2025年3月8日土曜日

サマルカンドの鉄獅子:ウズベキスタンの軍用車両・重火器(一覧)


 著:ヤン・キンデルダイク, シュタイン・ミッツァー と Buschlaid(編訳:Tarao Goo
 
 この記事は2023年9月3日に本国版「Oryx」(英語)に投稿された記事を翻訳したものです

 地図を見ると、ウズベキスタン共和国は5つの内陸国に囲まれている国であることが分かります:北にはカザフスタン、北東にはキルギス、南東にはタジキスタン、南にはアフガニスタン、南西にはトルクメニスタンが位置しているのです。

 この独特な地理的状況は、ウズベキスタンを世界で2つしか存在しない「二重内陸国」の一つにしました。アフガニスタンと国境を接しているため、中央アジアにおけるこの国の位置はさらに重要なものとなっています。

 テロリストの脅威がもたらす潜在的な危険性は、ウズベキスタンが軍事侵攻を受ける危険性を上回っています。これを踏まえ、同国の軍事面における投資の大部分については、「K-53949 "タイフーン-K"」や「エジデル・ヤルチュン」MRAP、十数機のユーロコプター「AS532」輸送ヘリコプターや同程度の「AS550」汎用ヘリコプター、4機の「C-295W」輸送機などの導入を通じた、対テロ戦力の増強に向けられています。

 ウズベキスタン軍が保有する装備の大半の起源はソ連軍のトルキスタン軍管区にありますが、その他の装備の一部は欧州通常戦力(CFE)条約を通じて入手したものです。条約の規定でソ連はウラル山脈の後方に大量の兵器を移転することが義務付けられたため、結果としてウズベキスタンの領土に数百台もの「T-64」と「T-80」が存在する事態になったのでした。

 深刻な装輪式装甲兵員輸送車(APC)の不足に直面したため、ウズベキスタンは2000年代に多数存在する特殊用途のAFVをAPCに転用したり、後でロシアから多数の「BTR-80」を入手するなどして補完しました。なお、後者についてはカリモフ大統領の時代に行われた数少ない軍備調達の一つでもあります。

 ウズベキスタンは不安定な地域に位置するため、アメリカは同国の対テロ戦力の強化を図るべく2015年に308台のMRAPと20台のMRV(MRAPベースの回収車)を寄贈しました。[1]これは2022年に勃発したロシア・ウクライナ戦争以前にポスト・ソビエト国家にアメリカ製兵器を譲渡したものとしては唯一にして最大のものであり、ウズベキスタン軍の戦力を大幅に向上させました。

 カリモフ大統領の後継者であるシャフカット・ミルジヨーエフは軍への投資を大幅に増やし、2010年代後半にはロシアからカマズ「タイフーン-K」 MRAPと「BTR-82A」APCを調達しました。

 新型戦車の導入には至っていないものの、ウズベキスタンの防衛産業は「T-62」、「T-64」、そして「T-72」の近代化改修に着手しています。とは言っても、これらの近代化は未だに試作段階の域を超えていません。これとは別に、国産の兵器が配備されつつあります。現時点では、これらは戦術車両と歩兵機動車の分野に及んでいます。

 ウズベキスタンが兵器類の近代化と生産能力をさらに拡大するために尽力していることを考えると、おそらく近い将来に新たなウズベキスタン製AFVが姿を現すことになるでしょう。そして、国産AFVがソ連・アメリカ・ロシア製だらけの難解なウズベキスタンのAFV一覧に追加されることを疑う余地もないでしょう。

  1. この一覧は、現在のウズベキスタン陸軍で使用されている全種類のAFVをリストアップ化を試みたものです。
  2. この一覧には、画像・映像などで存在が確認されたものだけを掲載しています。
  3. 対戦車ミサイル、携帯式地対空ミサイルシステム、迫撃砲やトラック、ジープ類はこの一覧には含まれていません。
  4. 特定のAFVなどが軍部隊以外で運用されている場合は括弧内にその旨を追加しています。
  5. 各兵器の名前をクリックするとウズベキスタンで運用中の当該兵器の画像を見ることができます。

戦車

戦闘装甲車両

歩兵戦闘車

装甲兵員輸送車

MRAP:耐地雷・伏撃防護車両

歩兵機動車

戦術車両・テクニカル

指揮通信車・砲兵支援車

自走式対戦車ミサイルシステム

自走式地対空ミサイルシステム

2025年3月1日土曜日

アフリキヤ・ワン: 代金と所有権をめぐって苦しんだカダフィ専用機


著:シュタイン・ミッツアー と ヨースト・オリーマンズ(編訳:Tarao Goo)

 この記事は、2023年9月6日に本ブログのオリジナル(本国版)である「Oryx-Blog(英語)」で公開された記事を翻訳したものです。 意訳などにより、僅かに本来のものと意味や言い回しが異なっている箇所があります。

 私は国際的なリーダーであり、アラブの統治者たちの長であり、アフリカの諸王の王であり、ムスリムのイマームである:ムアンマル・カダフィ

 2011年にリビア革命が終結したことは、リビアの人々に、ムアンマル・カダフィが42年にわたる統治下で蓄えていた数十億ドルと、それによって彼が手に入れた贅沢なライフスタイルのレガシーを求めて熱狂させる事態に至らせました。というのも、リビアはアフリカで最も豊富な石油を埋蔵している国にもかかわらず、カダフィの統治下では、リビアの人口600万人のうち約40%が貧困ライン以下で生活しており、適切な医療を受ける機会すら全くなかったからです。[1]

 カダフィ一家が所有する宮殿の内部をリビア人がやっと垣間見ることができたとき、もっとも際立っていたのは、(おそらく大半の人が予想していたような)豪華さではなく、むしろそのお粗末な内装でした。サイフ・アル=イスラム・カダフィの邸宅で発見されたスーパーカーの壁画にしても、カダフィ一家の保養所の廊下の中央に置かれた巨大な石造りの噴水にしても、お金とセンスがイコールではないことは明らかです。彼の独特なインテリア・センスは、反政府軍がカダフィの1億2,000万ドル(約180億円) もしたVIP専用エアバス「A340 "アフリキヤ・ワン"」 の内部を初めて覗いたときに、さらに証明されました。[2]

 国連安全保障理事会がリビア上空に飛行禁止区域を設定した後にトリポリ国際空港(IAP)で立ち往生していた「A340」は、2011年8月に発生した空港をめぐる戦いでは、概ね被害を免れました。この後、反政府軍が首都トリポリを制圧したことは周知のとおりです。反政府軍がトリポリIAPで遭遇した飛行機は、(過去の当ブログで紹介した)リビアが2機保有する「An-124」貨物機のうちの1機だけでなく、カダフィの自家用ジェット機の大部分も含まれていました。[3]

 贅沢をしないふりをしていた割には、彼の専用機は「A340-213(5A-ONE)」1機、「A300-600(5A-IAY、空港の先頭で破壊された)」1機、ダッソー「ファルコン900EX(5A-DCN、近郊のミティガ空軍基地で発見された)」1機で構成されていました。ちなみに、トリポリで発見されたカダフィ専用の高速列車は、イタリアのシルヴィオ・ベルルスコーニ首相(当時)から贈られたものでした。これの詳細は過去に取り上げた記事をご一読ください。[4]

 明らかになったカダフィ専用「A340」の内部は、1990年代のリムジンと遜色ない銀灰色の内装でした。それでも、4発機の「A340」はスタイリッシュさに欠けていたものの、豪華さではそれを補って余りあるものがありました。というのも、カダフィとその側近たち、そして女性だけで構成された親衛隊 "アマゾニア"が利用できた、複数のバスルームと2個のシャワー、ジャグジー、革張りのソファと座席が設けられていたからです。

 このような豪勢なことを考えれば、カダフィ大佐、あるいは彼が好んで使った "大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国の偉大なる9月1日革命の指導者" が、実際に「A300」を愛用した事実は驚くべきことかもしれません。このことは、彼がすでに「A340」の3人目のオーナーであり、自分でインテリアを決めていなかった事実と大いに関係がありそうです。「A300」も中古機でしたが、こちらは2003年にアブダビ・アミリ・フライト(現プレジデンシャル・フライト)から入手した後にカダフィの好みに合わせて改装されました。[5]

 「A340」がカダフィの手元に渡った経緯については、それ自体が興味をそそるストーリーです。まず、この機体は1996年8月にブルネイのジェフリ・ボルキア皇太子によって発注されたもので、2億5,000万ドル(約378億円)を費やして調達と内部の改装が行われました。[6]

 2億5,000万ドルという額の時点でもすでに巨額ですが、それが彼自身のお金でないことを考えれば余計にそう言えます。(お察しの通り)ジェフリ皇太子にはブルネイの国家予算を不正に流用する悪習があり、国庫から148億ドル(約2.2兆円)を不正に持ち出し、多くの宮殿やヨット、そしてこの「A340」を含む9機以上のプライベート機に費やしたとして非難されていたのです。[7]

 結果として、彼は弟の行動を少しも快く思わなかったブルネイのスルタン(兄のハサナル・ボルキア)によって解任され、全ての所有物を売り払われてしまいました。ジェフリ皇太子が "自分の"「A340」に2億5,000万ドルも費やした僅か3年後に、この飛行機はスルタンによって、世界で最も裕福な人物の一人であるサウジアラビアのアル=ワリード・ビン・タラール・アル・サウード王子にたった9,500万ドル(約140億円)で売却されたわけです。

 手っ取り早く金儲けをしようとした王子は、この飛行機をカダフィに売ろうと試みたものの、それがさらなるスキャンダルを招くことになりました。

ゾッとさせるような1990年代風の銀灰色の内装が施されたカダフィの「A340」

"アフリキヤ・ワン" に備えられたカダフィの(旧ジェフリ・ボルキアの)豪勢な玉座

 アル=ワリード王子が最初に直面した障害は、カダフィ大佐が2001年に初めて「A340」を売り込まれた際に少しも興味を示さなかったことでした。そもそもカダフィは飛行機を用いての移動に熱中していたわけではなかったし、リビアへの制裁と政治的な面での国際的孤立の拡大のため、過去10年以上は海外へ飛ぶことがなかったからです。1970年代と1980年代、まだ世界の多くで歓迎されていた頃の彼が単にリビア航空の「ボーイング707」を使用していたことを踏まえると、専用機には特に興味を示していなかったようです。

 アル=ワリードからすると、「A340」の購入に関心を示す相手がいなかったことが問題となったのは容易に想像できるでしょう。買い手からの関心が乏しかったのは、航空機の内装と外装がいずれも著しく魅力のないものだったことが影響しているかもしれません。ジェフリ皇太子は兄が所有する3機(!)の「A340」とほぼ同様の内装をチョイスしたものの、仕上げは兄が使用した金色ではなく、なぜか銀灰色のものだったことは上述のとおりです。彼はその出来栄えに満足したようで、「A340」の外装も同様に仕上げられました。

ブルネイのジェフリ・ボルキア皇太子が所有していた時代の「A340」:外装もパッとしない銀灰色に固執しているように見える (画像:Konstantin von Wedelstaedt)

 アル=ワリード王子は、カダフィが1億2,000万ドルの空飛ぶリムジンの購入に無関心であることに気後れせず、カダフィと人脈を持つヨルダンのフィクサー:ダード・シャラブに依頼し、カダフィにエアバスを購入するよう説得を試みました。それにもかかわらず、シャラブは彼との会談を実現させるのに1年半近くを要して、ようやく実現したのは2003年1月のことです。[6]

 この会談で、カダフィは最終的にエアバスに興味を示した一方、他にも提示された複数の航空機を検討していると述べました。この数日後、シャラブは王子に連絡を取り、カダフィに「A340」だけでなく、同じく売却しようとしていた「ボーイング767」もチェックしてもらうよう提案しました。こうして2003年4月に両機はリビアへ飛び、王子自身も「A340」に搭乗して売り込みにきたのです。

 結果として、カダフィはエアバスを気に入り、売却の手続きが完了するまで機体をトリポリに留め置くよう要請しました。これは、彼の知らないところで機体に手を加えるなどの行為を防止するための措置という意味合いがあります。

 結局、王子は「ボーイング767」でサウジアラビアに戻りました。この時の彼は、おそらく取引の成功の見込みに満足したことでしょう。

アル=ワリード王子は銀灰色の塗装が「A340」の販売に悪影響を及ぼすと判断し、より美しい "キングダム・グリーン" に変更した:カダフィが初めて目にした「A340」はこの塗装の機体だった

 「A340」の売却価格に関して、どうやら王子とシャラブの間には齟齬があったようです。シャラブは1億3,500万ドル(約200億円)と考えていたのに対し、王子は最高でも1億1,000万ドル(約165億円)と考えていました。[6]

 この価格でも、王子にとっては1,500万ドル(約22億円)の利益を手にすることができます。それにもかかわらず、彼はカダフィを騙して「A340」の価格が実際はもっと高価だと信じ込ませ、「1億3,500万ドルという価格は、私たちがこの機体に要した費用です。これには、購入後に機体に施された多種多様な追加の装備や改造が含まれています」とカダフィに伝え、儲けを増やそうとしたのでした。[6]

 後にこれらの改造について尋ねられた際、王子は実際には「A340」に何もしていないことを認めました。

 騙されていたのはカダフィ大佐だけがではありません:というのも、シャラブは「機体を1億1,000万ドルで売却できたならば、王子がそれ以上の金額を自身に支払うことに同意していた」と主張していたものの、後に王子はこの約束を否定したからです。最終的にシャラブは訴訟を起こし、勝訴しました。2013年にイギリスの裁判所は王子に対して彼女に1,000万ドル(約15億円)の(損害賠償を兼ねる)仲介手数料を支払うよう命じたのでした。[8]

 勝訴のちょうど10年前となる2003年6月、カダフィ大佐との交渉を成功させて1億2,000万ドルでエアバス「A340」を売却したのはシャラブでしたが、隣国エジプトにおける王子の農業プロジェクトに対するリビアからの2,000万ドル(約30億円)の投資を決定させたのも彼女でした。[6]

 機体の代金の支払いは2回に分割して行われ、最初の7,000万ドル(約105億円)は王子に直接支払われる予定になっていました。リビア農業投資公社が、第2回目の出資分として残りの7,000万ドルを拠出し、そのうち2,000万ドルは農業プロジェクトに、残りの5,000万ドルは航空機の代金に充てられる予定だったのです。王子は2003年8月に最初の7,000万ドルを受け取ったものの、航空機購入費用の5,000万ドルと農業プロジェクト用の2,000万ドルの入金は実現しませんでした。

 2004年2月、カダフィの代理として「A340」を運航する予定だったリビアのアフリキヤ航空の会長が、王子の代理と会談しました。この会議の途中で、会長はカダフィが7,000万ドルが適正な価格だと考えており、それ以上の金額を支払うつもりはないと述べています。最近調達した「A300」に加えて長距離用のVIP機を追加する必要性が全くないことを踏まえると、この時点でカダフィが後悔していた可能性があるのではないでしょうか。

 おそらく、彼が「A340」の購入を決断した主な理由は、そのサイズと4基のエンジンという点にあったと思われます。一般の読者からすると、4基のエンジンが持つ重要性をすぐに理解するのは難しいかもしれませんが、一般的に中東の指導者たちが4基のエンジンを搭載した「ボーイング747-400」か、より現代的で大型の「ボーイング747-8」を所有していることをイメージすれば分かるのではないでしょうか。というのも、大型機は、指導者とその国に高い威信を授けてくれるからです。

 かつて「A340」は一流の飛行機と見なされていましたが、トルコとエジプトの両政府は、(「A340」に加えて)より大型の「ボーイング747-8」も導入しています。

アラブ諸国の指導者たちの専用機と比較した際に明らかに見劣っていたため、双発機の「A300」はカダフィに劣等感を抱かせていたのかもしれません。カダフィに「A340」購入を動機づけた要因が、これであった可能性は決して低くはないでしょう。ただし、彼がこの購入で1億2,000万ドルもの大金を出すことについては、明らかに快く思っていませんでした。

「A340」を入手した後も、カダフィは海外へのフライトには双発機の「A300」を頻繁に利用した (画像:Dennis)

 別の億万長者が以前所有していた4発エンジンのプライベートジェット機の価格をめぐって2人の億万長者が口論しているという光景がそれほど面白くないと思っても、この事態はさらに滑稽な展開を繰り広げることになります。

 明らかにカダフィは依然として未払いの5,000万ドルをアル=ワリードに渡す意思はなかった一方で、王子の手には隠し玉がありました。

 「A340」は王子がトリポリを去った2003年4月以来、ずっと駐機されたままでした。しかし、機体をフライアブルな状態に維持するには(通常はヨーロッパで行われる)定期点検を受ける必要があったわけです。こうして2004年3月に、この機体がドイツで定期点検を受ける番となりました。

 リビアの当局者たちは「A340」のトリポリへの帰還を期待していたようですが、驚いたことに、その機体は戻ってくることはありませんでした。跡形もなく消えてしまったかのような状態となったわけです。

 以前、カダフィは王子が2,500万ドルの損失を受け入れて、「A340」の所有権を正式にリビアに移転することを予期していたようですが、今や大佐は「A340」とすでに支払った7,000万ドルを失うことになってしまったのでした。

 カダフィは、消えた飛行機を発見する任務に精鋭のエージェントを投入したに違いありません。なぜなら、未だに「A340」の正式な所有者であるアル=ワリード王子が、ドイツでの整備を完了した同機を彼に黙ってサウジアラビアに戻したことを、すぐに突き止めたことで、大佐が激怒したからです。[6]

 このエスカレートする争いの中に巻き込まれヨルダンの仲介人であるシャラブは、結果的に、飛行機の即時返還か7,000万ドルの払い戻しを求めるカダフィの要求を伝えることしかできませんでした。飛行機がサウジアラビアでの駐機中に不正に改造された可能性があることを察知したカダフィは、その後、取引の完全なキャンセルを決定しました。これに対して、(王子は)エアバスの取引はキャンセルするものの、補償金として7,000万ドルを支払う意向を表明しました。文字どおり、アル=ワリード王子は大佐よりも上手に立ち回ったわけです。[6]

 これまでのカダフィは、他国への徹底的な侵攻によって紛争を解決しようとしてきましたが、サウジアラビアとの国境を接していない上にリビア軍も機能していなかったため、この選択肢は実現不可能なものでした。つまり、王子が「A340」と7,000万ドルの両方を掌握した時点で、カダフィに残された手段はなくなってしまったのです。

 状況の行き詰まりから3か月後、シャラブはアル=ワリードとカダフィがトリポリでの直接会談を手配することで、事態の打開を計画しました。結局、彼女はこのプランを通じて少なくとも1,000万ドルの報酬を得ることになったわけですが、そう簡単にはいかなかったことを後で触れます。

 復讐のためにカダフィが王子の自家用機を押収するリスクを回避するため、王子はチャーター機でリビアに向かいました。その後、王子とカダフィの公開の会談が行われ、大佐は最終的に未払いの5,000万ドルを支払う意向を表明しました。[6]

 しかし、その翌日の会合で詳細を話し合った際、リビア側はまたしても決定を覆して再び7,000万ドルの返還を求める事態に展開したのです。カダフィとの非常に長期に渡る話し合いに耐え、この取引を解決するためにトリポリに赴いたアル=ワリード王子は、この突然の展開に不愉快だったに違いありません。しかし、結局はリビア側が譲歩して、飛行機の購入を進めることに同意しました。[6]

 王子の農業プロジェクトに対する2,000万ドルの投資はもはや議題から消えたものの、リビアは未払いの5,000万ドルを支払って遂に飛行機の所有権を得ることで決着がつきました。ただし、終わりにはまだ時間がかかります。この新たな契約は9月に王子によって署名されたものの、リビア側が署名をするのにそこから6か月、実際に王子に代金を支払うまでにさらに6か月を要したことも触れておかなければなりません。

 2006年9月、カダフィの手にようやく飛行機の所有権が渡り、3年半を費やした1億2,000万ドルの取引がやっと完了しました!

 王子はこの売却で2,500万ドルの利益を得ました。ただし、話はこれで終わりません。というのも、シャラブが1,000万ドルの仲介手数料を自分に支払うべきだと主張したからです。不思議なことに、今回その支払いを拒否したのは(カダフィの支払い拒否に苦しめられた)王子でした。[8]

新たなカラーリングを施された「A340 "5A-ONE"」 : ジェフリ皇太子が使用していた銀灰色よりも、この白と黒の配色の方がより視覚的に引き立つ

 しかし、この時期のシャラブにとって最大の心配事は、王子の不払い支払いではありませんでした。なぜなら、彼女は(ヨルダン国籍保有者にもかかわらず)どうやらカダフィの怒りを買ったらしく、そのためにトリポリで軟禁状態に置かれていたからです。[9]

 彼女が自宅軟禁に追いやられた理由は、カダフィの被害妄想でしかなかったようです。彼は、シャラブがヨルダンのアブドラ2世とエジプト大統領のホスニイ・ムバラクと共謀して自分を失脚させようと画策していると非難しました。彼の主張は次のとおりです:「私は、お前の王がエジプトの大統領と一緒になって、私に対して何を企てているかを知っているぞ」。[9]

 これらの疑惑に対する自己弁護の機会を認められなかった彼女は、2011年のリビア革命で反体制派に解放されるまで、トリポリで21か月間のも及ぶ軟禁に耐えなければならなかったのです。

 解放後、彼女はアル=ワリード王子に対する1,000万ドルの要求を続け、最終的に2013年7月にイギリスの裁判所で損害賠償(兼仲介手数料)の請求が認められました。[8]

2011年、反体制派の戦闘員が "アフリキヤ・ワン" の魅力的な内装について熟考している

 2006年にカダフィに売却された後、「A340」はドイツのルフトハンザ・テクニークで再塗装を施されました。以前にカダフィの「A300」で行われたのと同様に、彼が本当に民間の旅客機で移動しているかのような虚偽のイメージを与えるため、「A340」はアフリキヤ航空のカラーで飾られたのです。

 目立つように表示された9.9.99のロゴは、アフリカ連合の設立を呼びかけた1999年9月9日のシルテ宣言の署名日を記念したものです。この 「9.9.99」 という日付は、少なくとも2012年までは)アフリキヤ航空の機体カラーの大部分を占めており、カダフィのアフリカに対する新たに生じた親近感を象徴していました。

 1970年代に自分の指導の下でアラブ諸国を統一しようとして失敗した後、カダフィは1990年代後半から2000年代にかけて新たにアフリカへの取り組みを開始し、アフリカ連合を土台にして、自らを将来のアフリカ合衆国の指導者に位置づけようとしたわけです。

 ところが、アフリカのほぼ全ての指導者たちがカダフィの提案から静かに距離を置くようになり、アフリカ連合はカダフィの議長在任中、彼を事実上の孤立に追いやってしまいました。このため、カダフィはAUや別のアフリカの構想に資金を投入したことを後悔するようになります。「議長が持つ権力がこんなに小さいことを事前に知っていたら、私はこの仕事を拒否していただろう」と述べる有様でした。[10]

 アフリカをテーマにしたアフリキヤ航空のカラーリングの背後にあった意図は別として、「A340」の "9.9.99 " の塗装が極めて際立っていたことは否定できません。

2009年6月、イタリアへの公式訪問で "アフリキヤ・ワン" を降りた直後、軍服姿で演奏されるリビアの国歌に敬礼するカダフィ:シルテ宣言を記念した "リビア-アフリカ 9.9.99" のマーキングにも注目

 機体の外観には新たな塗装が施された一方で、カダフィは内装を一切変更しないことを選択しました。この決定については、彼がこの飛行機を入手するまでにすでに3年半もかかっており、これ以上就役を遅れさせたくなかったという事実が影響しているのでしょう。もしくは、カダフィの嗜好がジェフリ王子と一致したのかもしれません。

 いずれにせよ、外観は型破りだったものの、内装はカダフィ大佐が望むだけの豪華さを備えており、ジャグジーなどの設備や  "革命の尼僧" や "アマゾニアン・ガード" として知られる女性だけで構成された護衛部隊員用の座席も十分に完備されていました。

 この「A340」については、2006年から2011年にかけて何度もカダフィを乗せて海外と行き来したことが知られています。

 リビア革命で、カダフィがベネズエラやジンバブエに脱出するために「A340」を使用するという憶測が流れたにもかかわらず、国連が飛行禁止区域を設定するまで彼はリビアに留まり続けました。こうして、事実上最後の脱出ルートが絶たれてしまったのです。

 その後、カダフィは2011年10月に殺害されるという悲惨な運命を迎えました。

"アフリキヤ・ワン" のカダフィ専用ベッド

殺風景な座席:これらは大佐の女性ボディーガート部隊用だ

 同じ空港にあったカダフィの「A300」が完全に破壊されたのとは対照的に、幸いなことに「A340」はリビア革命からほぼ無傷で生き延びることができました。

フランスで修理を受けた後、新しい塗装を施されたこのエアバスは、リビア新政府のVIP機として一時的に使用された記録があります。ところが、リビアの治安情勢が悪化したため、「A340」は2014年にフランスに再び移送されてしまいました。その後、同機はさまざまな法的紛争に巻き込まれたため、2021年までフランスで駐機状態に置かれることになったのです。もちろん、駐機も無料ではなく、1日につき1,200ドル(約18万円)の費用がかかりました。[11]

 こうした法廷闘争については、カダフィの債務不履行を理由に同機を押収を図ろうとする多国籍企業の試みもあったようです。しかしながら、フランスの高等裁判所は、同機は主権免除を享受しており、差し押さえできないとの判決を下しました。[11]

 ただし、「A340」を押収しようとしたのは多国籍企業だけではありません。国内で分裂したトリポリ政府(暫定国民統一政府:GNU)とトブルク政府(GNS/LNA)も同機の所有権を主張していたからです。結局は、国際的に承認されたトリポリ政府が同機の所有権を確保することに成功し、2021年6月に同機を手に入れました。

新しいカラーリングの「A340」:この画像は2014年から2021年までフランスに駐機していた際に撮影された

 今回紹介した「A340」の歴史は、当初の目的から、その後のカダフィへの売却、そしてリビアでの就航に至るまで、スキャンダルに満ちています。ただし、長年にわたって変わらなかったものがあります:センスに欠けたインテリアです。この飛行機は駐機していた空港での戦闘に耐え、差し押さえを試みる企業・組織・個人による法的紛争に何度も直面したものの、最終的にはこれらの試練を乗り切ったのです。

 「A340」は27年の歴史の中で初めて、選挙で選ばれた政府首脳を乗せて飛行します。これは、億万長者や独裁者に仕えるという今までの役目から脱却するものと言えます。波乱に満ちた過去があったにせよ、「A340」がこれ以上の論争や衝突に出会うことなく、これからもずっと空を優雅に飛び続けてくれることを願うばかりです。

2021年6月、(1日に1,200ドルの駐機代を支払わなければならなかった)フランスから戻った「A340」の前でポーズをとるアブドゥル・ハミド・ムハンマド・ドベイバ暫定国民統一政府首相

[1] Poverty persists in Libya despite oil riches https://www.thenationalnews.com/world/africa/poverty-persists-in-libya-despite-oil-riches-1.384738
[2] Libya Conflict: Inside Colonel Gaddafi's Private Jet https://youtu.be/cysf9zT6Hso
[3] Giants Of The Skies - The An-124 In Libyan Service https://www.oryxspioenkop.com/2020/09/an-124-article.html
[4] This Was Gaddafi’s Personal Italian High-Speed Train https://www.oryxspioenkop.com/2021/02/this-was-gaddafis-personal-italian-high.html
[5] 5A-IAY Afriqiyah Airways Airbus A300-600 https://www.planespotters.net/airframe/airbus-a300-600-5a-iay-afriqiyah-airways/l3wn53
[6] Selling a VIP business jet to Colonel Gaddafi https://www.corporatejetinvestor.com/news/selling-a-vip-business-jet-to-muammar-gadafi/
[7] How The Playboy Prince Of Brunei Blew Through $14.8 Billion https://www.businessinsider.com/prince-jefri-brunei-spending-habits-2011-6
[8] Billionaire Saudi prince loses UK court battle over Gaddafi jet https://www.reuters.com/article/uk-britain-saudi-gaddafi-idUKBRE96U0G920130731
[9] Colonel Muammar Gaddafi memoir author: ‘Judge him for yourself’ https://www.thenational.scot/news/19652822.colonel-muammar-gaddafi-memoir-author-judge-yourself/
[10] Why Gaddafi Is Unhappy https://youtu.be/cjBGn8TVUT8?si=dzEoUiAUcQfF_Shb
[11] Qaddafi’s former Presidential plane returns to Libya – end of a saga https://libyaherald.com/2021/06/qaddafis-former-presidential-plane-returns-to-libya-end-of-a-saga/

ヘッダー画像: Joan Martorell

2025年に改訂・分冊版が発売予定です(英語版)

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2025年2月18日火曜日

時の試練に耐えて:ベトナムのアメリカ製艦艇


著:シュタイン・ミッツアー と ヨースト・オリーマンズ(編訳:Tarao Goo

 当記事は、2023年1月11日に本国版「Oryx」(英語)に投稿された記事を翻訳したものです。当記事は意訳などにより、僅かに本来のものと意味や言い回しを変更した箇所があります。

 共産主義国となったベトナムで運用されたアメリカ製装備の話題は、軍事愛好家やアナリストを魅了してきました。ただし、その魅力の割には、1975年の南ベトナム崩壊後の統一ベトナムで使用され続けた装備について書かれたものは意外とありません。まれにこの話題が取り上げられることがあるものの、そのほとんどは、「F-5E」や「C-130」、そして「UH-1」といった鹵獲機の運用についてのものです。北ベトナムは南ベトナム空軍から1,100機以上の飛行機とヘリコプターを鹵獲したと推定されています。同様に、相当数の装甲戦闘車両(AFV)が北ベトナムの手に渡り、その一部は今日でもベトナム人民軍の戦力をを支えているのです。

 これとは正反対に、勝者である北側に鹵獲された艦艇はごく少数でした。というのも、1975年4月30日に北ベトナム軍の戦車がサイゴンの大統領官邸の門を突き破る直前、ベトナム協和国海軍(RVNN)のほぼ全ての艦艇がフィリピンに向けて出航し、その大部分がフィリピン海軍に接収されてしまったからです。結果として、整備中の艦艇やフィリピンまでの航海に適していない小型艇だけが北ベトナムに鹵獲されました。彼らはそれまで海軍そのものを十分に組織できてていなかったため、これらの艦艇をベトナム人民海軍(VPN)に積極的に迎え入れたのでした。

 編入された艦艇には、河川哨戒艇(PBR)高速哨戒艇(PCF)突撃支援哨戒艇(ASPB)、そして河川機動母艦といった南ベトナムの河川機動部隊のほぼ全体が含まれていました(基本的に小型のために退避できなかったのです)。社会主義ベトナムはこれらの艦艇の一部をさらに数年間運用しましたが、最終的には大部分を廃棄処分としました。ただし、一部のPCFは今でもその姿を見ることができます。もちろん、メコンデルタでベトコンと戦うという本来の目的は、南ベトナムの敗北と共に失われています。北ベトナムは、南の海兵師団が保有していた「LVTP-5/LVTH-6」水陸両用装甲兵員輸送車も引継いだものの、これもすぐに廃棄処分となりました

 上述のとおりRVNNの主力艦艇は一部を除いてフィリピンに向けて脱出しましたが、それでも北ベトナムは南ベトナム最後の港を制圧した際に、「エドサル」級護衛駆逐艦「チャン・カイン・ズー(HQ-4)」、「バーネガット」級フリゲート「ファン・グー・ラオ(HQ-15)」、アドミラブル級掃海艇「キーホア(HQ-09)」と「ハホイ(HQ-13)」に出くわしました。さらに3隻の戦車揚陸艦(LST)、3隻の中型揚陸艦(LSM)、13隻の汎用揚陸艇(LCU)、そして最大で25隻の「ポイント」級カッターも発見され、後に北ベトナムによって使用されました。南ベトナム軍によって無力化された艦艇はごく僅かであり、鹵獲された艦艇の大半については特に修理を要せずに自軍に編入できたとのことです。

1978年、カンボジア侵攻で旧南ベトナム軍の中型揚陸艦(LSM)から上陸するベトナム軍の「BTR-50」APC:艦首の40mm連装機関砲に注目

 ベトナム海軍に編入された最大の艦艇は「エドサル」級護衛駆逐艦「チャン・カイン・ズー(HQ-4)」であり、サイゴンで整備中に鹵獲されたものです。 同艦は「T.03」という名で再就役し、後に「ダイ・キー (HQ-03)」に変更されました。[1] 

 もともと、この駆逐艦は「フォースター」として1944年にアメリカ海軍に就役し、第二次世界大戦中は大西洋と地中海で護衛任務に就いていた艦です。後にアメリカ沿岸警備隊に移管され、1960年代にベトナム海域に派遣されました。そして、1971年になって姉妹艦の「キャンプ(1975年にフィリピンに脱出)」と共に南ベトナムへ供与され、最終的に社会主義ベトナムの手に落ちたのでした。

 「ダイ・キー(HQ-03)」は1970年代(あるいは1960年代)の基準からすると決して近代的なものではなかったものの、それでも2011年まではベトナムが運用していた艦艇としては最大の艦でした。ベトナム展開時における武装は対潜護衛艦、後に沿岸警備艦としての任務に対応したものとなっており、レーダー誘導式の76mm単装砲2門(ヘッダー画像にあるのは艦首の1門)、エリコン製20mm対空機関砲(AA)が数門、そして533mm魚雷発射管で構成されていました。[1] 

 当初、VPNはこの武装の状態を維持していましたが、後日には主に (第二次世界大戦時には砲が備えられていた)空き砲座を活用して武装を強化していきました。この武装強化には前部の76mm砲の交換が含まれており、おそらくはソ連製と思しき大口径の対戦車砲または高射砲に換装されています。また、(大戦中に76mm砲、後にヘッジホッグ対潜迫撃砲が搭載された)第2砲座にも、前部と同じ単装砲が搭載されました。中央の533mm魚雷発射管は撤去されて「V-11」37mm連装対空機関砲が両舷側に各1門ずつ搭載されたほか、後部には(76mm砲が残されたものの)詳細不明の単装砲が追加されました。

 対空防御については、4門の「ZPU-4」14.5mm対空機関砲(両舷に2門ずつ)が追加されたことで一層強化されています。

 この武装が施された「ダイ・キー(HQ-03)」は、クメール・ルージュ海軍の妨害から(旧南ベトナム軍所属艦艇が主体の)上陸船団を保護するために1978年のカンボジア侵攻に投入されました。ちなみに、南ベトナムはすでに1974年の西沙諸島沖海戦で同艦を投入しましたが、中国が決定的な勝利を収めて終結しました。それ以来、彼らが同諸島を支配していることは既知のとおりです。スペアパーツの入手が不可能になったことから、1978年の戦争後に「ダイ・キー(HQ-03)」が出港したのは1982年の一度だけです。この艦は1990年代後半まで訓練用のハルク(船舶型訓練機材)として生き残りましたが、最終的に解体されて生涯を終えました。[2]



 「バーネガット」級フリゲート「ファン・グー・ラオ(HQ-15)」、「アドミラブル」級掃海艇「キーホア(HQ-09)」と「ハホイ(HQ-13)」は、艦番号をそれぞれ(HQ-01)、(HQ-05)、(HQ-07)に変更されてVPNに引継がれました。もともと、「バーネガット」級は第二次世界大戦中に水上機母艦として建造された後、フリゲートに分類され沿岸警備隊に移管された艦です。1971年と1972年に合計7隻が南ベトナム海軍に譲渡されました。正式な分類上はフリゲートですが、武装は前部に搭載された38口径5インチ砲(127mm両用砲)1門のみです。1974年の西沙諸島沖海戦における中国はこの弱点を巧みに利用し、標的とならないように常に2隻の「バーネガット」級の背後に回り込んだことが知られています。

 この戦いでの「バーネガット」の活躍に不安を感じたせいか、北ベトナムは編入後すぐに「2M3」25mm機関砲と「V-11」37mm機関砲を装備しました。「ファン・グー・ラオ(HQ-15)」は、後部甲板に「P-15 "テルミート"」対艦巡航ミサイル(AShM)用の発射機2基との「9K32 "ストレラ-2"」MANPADS用の四連装発射機2基を装備していたと伝えられることがありますが、これらの記述を裏付ける証拠画像は現時点でありません。[3] 

 この艦の経歴については、1990年代か2000年代初頭の時点で解体されたという以外は分かっていません。「アドミラブル」級の2隻も同様で、判明している情報からすると、1980年代か1990年代初頭まで哨戒艇として運用されていたようです。[4]

「バーネガット」級フリゲート「ファン・グー・ラオ」:統一ベトナム時代に撮影された数少ない写真の一枚だ

「アドミラブル」級掃海艇「ハホイ(HQ-07)」:艦橋前の「V-11」37mm砲と救命艇のすぐ後方にある2門のボフォース40mm機関砲に注目

 それまで大型の揚陸艦を保有していなかったVPNにとって、3隻の戦車揚陸艦(LST)と3隻の中型揚陸艦(LSM)、そして13隻の汎用揚陸艇(LCU)の鹵獲は、戦力を増強する上で最も重要なアセットとなったことは間違いないでしょう。LSTは「PT-76」水陸両用戦車や海軍歩兵が使用する「BTR-50」APCを最大20両搭載することを可能にしただけでなく、その大きさゆえに自身を沿岸哨戒艇や砲艦として活用させることすらできたからです。[5] [6] [7]

 これらのLSTは1978年のカンボジア侵攻で社会主義ベトナム時代のキャリアを平凡にスタートさせた後、2隻が1988年の中国とのスプラトリー諸島海戦に投入されました。1974年の西沙諸島沖海戦と同様に、この時の中国が勝利を収めて島の支配権を掌握したことは言うまでもありません。この戦いで、「HQ-505」は中国側の優勢な火力に対抗するべく果敢に立ち向かった後に激しい損傷を受け、ベトナムのカムランに曳航される途中で沈没しました。[8]

 生き残った2隻のLSTは1979年と1980年にソ連から導入した2隻のポーランド製「ポルノクニーB」級中型揚陸艦が就役したにもかかわらず運用が続けられ、現在でも1隻が現役です。 また、LSMとLCUは1980年代後半に退役して解体処分となりましたが、後者の1隻は今でも使用され続けています。

LST「ヴンタウ(HQ-503)」:この艦は2016年に72年の生涯を閉じた

ベトナム軍のLSTの甲板上に駐機している「Ka-25」対潜ヘリコプターと「ポルノクニーB」級中型揚陸艦(左奥):両艦はどちらも今日まで運用され続けている

 艦艇そのものだけでなく、それらに装備されていたアメリカ製の兵装も時代を乗り越えてきました。

 驚異的な耐久力があるにもかかわらず、1隻を除く全てのLSTと数隻のPCFが退役した後の現在でもアメリカ製兵装を装備している艦艇の数は確実に減少しつつあります。唯一生き残っているLSTには依然として2連装のボフォース40mm機関砲とエリコン20mm機関砲が装備されており、PCFには後部甲板に12.7mm重機関銃と81mm迫撃砲を備えた銃架が1門だけ装備されています。

「チェン・チン・ユー(HQ-501)」の艦首に装備されている40mm機関砲と20mm機関砲(各二連装):艦尾にも20mm機関砲が装備されている

PCFの後部甲板に搭載された81mm迫撃砲と12.7mm重機関銃(HMG)の火力プラットフォーム:この艦では「M2」50口径HMGが「NSV」に換装されているが、オリジナルのままの個体もある[9]

 アメリカ、南ベトナム、そして統一ベトナム海軍で80年もの長きにわたって使用され、ボロボロに錆びついたこれらの艦艇は、今日でもベトナム人民海軍で重要な役割を果たしていることは間違いないでしょう。今のところ、こうした懐かしさを感じさせる兵器は何とか持ちこたえていることを踏まえると、残存するアメリカ製の装備は今後数十年にわたってベトナム人の手で使用されるかもしれません(編訳者注:AFVや小火器の場合も同様と言える)。

 南ベトナムから鹵獲した最後の大型艦の生涯がまもなく終焉を迎えようとしていますが、 ベトナムにおけるアメリカ製艦艇の物語はそこで終わりません。というのも、この国は2017年と2021年に2隻の「ハミルトン」級カッターを導入したからです。予想以上に長い時の試練に耐える ことができたベトナムにおけるアメリカ製兵器は、両国間が敵対関係にあった日々より長く続いています。

VPNで現存する唯一の汎用揚陸艇(HQ-556)

ベトナムが保有する最後のアメリカ製LST「チェン・チン・ユー(HQ-501)」:甲板に「Mi-17」ヘリコプターが着陸しようとしている

[1] USS Forster (DE 334) http://www.navsource.org/archives/06/334.htm
[2] DAI KY Frigate (1944/1975) https://www.navypedia.org/ships/vietnam/vie_es_dai_ky.htm
[3] PHAM NGŨ LAÕ Frigate (1943/1975) https://www.navypedia.org/ships/vietnam/vie_es_pham_ngu_lao.htm
[4] KỲ HÒA patrol ships (1944/1975) https://www.navypedia.org/ships/vietnam/vie_es_ky_hoa.htm
[5] TRẦN KHÁNH DƯ tank landing ships (1944/1975) https://www.navypedia.org/ships/vietnam/vie_ls_tran_khanh_du.htm
[6] NINH GIANG medium landing ships (1944/1975) https://www.navypedia.org/ships/vietnam/vie_ls_ninh_giang.htm
[7] LCU1466 small landing ships (1953-1954/1975) https://www.navypedia.org/ships/vietnam/vie_ls_lcu1466.htm
[8] Vietnamese soldiers remember 1988 Spratlys battle against Chinese http://www.thanhniennews.com/politics/vietnamese-soldiers-remember-1988-spratlys-battle-against-chinese-60161.html