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2025年9月6日土曜日

医療外交:COVID-19対策でアフリカに寄贈されたアメリカの野戦病院を衛星画像で見よう


著 ファルーク・バヒー in collaboration with シュタイン・ミッツアー(編訳:Tarao Goo)

 この記事は、2022年2月11日に本ブログのオリジナル(本国版)である「Oryx-Blog(英語)」で公開された記事を翻訳したものです。 意訳などにより、僅かに本来のものと意味や言い回しが異なっている箇所があります。

 新型コロナウイルス(COVID-19)によるパンデミックが世界中の国々で猛威を振るっています。(この記事の執筆時点で)全世界でのCOVID-19による死者は約700万人に上っていますが、要請検査の実施率や死因の特定困難を踏まえると、実際の犠牲者はさらに多いと思われます。そして、COVID-19はパンデミックとの闘いで他国を支援しようとする世界の大国間での覇権をめぐる争いも勃発させました。アフリカのパンデミック対策では中国とアメリカが中心的な役割を果たし、この大陸に大量の支援を提供しています。その支援の大部分は移動式野戦病院であり、アフリカ諸国はこれによって、最も被害の深刻な地域に最最高水準の病院を迅速に展開する能力を獲得したのです。

 2020年、米アフリカ軍司令部(AFRICOM)は、中国がとても及ぶことができない規模の野戦病院の寄贈することによって、アフリカにおけるCOVID-19との戦いの取り組みを開始しました。収容能力が30床から35床、または40床の規模を誇る負圧設備を備えた軍用規格の野戦病院は、通常は1か国につき1セットが寄贈されましたが、一部には2セットを提供された国もあります。北アフリカのアルジェリアからアフリカ大陸の最南端にある南アフリカまで、合計15か国のアフリカ諸国が、アメリカの戦略の一環として野戦病院を受け取ることにしました。

 ところで、アメリカがアフリカに大規模な野戦病院を寄贈したのは今回が初めてではありません。過去には、ルワンダ、セネガル、ガーナ、ウガンダなどが、2019年にアメリカが実施した「アフリカ平和維持早期対応パートナーシップ(APRRP)」の一環として、最初に野戦病院を受け取っています。同プログラムは、アフリカ諸国が必要に応じて災害に適切な対応ができるよう、医療能力の向上を支援することを目的としたものでした。2019年のプログラムで受け取った野戦病院については、2020年と2021年に同一の国が新たに受け取った野戦病院と共に、COVID-19対策に活用されています。


 南アフリカは、アメリカから野戦病院を最初に受け取った国でした。この40床の収容能力を有する病院は、この国で最も被害の甚大な都市の一つであるマフィケングにある総合病院の隣に展開されました。



 アンゴラは提供された40床の野戦病院を沿岸の町であるソヨに展開しました。



 ブルキナファソは40床の野戦病院を受け取り、首都ワガドゥグーの「殉教者の記念碑」の隣に展開させました。



 ジブチも40床の野戦病院を受け取り、首都ジブチ市の保健省の近くに展開させました。



 ガーナは30床の野戦病院を受け取り、首都アクラのサッカースタジアムに展開させました。



ニジェールは40床の野戦病院を受け取り、首都ニアメーの第3駐屯地に展開させました。



 ナイジェリアは40床の野戦病院を受け取り、首都アブジャにある総合病院の隣に展開させました。



 チュニジアは30床の野戦病院2セットを受け取り、そのうち1セットは首都チュニスにある総合病院の隣に展開されました。



 ウガンダは2019年のAPRRPプログラムの下で2セットの野戦病院を受け取りました。そのうち1セットについては、後に首都カンパラ近郊のウガンダ人民防衛軍(UPDF)司令部に展開されました。



 セネガルはAPRRプログラムの一環として受け取った野戦病院をトゥーバ市に展開させました。



 ルワンダは2019年のAPRRプログラムに基づいて受け取った野戦病院を、首都キガリの基地に展開させました。



 このほか、アルジェリアは2021年に35床の野戦病院を受け取りました。衛星画像によると、この野戦病院はブリーダ市の軍用保管施設に1か月未満の期間で展開され、その後別の場所へ再配置されたか、あるいは保管状態に入った可能性があります。アメリカから野戦病院を受け取った他の国にはケニア、エチオピア、モーリタニアが含まれます。このうちモロッコについては、2022年初頭に野戦病院を受け取る予定です。


 アメリカが野戦病院を寄贈しただけでなく(医療などに伴って)必要とされる技能などの訓練と専門家を提供したことは、同国が依然としてアフリカ大陸に極めて大きな関心を持ち続けており、この関心を具体的な援助で証明するための手段を有していることを示しています。このことは、(例えばフランスのような)アフリカに歴史的な関心を抱いてきた別の国々がパンデミック期間中に全く存在感を示さなかった時期と重なっている点にも注目するべきではないでしょうか。


改訂・分冊版が2025年に発売予定です(英語版)

 2025年現在の情報にアップデートした改訂・分冊版が発売されました(英語のみ)

2025年2月18日火曜日

時の試練に耐えて:ベトナムのアメリカ製艦艇


著:シュタイン・ミッツアー と ヨースト・オリーマンズ(編訳:Tarao Goo

 当記事は、2023年1月11日に本国版「Oryx」(英語)に投稿された記事を翻訳したものです。当記事は意訳などにより、僅かに本来のものと意味や言い回しを変更した箇所があります。

 共産主義国となったベトナムで運用されたアメリカ製装備の話題は、軍事愛好家やアナリストを魅了してきました。ただし、その魅力の割には、1975年の南ベトナム崩壊後の統一ベトナムで使用され続けた装備について書かれたものは意外とありません。まれにこの話題が取り上げられることがあるものの、そのほとんどは、「F-5E」や「C-130」、そして「UH-1」といった鹵獲機の運用についてのものです。北ベトナムは南ベトナム空軍から1,100機以上の飛行機とヘリコプターを鹵獲したと推定されています。同様に、相当数の装甲戦闘車両(AFV)が北ベトナムの手に渡り、その一部は今日でもベトナム人民軍の戦力をを支えているのです。

 これとは正反対に、勝者である北側に鹵獲された艦艇はごく少数でした。というのも、1975年4月30日に北ベトナム軍の戦車がサイゴンの大統領官邸の門を突き破る直前、ベトナム協和国海軍(RVNN)のほぼ全ての艦艇がフィリピンに向けて出航し、その大部分がフィリピン海軍に接収されてしまったからです。結果として、整備中の艦艇やフィリピンまでの航海に適していない小型艇だけが北ベトナムに鹵獲されました。彼らはそれまで海軍そのものを十分に組織できてていなかったため、これらの艦艇をベトナム人民海軍(VPN)に積極的に迎え入れたのでした。

 編入された艦艇には、河川哨戒艇(PBR)高速哨戒艇(PCF)突撃支援哨戒艇(ASPB)、そして河川機動母艦といった南ベトナムの河川機動部隊のほぼ全体が含まれていました(基本的に小型のために退避できなかったのです)。社会主義ベトナムはこれらの艦艇の一部をさらに数年間運用しましたが、最終的には大部分を廃棄処分としました。ただし、一部のPCFは今でもその姿を見ることができます。もちろん、メコンデルタでベトコンと戦うという本来の目的は、南ベトナムの敗北と共に失われています。北ベトナムは、南の海兵師団が保有していた「LVTP-5/LVTH-6」水陸両用装甲兵員輸送車も引継いだものの、これもすぐに廃棄処分となりました

 上述のとおりRVNNの主力艦艇は一部を除いてフィリピンに向けて脱出しましたが、それでも北ベトナムは南ベトナム最後の港を制圧した際に、「エドサル」級護衛駆逐艦「チャン・カイン・ズー(HQ-4)」、「バーネガット」級フリゲート「ファン・グー・ラオ(HQ-15)」、アドミラブル級掃海艇「キーホア(HQ-09)」と「ハホイ(HQ-13)」に出くわしました。さらに3隻の戦車揚陸艦(LST)、3隻の中型揚陸艦(LSM)、13隻の汎用揚陸艇(LCU)、そして最大で25隻の「ポイント」級カッターも発見され、後に北ベトナムによって使用されました。南ベトナム軍によって無力化された艦艇はごく僅かであり、鹵獲された艦艇の大半については特に修理を要せずに自軍に編入できたとのことです。

1978年、カンボジア侵攻で旧南ベトナム軍の中型揚陸艦(LSM)から上陸するベトナム軍の「BTR-50」APC:艦首の40mm連装機関砲に注目

 ベトナム海軍に編入された最大の艦艇は「エドサル」級護衛駆逐艦「チャン・カイン・ズー(HQ-4)」であり、サイゴンで整備中に鹵獲されたものです。 同艦は「T.03」という名で再就役し、後に「ダイ・キー (HQ-03)」に変更されました。[1] 

 もともと、この駆逐艦は「フォースター」として1944年にアメリカ海軍に就役し、第二次世界大戦中は大西洋と地中海で護衛任務に就いていた艦です。後にアメリカ沿岸警備隊に移管され、1960年代にベトナム海域に派遣されました。そして、1971年になって姉妹艦の「キャンプ(1975年にフィリピンに脱出)」と共に南ベトナムへ供与され、最終的に社会主義ベトナムの手に落ちたのでした。

 「ダイ・キー(HQ-03)」は1970年代(あるいは1960年代)の基準からすると決して近代的なものではなかったものの、それでも2011年まではベトナムが運用していた艦艇としては最大の艦でした。ベトナム展開時における武装は対潜護衛艦、後に沿岸警備艦としての任務に対応したものとなっており、レーダー誘導式の76mm単装砲2門(ヘッダー画像にあるのは艦首の1門)、エリコン製20mm対空機関砲(AA)が数門、そして533mm魚雷発射管で構成されていました。[1] 

 当初、VPNはこの武装の状態を維持していましたが、後日には主に (第二次世界大戦時には砲が備えられていた)空き砲座を活用して武装を強化していきました。この武装強化には前部の76mm砲の交換が含まれており、おそらくはソ連製と思しき大口径の対戦車砲または高射砲に換装されています。また、(大戦中に76mm砲、後にヘッジホッグ対潜迫撃砲が搭載された)第2砲座にも、前部と同じ単装砲が搭載されました。中央の533mm魚雷発射管は撤去されて「V-11」37mm連装対空機関砲が両舷側に各1門ずつ搭載されたほか、後部には(76mm砲が残されたものの)詳細不明の単装砲が追加されました。

 対空防御については、4門の「ZPU-4」14.5mm対空機関砲(両舷に2門ずつ)が追加されたことで一層強化されています。

 この武装が施された「ダイ・キー(HQ-03)」は、クメール・ルージュ海軍の妨害から(旧南ベトナム軍所属艦艇が主体の)上陸船団を保護するために1978年のカンボジア侵攻に投入されました。ちなみに、南ベトナムはすでに1974年の西沙諸島沖海戦で同艦を投入しましたが、中国が決定的な勝利を収めて終結しました。それ以来、彼らが同諸島を支配していることは既知のとおりです。スペアパーツの入手が不可能になったことから、1978年の戦争後に「ダイ・キー(HQ-03)」が出港したのは1982年の一度だけです。この艦は1990年代後半まで訓練用のハルク(船舶型訓練機材)として生き残りましたが、最終的に解体されて生涯を終えました。[2]



 「バーネガット」級フリゲート「ファン・グー・ラオ(HQ-15)」、「アドミラブル」級掃海艇「キーホア(HQ-09)」と「ハホイ(HQ-13)」は、艦番号をそれぞれ(HQ-01)、(HQ-05)、(HQ-07)に変更されてVPNに引継がれました。もともと、「バーネガット」級は第二次世界大戦中に水上機母艦として建造された後、フリゲートに分類され沿岸警備隊に移管された艦です。1971年と1972年に合計7隻が南ベトナム海軍に譲渡されました。正式な分類上はフリゲートですが、武装は前部に搭載された38口径5インチ砲(127mm両用砲)1門のみです。1974年の西沙諸島沖海戦における中国はこの弱点を巧みに利用し、標的とならないように常に2隻の「バーネガット」級の背後に回り込んだことが知られています。

 この戦いでの「バーネガット」の活躍に不安を感じたせいか、北ベトナムは編入後すぐに「2M3」25mm機関砲と「V-11」37mm機関砲を装備しました。「ファン・グー・ラオ(HQ-15)」は、後部甲板に「P-15 "テルミート"」対艦巡航ミサイル(AShM)用の発射機2基との「9K32 "ストレラ-2"」MANPADS用の四連装発射機2基を装備していたと伝えられることがありますが、これらの記述を裏付ける証拠画像は現時点でありません。[3] 

 この艦の経歴については、1990年代か2000年代初頭の時点で解体されたという以外は分かっていません。「アドミラブル」級の2隻も同様で、判明している情報からすると、1980年代か1990年代初頭まで哨戒艇として運用されていたようです。[4]

「バーネガット」級フリゲート「ファン・グー・ラオ」:統一ベトナム時代に撮影された数少ない写真の一枚だ

「アドミラブル」級掃海艇「ハホイ(HQ-07)」:艦橋前の「V-11」37mm砲と救命艇のすぐ後方にある2門のボフォース40mm機関砲に注目

 それまで大型の揚陸艦を保有していなかったVPNにとって、3隻の戦車揚陸艦(LST)と3隻の中型揚陸艦(LSM)、そして13隻の汎用揚陸艇(LCU)の鹵獲は、戦力を増強する上で最も重要なアセットとなったことは間違いないでしょう。LSTは「PT-76」水陸両用戦車や海軍歩兵が使用する「BTR-50」APCを最大20両搭載することを可能にしただけでなく、その大きさゆえに自身を沿岸哨戒艇や砲艦として活用させることすらできたからです。[5] [6] [7]

 これらのLSTは1978年のカンボジア侵攻で社会主義ベトナム時代のキャリアを平凡にスタートさせた後、2隻が1988年の中国とのスプラトリー諸島海戦に投入されました。1974年の西沙諸島沖海戦と同様に、この時の中国が勝利を収めて島の支配権を掌握したことは言うまでもありません。この戦いで、「HQ-505」は中国側の優勢な火力に対抗するべく果敢に立ち向かった後に激しい損傷を受け、ベトナムのカムランに曳航される途中で沈没しました。[8]

 生き残った2隻のLSTは1979年と1980年にソ連から導入した2隻のポーランド製「ポルノクニーB」級中型揚陸艦が就役したにもかかわらず運用が続けられ、現在でも1隻が現役です。 また、LSMとLCUは1980年代後半に退役して解体処分となりましたが、後者の1隻は今でも使用され続けています。

LST「ヴンタウ(HQ-503)」:この艦は2016年に72年の生涯を閉じた

ベトナム軍のLSTの甲板上に駐機している「Ka-25」対潜ヘリコプターと「ポルノクニーB」級中型揚陸艦(左奥):両艦はどちらも今日まで運用され続けている

 艦艇そのものだけでなく、それらに装備されていたアメリカ製の兵装も時代を乗り越えてきました。

 驚異的な耐久力があるにもかかわらず、1隻を除く全てのLSTと数隻のPCFが退役した後の現在でもアメリカ製兵装を装備している艦艇の数は確実に減少しつつあります。唯一生き残っているLSTには依然として2連装のボフォース40mm機関砲とエリコン20mm機関砲が装備されており、PCFには後部甲板に12.7mm重機関銃と81mm迫撃砲を備えた銃架が1門だけ装備されています。

「チェン・チン・ユー(HQ-501)」の艦首に装備されている40mm機関砲と20mm機関砲(各二連装):艦尾にも20mm機関砲が装備されている

PCFの後部甲板に搭載された81mm迫撃砲と12.7mm重機関銃(HMG)の火力プラットフォーム:この艦では「M2」50口径HMGが「NSV」に換装されているが、オリジナルのままの個体もある[9]

 アメリカ、南ベトナム、そして統一ベトナム海軍で80年もの長きにわたって使用され、ボロボロに錆びついたこれらの艦艇は、今日でもベトナム人民海軍で重要な役割を果たしていることは間違いないでしょう。今のところ、こうした懐かしさを感じさせる兵器は何とか持ちこたえていることを踏まえると、残存するアメリカ製の装備は今後数十年にわたってベトナム人の手で使用されるかもしれません(編訳者注:AFVや小火器の場合も同様と言える)。

 南ベトナムから鹵獲した最後の大型艦の生涯がまもなく終焉を迎えようとしていますが、 ベトナムにおけるアメリカ製艦艇の物語はそこで終わりません。というのも、この国は2017年と2021年に2隻の「ハミルトン」級カッターを導入したからです。予想以上に長い時の試練に耐える ことができたベトナムにおけるアメリカ製兵器は、両国間が敵対関係にあった日々より長く続いています。

VPNで現存する唯一の汎用揚陸艇(HQ-556)

ベトナムが保有する最後のアメリカ製LST「チェン・チン・ユー(HQ-501)」:甲板に「Mi-17」ヘリコプターが着陸しようとしている

[1] USS Forster (DE 334) http://www.navsource.org/archives/06/334.htm
[2] DAI KY Frigate (1944/1975) https://www.navypedia.org/ships/vietnam/vie_es_dai_ky.htm
[3] PHAM NGŨ LAÕ Frigate (1943/1975) https://www.navypedia.org/ships/vietnam/vie_es_pham_ngu_lao.htm
[4] KỲ HÒA patrol ships (1944/1975) https://www.navypedia.org/ships/vietnam/vie_es_ky_hoa.htm
[5] TRẦN KHÁNH DƯ tank landing ships (1944/1975) https://www.navypedia.org/ships/vietnam/vie_ls_tran_khanh_du.htm
[6] NINH GIANG medium landing ships (1944/1975) https://www.navypedia.org/ships/vietnam/vie_ls_ninh_giang.htm
[7] LCU1466 small landing ships (1953-1954/1975) https://www.navypedia.org/ships/vietnam/vie_ls_lcu1466.htm
[8] Vietnamese soldiers remember 1988 Spratlys battle against Chinese http://www.thanhniennews.com/politics/vietnamese-soldiers-remember-1988-spratlys-battle-against-chinese-60161.html

2024年10月13日日曜日

さらばベルリン:トルコの「He111」爆撃機


著:シュタイン・ミッツアー と ヨースト・オリーマンズ(編訳:Tarao Goo)

 当記事は、2022年11月24日に本国版「Oryx」に投稿されたものを翻訳した記事です。意訳などにより、僅かに本来のものと意味や言い回しが異なっている箇所があります。

 タイトルとヘッダー画像を見ると、この記事で私たちが機種を間違えたと容易に結論付けられてしまうかもしれません。誰もが知っているハインケル「He111」が備える特徴的な全面ガラス張りのコックピットはどこにあるのか、と問いたい人もいるでしょう。*

 それでも、画像の機体は正真正銘のドイツ製ハインケル「He111」であり、これは1937年後半から1938年前半にかけてトルコ空軍 (Türk Hava Kuvvetleri) に引き渡された24機のうちの1機なのです。

 「He111」の最大の特徴がない理由については、トルコが購入した機体が初期の「J」シリーズであったことや、機首の全面がガラスで覆われた風防のデザインが、より一般的なタイプである「P」シリーズから導入されたことで説明できます。

 以上で話を進めるための厄介な障害が取り除かれましたので、そもそもトルコがなぜ「He111」を入手したのかの経緯を解説しなければなりません。

 1930年代のトルコは、新たに出現した脅威(特に地中海におけるファシスト・イタリアの台頭)に立ち向うための軍事的手段を欠いていました。

 自国軍の荒廃に直面したため、トルコは海外から大量の軍備を発注し始め、その中のに同国初となる本格的な爆撃機:アメリカのマーチン「139WT」も含まれていました。[1]

 性能は依然としてこの国の対地攻撃機の大部分を占めていた1920年代の「ブレゲー19」複葉機から大幅に向上したものの、僅か20機の爆撃機の入手はトルコのような大国が防衛上のニーズを満たすには到底十分とは言えないものだったことは間違いありません。

 こうした理由から、1937年3月に数多くの航空機メーカーが最新の製品を披露するためにトルコに招かれたのです。

 トルコとのビジネスに意欲的なハインケル社が展示した最新の「He111 F-0」は、この買収劇を主催したトルコから賞賛を得たようで、展示飛行が実施された後の1937年3月には、24機の「He111 J-1」が発注されました。[2]

 このうちの18機はすでに同年10月に到着しており、残る6機も1938年初頭に到着したことが記録に残っています。

 トルコがドルニエ「Do17」を2機入手したとも言われていますが、これは最終的にハインケルが受注した入札向けとして1937年にトルコで展示飛行した機体と混同している可能性があるかもしれません。[3]

トルコのラウンデルが施された「Do 17 M」または「Do 17 P」:実際にトルコがこの機種を入手したのか、あるいは1937年の展示飛行の際にドルニエ社がトルコのラウンデルを施したのかは、いまだに謎に包まれている

 「He111」が発注から僅か7か月で納入されたことが、トルコ空軍を大いに喜ばせたことは間違いないでしょう。また、1932年にフランスから中古で購入した旧式の複葉爆撃機である「ブレゲ19」の退役も可能にさせたようです。

 納入後の「He111」については、北西部のエスキシェヒルを拠点とする第1航空連隊第1大隊の第1及び第2飛行隊に配備され、各飛行隊はそれぞれ8機の「He 111 J-1」を運用し、さらにもう6機が予備機として用いられました。[4][5]

 トルコ軍の「He111」のパイロットは、1937年に同じくドイツから入手した6機のフォッケウルフ「Fw58 "ヴァイエ"」多用途機で訓練を受けました。[4]

 しかし、まもなくしてトルコ空軍は予期しない苦境に立たされることになりました。1941年6月にベルリンからアンカラに「旧式化のために、これ以上は「He111」のスペアパーツの供給できる見込みがない」旨が通告されたからです。[5]

 このお粗末な言い訳をした理由については、その数日後にナチス・ドイツがソ連に侵攻したことで明らかとなりました。つまり、ドイツは自国の「He111」用にその全スペアパーツを必要としたわけです。

 「He111」を手放して処分場送りにすることを望まなかったトルコはイギリスに目を向け、「1940年のバトル・オブ・ブリテンで不時着した "He111" からスペアパーツを集めて供給することは可能か」という不思議な依頼をしたところ、ロンドンはこの要請に応じ、8基のエンジンとその予備部品、機体部品やコックピットの計器類を供給するという結果をもたらしました。[5]

 その一方で運用可能な「He111」の減少は、イギリスから約50機のブリストル 「ブレナム」「ボーフォート」といった爆撃機の安定的な供給を受けることでカバーすることができたようです。

 残存している「He111 J-1」については、1944年に(トルコから返還されずにいた)元アメリカ軍機の「B-24D "リベレーター"」重爆撃機5機と共に「戦略爆撃機」部隊に配備されました。これらの「B-24D」は1942年と1944年にトルコに不時着した11機から成る2個編隊の一部で、トルコ空軍によって運用されていた機体です。

 この新部隊に配備されてから1年後の1945年末に「He111 J-1」が退役したとき、入手した24機のうちの8機が依然として稼働状態にあったことは同機の頑丈な設計を実証したと言えるでしょう。

「He 111 J」の尾翼:納入飛行時に施されていたハーケンクロイツからトルコ国旗へ変更中の様子

 トルコが入手した「He111」のバージョンが「F」か「J」シリーズなのか、まだ若干の誤解がされているようです。

 「He 111 J」は「He 111 F」とほぼ同様ですが、前者はダイムラー・ベンツ製「DB 600G」エンジン2基(大型ラジエーター付き)と後縁を持つ(やや直線的な)新設計の主翼を備えるという特徴があります。

 もともと「He 111 J」はドイツ海軍向けの雷撃機として開発されたタイプですが、海軍がこのタイプに関心を失ったため、結局はドイツ空軍だけが運用することになったという経緯があります。最大120機が製造されたこのタイプは、1941年に「Ju 88」に更新されるまで主に洋上偵察で活用されました。「J」型は最終的に1944年まで訓練学校で使われました。

 結局、トルコが「海軍化」された「He 111 J-1」を入手することになった理由は、納期が約7か月強と短かったからだと思われます。

 「F型」と「J型」の運用上のスペックはほぼ同一であり、最高速度は305km/h、防御機銃は機首・胴体上部に加えて下部の「ダストビン(ゴミ箱)」引き込み式銃塔に 「MG-15」7.92mm機銃が各1門、つまり合計で3門が装備されていました。

 爆弾倉については、マーチン「139WT」が僅か1,025kgしか搭載できないのと比較すると、「F型」及び「J型」は2,000kgものペイロードを誇っていました。

主翼にあるトルコのラウンデルが無ければ、"イギリス上空を飛ぶ2機のハインケル「He 111」"と容易に(誤って)信じられてしまいそうな1枚

 ほとんどの「He111」と異なって、トルコ軍の機体は一度も怒りに任せて爆撃することはなかったものの、戦争で用いた国々の機体よりもはるかに長く(約8年間)運用されたのでした。

 連合国が望んでたようにトルコが(1945年2月にしたよりも)早くナチス・ドイツに宣戦布告していれば、自身の祖国に対する「He 111」の使用は興味深い歴史の一章となったかもしれません。

 いずれにしても、トルコ航空史の草創期に関する物語と常に独特な機体の入手方法は人々の心を必ず捉え、今では遠い昔の記憶と化しつつあるこの激動の時代に対する驚異の念を呼び起こすものと言っても過言ではないでしょう。
 

* 読者からの意見があるにもかかわらず、著者は「He 111」の有名なガラス張りの機首は常識と考えられるべきものと思っています。












2024年3月20日水曜日

デス・フロム・アバヴ: 「コノコ地区の戦い」で失われた装備(一覧)


著:シュタイン・ミッツアーとヨースト・オリーマンズ(編訳:Tarao Goo

 この記事は、2023年6月13日に「Oryx」本国版(英語)で公開された記事を日本語にしたものです。

 "ハシャムの戦い"としても知られる「コノコ地区の戦い」は、アメリカ軍と(名目上は傭兵の)ロシア軍が一対一で戦った極めて稀な出来事だったと言えるでしょう。

 この戦いは、機甲・砲兵戦力に支援された約500人のシリア軍兵士とロシアのPMC「ワグネル」戦闘員が、デリゾール市近郊のコノコ・ガス田にあるシリア民主軍(SDF)とアメリカ軍特殊部隊の合同基地を攻撃したことで幕を開けました。

 ワグネル率いる部隊が進撃を進める中で、アメリカ軍は空爆と地上戦で反撃しました。アメリカ軍は交戦中にデリゾール駐在のロシア軍連絡将校と常に連絡を取り合っており、正規のロシア軍部隊が存在しないとの確証を得た後に初めて射撃を開始したと報じられています。[1]

 戦闘は3時間以上続き、結果的に約10人のワグネル戦闘員を含む最大100人のシリア政府系部隊の死者を出した一方で、アメリカ軍とSDFに損害は生じませんでした。

 2023年5月、ワグネル代表のエフゲニー・プリゴジン(故人)は、この戦闘で何が起こったかについて自身の見解を詳細に述べましたが、 これが「冷戦以降にロシアとアメリカの国民の間で発生した最初の死傷者を出した武力衝突」に関する興味深い洞察を示したことは間違いありません。[2]

  1. この一覧は、写真や映像によって証明可能な撃破または鹵獲された兵器類だけを掲載しています。したがって、実際に喪失した兵器類は、ここに記録されている数よりも多いことは間違いないでしょう。
  2. 各兵器類の名称に続く数字をクリックすると、破壊や鹵獲された当該兵器類の画像を見ることができます。

ワグネル / シリア軍 (11, このうち撃破: 11)

戦車 (3, このうち撃破: 3)

装甲戦闘車両 (2, このうち撃破: 2)

ガン・トラック(1, このうち撃破: 1)
  • 1 ウラル-4320(「AZP S-60」57mm対空機関砲搭載型): (1, 撃破)

牽引砲 (1, このうち撃破: 1)

車両 (4, このうち撃破: 4)


アメリカ合衆国 / シリア民主軍 (損失なし)

[1] Имена и фамилии погибших бойцов "ЧВК Вагнера" https://www.svoboda.org/a/29038004.html
[2] https://twitter.com/RonnieAdkins_/status/1668290978237808640



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