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2026年7月25日土曜日

深海の狩人:トルコの小型潜水艦


著:シュタイン・ミッツアー(編訳:Tarao Goo)

 この記事は、2022年2月2日に本ブログのオリジナル(本国版)である「Oryx-Blog(英語)」で公開された記事を翻訳したものです。 意訳などにより、僅かに本来のものと意味や言い回しが異なっている箇所があります。

 数発の魚雷を装備して素早い機動性を誇るこれらの深海の狩人たちは、その小型さゆえに侮ることはできません。2010年、北朝鮮の潜水艇が韓国海軍の浦項級コルベット「天安」を撃沈した事件は、この種の潜水艇がもたらす脅威を改めて示すものだったと言えます。

 「天安」のアクティブ・ソナーは前日からその海域に潜伏していた北朝鮮の潜水艇を探知できなかったため、逆に潜水艇が警戒を怠っていた標的に対して533mm魚雷1発を発射・命中させたのです。この悲劇を引き起こした潜水艇は誰にも気づかれることなく北の暗い海へと姿を消し、小型潜水艦の威力を痛感させる悲劇的な出来事にしたのでした。

 今日、小型潜水艦の設計や運用を続けている国は世界的に見てもごく少数です。通常の攻撃型潜水艦に比べ、設計が比較的容易で調達コストも低いものの、航続距離が短い上に軽武装の場合が多いことから、ほとんどの海洋国家にとってその導入は理にかなった選択とは言えません。

 小型潜水艦(潜水艇)の配備に適した海洋・地理を備えた国のみが、その運用に関心を示しているのが現状です。そうした国にはインドネシア、イランや北朝鮮などが含まれており、後者の2か国は多数の小型潜水艦を運用していることはよく知られています。その他に思い浮かぶのは、エーゲ海をめぐる紛争に巻き込まれているトルコとギリシャです。

 エーゲ海には潜水艦にとって天然の隠れ家となる島々が点在しているため、この海域は「サブマリナーの楽園」と呼ぶにふさわしいものとなっています。トルコ海軍がエーゲ海に小型潜水艦隊を配備すれば、ギリシャによる対潜戦(ASW)は著しく困難になり、エーゲ海と地中海の一部は、かつてないほど危険な海域と化すでしょう。

 この理屈はギリシャ海軍にも当てはまります。この国は現在、ドイツからさらに「214型」潜水艦を購入する資金が不足しているため、より安価な選択肢として、40年以上使用している「209型」潜水艦の一部を小型の潜水艦に置き換えることを検討している可能性があるからです。

 トルコの小型潜水艦の設計開発も、国際市場で成功を収めるための絶好のポジションにあるようです。すでにトルコのUCAVAUSVの成功によって実証されているように、トルコの防衛企業は、さらなる市場への参入と制覇を見据えているのです。[1] [2]

 AUSV市場と同様に、トルコの造船所が小型潜水艦を海外に売り込む場合、入札競争に直面する可能性は比較的低いと思われます。現時点で小型潜水艦を輸出している国は北朝鮮と中国のみですが、北朝鮮は兵器の供給源としては、(ごく一部の国を除けば)世界の国々から除外されてしまいます。中国はこれまで、自国の潜水艦の海外販売においてほとんど成果を上げていません。これらの状況を踏まえると、トルコが近い将来に小型潜水艦市場で独占的な地位を確立する可能性も決してあり得ない話ではないわけです。[3]

Artwork by HI Sutton.

 トルコが有する2種の小型潜水艦(案)には、両タイプとも小型潜水艦に分類される一方で直接の競合関係にはないという、さらなる利点があります。STM社が開発した「STM500」は、攻撃型潜水艦の多くの能力を低コストで実現しており、その点が高く評価された結果、すでに最初の海外顧客を獲得しました。そして、ディアサン造船所が開発した「L Sub 33」は、ミゼット潜水艦に近いという違った特性を備えているのです。[4]

 トルコによるエーゲ海への小型潜水艦配備が「ゲームチェンジャー」になると主張する意見もあるようですが、むしろ「マーケットチェンジャー」と表現する方が適切だと言えるのではないでしょうか。これまで現代的な潜水艦を購入する資金がなかった国々も、今や世界的な影響力を拡大しつつある政治的中立国であるトルコから、手頃な価格でそれらを購入できるようになったからです。

 この「現代的な(小型)潜水艦」には「STM500」や「L Sub 33」だけでなく、非大気依存推進(AIP)システムを搭載した全長60メートルの国産攻撃型潜水艦「TS1700」も含まれる予定となっています。この設計自体はドイツ・トルコ共同開発の「214TN型」潜水艦が持つ多くの特徴を備えており、現在韓国とドイツが輸出向けに売り込んでいる「209型」及び「214型」の直接的な競合相手として位置づけられています。[5]

 今やトルコが、大型攻撃型潜水艦、異なるクラスの小型潜水艦2種に加え、浸透作戦用の超小型潜水艦を輸出できるようになったという事実は、ドイツやフランス、韓国といった国々の不利益と引き換えに、潜水艦市場に大きな波紋を呼ぶ可能性があるでしょう。

 今後10年以内にトルコ製潜水艦を導入する可能性のある国には、インドネシア、ウクライナ、パキスタン、カタール、トルクメニスタン、フィリピンなどが挙げられます。

 かつては調達コストが安いという理由で中古潜水艦を購入せざるを得なかった国々でさえ、今では新造艦を調達できるようになりました。なぜならば、前述の新型艦がようやく財政的に手の届く範囲に来たからです。こうした国には、ポーランド、ルーマニア、ブルガリア、コロンビア、ペルー、エクアドル、チリなどが含まれます。

 ほんの数年前まではトルコがドイツの潜水艦に依存していたにもかかわらず、現在ではトルコ製の潜水艦が欧州の数か国の海軍で使用されるという構想は、決して荒唐無稽な話ではなくなっているのです。

STM500の決定デザイン

 STM社の「STM500」は、現在販売されている小型潜水艦の中で最も先進的な設計であり、AIPシステム、(計8発の魚雷を搭載可能な)4基の魚雷発射管、射程220km前後の「アトマジャ」対艦巡航ミサイル、機雷敷設能力、そして自律型無人潜水機(AUV)や特殊部隊を展開する能力といった大型攻撃型潜水艦が持つ多くの性能も備えています。[6]

 運用については、国産設計の海軍戦闘管理システムによって制御されます。18人の乗組員で、(AIPシステムを使用すれば)最大4000海里(7,408キロメートル)の航続距離と最大30日間の作戦活動が可能です。これは、ドイツの「212型」のような大型攻撃型潜水艦の約半分に相当します。

 すでにSTMは、潜水艦の設計・建造・改修の分野で豊富な実績を有しています。現在、同社はトルコ海軍向けに214TN型「レイース」級潜水艦を建造しているほか、同海軍が保有する旧式の「209型」の改修も手掛けているのです。[7]

 同社の事業は、トルコ海軍の潜水艦だけでなく、パキスタン海軍の「アゴスタ90B」級潜水艦も対象としています。2016年、STMはパキスタン海軍が保有する「アゴスタ90B」級潜水艦2隻の近代化改修契約を3億5000万ドルで獲得しました。皮肉なことに、40年以上前にこれらの艦を建造したフランス企業を差し置いて落札したのでした。[8]

 「STM500」の設計はすでに完了しており、2022年に最初の1隻が建造される予定です。発注元は非公開ですが、ウクライナ、とりわけパキスタンが有力な候補とみられています(編訳者注:2026年に完成予定で発注国はいまだ公表されていない)。[4]

 トルコ海軍が小型潜水艦の導入を検討しているか否かは現時点では判然としません。海軍の潜水艦隊は現在、計6隻の「214TN」級潜水艦のうち、最初の1隻の引き渡しを受けている最中です(編訳者注:2026年現在で2隻が就役、1隻が艤装中である)。

 これらが就役した後、トルコは完全国産の攻撃型潜水艦「MILDEN」級の建造に着手する予定です。また、将来を見据えてエーゲ海での運用を目的として数隻の小型潜水艦を導入し、地中海での作成に従事する「214TN」級の負担軽減を図る可能性があります(編訳者注:「MILDEN」級の建造は2025年1月に開始された)。

MILDEN級

MILDEN級潜水艦(IDEF2025にて撮影)

 ディアサン社が設計した小型潜水艦は、スウェーデンの「A26」級潜水艦を彷彿とさせる独特の艦首が特徴的です。「L Sub 33」は、ナイジェリアやトルクメニスタンにおける数多くの水上戦闘艦で既に大きな成功を収めているディアサン造船所が設計した初の潜水艦であることも記しておきます。[9] [10]

 これらの国は「L Sub 33」の潜在的な顧客でもあり、トルクメニスタンによる潜水艦の導入は、この10年以内に実現する可能性が高いでしょう。実際、「L Sub 33」が、トルクメニスタン海軍が求める小型潜水艦の要件を満たすために特別に設計されたものである可能性も、決して非現実的だとは言い切れません。

 この小型潜水艦の全長は33.6メートルで、「STM500」よりもかなり小型となっています。
AIPシステムは搭載していないものの、この艦は隠密性の高い浸透任務に適した設計となっており、1600海里(2963.2キロメートル)という航続距離と水中スラスターがその強力な武器となります。小型であることに伴い、搭載兵装は533mm魚雷2発と沈底機雷6発のみです。[11]

 「L Sub 33」の乗員は6~8名で、さらに8名の特殊部隊を乗せることが可能で。特殊部隊員は魚雷発射管の下にある潜水準備室を通じて潜水艦への出入りを行うようです。こうした能力を備える「L Sub 33」は、本質的に「ハンター・キラー型潜水艦」と「浸透型潜水艦」の機能を一つに融合させた設計となっています。

L Sub 33の最終デザイン

 ディアサン社が手掛けたもう1つの小型潜水艦の設計案は、「多目的SEAL潜水艦」の仮称で呼ばれており、フロッグマンや特殊部隊を敵の海域の奥深くに潜入させることを目的に特別に設計されたものです。

 全長19.2メートルのこの流線型の船は航続距離が約100海里(185.2キロメートル)あり、2名の乗員に加え、8名のフロッグマンや特殊部隊員を乗せることが可能です。[11]

 ディアサンの他の艦艇設計と同様に「多目的SEAL潜水艦」も輸出専用に設計されたものと思われますが、将来的には、トルコ海軍が求める特殊部隊とその装備を輸送するためのステルス性のある輸送艇としての要件を満たす可能性も否定できません。

 ちなみに、ディアサン社はこれら2種類の小型潜水艦に加え、600kgのペイロードと50海里(92.6キロメートル)の航続距離を持つ全長6.5メートルのAUVも開発しています。[11]


多目的SEAL潜水艦


小型潜水艦 - ハンターキラー
  • STM500 [STM] (6発の「アクヤ」533mm魚雷、「アトマジャ」AShMs または 機雷で武装可 )
  • L SUB 33 [ディアサン] (2発の「アクヤ」533mm魚雷 または 6発の沈底機雷で武装可)

小型潜水艦 - 浸透・潜入作戦用

L SUB 33の透視図(初期デザイン)


[1] An International Export Success: Global Demand For The Bayraktar TB2 Reaches All Time High https://www.oryxspioenkop.com/2021/09/an-international-export-success-global.html
[2] The Market Leader: Turkey’s Indigenous Unmanned Surface Vessels (USVs) https://www.oryxspioenkop.com/2022/01/the-market-leader-turkeys-indigenous.html
[3] CSIC_MS200 http://www.hisutton.com/CSIC_MS200.html
[4] https://twitter.com/TayfunOzberk/status/1460217754670313481
[5] Submarine TS1700 https://www.stm.com.tr/en/our-solutions/naval-engineering/submarine-ts1700
[6] IDEF 2021: Turkish industry unveils three new submarine designs https://www.navalnews.com/naval-news/2021/08/idef-2021-turkish-industry-unveils-three-new-submarine-designs/
[7] Turkish Navy Type 209-1200 AY Class Submarine Modernization Project https://www.stm.com.tr/en/our-solutions/naval-engineering/turkish-navy-type-209-1200-ay-class-submarine-modernization-project
[8] Despite French Sanctions, Turkey Making Progress in Pak's Agosta 90B Sub Upgrade https://www.defenseworld.net/news/26416/Despite_French_Sanctions__Turkey_Making_Progress_in_Pak_s_Agosta_90B_Sub_Upgrade
[9] Maritime Success: Nigeria Orders Turkish OPV 76s https://www.oryxspioenkop.com/2021/12/maritime-success-nigeria-orders-turkish.html
[10] Bigger Business: Turkey Unveils F142 Frigate Design https://www.oryxspioenkop.com/2022/01/bigger-business-turkey-unveils-f142.html
[11] L Sub 33 http://www.dearsan.com/pdfler/DEARSAN%2033m%20LSUB.pdf


 お知らせ2025年7月に上記本の改訂・分冊版である「The Armed Forces of North Korea Volume 1: Part 1: Korean People's Army Ground Forces Organisation, Strategy and Infantry」が発売されました。残りの巻も完成次第発売される予定です(記載情報は2025年現在のものにアップデート済み)。
 お知らせ2:2025年10月に「Volume 1: Part 2(陸軍AFV)」が発売されました。 
 
お知らせ3:2025年12月に「Volume 2(空軍)」が発売されました。
 お知らせ4:2026年2月に「Volume 3(海軍) 」が発売されました

おすすめの記事

2025年7月19日土曜日

アタテュルクの潜水艦:トルコ海軍で運用されたドイツのUボート


著:シュタイン・ミッツアー と ヨースト・オリーマンズ(編訳:Tarao Goo)


 この記事は、2023年4月4日に本ブログのオリジナル(本国版)である「Oryx-Blog(英語)」で公開された記事を翻訳したものです。 意訳などにより、僅かに本来のものと意味や言い回しが異なっている箇所があります

 Yeni dört denizaltı gemimiz için bildirdiğimiz isimler şunlardır; 1) Saldıray, 2) Batıray, 3) Atılay, 4) Yıldıray. Bunların manalarını izaha bile hacet olmadığı kanaatındayım. Manaları, som Türkçe olan bu kelimelerin kendisindedir, yani saldıran, batıran, atılan, yıldıran. – 私たちが発表した4隻の新潜水艦の名称は次のとおりです:1) サルディライ、2) バティライ、3) アティライ、4) イルディライ。これらの名前の意味については、説明の必要はないと思います。これらは純粋なトルコ語であり、それぞれ「攻撃する者」「沈める者」「射る者」「威圧する者」を意味します:ムスタファ・ケマル・アタテュルク

 1930年代の急速に近代化を進めるトルコは、社会や公共サービスなどのさまざまな分野での近代化に大きな関心を寄せていたため、ドイツの高度な産業に目を向けました。それからの10年間を通じて、ナチスから逃れた約300人のドイツ系ユダヤ人科学者がトルコに温かく歓迎され、研究を続けたのです。その一方で、トルコ空軍は1937年にドイツから合計24機の 「He 111」爆撃機と26機の「Fw 44 /58K」練習機を注文する動きを見せています。[1]また、 1940年、国営の鉄道会社であるTCDDは、当時ヨーロッパと世界で最も先進的な列車と肩を並べるドイツの「MT5200」気動車6両を発注しました。[2]

 ドイツのハイテク技術を導入する試みの中で最も重要と言っても過言でないものは、1936年にトルコ海軍がドイツの「UボートIX」級を基に設計された「280号計画型/アイ」級潜水艦4隻を発注したことでしょう。

 「アイ」級は、オランダのダミー会社「NV Ingenieurskantoor voor Scheepsbouw」によって正式に開発された艦です。同社はドイツの潜水艦開発のフロント企業でした。というのも、この時点で自国での潜水艦の設計等はヴェルサイユ条約で禁止されていたからです。発注された潜水艦について、2隻はドイツで、残りの「アティライ」と「イルディライ」はイスタンブールのタシュキザク造船所で建造される予定でした。ドイツで建造された「バティライ」は機雷敷設用潜水艦として完成したものの、完成後の1939年にドイツ海軍に接収・就役するという運命を迎えたので、トルコ海軍とは無縁の存在となっています。

 トルコにとって幸いにも、「サルディライ」は「バティライ」よりも数か月早く完成したため、接収される運命から免れることができました。 Uボートの建造は1937年2月にキールのクルップ・ゲルマニア造船所で開始され、翌年7月にドイツとトルコの高官の立会いの下で進水しました。その後、大規模な艤装を経て、1939年初頭に引き渡し可能な状態になったのです。[3] 

 ところが、戦争前の緊迫した情勢下で、完成した潜水艦をトルコへ航行させるための十分な人員を確保できないという事態に陥ってしまいました。これにより、「サルディライ」の出航は1939年4月2日まで延期されることになり、最終的ドイツ国旗を掲げ、トルコ人水兵とドイツ人将校で構成された乗組員の手によってエーゲ海へ出航したのでした。[3]

1938年7月、「サルディライ」の進水式でクルップ・ゲルマニア造船所で働く作業員たちがナチス式敬礼を行ってい(背後には敬礼するドイツ海軍将兵の姿が確認できる)。右側は建造中の「バティライ」である。

 トルコ政府が自国の水兵をドイツに派遣するという決定は、「サルディライ」をトルコから救った最大の要因と考えられます。仮に回航が数か月遅れていれば、同艦もドイツ海軍に接収されていたはずだからです。1939年6月5日、イスタンブールの金角湾で「サルディライ」の就役式典が実施された時点で、「イルディライ」と「アティライ」は、僅か数キロメートル離れたタシュキザク造船所でまだ建造中でした。これらの潜水艦はドイツの指導の下でトルコの作業員によって建造され、主に現地で調達された資材が使用されました。[4]

 「アティライ」は1939年に進水して翌年に就役しましたが、第二次世界大戦の勃発に伴うドイツ人技術者の帰国や部品の供給が途絶えたため、「イルディライ」は進水から6年後の1946年にようやく就役しました。

1939年、金角湾で進水した際の「アティライ」。

1939年の「イルディライ」進水式の様子。ドイツの技術支援の打ち切りと重要な部品の供給停止により、トルコ海軍が同艦の実戦配備に成功したのは1946年になってからだった。

 4隻の高度な洋上型Uボートの調達と国内での建造はトルコの防衛にとって極めて重要なものです。そうした理由もあって、トルコ共和国初代大統領ムスタファ・ケマル・アタテュルクは自ら潜水艦の名前を命名することを決定しました。1938年1月17日、彼はマフムト・ジェラル・バヤル首相宛てに4隻の潜水艦の名前を通知する書簡を送ったものの、同年11月に死去したため、最初の潜水艦がトルコに到着する光景を目にすることはありませんでした。 

 アタテュルクが潜水艦の命名について手書きで記した大統領令についてはイスタンブール海軍博物館で展示されており、それがトルコ海軍にとって重要な意味を有していること(そして、おそらく象徴的な意味では今でも)を物語っています。

高速で航行中の「アティライ」。司令塔の前方に装備されている10.5cm砲に注意。

 「アイ」級潜水艦は533mm魚雷発射管を6基(船首に4基、船尾に2基)装備しており、合計14発の魚雷を搭載可能です。この潜水艦は3,500馬力の出力を誇るデンマークのブアマイスタ・オ・ウェーイン製ディーゼルエンジン2基と2基のモーターを装備し、水上で約20ノット(約37km/h)、潜航時で約9ノット(約16.5km/h)で航行することができました。[4]
 なお、「バティライ」の航続距離は水上10ノットで13,100海里(19,400km)、潜航時4ノットで最大75海里(144km)でした。[5]

 他の3隻は、水上では10ノット(18.5km/h)の速度で8,000海里(14,800km)の航続距離を誇っていました。乗組員は約45名の士官と水兵で構成されています。「アイ」級潜水艦4隻は、司令塔の前方に「L/45」10.5cm砲を装備していました。なお、「サルディライ」と「アティライ」は、司令塔の後方にエリコン製20mm対空機関砲も装備しています。「バティライ」は、魚雷発射管から射出できる機雷を最大で36発も搭載することができました。

 ところで、「アイ」級はトルコ海軍に就役した最初の(ドイツ起源の)潜水艦ではありません。1925年、ドイツのダミー企業であるNV Ingenieurskantoor voor Scheepsbouw(IvS)は、トルコ海軍向けに第一次世界大戦時代の「UB III」級潜水艦をベースにした「46号計画型」沿岸型潜水艦2隻を受注しました。両艦はオランダのロッテルダムにあるウィルトン・フェイエノールト造船所で1927年に建造され、1928年にそれぞれ「ビリンジ・イノニュ」と「イキンジ・イノニュ」と命名されてトルコ海軍に就役しました。[6]

 「46号計画型」に続いて「111号計画型」設計されましたが、この設計も同じくIvSによって行われています。そもそも、この潜水艦の建造は1930年にスペイン海軍向けに開始されたわけですが、同海軍が関心を示さなかったため、1935年にトルコ海軍に売却され、「ギュル」として就役しています。[7] 

 そして、イタリアから2隻の潜水艦を調達したことで、1930年代におけるトルコの海軍整備事業が完了したのでした。 [8] [9]

「46号計画型」沿岸型潜水艦は、IvS社によって第一次世界大戦時代の「UB III」級をベースにトルコ海軍用に開発されたものだ。トルコ海軍は1925年に2隻を発注し、1928年に就役した。名称はオスマン語のアラビア文字で表記されているが、1928年にラテン文字を基にした現代のアルファベットに置き換えられた。

 「サルディライ」と「イルディライ」は、1957年に元アメリカ海軍の「バラオ」級潜水艦に更新されるまで、トルコ海軍で平穏無事な経歴を送りました。

 「アティライ」は、1942年7月14日にダーダネルス海峡で触雷して沈没し、乗員38名全員が艦と運命を共にする悲惨な運命を迎えました。この潜水艦が目的地に到着にしなかったことから捜索救助作戦が開始され、同日午後8時30分頃に海面に「アティライ」の浮標が発見されました。浮標に設置された電話は正常に機能していたものの、何度かけても「アティライ」からの応答がなかったことから、その悲惨な運命が確認されたのでした。「アティライ」沈没から52年後の1994年、この潜水艦の残骸は海岸から約6km離れた地点の深さ68メートルの海底でついに発見されました。

 「アティライ」と悲しい運命を共にした乗員たちについては、当時の著名なトルコ人歌手ハミイェト・ユジェセスの歌『Gitti de Gelmeyiverdi(彼は行き、そして帰らなかった)』で偲ばれています。彼女の夫も乗員の一人だったのです。

「アティライ」と運命を共にした乗員たち。1942年7月、同艦は1915年のガリポリの戦いで敷設された機雷によって沈んだ。画像は沈む数か月前に撮影された。

 1939年に完成直後に接収された「バティライ」については、同年9月20日に「UA」としてドイツ海軍に就役しています。機雷敷設用の潜水艦として装備されていたものの、ドイツはこれを(「バティライ」のベースとなった)通常のUボート「IX」型として運用しました。運用期間(1940年6月から1941年3月まで)中、同艦は6回の航海を実施し、その間に連合軍の艦船8隻を沈めるという戦果を挙げています。これらの中には、イギリスの補助巡洋艦である「HMSアンダニア」も含まれていました。

 第二次世界大戦中にドイツ海軍に配備された14隻の外国潜水艦によって沈没した艦艇は10隻ですが、その中の8隻が「UA」によるものです。この潜水艦は1942年7月から訓練用として使用され、それ以降は戦闘任務に就くことはありませんでした。結局、1945年5月3日にキールで自沈処分されるという運命を迎えています。

トルコ海軍の「バティライ」は引き渡し前にドイツに接収され、「UA」という名で就役した。

 1930年代に確立された "ドイツ先進的な潜水艦を運用する" という伝統は、完全にドイツが設計した潜水艦で構成された現代のトルコの潜水艦隊で継承されています。

 今後は、すでに就役している「209型」潜水艦に加えて、2020年代に就役する(ドイツの「214型」潜水艦をライセンス生産した)6隻の「レイス」級潜水艦によって潜水艦隊の強化が図られる予定です。 これらのいずれにも「アイ」級潜水艦の名称が付与されることはありませんが、これらの謎多き潜水艦の精神は、ほぼ1世紀後に登場する後継艦に受け継がれることでしょう。

 「アティライ」の遺産をより具体的な形で継承するため、その残骸を水深30メートルの海底博物館の一部として移設する試みが提起されています。こうした計画は依然として実現に至っていません。そもそも、船体の状態が構想を実現不可能にする可能性すらあります。38名の乗員の最後の安息の地として、この船が静かな海で残りの時を過ごすことが最善かもしれません。


Gitti de gelmeyiverdi - 出て行ったあの人は戻ってこなかったわ
Gözlerim yolarda kaldı - あの人の帰りを待つわ (道を見ながら)
Hele nazlım nerde kaldı - あの人は何処へ?
Ne zaman ne zaman gelir - いつになったらあの人は帰ってくるの?
Gel a nazlım lahuri şallım - 来て、私の愛しいラウリ・シャリム
Sağı solu dolaşalım - 一緒に歩きましょうよ
Ne zaman ne zaman gelir - いつになったらあの人は帰ってくるの?

海底で眠る「アティライ」

[1] The unlikely haven for 1930s German scientists https://physicstoday.scitation.org/do/10.1063/pt.6.4.20180927a/full/
[2] Presaging Modernity: Turkey’s MT5200 Trains https://www.oryxspioenkop.com/2021/12/presaging-modernity-turkeys-mt5200.html
[3] TÜRK DENİZALTICILIK TARİHİ http://www.denizalticilarbirligi.com/db.dztarih.htm
[4] SALDIRAY submarines (1939-1946) https://www.navypedia.org/ships/turkey/tu_ss_saldiray.htm
[5] BATIRAY submarine https://www.navypedia.org/ships/turkey/tu_ss_batiray.htm
[6] BİRİNCİ İNÖNÜ submarines (1928) http://www.navypedia.org/ships/turkey/tu_ss_birinci_inonu.htm[7] GÜR submarine (1934) http://www.navypedia.org/ships/turkey/tu_ss_gur.htm
[8] DUMLUPINAR submarine (1931) http://www.navypedia.org/ships/turkey/tu_ss_dumlupinar.htm
[9] SAKARYA submarine (1931) http://www.navypedia.org/ships/turkey/tu_ss_sakarya.htm



【お知らせ】この本の英語版については、2025年7月15日に改訂・分冊版の1冊目が発売されました。

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2025年2月18日火曜日

時の試練に耐えて:ベトナムのアメリカ製艦艇


著:シュタイン・ミッツアー と ヨースト・オリーマンズ(編訳:Tarao Goo

 当記事は、2023年1月11日に本国版「Oryx」(英語)に投稿された記事を翻訳したものです。当記事は意訳などにより、僅かに本来のものと意味や言い回しを変更した箇所があります。

 共産主義国となったベトナムで運用されたアメリカ製装備の話題は、軍事愛好家やアナリストを魅了してきました。ただし、その魅力の割には、1975年の南ベトナム崩壊後の統一ベトナムで使用され続けた装備について書かれたものは意外とありません。まれにこの話題が取り上げられることがあるものの、そのほとんどは、「F-5E」や「C-130」、そして「UH-1」といった鹵獲機の運用についてのものです。北ベトナムは南ベトナム空軍から1,100機以上の飛行機とヘリコプターを鹵獲したと推定されています。同様に、相当数の装甲戦闘車両(AFV)が北ベトナムの手に渡り、その一部は今日でもベトナム人民軍の戦力をを支えているのです。

 これとは正反対に、勝者である北側に鹵獲された艦艇はごく少数でした。というのも、1975年4月30日に北ベトナム軍の戦車がサイゴンの大統領官邸の門を突き破る直前、ベトナム協和国海軍(RVNN)のほぼ全ての艦艇がフィリピンに向けて出航し、その大部分がフィリピン海軍に接収されてしまったからです。結果として、整備中の艦艇やフィリピンまでの航海に適していない小型艇だけが北ベトナムに鹵獲されました。彼らはそれまで海軍そのものを十分に組織できてていなかったため、これらの艦艇をベトナム人民海軍(VPN)に積極的に迎え入れたのでした。

 編入された艦艇には、河川哨戒艇(PBR)高速哨戒艇(PCF)突撃支援哨戒艇(ASPB)、そして河川機動母艦といった南ベトナムの河川機動部隊のほぼ全体が含まれていました(基本的に小型のために退避できなかったのです)。社会主義ベトナムはこれらの艦艇の一部をさらに数年間運用しましたが、最終的には大部分を廃棄処分としました。ただし、一部のPCFは今でもその姿を見ることができます。もちろん、メコンデルタでベトコンと戦うという本来の目的は、南ベトナムの敗北と共に失われています。北ベトナムは、南の海兵師団が保有していた「LVTP-5/LVTH-6」水陸両用装甲兵員輸送車も引継いだものの、これもすぐに廃棄処分となりました

 上述のとおりRVNNの主力艦艇は一部を除いてフィリピンに向けて脱出しましたが、それでも北ベトナムは南ベトナム最後の港を制圧した際に、「エドサル」級護衛駆逐艦「チャン・カイン・ズー(HQ-4)」、「バーネガット」級フリゲート「ファン・グー・ラオ(HQ-15)」、アドミラブル級掃海艇「キーホア(HQ-09)」と「ハホイ(HQ-13)」に出くわしました。さらに3隻の戦車揚陸艦(LST)、3隻の中型揚陸艦(LSM)、13隻の汎用揚陸艇(LCU)、そして最大で25隻の「ポイント」級カッターも発見され、後に北ベトナムによって使用されました。南ベトナム軍によって無力化された艦艇はごく僅かであり、鹵獲された艦艇の大半については特に修理を要せずに自軍に編入できたとのことです。

1978年、カンボジア侵攻で旧南ベトナム軍の中型揚陸艦(LSM)から上陸するベトナム軍の「BTR-50」APC:艦首の40mm連装機関砲に注目

 ベトナム海軍に編入された最大の艦艇は「エドサル」級護衛駆逐艦「チャン・カイン・ズー(HQ-4)」であり、サイゴンで整備中に鹵獲されたものです。 同艦は「T.03」という名で再就役し、後に「ダイ・キー (HQ-03)」に変更されました。[1] 

 もともと、この駆逐艦は「フォースター」として1944年にアメリカ海軍に就役し、第二次世界大戦中は大西洋と地中海で護衛任務に就いていた艦です。後にアメリカ沿岸警備隊に移管され、1960年代にベトナム海域に派遣されました。そして、1971年になって姉妹艦の「キャンプ(1975年にフィリピンに脱出)」と共に南ベトナムへ供与され、最終的に社会主義ベトナムの手に落ちたのでした。

 「ダイ・キー(HQ-03)」は1970年代(あるいは1960年代)の基準からすると決して近代的なものではなかったものの、それでも2011年まではベトナムが運用していた艦艇としては最大の艦でした。ベトナム展開時における武装は対潜護衛艦、後に沿岸警備艦としての任務に対応したものとなっており、レーダー誘導式の76mm単装砲2門(ヘッダー画像にあるのは艦首の1門)、エリコン製20mm対空機関砲(AA)が数門、そして533mm魚雷発射管で構成されていました。[1] 

 当初、VPNはこの武装の状態を維持していましたが、後日には主に (第二次世界大戦時には砲が備えられていた)空き砲座を活用して武装を強化していきました。この武装強化には前部の76mm砲の交換が含まれており、おそらくはソ連製と思しき大口径の対戦車砲または高射砲に換装されています。また、(大戦中に76mm砲、後にヘッジホッグ対潜迫撃砲が搭載された)第2砲座にも、前部と同じ単装砲が搭載されました。中央の533mm魚雷発射管は撤去されて「V-11」37mm連装対空機関砲が両舷側に各1門ずつ搭載されたほか、後部には(76mm砲が残されたものの)詳細不明の単装砲が追加されました。

 対空防御については、4門の「ZPU-4」14.5mm対空機関砲(両舷に2門ずつ)が追加されたことで一層強化されています。

 この武装が施された「ダイ・キー(HQ-03)」は、クメール・ルージュ海軍の妨害から(旧南ベトナム軍所属艦艇が主体の)上陸船団を保護するために1978年のカンボジア侵攻に投入されました。ちなみに、南ベトナムはすでに1974年の西沙諸島沖海戦で同艦を投入しましたが、中国が決定的な勝利を収めて終結しました。それ以来、彼らが同諸島を支配していることは既知のとおりです。スペアパーツの入手が不可能になったことから、1978年の戦争後に「ダイ・キー(HQ-03)」が出港したのは1982年の一度だけです。この艦は1990年代後半まで訓練用のハルク(船舶型訓練機材)として生き残りましたが、最終的に解体されて生涯を終えました。[2]



 「バーネガット」級フリゲート「ファン・グー・ラオ(HQ-15)」、「アドミラブル」級掃海艇「キーホア(HQ-09)」と「ハホイ(HQ-13)」は、艦番号をそれぞれ(HQ-01)、(HQ-05)、(HQ-07)に変更されてVPNに引継がれました。もともと、「バーネガット」級は第二次世界大戦中に水上機母艦として建造された後、フリゲートに分類され沿岸警備隊に移管された艦です。1971年と1972年に合計7隻が南ベトナム海軍に譲渡されました。正式な分類上はフリゲートですが、武装は前部に搭載された38口径5インチ砲(127mm両用砲)1門のみです。1974年の西沙諸島沖海戦における中国はこの弱点を巧みに利用し、標的とならないように常に2隻の「バーネガット」級の背後に回り込んだことが知られています。

 この戦いでの「バーネガット」の活躍に不安を感じたせいか、北ベトナムは編入後すぐに「2M3」25mm機関砲と「V-11」37mm機関砲を装備しました。「ファン・グー・ラオ(HQ-15)」は、後部甲板に「P-15 "テルミート"」対艦巡航ミサイル(AShM)用の発射機2基との「9K32 "ストレラ-2"」MANPADS用の四連装発射機2基を装備していたと伝えられることがありますが、これらの記述を裏付ける証拠画像は現時点でありません。[3] 

 この艦の経歴については、1990年代か2000年代初頭の時点で解体されたという以外は分かっていません。「アドミラブル」級の2隻も同様で、判明している情報からすると、1980年代か1990年代初頭まで哨戒艇として運用されていたようです。[4]

「バーネガット」級フリゲート「ファン・グー・ラオ」:統一ベトナム時代に撮影された数少ない写真の一枚だ

「アドミラブル」級掃海艇「ハホイ(HQ-07)」:艦橋前の「V-11」37mm砲と救命艇のすぐ後方にある2門のボフォース40mm機関砲に注目

 それまで大型の揚陸艦を保有していなかったVPNにとって、3隻の戦車揚陸艦(LST)と3隻の中型揚陸艦(LSM)、そして13隻の汎用揚陸艇(LCU)の鹵獲は、戦力を増強する上で最も重要なアセットとなったことは間違いないでしょう。LSTは「PT-76」水陸両用戦車や海軍歩兵が使用する「BTR-50」APCを最大20両搭載することを可能にしただけでなく、その大きさゆえに自身を沿岸哨戒艇や砲艦として活用させることすらできたからです。[5] [6] [7]

 これらのLSTは1978年のカンボジア侵攻で社会主義ベトナム時代のキャリアを平凡にスタートさせた後、2隻が1988年の中国とのスプラトリー諸島海戦に投入されました。1974年の西沙諸島沖海戦と同様に、この時の中国が勝利を収めて島の支配権を掌握したことは言うまでもありません。この戦いで、「HQ-505」は中国側の優勢な火力に対抗するべく果敢に立ち向かった後に激しい損傷を受け、ベトナムのカムランに曳航される途中で沈没しました。[8]

 生き残った2隻のLSTは1979年と1980年にソ連から導入した2隻のポーランド製「ポルノクニーB」級中型揚陸艦が就役したにもかかわらず運用が続けられ、現在でも1隻が現役です。 また、LSMとLCUは1980年代後半に退役して解体処分となりましたが、後者の1隻は今でも使用され続けています。

LST「ヴンタウ(HQ-503)」:この艦は2016年に72年の生涯を閉じた

ベトナム軍のLSTの甲板上に駐機している「Ka-25」対潜ヘリコプターと「ポルノクニーB」級中型揚陸艦(左奥):両艦はどちらも今日まで運用され続けている

 艦艇そのものだけでなく、それらに装備されていたアメリカ製の兵装も時代を乗り越えてきました。

 驚異的な耐久力があるにもかかわらず、1隻を除く全てのLSTと数隻のPCFが退役した後の現在でもアメリカ製兵装を装備している艦艇の数は確実に減少しつつあります。唯一生き残っているLSTには依然として2連装のボフォース40mm機関砲とエリコン20mm機関砲が装備されており、PCFには後部甲板に12.7mm重機関銃と81mm迫撃砲を備えた銃架が1門だけ装備されています。

「チェン・チン・ユー(HQ-501)」の艦首に装備されている40mm機関砲と20mm機関砲(各二連装):艦尾にも20mm機関砲が装備されている

PCFの後部甲板に搭載された81mm迫撃砲と12.7mm重機関銃(HMG)の火力プラットフォーム:この艦では「M2」50口径HMGが「NSV」に換装されているが、オリジナルのままの個体もある[9]

 アメリカ、南ベトナム、そして統一ベトナム海軍で80年もの長きにわたって使用され、ボロボロに錆びついたこれらの艦艇は、今日でもベトナム人民海軍で重要な役割を果たしていることは間違いないでしょう。今のところ、こうした懐かしさを感じさせる兵器は何とか持ちこたえていることを踏まえると、残存するアメリカ製の装備は今後数十年にわたってベトナム人の手で使用されるかもしれません(編訳者注:AFVや小火器の場合も同様と言える)。

 南ベトナムから鹵獲した最後の大型艦の生涯がまもなく終焉を迎えようとしていますが、 ベトナムにおけるアメリカ製艦艇の物語はそこで終わりません。というのも、この国は2017年と2021年に2隻の「ハミルトン」級カッターを導入したからです。予想以上に長い時の試練に耐える ことができたベトナムにおけるアメリカ製兵器は、両国間が敵対関係にあった日々より長く続いています。

VPNで現存する唯一の汎用揚陸艇(HQ-556)

ベトナムが保有する最後のアメリカ製LST「チェン・チン・ユー(HQ-501)」:甲板に「Mi-17」ヘリコプターが着陸しようとしている

[1] USS Forster (DE 334) http://www.navsource.org/archives/06/334.htm
[2] DAI KY Frigate (1944/1975) https://www.navypedia.org/ships/vietnam/vie_es_dai_ky.htm
[3] PHAM NGŨ LAÕ Frigate (1943/1975) https://www.navypedia.org/ships/vietnam/vie_es_pham_ngu_lao.htm
[4] KỲ HÒA patrol ships (1944/1975) https://www.navypedia.org/ships/vietnam/vie_es_ky_hoa.htm
[5] TRẦN KHÁNH DƯ tank landing ships (1944/1975) https://www.navypedia.org/ships/vietnam/vie_ls_tran_khanh_du.htm
[6] NINH GIANG medium landing ships (1944/1975) https://www.navypedia.org/ships/vietnam/vie_ls_ninh_giang.htm
[7] LCU1466 small landing ships (1953-1954/1975) https://www.navypedia.org/ships/vietnam/vie_ls_lcu1466.htm
[8] Vietnamese soldiers remember 1988 Spratlys battle against Chinese http://www.thanhniennews.com/politics/vietnamese-soldiers-remember-1988-spratlys-battle-against-chinese-60161.html

2025年1月1日水曜日

贅沢と戦争の果てに:サッダーム・フセインの巨大ヨットとその運命


著:シュタイン・ミッツアー と ヨースト・オリーマンズ(編訳:Tarao Goo)

 当記事は、2023年9月21日に本国版「Oryxブログ」(英語)に最後に投稿されたものを翻訳した記事です。 意訳などにより、僅かに本来のものと意味や言い回しが異なっている箇所があります。

 あなた方アメリカ人はイラクの農民が新婦にするように第三世界を扱っている...3日間のハネムーンが終わったら、あとは畑へ放り出すだけだ:サッダーム・フセイン

 オリガルヒのスーパーヨットは、その巨大なサイズと豪華な内装で多くの注目を集めています。こうした船の多くには、ヘリポート、プール、映画館、スピードボートや高級車専用の格納庫、義理の両親を泊めるのに十分なだけの豪華な客室が備わっています。

 実際、最大のスーパーヨットは、大きさの点ではフリゲートに匹敵するほど巨大です。それに比べると、ヘッダー画像のヨットについては、一見するとクルーズ船やバルト海で見るフェリーと同等のレベルに見えるかもしれません。

 しかし、その見た目に騙されてはいけません。なぜならば、この洋上宮殿は、その時代で最も豪華なものだったのです。

 「アル・マンスール」と名付けられたこの船は、大量の大理石と金メッキで装飾された部屋、印象的なアトリウム、200人収容可能なダイニングルーム、格納庫付きのヘリポート、そして脱出ポッド(小型潜水艦)などを備えていました。このヨットには、2基の「9K31 "ストレラ-1"」対空ミサイルの発射機が船の上部構造に隠される形で装備されていたという噂もあります。

 少なくとも贅沢をしないふりをする努力をしていたムアンマル・カダフィとは異なり、サッダーム・フセインは、その贅沢なライフスタイルを実に堂々と誇示していました。それには、膨大な数の高級外車のコレクション、豪華な専用列車、フランス、イギリス、ドイツ、アメリカ製の(個人用)ヘリコプター群、(現在は売りに出されている「ボーイング747SP」4発旅客機、さらには別のVIP専用機が含まれていたほどです。

 こうした多くの交通手段によって、彼は、一つの宮殿と別の宮殿を楽々と移動することができました(これらの宮殿それぞれが、都市全体に匹敵する広さであったことにも言及しておきます)。

 イランと戦争していないとき、あるいはイラクの村々全体を壊滅していないとき、サッダームとその家族は、イラク海軍の総排水量を上回る3隻のプライベート・ヨットのうちの1隻に乗ってリラックスできたわけです。2003年に失脚するまで、サッダームとその家族が極めて贅沢な生活を謳歌していたと言えば十分に伝わるでしょう。

 ヨットによっては不運だったのは、サッダームが贅沢な暮らしに溺れること以上に大切にしていたことがあったことです:それは外国に侵略を仕掛けることでした。

 敵の海軍や空軍の標的になることなく外洋クルージングで潮風を楽しむため、彼は近隣諸国への侵攻を控える必要がありました。と言うのも、イラクの海岸線は58キロメートルと短い上に実質的な領海が存在しないため、彼が持つ大型ヨットの運航には支障があったからです。それでも、サッダームは正式に政権の座に就いてから僅か1年後にイランを攻撃して、最初の侵攻を開始しました。

 著しく弱体化したイランを相手に迅速な勝利を見込んでいたにもかかわらず、イラン・イラク戦争が結局8年近くも続いたことはご存知のとおりです。この戦争中、イランが(港の)船舶を標的にすることに関心を示さなかったため、彼のヨットはイラクや外国の港に安全に係留されたままでした。

 1988年にイラン・イラク戦争が終結した後、サッダームはようやくヨットを使えるようになりました。しかし、彼はそのヨットに乗る前にクウェートへの侵攻を開始したのです。1990年のクウェート侵攻は、サッダームの圧政と途方もない贅沢な暮らしの終わりの始まりでした。

 その11年前の1979年、サッダームは正式に大統領の座に就き、最高権力者となりました。その年は、彼がバアス党の粛正を画策して党の臨時会議中に対立する党員たちの名前を読み上げ、彼らを外に連れ出して処刑させたほか、デンマークにプライベート・ヨット2隻を発注した年でもあります。

 そのヨットは「カディシヤット・サダーム」と「アル・カーディシーヤ」で、後者はユーフラテス川とチグリス川で運行するために特別設計された河川航行用ヨットです。デンマークの船舶設計企業であるクヌーズ・E・ハンセン社によって設計され、ヘルシンゲル造船所で建造された2隻は、それぞれ1981年と1982年に納入されました。[1] [2]

 イランとの戦争が続いていたおかげで、サッダームは全長80メートルの「カディシヤット」を利用することができませんでしたが、やがて、サウジアラビアの国王が彼に戦争を終結させるだけの説得力のある動機を与えることになります。

「アル・マンスール」には遠く及ばなかったかもしれないが、「カディシヤット・サッダーム」も豪華さに満ちあふれていた

 サウジアラビアのハーリド国王は、イラン・イラク戦争の資金として数百億ドルを提供し、イラク・フランス間のさまざまな武器取引に資金を援助したほか、新品のヨットを贈呈することで(少なくとも一部の湾岸諸国から見れば)イランの脅威に対抗したサッダームに報いました。

 「アル・マンスール(勝者)」は全長120メートルという見事なものでした。その巨体ゆえに、「カディシヤット・サッダーム」の影が完全に消えてしまったほどです。

 驚くべきことに、この船はサッダームが「カディシヤット・サッダーム」を引き渡される前からサウジアラビアに発注されていました。

 同じくクヌーズ・E・ハンセン社が設計し、フィンランドの造船企業であるバルチラによって建造されたこのヨットは、1982年に完成したことが記録されています。

 「アル・マンスール」は、大きさだけでなく設備の面においても「カディシヤット」を凌駕していました。装甲甲板、防弾窓、泳いで侵入して来る者に対する防護設備、病院、格納庫付きヘリポート、サッダームのスイートルームと脱出ポッド(小型潜水艦)を結ぶ脱出ルートを誇っており、伝えられるところによれば、2基の「9K31 "ストレラ-1"」 対空ミサイル発射機も搭載していたとのことです。

バルト海で海上公試中の「アル・マンスール」:後方のヘリポートと中央の大きなアトリウムに注目

 1982年に「アル・マンスール」が完成した後は、このヨットをイラン・イラク戦争が続く中のイラクまで航行させるという困難な任務が残されていました。2005年に行われた「アル・マンスール」の船長へのインタビューでは、1984年に新品のヨットをバスラに到着させることができたのは、綿密な計画の結果というよりも、むしろ奇跡に近い幸運のおかげだったと語られています。[3]

 航海のクライマックスは、1984年2月の暗い夜に狭いホルムズ海峡を抜けてペルシャ湾に入ったときのことでした。というのも、イランの支配下にある海域を通過するという極限の状況だったからです。ウム・カスルの港に到着した後、「アル・マンスール」はすでに同港に停泊していた「カディシヤット・サッダーム」と合流しました。

 サッダームがこのヨットをイラクまで危険な船旅をさせ、結果的に使用不能にすることを選んだ正確な理由は謎のままです。しかし、確実なのは、彼がこの船を一度も目にしたことがないということでしょう。それが、イランとの戦争で抱える過密なスケジュールのためだったのか、それとも船を訪れることでイランの標的になることを懸念してのことだったのかは分かっていません。

 とはいえ、サッダームが自分のヨットを使うためにイランとの戦争を終わらせたわけではないことは明らかです。 したがって、ハーリド国王からの贈り物は太っ腹だったとは言えますが、途方もない無駄遣いに過ぎなかったことに議論の余地がありません。

まだ安全なフィンランド領海内を航行中に撮影された「アル・マンスール」

 この船の豪勢な内装を見れば、いかに巨額の浪費だったことか分かります。

 サッダーム・フセインは、内装のデザイン担当に建築家のDinkha Latchinを起用しました。彼が手がけた略図をここで見ることができます

 サウジアラビアが費用を負担したおかげで、Latchinは事実上、あらゆる創作意欲を満たすことができました。彼によれば、サッダームは「アル・マンスール」を自身の洋上宮殿としてだけでなく、国家的な会議を開催したり、外国の要人を宿泊させたりする場としても想定していたとのことです。[4]

 彼は次のとおり述べました:「あれは多くの会議室を備えたクルーズ船で、湾岸諸国の中心部で会議をするためのものでした。無人の地で公正な会議を開くのであれば中心地でなければならない、それがこの船のコンセプトだったのです」。[4]

 それまでLatchinがサッダームのためにやってきた仕事は、主にイラク大使館や世界各地の文化センターの設計でしたが、彼に与えられた新たな役割は、船内の設計のみならず(経験のない)船の設計顧問として働くことでした。

 それにもかかわらず、クヌーズ・E・ハンセン社の設計士は、6階建ての建物と同じ高さのフェリーの設計図を見せてLatchinを安心させ、「私たちがこのフェリーを浮かべることができれば、あなたが設計したものは何でも浮かべることができます。だから何も心配しないでください。私たちがやってみせますから。」と力説したのです。[4]

 彼は船の外装のデザインも担当し、前部を延長してダウ船を想起させる外観にしたものの、波浪による損傷に脆弱であるとの懸念から、この延長部分については最終的に短縮を強いられてしまいました。[4]

「アル・マンスール」内部の様子:この船は誕生から一度も使用されず、2003年以降は略奪者によって内装が全て奪われてしまった

 ウム・カスルで、「アル・マンスール」は、 (アラブ・イスラム世界がイランを征する契機となった)西暦636年の「アル・カディシヤの戦い」にちなんで命名された「カディシヤット・サッダーム」に隣接して係留されていました。

 イラン軍がイラクとの国境に接近し、続いてイラクに侵入すると、「カディシヤット・サッダーム」は安全のため、1986年にサウジアラビアに移されました。「アル・マンスール」については、待避させられることなくイラクに残されたままとなりましたが、理由が何なのかは分かっていません。

 イランとの戦争が終結した後になっても、サッダームはサウジアラビアからヨットを取り戻す動きを見せなかったようです。その代わり、イラン・イラク戦争で生じた借金の返済を拒否したことが引き金となってクウェートに侵攻し、続く湾岸戦争で不運にもサウジアラビアにも侵攻したことで、サウジアラビアに「カディシヤット・サッダーム」を接収されてしまいました。[5]

 ただし、サウジ国王や王家の面々が新しいヨットを必要としていなかったことから、「アル・ヤマーマ」と改名されたこのヨットは全く使用されなかったようです。

 サッダーム・フセインが「カディシヤット・サッダーム」の所有で恩恵を受けたわけではありませんが、大統領専用ヨットの調達を担当した彼のスタッフが利益を得たことは間違いありません。というのも、彼らがこのヨットに関する交渉を通じて、5%の手数料に加えて「善意の心遣い」として10台のバスと4台のメルセデスを用意するよう要求し続け、最終的にヘルシンゲル造船所に契約を認めさせたからです(編訳者注:発注の見返りに便宜供与を約束させたということ)。もっとも、デンマーク側はその要求を履行しませんでしたが。[5][6]

 ヨットの建造中、サッダームの指示を確実に厳守するため、イラクの当局者たちが造船所を入念にチェックしました。その際の注目すべき出来事として、ある役人がサッダームのスイートルーム用のベッドカバーを交換するよう要求したことがありました。なぜならば、休憩中の作業員がほんの少しだけベットで休んでしまったからです。[7]

 デンマーク人が大いに驚いたことに、高価なベッドカバーが交換された後、件の作業員には(交換前の)ベッドカバーを持ち帰ることが認められました。その後、彼はそれを長年にわたって自分のベッドで使用したとのことです。[5]

「カディシヤット・サッダーム」内のサッダーム専用ベッドと悪名高い新品のベッドカバー

 1990年代初期にサウジアラビアが「カディシヤット・サッダーム」を接収して以降、このヨットが何に使われたかは全く知られていません。後に「オーシャン・ブリーズ」と改名されたこのヨットについては、ヨルダンのアブドラ2世国王に贈られた可能性が伝えられています。

 「オーシャン・ブリーズ」の正式登録はケイマン諸島の企業と関連付けられていましたが、これは真の所有者を偽装するためにスーパーヨットの世界で用いられる一般的な手法のため、特に珍しいものではありません。

 2000年代から2010年代にかけて、イラクの新政権は在外資産の所在を突き止め、本国に引き揚げることを決定しました。2007年に「オーシャン・ブリーズ」がフランスのニースでドック入りした際、イラク当局は同船の所有権を自国に移転するよう申し入れました。[5]

 数年にわたるフランスでの法廷闘争の結果、2009年に裁判所がイラクに勝訴の判決を下しました。こうして、イラクによるヨットの接収が認められたのです(編訳者注:2008年という情報もある)。 大規模な修理の後、ヨットは2010年にバスラに帰還し、「バスラ・ブリーズ」と改名されてバスラ大学海洋科学センターの研究プラットフォームとして再利用されました。[5]

 2018年にバスラ港のイラク人水先案内人用の水上ホテルに転用されたヨットの役目は、今でも続いています(編訳者注:2021年の時点で、バスラの地で洋上博物館として再利用される案が浮上したが、その後の経過については不明)。[11]

 「アル・マンスール号」と同様に、サッダームが「カディシヤット・サッダーム」に足を踏み入れることは一度もありませんでした。

後に「オーシャン・ブリーズ」と呼ばれ、その後「バスラ・ブリーズ」改名された 「カディシヤット・サッダーム」は再びイラク人の手に戻り、バスラ大学の海洋科学センターで利用されている(ただし、今では将来を危ぶまれている)

 サッダームが「カディシヤット・サッダーム」を待避させるという選択をしたことが、このヨットが今日まで現存している理由であることは言うまでもないでしょう。

 より大型の「アル・マンスール」をイラクに残すという決定は、最終的にこのヨットに全く異なる運命をもたらすことになります。イラク沖に展開するアメリカの空母打撃群と遭遇するリスクなしに航行することができなかった「アル・マンスール」は、1991年から2003年まで休眠状態にありました。

 2003年、サッダームはこのヨットをウム・カスルからバスラの内港に移動させるよう命令を出しました。この動きについては、フセイン政権が差し迫った侵攻に何とか耐えられるというサッダームの未練に似た希望を反映したものであり、ヨットが攻撃されることを回避するべく行われたものだったと思われます。ところが、彼の意図は脆くも崩れ去ってしまいました。有志連合軍が「アル・マンスール」がイラク軍及び共和国防衛隊の通信センターあるいは司令部として機能していることを確信し、この船を無力化する決定を下したからです。[8]

 第一撃はアメリカ海軍の空母艦載機ロッキード「S-3B "バイキング」の空爆で始まり、同機がミサイルを1発撃ち込みましたが、機能停止に追い込むことはできませんでした。第二撃として2機の「F/A-18 "ホーネット"」が攻撃しましたが、誘導爆弾は同艦に命中しなかったようです。[8]

 最新鋭の攻撃機と誘導兵器が無防備なプライベート・ヨット相手の攻撃に2度も失敗したことを考慮すると、この時点でアメリカは不満を大きく抱いたのかもしれません。その後、2機の「F-14」に「Mk.82」500ポンド(227kg)爆弾を使用しての「アル・マンスール」攻撃が命じられました。[8]

 1機目の「F-14」は早いタイミングで爆弾を投下したため、結果的に1発が「アル・マンスール」の前面装甲を貫通せずに爆発してしまいました。続く2機目は正確な攻撃に成功し、中央部のアトリウムに命中して炎上を生じさせたものの、沈没に至るほどの致命的な損傷を与えることはできなかったようです。

 この時点で「アル・マンスール」の防御力が見せた強靱性は、この国が経験した全戦争におけるイラク海軍の数少ない成功例を示しました。アメリカとしては、目標の無力化自体が達成されていることから、攻撃が十分に行われたと判断し、沈没まで至らせるようなことをしなかったと見受けられます。

 このヨットは空爆から数年後に転覆という形で最期を迎えましたが、これはアメリカの空爆によるものというよりは、何もせず放置し続けた結果です。

2003年のアメリカ軍による空爆で損傷を受けた「アル・マンスール」:Mk.82爆弾が装甲を突き破れなかった船首部分に注目

ヨットの反対側では、2回目の攻撃で命中したMk.82爆弾による被害を見ることができる:この爆弾は船の最も脆弱な部分に命中し、壊滅的な火災を引き起こした

 想像できる限りの豪華な設備を備えた2隻の外洋ヨットを所有しながらも、イラン(後にアメリカ)との戦争により、サッダームにとってそれらは事実上使用不可能な代物となりました。

 彼にとって幸いだったのは、イラクにはユーフラテス川とチグリス川という、大型船が航行可能な大きな河川があったことです。どうやら、彼はこれらの河川を無駄にするのは惜しいと考えたらしく、1979年にクヌーズ・E・ハンセン社とヘルシンゲル造船所の協力を得て、豪華な河川用ヨットを設計・建造させたのでした。[2]

 このヨットは西暦636年のアル・カーディシーヤの戦いの戦いにちなんで、サッダームの「ボーイング747SP」と同じ「アル・カーディシーヤ」と名付けられました。全長が67メートルで、ユーフラテス川とチグリス川に架かる橋の下を通過できるように低く設計されたデザインが特徴です。

 小型ボート用の格納庫を含む、想像しうる限りの豪華な設備を備えた「アル・カーディシーヤ」は、1982年にサッダームに引き渡されました。このヨットがイラクで使用された情報についてはほとんど存在せず、イラク国内で撮影されたことも確認されていません。

 サダムにとっては不運だったのは、自分が心の底から楽しむことができた唯一のヨットが最初に沈んだヨットになってしまったことでしょう。「アル・カーディシーヤ」は湾岸戦争中の1991年初頭に沈められてしまったのです。[2]

 このヨットについては、今でもイラクの河底に横たわり続けていると考えられています。

「アル・カーディシーヤ」はユーフラテス川とチグリス川での使用を目的としていた:1982年に引き渡されたが、湾岸戦争で戦没した

船尾部分から見た「アル・カーディシーヤ」:後部にはプレジャーボートやジェットスキー専用の格納庫が設けられている

 今日、かつてサッダームが所有していた豪勢な洋上宮殿の名残は、水路に浮かぶ錆びついた船体とホテルとして再活用されたヨットだけです。

 ヨットの1隻がイラクの人々に返還されたことは、少なくとも一つの前向きな結果を示していると言えるでしょう。とはいえ、「アル・マンスール」が誇ったかつての栄華の記憶はいまだにイラクに残っており、沈没船の保存を求める声が上がっています。[9]

 このような事業に資金が得られるかどうか、略奪に遭った沈没船を保存することが本当に価値のある行為なのかどうか、いまだに不透明なままです。それでも、錆びた船体が河川の水質を脅かしているため、この船に何か手を打たなければならないことに議論の余地はありません。[10]

 この先どのような展開になろうとも、否定できない事実が一つだけあります:それは、サッダームが所有したヨットが(誕生から)40年後に再び人びとの好奇心をそそる物語となったことです。

横転・着底した「アル・マンスール」:2024年現在もバスラ港で無残な姿を晒している(座標: 30°31'34.53"N、 47°50'25.67"E)

[1] Qadissiyat Saddam - Design of 80 m luxury yacht https://www.knudehansen.com/reference/qadissiyat-saddam/
[2] Al Quadisiya - Conceptual Design of 67 m river yacht https://www.knudehansen.com/reference/al-quadisiya/
[3] The Best of the Best of the World http://peacework.blogspot.com/2005/04/best-of-best-of-world-now-this-is.html
[4] Saddam’s Love For The Sea — Interview with Architect Dinkha Latchin. https://medium.com/@samt_60363/saddams-love-for-the-sea-interview-with-architect-dinkha-latchin-f0b6ed43a44e
[5] Whatever Happened To Saddam Hussein's Yacht? https://www.boatinternational.com/yachts/editorial-features/basrah-breeze-saddam-hussein-yacht
[6] Inside Saddam Hussein’s abandoned gold-encrusted superyacht with missile launcher and secret passage to mini-sub https://www.thesun.co.uk/news/21705213/saddam-husseins-abandoned-gold-encrusted-superyacht-missile-launcher/
[7] Grusom diktators vilde danske luksus https://jyllands-posten.dk/kultur/article6383273.ece
[8] March 27, 2003: The U.S. Navy F-14 Tomcats Attack On Saddam's Yacht https://theaviationist.com/2013/03/27/saddams-yacht/#.UVRoRqp5LYS
[9] Saddam Hussein's rusting yacht al-Mansur now serves as a picnic spot for Iraqi fishermen https://www.abc.net.au/news/2023-03-17/saddam-s-rusting-yacht-serves-as-picnic-spot-for-iraqi-fishermen/102109946
[10] Al-Mansur: How Saddam Hussein’s largest yacht became a local fishing spot in Iraq https://www.boatinternational.com/yachts/editorial-features/al-mansur-saddam-hussein-yacht
[11] バスラの地元住民が、サダム・フセインの豪華ヨットを展示する計画を提案https://www.arabnews.jp/article/middle-east/article_43641/

2025年前半に改訂・分冊版が発売予定です

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2024年7月13日土曜日

伝説的な駆逐艦:ポーランド海軍の「ORP ワルシャワ」


著:シュタイン・ミッツアー と ヨースト・オリーマンズ (編訳:Tarao Goo)

 当記事は、2022年11月3日に本国版「Oryx」(英語)に投稿された記事を翻訳したものです。当記事は意訳などにより、僅かに本来のものと意味や言い回しを変更した箇所があります。

 ポーランド海軍が1970年から2003年の間に2隻のミサイル駆逐艦を運用していたことは全く知られていません。それらは1970年代や1980年代の基準から見ても決して近代的な艦船とは言えなかったものの、冷戦期の大半においてバルト海でソ連が運用していなかった、地対艦ミサイル(SAM)で武装した数少ない艦艇でした。

 2003年の「プロジェクト61MP級」駆逐艦「ORP ワルシャワ」の退役でポーランド海軍による73年にわたる駆逐艦の運用に終止符が打たれたわけですが、その33年前の1970年に、ソ連から「プロジェクト56AE級(NATO呼称:コトリン級)」駆逐艦1隻を引き渡されたことでポーランド海軍の新たな伝説が幕開けたのです。

 この国の海軍は「スプラヴェドリーヴイ」の名称で同艦を十数年間運用していたソ連海軍から中古で入手したことで、ソ連海軍と西ドイツ海軍に次いでSAMで武装した艦を運用する3番目のバルト海沿岸の海軍となったのでした。というのも、(陸上型「S-125」の艦載版である)「M-1 "ヴォルナ"」SAMシステムを中核兵装とする「ORP ワルシャワI」は、1986年の退役までポーランド海軍に防空能力を提供し続けたのです。
 
 この艦が退役する時点には、すでにソ連との間で後継艦に関する交渉が始まっていました。ただし、ポーランド海軍が「ORP ワルシャワI」の後継艦としてリースした「プロジェクト61MP(NATO呼称:改カシン)級」大型対潜艦の「ORP ワルシャワII」を正式に導入するまでには、それからさらに2年の歳月を要したのです。

 1969年に「スメールイ」としてソ連海軍に就役していた「ORP ワルシャワII」は、ポーランド海軍で初の真の多目的水上戦闘艦です。2連装の「AK-726」76mm砲、2基の「M-1 "ヴォルナ"」SAM発射機、4基の「P-15」対艦巡航ミサイル(AShM)、4基の「AK-630」30mm CIWSに加えて、533mm魚雷と2基の「RBU-6000」対潜ロケット砲を搭載した「ORP ワルシャワII」は、どの方向から見ても恐ろしい姿をしていました。


  対照的に、「ORP ワルシャワⅠ」は確かに控えめなに見えると言えるかもしれません。本来は対潜艦として設計された艦でしたが、 ソ連海軍は1960年代を通して7隻の「コトリン級」にSAMを搭載するための改修を施しました。そして、さらに1隻が改修されてポーランドに売却されました。これが(輸出された唯一の「プロジェクト56」級駆逐艦:「プロジェクト56AEである)「ORP ワルシャワⅠ」になったというわけです。

 ポーランドでは、「ワルシャワⅠ」は2隻の「プロジェクト30bis(スコーリイ)」級駆逐艦の「ヴィヘル」と「グロム」、そして第二次世界大戦前にイギリスで建造されて1967年に事故に遭って動けなくなっていた「ブウィスカヴィーツァ」の後継艦となりました。その後、「ブウィスカヴィーツァ」は浮き(対空)砲台に格下げとなり、進水から40年後の1976年に正式に退役しました。同年には記念艦となり、現在もその役割を忠実に果たし続けています。

在りし日の「ORP ワルシャワⅠ」

記念館となった「ORP ブウィスカヴィーツァ」

 「ORP ブウィスカヴィーツァ」がいまだに100mmと37mmの対空砲を装備していたのに対し、その後継である「ORPワルシャワI」は、「M-1 "ヴォルナ"」SAMシステムという形でポーランド海軍に初の艦対空ミサイル能力をもたらしました。

 「M-1」は、レール式ミサイル発射機1基で2発の「V-600/601」ミサイルを射程15km以内の空中目標に(緊急時には艦船にも)発射することが可能です。このSAMの開発は陸上配備型(最終的には世界のどこでも見られるようになった「S-125」)の開発と共に1956年に開始されたことが知られています。

 一度に交戦できる目標は1つ(発射機を2基装備した艦の場合は2つ)だけなので、それ以上の目撃が存在した場合のシステムの有効性は大幅に低下する弱点があります。発射機は最大32発の再装填が可能であり、数回の改良事業のおかげで「V-601(M)」ミサイルを使用した場合におけるシステムの最大有効射程は最終的に22kmまで延長されました。 

「ORP ワルシャワI」は本来の役割であるASW(対潜)戦に沿って、2基の「RBU-2500」対潜ロケット砲と533mm五連装魚雷発射管、そして艦首に配置された二連装の「SM-2-1」130mm両用砲と(艦橋前の)「SM-20-ZiF」四連装45mm対空機関砲から構成される防御兵装一式を装備していた一方で、ソ連の姉妹艦にはあった「AK-230」30mm対空機関砲は装備されていませんでした。

 16 年という長い就役期間(1970 年~1986 年)中に「ORP ワルシャワI」 は合計で(ポーランド海軍が購入したミサイルの半分以上である)28 発の「V-601」 SAMを発射したほか、ソ連やフィンランド、スウェーデン、デンマーク、イギリス、そしてフランスに寄港する活躍を見せました。[1]

「ORP ワルシャワⅡ」から発射された直後の「V-601M」SAM

 「ORP ワルシャワⅡ」 は、2基目の「M-1 "ヴォルナ"」SAM発射機、4基の「P-15」AShM発射機、近接防御兵装(CIWS)、威力が向上した対潜装備、ヘリコプター搭載能力を導入することで、先代が持っていた1950年代当時の性能が大幅に拡充されました。

 リースが終了した後の「ワルシャワII」はソ連時代に生じたロシアの負債を清算する名目で1993年にポーランドに永久譲渡され、同年から2年にわたるオーバーホールを受けて、ソ連の航海レーダーをポーランド製に交換するなどの改良も行われています。旧式化した兵装システムの換装や(ヘリ甲板に露天で駐機されていた)「W-3」ヘリコプター用の格納庫の新設が検討されましたが、慢性的な資金不足のために大規模な近代化が実施されることはありませんでした。

敵機やAShMがミサイル防衛の外壁を突破する(可能性が高い)場合、両舷に2基ずつ装備された「AK-630」CIWSと2門の「AK-276」76mm砲で近接防御が実施されることになる

 財源不足のために、冷戦終結以降の「ORP ワルシャワII」は散発的にしか海に出ませんでした。かつて同艦を導入した理由であった兵器システム自体が、今では維持するのが困難でコストを要するものとなっていたのです。1990年代から2000年代初頭にかけてバルト海で実施された全ての主要な国際演習の中で、同艦が参加したのは1999年の1回だけでした。

 この駆逐艦については、海外への売却を保留したまま2003年12月1日に正式に退役となったわけですが、どこの国も購入の関心を示さなかったことから、予備役として保管された後にスクラップとして売却されて2005年にグダニスク造船所で解体されてしまいました。

  ちなみに。ポーランド海軍時代の「ORP ワルシャワⅡ」は48発の「V-601」SAMと8発の「P-15」AShMの発射を記録しました。[1]

解体中の「ORP ワルシャワⅡ」

 1950年代後半に設計された艦にもかかわらず、「ORP ワルシャワⅡ」の姉妹艦たちは今でも現役で運用されています。1980年代前半から後半にかけて5隻の「改カシン」級を引き渡されたインド海軍では、生き残った3隻が大幅に改修を施されて今日でも任務を続けているのです。

 インドでは「ラージプート級」と呼称される「改カシン級」については、先述のとおり、残りの3隻を21世紀の戦争に適応させるために多大なリソースを投入しています。このうちの2隻は、8発の「ブラモス」AShMを装備するためにアップグレードされました。これは従来から搭載されていた4基の「P-15 "スティックス"」用の発射機を置き換えるものです。艦尾の「M-1 "ヴォルナ"」SAM発射機は、2隻ではイスラエルの「バラク1」SAM用VLS(8セル)2基、もう1隻では国産の 「VL-SRSAM」用VLS(16セル)に換装されました。そのうちの1隻(「INSラナ」)は、「ダヌシュ」艦上発射型短距離弾道ミサイルの試験艦としても使用されたことが知られています。 

 「ラージプート級」の推進機を国産のガスタービンエンジンに換装する計画を踏まえると、これらの艦は今後何年にもわたって運用され続けることになるでしょう。

「ORP ワルシャワII」:ソ連が設計した艦艇はスッキリとしたラインで特に有名というわけではない

 「ORP ワルシャワⅠ」も「ORP ワルシャワⅡ」もポーランド海軍に就役した時点では特に現代的な艦艇ではなかったものの、それでも1970年から2003年までバルト海の海洋権益を護り続けた、ポーランド海軍の歴史における興味深く重要な一章を象徴していると言えます。

 ソ連以外のワルシャワ条約加盟国が運用したどの艦艇よりも大型で高性能な「ワルシャワ」は、駆逐艦クラスの艦艇を運用したいというポーランドの願望を体現した艦であり、1930年代に確立された伝統を引き継ぐ存在でした。


 最終的に、「ORP ワルシャワⅡ」はアメリカ海軍から中古で入手した2隻の「オリバー・ハザード・ペリー級」フリゲートに更新されました。これらのフリゲートは小型であったにもかかわらず、ポーランド海軍は(外見上の迫力は劣るも)より高性能なプラットフォームを手に入れたと言って差し支えないでしょう。

  「オリバー・ハザード・ペリー級」は、ポーランド海軍がこれまで運用してきた中で最も高性能な艦艇になるであろう国産の「ミェチニク級」フリゲート3隻に更新される予定です。 彼女たちはもはや真の駆逐艦と呼べる存在ではなくなっているものの、この野心的な後継者たちは、誇り高き伝統の旗手として誰もが認める存在となるでしょう。

近い将来に姿を現す「ミェチニク級」フリゲート

画像の出典: Stowarzyszenie Entuzjastów ORP Ślązak i Sympatyków Marynarki Wojennej.
[1] Robert Rochowicz. Dzieje niszczyciela ORP Warszawa. ''Morze, Statki i Okręty''. Nr specjalny 1/2015, 2015. Warszawa.