著:ステイン・ミッツアー
ギニア・コナクリと呼ばれるギニア共和国は西アフリカに位置するフランス語圏の国で、乏しい経済的な見込みに苦しめられながらも人口が急速に増加しています。この国にはイギリスよりも僅かに広い面積に約1240万人が住んでいますが、ギニアは未だに発展途上国であり続けています。また、ギニアはイスラム教徒が主流の国で、人口の約85%かそれ以上を彼らが占めています。
ボーキサイトの産出量が世界第二位であることに加えて、ギニアには 「敵の砲火によってではなく、純粋な怠慢によって全ての戦闘艦を沈没させた」という、全くありがたくない名誉を持っています。この驚くべき偉業の中心には、(この記事のテーマである)比較的先進的なソビエト製の「ボゴモール」級哨戒艇がいました。
「プロジェクト02065 "ヴィーフリ-III(NATO側呼称:ボゴモール)"」は1980年代後半にソ連で設計・建造された哨戒艇です。この哨戒艇は「プロジェクト206MR "ヴィーフリ(NATO側呼称:マトカ)"」級ミサイル艇がベースになっており、1989年に建造が終了するまでに僅か9隻しか完成されませんでした。 [1]
「ボゴモール」級の武装は「AK-176」76mm速射砲と「AK-630」近接防御システム(CIWS)であり、どちらも艦橋上部に搭載された「MR-123」火器管制レーダーによって制御されます。設計目的の哨戒任務においては、この哨戒艇を依然として今日でも強力なプラットフォームと言えるでしょう。
興味深いことに、ソ連はボゴモル級を1980年代までに先進的な艦艇の運用と維持が比較的可能となっていたキューバ、ベトナムやイエメンといった国々へ引き渡す代わりに、全9隻のうち4隻をイラクとギニアに輸出しました。
ギニアは艦艇の維持に関して言えば不注意と怠慢だったという確かな実績がありますが、この国は歴史上極めて重要な時期(ソ連の没落)に間違いなく西アフリカ沿岸全体で最も近代的な艦艇を入手したことは注目すべき出来事と言えます。
ただし、兵器・スペアパーツの供給や技術支援をしてくれる従来からのサプライヤーが(ソ連崩壊で)いなくなったため、これらの船はすぐに荒廃状態へと陥ってしまったのでした。
最初に独立を得たフランスの植民地の一つとして(1958年)、ギニアは(特に初期の段階における)ソ連の軍事援助の被援助国となり、1950年代後半には最初の援助が到着し始めました。
ソ連圏と緊密な関係を築いたことで、ギニアの要衝はソ連とキューバの両方によって完全に悪用されました。これらの国はギニアを植民地支配者からの独立をまだ達成していない近隣諸国の独立運動を支援するための前進基地として使用したのです。
それにもかかわらず、ソ連との緊密な関係が外国からの攻撃に対してギニアを脆弱にしてしまうのではという懸念の結果として、ソ連圏との関係は1960年代の大半を通じて衰退しました。この衰退は、ポルトガルの侵攻が差し迫っているというアフメド・セク・トゥーレ大統領の被害妄想が高まった結果、1960年代後半に再びソ連圏との緊密な関係が築かれるまで続きました。
実際、ポルトガルはギニアビサウにおける(ポルトガルによる)植民地支配と戦う独立運動へのギニアの支援に、ますます苛立ちを募らせるようになっていたのです。[2]
トゥーレ大統領の恐怖は無駄ではありませんでした。1970年11月には、約200人のギニア系ポルトガル兵と100人の反体制派ギニア人からなるポルトガルのコマンドー部隊がポルトガル軍の将校に指揮されて、公然とギニアに侵攻しました。彼らの目標はトゥーレ政権の転覆とギニアビサウの独立運動の指導者アミルカル・カブラルの暗殺、25人のポルトガル人捕虜の解放であり、捕虜の解放のみが成功しました。[2]
ポルトガルの攻撃を受け、トゥーレはソ連との緊密な関係を再構築して、将来に予想されうるポルトガルの侵略を払いのける追加のMiG戦闘機や戦車、高射砲の供与を受けました。
ポルトガル人が再びギニアの地に足を踏み入れることを制止するため、数隻の艦艇から構成されたソ連海軍の哨戒部隊が頻繁にこの地域に呼ばれました。この派遣は、コナクリに定期的に配備されていたいくつかの「Tu-95RT」洋上哨戒機も含む、西アフリカ沖へソ連海軍が恒常的に配備される前触れとなったようです。
その後の1973年1月、ギニアでのアミルカル・カブラル暗殺事件を受け、コナクリに停泊していたソ連の駆逐艦が暗殺犯を追跡・拘束してギニア当局に引き渡しました[3]。
ポルトガルが1974年にギニアビサウの独立を認めて徐々に(1999年に中国に返還したマカオを除く)植民地から撤退し始めたため、トゥーレが抱いていたポルトガルへの恐怖は殆ど解消されました。
ポルトガルが1974年にギニアビサウの独立を認めて徐々に(1999年に中国に返還したマカオを除く)植民地から撤退し始めたため、トゥーレが抱いていたポルトガルへの恐怖は殆ど解消されました。
自国における大規模なソ連海軍の存在が効果的な防衛策というよりはむしろ重荷になりつつあったため、トゥーレはソ連の活動を抑制し始めました。
1977年にトゥーレはソ連の「Tu-95RT」がギニアへアクセスする許可を取り消し、続く1978年後半にはソ連とキューバの顧問団が追放され、1979年前半にはコナクリにおけるソ連艦艇の動きに更なる制限をかけたのです。
これらの動きが、最終的に(ギニアにはるかに巨大で恒久的な海軍基地を建設するという)ソ連の希望に終止符を打つことになります。 [3]
ギニア領海におけるソ連の漁業権に関する論争や、ソ連のギニアに有意義な経済支援を提供するという意思の欠如のため、数年間は両国の関係が冷え切ったままとなりました。[4]
トゥーレが死去した1984年に軍事クーデターが勃発してランサナ・コンテ将軍が実権を握り、彼は2008年に死去するまでギニアを支配し続けました。
ソ連との緊密な関係は、虚弱なギニア海軍に大きな影響を与えました。なぜならば、ギニアは創設直後のソ連の衛星国海軍と同じような訓練と装備を受け、全ての海軍装備はソ連由来のものだったからです。
ポルトガルによる侵略の後で、ギニア海軍の人員は150人から300人に増加し、1972年にはさらに150人が増強されました。同年にはギニア海軍の要員はいくつかの中国の哨戒艇の獲得を見越して中国で訓練を開始しましたが、その調達は実現しなかったようです。[5]
1970年代初頭におけるギニア海軍の艦船は、双連の12.7mm重機関銃2基を装備した4隻の「ポルチャット-Ⅰ」級哨戒艇、2基の533mm魚雷発射管と双連の25mm機関砲を装備した数隻の「P-6」魚雷艇、双連の25mm機関砲2基と対潜弾投射機2基だけでなく対潜水艦戦用(!)の爆雷も装備した2隻の「MO-VI」級駆潜艇で構成されていました。[5]
ギニアによる不十分な整備は1967年までに既に2隻の船の沈没を引き起こしており、他の船が似たような運命に遭うことを防ぐため、1971年にはソ連の技術派遣団が介入しなければいけないほどでした。[5]
これによって艦隊の運用性が改善されたとはいえ、艦船の大半は滅多に出港することはありませんでした。ギニアは装備の信頼性の欠如と、艦船を適切に整備するための予備部品が十分に供給されないことに不満を訴えました。[3]
ソ連はこの問題に取り組むのではなく、魚雷発射管が撤去された3隻か4隻の「シェルシェン級」哨戒艇と西アフリカの熱帯気候での運用のために改修を施された1隻の「T-43級」掃海艇を引き渡すことで、ギニア海軍に(装備面で)創設以来最大級の大変動をもたらしました。[3]
これらの艦船の引き渡しはギニアにとって「ボゴモール級」が引き渡される前の最後の目立った艦艇の入手となりましたが、結局は1980年代後半か1990年代初頭に密かに就役してその数年後には退役しました。
それでもなお、ギニアは1980年代の半ばから後半にかけて、(「MiG-21bis」戦闘機と「9K35 "ストレラ-10 "地対空ミサイルシステムを含む)毎年数千万ドル相当の装備をソ連から受け取り続けました。 [6]
2007年2月:2隻のボゴモール級は既に用廃となっていましたが、埠頭にしっかりと係留されています。 |
2007年12月:1隻目の船尾はすでに水没しています。浸水による重量の増加で、この船はさらに海の底までゆっくりと引きずり込まれていきます。 |
2008年8月:満潮時ですと、かろうじて艦橋とレーダー・マストだけが水面に突き出ている状態を見ることができます。もう一隻は埠頭の反対側に移動されています。 |
2009年12月:干潮時には(AK-176速射砲を含めた)1隻目の上部構造の大半を視認することができます。この港の至る所では、さらに数隻の沈没船を見ることができます。 |
2013年3月:水圧でAK-176速射砲が船体から外れたようです。画像の左側にある浮きドックにも注目してください。 |
2019年8月:2隻目のボゴモール級も浸水が始まり、船首と上部構造のみがかろうじて水面より上にある状態になっています。その一方で、2013年の時点でまだ使用されていた浮きドックも沈没しました。 |
イラクのような輸出先にとっては未だに比較的高度な水準であるとはいえ、(レーダー誘導式の「AK-176」76mm速射砲と「AK-630」CIWSを装備している)「ボゴモール」級はギニアのような小さな海軍のニーズを完全に超過していましたし、今でもそうと言えます。驚くべきことではないでしょうが、ギニアの場合、退役した「ボゴモール」級などを代替した艦隊は維持と運用が容易な(軽機関銃だけを装備した)小船で構成されていました。
ギニアの隣国であるギニアビサウも1988年から1990年にかけて2隻の「ボゴモール」級哨戒艇を入手したと報告されていますが、それらが実際に引き渡されたことを示す公的な証拠は現時点で存在しません。[1][7]
だからといって、実際に引き渡しがなかったと言うことはできません。これらの船が、商業衛星画像の登場以前にスクラップにされたり、港の底に存在していた(既に沈没していた)可能性があるからです。
(ギニア以外で)唯一「ボゴモール」級を受け取ったことが確認されているイラクとイラン(1991年にイラクから1隻を引き継ぎました)の例については、将来的にこのブログで紹介する予定です。
ロシアでは、「ボゴモール」級は最終的により近代的な「プロジェクト10410 "スヴェトリャク"」級に取って代わられ、たった2隻 (PSKR-726 と PSKR-727)が今でも太平洋艦隊で運用されていると考えられています。
「ボゴモール」級の沈没 - この武勇伝は、かなりの財政的・物的支援なしに運用できない顧客国に高度な兵器を提供するというソ連の失政を証明しています。この失政の結果は今でもアフリカ各地で錆びついており、それらは港の底にいるか、解体を待っているかのどちらかとなります: それは苦痛を伴いながらも崩れていく、失敗した野望と、ゆっくりと消えていく過去の記念碑です。
[1] RussianShips.info http://russianships.info/eng/borderguard/project_02065.htm
[2] MEMORANDUM SOME REPERCUSSIONS OF THE RAID ON GUINEA https://www.cia.gov/library/readingroom/document/cia-rdp85t00875r002000110005-8
[3] IMPACT OF SOVIET NAVAL PRESENCE IN THIRD WORLD COUNTRIES https://www.cia.gov/library/readingroom/document/cia-rdp84t00658r000100030004-5
[4] EQUITIES IN THE SOVIET-GUINEAN RELATIONSHIP https://www.cia.gov/library/readingroom/document/cia-rdp85t00287r001400740001-7
[5] GUINEA https://www.cia.gov/library/readingroom/docs/CIA-RDP01-00707R000200110060-7.pdf
[6] THE SOVIET RESPONSE TO INSTABILITY IN WEST AFRICA https://www.cia.gov/library/readingroom/document/cia-rdp86t00591r000300440002-2
[7] SIPRI Trade Registers http://armstrade.sipri.org/armstrade/page/trade_register.php
※ この記事は、2020年11月16日に「Oryx」本国版に投稿された記事を翻訳したもので
[2] MEMORANDUM SOME REPERCUSSIONS OF THE RAID ON GUINEA https://www.cia.gov/library/readingroom/document/cia-rdp85t00875r002000110005-8
[3] IMPACT OF SOVIET NAVAL PRESENCE IN THIRD WORLD COUNTRIES https://www.cia.gov/library/readingroom/document/cia-rdp84t00658r000100030004-5
[4] EQUITIES IN THE SOVIET-GUINEAN RELATIONSHIP https://www.cia.gov/library/readingroom/document/cia-rdp85t00287r001400740001-7
[5] GUINEA https://www.cia.gov/library/readingroom/docs/CIA-RDP01-00707R000200110060-7.pdf
[6] THE SOVIET RESPONSE TO INSTABILITY IN WEST AFRICA https://www.cia.gov/library/readingroom/document/cia-rdp86t00591r000300440002-2
[7] SIPRI Trade Registers http://armstrade.sipri.org/armstrade/page/trade_register.php