り除かれましたので、そもそもトルコがなぜ「He111」を入手したのかの経緯を解説しなければなりません。

 1930年代のトルコは、新たに出現した脅威(特に地中海におけるファシスト・イタリアの台頭)に立ち向うための軍事的手段を欠いていました。

 自国軍の荒廃に直面したため、トルコは海外から大量の軍備を発注し始め、その中のに同国初となる本格的な爆撃機:アメリカのマーチン「139WT」も含まれていました。[1]

 性能は依然としてこの国の対地攻撃機の大部分を占めていた1920年代の「ブレゲー19」複葉機から大幅に向上したものの、僅か20機の爆撃機の入手はトルコのような大国が防衛上のニーズを満たすには到底十分とは言えないものだったことは間違いありません。

 こうした理由から、1937年3月に数多くの航空機メーカーが最新の製品を披露するためにトルコに招かれたのです。

 トルコとのビジネスに意欲的なハインケル社が展示した最新の「He111 F-0」は、この買収劇を主催したトルコから賞賛を得たようで、展示飛行が実施された後の1937年3月には、24機の「He111 J-1」が発注されました。[2]

 このうちの18機はすでに同年10月に到着しており、残る6機も1938年初頭に到着したことが記録に残っています。

 トルコがドルニエ「Do17」を2機入手したとも言われていますが、これは最終的にハインケルが受注した入札向けとして1937年にトルコで展示飛行した機体と混同している可能性があるかもしれません。[3]

トルコのラウンデルが施された「Do 17 M」または「Do 17 P」:実際にトルコがこの機種を入手したのか、あるいは1937年の展示飛行の際にドルニエ社がトルコのラウンデルを施したのかは、いまだに謎に包まれている

 「He111」が発注から僅か7か月で納入されたことが、トルコ空軍を大いに喜ばせたことは間違いないでしょう。また、1932年にフランスから中古で購入した旧式の複葉爆撃機である「ブレゲ19」の退役も可能にさせたようです。

 納入後の「He111」については、北西部のエスキシェヒルを拠点とする第1航空連隊第1大隊の第1及び第2飛行隊に配備され、各飛行隊はそれぞれ8機の「He 111 J-1」を運用し、さらにもう6機が予備機として用いられました。[4][5]

 トルコ軍の「He111」のパイロットは、1937年に同じくドイツから入手した6機のフォッケウルフ「Fw58 "ヴァイエ"」多用途機で訓練を受けました。[4]

 しかし、まもなくしてトルコ空軍は予期しない苦境に立たされることになりました。1941年6月にベルリンからアンカラに「旧式化のために、これ以上は「He111」のスペアパーツの供給できる見込みがない」旨が通告されたからです。[5]

 このお粗末な言い訳をした理由については、その数日後にナチス・ドイツがソ連に侵攻したことで明らかとなりました。つまり、ドイツは自国の「He111」用にその全スペアパーツを必要としたわけです。

 「He111」を手放して処分場送りにすることを望まなかったトルコはイギリスに目を向け、「1940年のバトル・オブ・ブリテンで不時着した "He111" からスペアパーツを集めて供給することは可能か」という不思議な依頼をしたところ、ロンドンはこの要請に応じ、8基のエンジンとその予備部品、機体部品やコックピットの計器類を供給するという結果をもたらしました。[5]

 その一方で運用可能な「He111」の減少は、イギリスから約50機のブリストル 「ブレナム」「ボーフォート」といった爆撃機の安定的な供給を受けることでカバーすることができたようです。

 残存している「He111 J-1」については、1944年に(トルコから返還されずにいた)元アメリカ軍機の「B-24D "リベレーター"」重爆撃機5機と共に「戦略爆撃機」部隊に配備されました。これらの「B-24D」は1942年と1944年にトルコに不時着した11機から成る2個編隊の一部で、トルコ空軍によって運用されていた機体です。

 この新部隊に配備されてから1年後の1945年末に「He111 J-1」が退役したとき、入手した24機のうちの8機が依然として稼働状態にあったことは同機の頑丈な設計を実証したと言えるでしょう。

「He 111 J」の尾翼:納入飛行時に施されていたハーケンクロイツからトルコ国旗へ変更中の様子

 トルコが入手した「He111」のバージョンが「F」か「J」シリーズなのか、まだ若干の誤解がされているようです。

 「He 111 J」は「He 111 F」とほぼ同様ですが、前者はダイムラー・ベンツ製「DB 600G」エンジン2基(大型ラジエーター付き)と後縁を持つ(やや直線的な)新設計の主翼を備えるという特徴があります。

 もともと「He 111 J」はドイツ海軍向けの雷撃機として開発されたタイプですが、海軍がこのタイプに関心を失ったため、結局はドイツ空軍だけが運用することになったという経緯があります。最大120機が製造されたこのタイプは、1941年に「Ju 88」に更新されるまで主に洋上偵察で活用されました。「J」型は最終的に1944年まで訓練学校で使われました。

 結局、トルコが「海軍化」された「He 111 J-1」を入手することになった理由は、納期が約7か月強と短かったからだと思われます。

 「F型」と「J型」の運用上のスペックはほぼ同一であり、最高速度は305km/h、防御機銃は機首・胴体上部に加えて下部の「ダストビン(ゴミ箱)」引き込み式銃塔に 「MG-15」7.92mm機銃が各1門、つまり合計で3門が装備されていました。

 爆弾倉については、マーチン「139WT」が僅か1,025kgしか搭載できないのと比較すると、「F型」及び「J型」は2,000kgものペイロードを誇っていました。

主翼にあるトルコのラウンデルが無ければ、"イギリス上空を飛ぶ2機のハインケル「He 111」"と容易に(誤って)信じられてしまいそうな1枚

 ほとんどの「He111」と異なって、トルコ軍の機体は一度も怒りに任せて爆撃することはなかったものの、戦争で用いた国々の機体よりもはるかに長く(約8年間)運用されたのでした。

 連合国が望んでたようにトルコが(1945年2月にしたよりも)早くナチス・ドイツに宣戦布告していれば、自身の祖国に対する「He 111」の使用は興味深い歴史の一章となったかもしれません。

 いずれにしても、トルコ航空史の草創期に関する物語と常に独特な機体の入手方法は人々の心を必ず捉え、今では遠い昔の記憶と化しつつあるこの激動の時代に対する驚異の念を呼び起こすものと言っても過言ではないでしょう。
 

* 読者からの意見があるにもかかわらず、著者は「He 111」の有名なガラス張りの機首は常識と考えられるべきものと思っています。












2024年4月3日水曜日

黄計画:1940年におけるドイツ軍のルクセンブルク侵攻で各陣営が損失した兵器類(全一覧)


著:シュタイン・ミッツァー と ヨースト・オリーマンズ (編訳:Tarao Goo

 第二次世界大戦におけるルクセンブルクでの戦いは、ルクセンブルク国家憲兵隊及び志願兵とドイツ国防軍の間で行われた短期間の戦闘であり、ナチス・ドイツが迅速に勝利を収めるという結果で終わったことは以外と知られていません。

 戦いの原因となったドイツによるルクセンブルクへの侵攻は1940年5月10日に始まり、僅か1日で終わりを告げました。

 1867年のロンドン条約の結果として、当時のルクセンブルクは軍隊を持たず、防衛は国家憲兵と志願兵から構成される小規模な部隊を当てにせざるを得ない状態でした。

 それにもかかわらず、ルクセンブルクはドイツの電撃戦からデンマークよりも長く生き残ることができました。なぜならば、デンマークには陸軍と空軍があったものの、1940年4月9日にナチス・ドイツに侵攻で始まった僅か2時間の戦闘の後に降伏したからです。

 ドイツ軍のルクセンブルク侵攻は3つの装甲師団がルクセンブルクの国境を越えた午前4時35分に始まり、彼らはスロープと爆薬を用いてシュスター線のバリケード突破に成功しました。散発的な銃撃戦を除くと、(志願兵の大部分が兵舎に籠城していたこともあったせいか)ドイツ軍が大した抵抗を受けたという記録はありません。

 少数のドイツ兵がヴォルムメルダンジュの橋を占領し、そこでドイツ軍の進撃停止を要求した2人の税関職員を拘束しました。(国境の)ザウアー川に架かる橋は部分的に破壊されていましたが、ドイツの工兵部隊によって迅速に修復を受け、戦車をルクセンブルク領内に入れることを可能にしました。

 国境検問所から国家憲兵隊や志願兵部隊の司令部への通信はルクセンブルク政府と大公宮に侵攻が始まったことを知らせ、午前6時30分に政府関係者の大多数が自動車に乗って首都から国境の町エッシュへ避難しました。ただし、彼らはそこで125人ものドイツ兵が待ち構えていたことを知りませんでした...「Fi156 "シュトルヒ"」で輸送された彼らは、すでに侵攻本隊が到着するまで同地域の確保に当たっていたのです。

 勇敢にも1人の国家憲兵隊員が125人の兵士に立ち向かって国から立ち去るように要求しましたが、彼は希望した答えを得る代わりに捕虜にされてしまったことは言うまでもないでしょう(注:殺害されなかったのは意外かもしれませんが)。

 ルクセンブルク大公を伴った政府関係者の車列はエッシュでの拘束を何とか回避し、田舎道を使ってフランスへの脱出に成功しました。

ルクセンブルクが侵攻される直前に、シュスター線のバリケード前でポーズをとっているルクセンブルクの国家憲兵隊員たち:中央の2名は小銃を背負っているが、両端の2名は非常に小さなスパイク型銃剣を装着可能な「モデル1884」型回転式拳銃を携行している[1]

 午前8時、第1シパーヒー旅団と第5機甲大隊の支援を受けたフランス第3軽騎兵師団は、南の国境を越えてルクセンブルクに入ってドイツ軍への威力偵察を試みるも失敗に終わりました。

 フランス空軍が進撃するドイツ軍に対して出撃を控えていたことに我慢できなかったイギリス空軍は、フランスに駐留していた第226飛行隊のフェアリー「バトル」軽爆撃機にドイツ軍の攻撃を命じました。ルクセンブルク上空で激しい対空砲火に遭った爆撃機部隊は何とかして危険な空域から脱出したものの、大部分の機体が軽い損傷を被り、このうち1機がヒールゼンハフ近郊へ墜落しました(この墜落では、乗員1名が死亡し、負傷した2名もドイツ軍の捕虜となりました)。

1940年5月10日にヒールゼンハフに墜落した "フェアリー「バトル」":3名の乗員はドイツ兵によって燃え上がる残骸から引き揚げられたものの、後にダグラス・キャメロン中尉は負傷が原因で地元の病院にて命を落とした[2][3]

 こうした間も国家憲兵隊はドイツ軍に抵抗し続けましたが全く歯が立たず、正午前に首都が占領され、夕方には南部を除く国土の大部分がドイツ軍に占領されてしまったのです。

 ルクセンブルクが受けた損失は戦傷者7名(このうち国家憲兵隊6名、兵士1名)であり、ドイツ国防軍の損失は戦死者36名でした。

 5月11日、国土から逃れたルクセンブルク政府はパリに到着し、在仏公使館に拠点を構えました。ドイツの空爆を危惧した政府はさらに南下し、最初にフォンテーヌブロー、次にポワチエに移し、その後はポルトガルとイギリスへ逃れ、最終的には戦争の終わりまでカナダに落ち着く結果となりました。

 当然ながら、カナダに亡命したシャルロット大公が国民統合の重要なシンボルとなったことも記憶にとどめておくべきでしょう。

シュスター線上に設けられた41個ものコンクリートブロックと鉄扉のうちの一つを通過する自動車:結果として。これらは実質的にドイツ国防軍の進撃を遅らせることができなかった

  • 以下の一覧では、ルクセンブルクでの戦闘で撃破や鹵獲された各陣営の兵器・装備類を掲載しています。
  • この一覧の対象に、馬は含まれていません(注:騎兵用と思われる)。
  • 仮に新たな損失が確認できる情報を把握した場合は、一覧を随時更新します。
  • 各兵器類の名称に続く数字をクリックすると、撃破や鹵獲された当該兵器類の画像を見ることができます。


  • ナチス・ドイツ (損失なし)


    ルクセンブルク (不明)

    自転車
    •  不明 政府支給の自転車: (多数, 鹵獲)

    フランス (損失なし)


    イギリス (1)

    航空機 (1, 墜落: 1)

    [1]Revolver with a Bayonet: Luxembourg Model 1884 Gendarmerie Nagant https://youtu.be/jYQNSQ3krWw

    ※  当記事は、2023年3月24日に本国版「Oryx」(英語)に投稿された記事を翻訳したも 
      のです。当記事は意訳などにより、僅かに本来のものと意味や言い回しを変更した箇所が
        あります。また、編訳者の意向で大幅に加筆修正を加えたり、画像を差し替えています。


    おすすめの記事

    2024年1月19日金曜日

    事実と数での「転換点」:近年におけるドイツの兵器調達リスト


    著:シュタイン・ミッツアーとヨースト・オリーマンズ(編訳:Tarao Goo)

     2022年2月27日、オラフ・ショルツ首相は連邦議会での特別演説でロシアによるウクライナ侵攻をヨーロッパの歴史におけるZeitenwende(時代の転換点)であると言及し、首相は2024年にGDPの2%を防衛費に充てるというドイツの公約を再確認しました。

     それに加えて、ドイツ政府は、軍への緊急投資のために1,000億ユーロ(約15.5兆円)の特別基金を設置しました。

     そうは言っても、数千台もの戦車と数百機もの戦闘機を誇るドイツ軍の復活を期待していた人たちにとっては、それが実現しないことに不満を持つかもしれません。

     ロシア軍の深刻な弱体化と、ポーランドやルーマニアといった最前線のNATO加盟国による軍への大規模な投資を考慮すると、何百台もの戦車を追加で導入することがNATOの抑止力を強化するための最善のアプローチであるかどうかは議論の余地があります。

     その代わり、ほかのEU諸国に不足している兵器システムへの投資や装備の寄贈を通じて他のNATO加盟国(及びウクライナ)の戦力を増強させることは、ドイツが自らの資金で最大限の恩恵を得るための代替策となるでしょう。

    1. 以下に列挙した一覧は、ドイツ陸空軍によって調達される兵器類のリスト化を試みたものです。
    2. この一覧は重火器に焦点を当てたものであるため、対戦車ミサイルや携帯式地対空ミサイルシステム、小火器、指揮車両、トラック、レーダー、小型無人機、弾薬は掲載されていません。
    3. 「将来的な数量」は、すでに運用されている同種装備と将来に調達される装備の両方を含めたものを示しています。
    4. この一覧は新しい兵器類の調達が報じられた場合に更新される予定です


    陸軍 - Heer

    戦車 (将来的な数量: 328)
    • 18 レオパルト2A8 [2026年から2027年の間に納入] (310台の「レオパルト2A6(M)/A7」を補完するもの)
    • 陸上主力戦闘システム(MGCS) 計画 [2030年代半ば以降に就役予定] (最終的に「レオパルト2」を更新するもの)

    歩兵戦闘車 (将来的な数量: ~600)

    装甲戦闘車両

    特殊車両

    軽攻撃車両

    砲兵・多連装ロケット砲 (将来的な数量: 228 自走砲, ~80 多連装ロケット砲)

    防空システム (将来的な数量: 30 自走対空砲, 32 SAM発射機)

    電子戦システム
    • 長距離電子戦システムの導入計画 [調達を検討]

    装甲工兵車両

    ヘリコプター

    無人航空機

    列車


    空軍 - Luftwaffe

    戦闘機 (将来的な数量: ~185)
    • 38 ユーロファイター "タイフーン" トランシェ4 [2020年代後半に納入] (31機の「ユーロファイター "タイフーン"」を更新するもの)
    • 35 F-35A [2026年以降に納入] (68機の「トーネードIDS」を更新するもので、「B61-12」核爆弾を装備可能)
    • 層来戦闘航空システム (FCAS)計画 [2040年以降に就役] (最終的に「ユーロファイター "タイフーン"」を更新するもの)

    敵防空網制圧(SEAD)機 (将来的な数量: 15)

    無人戦闘航空機 (将来的な数量: 21)

    電波収集(SIGINT)及び情報収集・警戒監視・偵察(ISR)機 (将来的な数量: 3)

    輸送機・空中給油機(将来的な数量: 50 (VIP機を除く)

    輸送ヘリコプター (将来的な数量: 75)

    偵察衛星 (将来的な数量: 3)
    • 2 「SARah」偵察衛星 [2020年代半ばに打ち上げ] (すでに打ち上げた「SARah」1機を補完するもの)

    防空システム (将来的な数量: 1 「アロー3」 ABMシステム, 11「パトリオット」中隊, 6 「IRIS-T SLM」システム)


    海軍 - Deutsche Marine

    フリゲート (将来的な数量: 15)

    コルベット (将来的な数量: 6)

    小型艦 (将来的な数量: 最大で8)

    攻撃型潜水艦 (将来的な数量: 6 から 9の間)

    大型無人水中艇 (将来的な数量: 最大で6)
    • 最大6 大型無人水中艇 [調達を検討] (6 から 9隻の「212CD」級潜水艦を補完するもの)

    電波・電波情報収集艦 (将来的な数量: 3)

    戦闘支援艦 (将来的な数量: 12)

    掃海艇 (将来的な数量: 最大で12)
    • 最大12 掃海艦導入計画 [2020年代後半以降に引き渡し] (2隻の「エンスドルフ」級掃海艇と10隻の「フランケンタール」級掃海艇の後継で、無人機雷処分艇を装備するものと思われる)

    高速攻撃艇 (将来的な数量: 15)

    洋上監視・偵察機 (将来的な数量: 8)

    無人洋上監視・偵察機 (将来的な数量: 6)

    ヘリコプター (将来的な数量: 49)
    • 31 NHI「NH90 "シータイガー」 [2025年以降に納入] (21機のアグスタウェストランド「リンクスMk.88」の後継)

    無人ヘリコプター