2022年8月19日金曜日

武器をキーウへ:フランスがウクライナに供与する武器類(一覧)


著:シュタイン・ミッツアー と ヨースト・オリーマンズ

 フランスはウクライナへの軍事支援で主要な武器供給国となっています。

 ただし、この国は他の欧州諸国と同様にウクライナへの武器供与の詳細について情報開示しない方針をとっていますが、「カエサル」自走砲は例外であり、この場合は自国によるウクライナへの支援とモスクワへ抑止力のメッセージを送ることを公然なものとさせるという目的としても役立ちました。

 現時点でフランスはドイツより大幅に少ない軍事物資しか供与していないものの、ベルリンと比べれば人々によるチェックは厳しくありません。もちろん、これはキーウへの支援に関してドイツが自ら招いた広報活動の失敗と大いに関係があるでしょう。

 ウクライナの防衛に関するフランスの最も重要な貢献は2022年4月以降に供与されている18台の「カエサル」155mm自走砲(SPG)であり、このうちの6台については、6月16日にマクロン大統領がキーウを訪問した際に発表された追加供与分のものです。[1] 

 これらの「カエサル」は、フランス軍で現役である76台のストックから引き出されて供与されました。ほかのヨーロッパ諸国が予備のストック品から供与兵器を調達しているのと比較すると、自国が保有する「カエサル」自走砲の4分の1近くを寄贈することは著しい負担であることは言うまでもありません。
 
 2022年7月まで、フランスはウクライナに装甲戦闘車両(AFV)の供与やその確約をしていない数少ない欧州諸国の1つでした。ところが、6月27日にフランスのセバスチャン・ルコルヌ国防相は、ようやくフランスがウクライナに大量の「VAB」装甲兵員輸送車(APC)を供与することを発表したのです。[2]

 現在は「エグゾゼ」対艦ミサイルを含むさらなる武器の供与が検討されています。仮にこのミサイルが供与された場合、すでにアメリカ・イギリス・デンマーク・オランダが供与済みの「ハープーン」対艦巡航ミサイル部隊へ仲間入りすることになるでしょう。[3] [4]
 また、2022年10月にフランスはウクライナが同国の企業から軍事装備を調達できるように1億ユーロ(約142億円)の基金を設立することを発表しました。[5]
 
 ほかのヨーロッパ諸国と異なり、フランスは現在でもかなりの数の牽引砲や自走砲を予備兵器として保管し続けています。これには、数十門の「TRF1」155mm 牽引式榴弾砲とそれに匹敵する数の「AMX-30 AuF1」155mm 自走榴弾砲が含まれています。

 しかし、ウクライナに現用の「カエサル」自走砲を供与するというフランスの決定は、それらの旧式の砲兵戦力がウクライナでの使用に適していないと判断した可能性があります。
ポルトガルが第二次世界大戦時代の「M114」 155mm牽引式榴弾砲をウクライナに供与するとまで約束したにもかかわらず、です(注:「M114」の供与案については最終的にウクライナから拒否されました)。

 フランスは現時点で「M270」227mm MLRSを40台以上と必要とされる以上の数を保有していますが、仮にキーウに渡す場合には改修が必要という問題が生じます。

 最後にですが、ウクライナがさらなるAFVの供与を要請するならば、105mm砲を装備した「AMX-10 RC」や90mm砲を装備した「ERC 90 "サゲー"」といった装輪式装甲偵察車が魅力的な選択肢となるかもしれません。

  1. 以下に列挙した一覧は、2022年のロシアによるウクライナ侵攻の際にフランスがウクライナに供与した、あるいは提供を約束した軍事装備の追跡調査を試みたものです。
  2. 一覧の項目は武器の種類ごとに分類されています(各装備名の前には原産国を示す国旗が表示されています)。
  3. 一部の武器供与は機密事項であるため、この一覧は供与された武器の総量の最低限の指標としてのみ活用できます。
  4. この一覧はさらなる軍事支援の表明や判明に伴って更新される予定です。
  5. 各兵器類の名称をクリックすると、当該兵器類などの画像を見ることができます。


空中発射式巡航ミサイル

防空システム

多連装ロケット砲 (2)

自走砲(30)

牽引砲(15+)

  •  15+ TRF1 155mm榴弾砲 [2022年10月] (安全保障強化基金を通じてウクライナが調達)

装甲戦闘車両 (40)
  •  40 AMX-10 RC(R)戦闘偵察車 [2023年3月から供与]

装甲兵員輸送車(~60)
  •  ~60  VAB [2022年6月]

トラック・各種車両

工兵車両

無人偵察機

携帯式地対空ミサイルシステム (MANPADS)

対戦車ミサイル(ATGM)

対戦車地雷

レーダー

小火器

弾薬類

その他の装備品類


[1] Guerre en Ukraine : Emmanuel Macron s'engage à faire livrer 6 canons Caesar supplémentaires, ce système d'artillerie français prisé par le monde entier https://www.lindependant.fr/2022/06/16/guerre-en-ukraine-emmanuel-macron-sengage-a-faire-livrer-6-canons-caesars-supplementaires-ce-systeme-dartillerie-francais-prise-par-le-monde-entier-10370169.php
[2] Guerre en Ukraine : la France annonce l'envoi de véhicules de transport blindés https://www.rtl.fr/actu/international/guerre-en-ukraine-la-france-annonce-l-envoi-de-vehicules-de-transport-blindes-7900168081
[3] Guerre en Ukraine. Paris confirme la livraison de blindés VAB à Kiev https://www.ouest-france.fr/europe/france/paris-confirme-la-livraison-de-blindes-vab-a-l-ukraine-72783b30-f6b5-11ec-8d9e-ebb0bb3f5c46
[4] Answering The Call: Heavy Weaponry Supplied To Ukraine https://www.oryxspioenkop.com/2022/04/answering-call-heavy-weaponry-supplied.html
  のです。当記事は意訳などにより、僅かに本来のものと意味や言い回しを変更した箇所が
    あります。



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2022年8月15日月曜日

壮大な運用史:アフガニスタンにおける「L-39C " アルバトロス" 」


著:ルーカス・ミュラー in collaboration with ステイン・ミッツアー(編訳:Tarao Goo

 当記事は、アジア・エアアームズ調査会ニュースレター2020年8月・9月号に掲載された記事を更新・増補したものです。また、著者の書籍「Wings over the Hindu Kush」に掲載されたアフガニスタンの「L-39」に関する情報もアップデートされています。 

 チェコスロバキア製のジェット練習機「L-39 "アルバトロス"」は広く輸出され、世界中の国々で長い間にわたって成功裏に活躍しています。 アフガニスタンは1977年に最初の「L-39」を受け取り、最後の2機は少なくとも30年間運用された後の2000年代後半か2010年代前半に退役しました。

 しかし、アフガニスタンの「L-39」の物語はまだ終わっていないかもしれません。2021年12月現在の時点で、タリバン政権の管轄下にあるカブール空港で整備員たちが長年にわたって放置されていたジェット機を稼働状態に戻すという明らかな野心を持って、残存する「L-39」のエンジンテストを開始したからです。[1]


運用初期

 1950年代後半まで、王立アフガニスタン空軍は主にイギリス起源の時代遅れと化したピストンエンジン機(注「ホーカー・ハインド」)に頼っていましたが、ザヒル・シャー国王がソ連に軍備を含む援助を要請した後にこの空軍は急速な近代化の時期を迎えました。

 アフガニスタンはソ連から「MiG-17」戦闘爆撃機のみならず、「Il-28」爆撃機やその他多くの比較的高度な航空機やヘリコプターの入手に成功し、訓練用として「Yak-11」や「Yak-18」初等練習機と「MiG-15UTI」ジェット練習機も採用されたのです。[2]

 しかし、1970年代半ばになるとアフガンに派遣されていたソ連軍の顧問がより高度な新型練習機の必要性を感じ、東欧諸国の標準的なジェット練習機となりつつあった「L-39 "アルバトロス"」の供与を本国に要請しました。
 
 1977年に第1陣の「L-39」12機がアフガニスタンに到着し、以後はマザリシャリフ郊外のデダディ空軍基地を拠点とするアフガン空軍第393訓練航空連隊で運用に就きました(注:1973年のクーデターによる王政廃止後に軍から「王立」の文字が削除されました)。[2] 

 第1陣として納入された機体には「001」から「0012」までの機体番号が割り振られ、塗装については上部が白で下部がライトグレーのツートンカラーで仕上げられており、緑と黒と赤の三角形で構成された国章が6箇所に施されました。

引き渡し前にチェコスロバキアを飛ぶアフガニスタンの「L-39」で、三角形のラウンデルが6カ所に施されている

1977年の納入直後にアフガニスタン北部を飛行する2機の「アルバトロス」

 それから僅か1年後の1978年4月に、アフガニスタン軍内部の共産主義者がクーデターに成功してアフガニスタン民主共和国(人民民主党政権)を樹立したものの、新政権樹立からほとんど間を置かずに、イスラム政党を筆頭とする反共産主義の暴動が全国各地で勃発しました。こうしてアフガニスタンの内戦が始まったわけですが、デダディ空軍基地にあるカデットでの訓練は深刻な影響を受けることはありませんでした。

 ソ連の教官に助けられながら、第393連隊は「L-39」だけでなく旧式の「MiG-15UTI」や「MiG-17」の運用も続けていました。

 政治・経済・社会生活における数えきれないほどの変化の中で、共産主義者によるクーデターは国章の変更も引き起こしました。伝統的なアフガンの三角形は、黄色のアフガンの紋章が入った赤いラウンデルに塗り替えられたのです。

並べられた「L-39」には、1978年のクーデター後に採用された赤いラウンデルが施されている


ソ連侵攻

 それから1年もせずに、共産主義体制が政権の維持に苦心していることが明らかとなりました。なぜならば、イスラムの戦闘員(ムジャヒディン)の影響力は絶大であり、政府軍は士気の低下と離反に悩まされていたからです。

 比較的友好的な現アフガニスタン政権の崩壊を危惧したモスクワの指導者たちは、紆余曲折を経てこの国への介入を決断しました。1979年末にソ連の特殊部隊がアフガニスタンのアミン大統領を殺害、ソ連軍が侵攻して、より穏健な共産主義派閥の長であるカルマル大統領を就任させて権力を掌握したのです。

 おそらく驚くようなことではないでしょうが、一連の政変に続いて「L-39」を含むアフガニスタン機は、赤い星が黒・赤・緑からなる円形の縁で囲まれた全く新しいデザインのラウンデルを施されました。 

 戦闘が激しく続くにつれ、ソ連から「MiG-21」や「Su-22」が大量に引き渡されてアフガニスタン空軍の戦力は増強された一方で、(当時の基準で)現代的なジェット戦闘機を取り扱うことが可能なさらなる飛行士の必要性がかつてないレベルにまで達しました。

 多くの意欲的なアフガニスタン軍飛行士はソ連の軍事アカデミーに留学しましたが、それ以外の者は国内で訓練を受け続けたようです。

 やがて、1977年に引き渡された12機の「L-39」では強化訓練プログラムの要件を満たすには数があまりにも少なすぎることが判明したため、1983年から翌1984年にかけて追加の「アルバトロス」がそれぞれ6機と8機の2回に分けてデダディ基地に到着しました。
 
 新たに引き渡された機体には、チェコスロバキアとソ連で運用されている「L-39」の大半と同様に、上部が明暗の緑褐色で下部がライトグレーで構成された標準塗装が施されていました。その後数年間で、(1977年の)第1陣からの全機が(おそらくチェコスロバキアと同様の標準塗装に)塗り直されました。

 第1陣の機体のうち、少なくとも1機は再塗装される前に使用不能な状態に陥ったか損傷したために、首都郊外にある巨大なスクラップヤードでその生涯を閉じました。

 第2陣、第3陣の機体番号は謎に包まれています。というのも、チェコのさまざまな資料では26機以上の「アルバトロス」が引き渡されたことはないと述べられているものの、写真で確認された中で最も数が大きな機体番号はアフガニスタンで運用された「L-39」の総数を踏まえるとより合理的である「0026」ではなく1つ多い「0027」だからです。

「L-39(機体番号0027)」

 さらに、2001年にマザリシャリフで撮影された遺棄された「L-39」の写真から、アフガニスタン空軍がソ連から中古の「L-39」をいくらか得た可能性を示しています。この機体は色あせた国章にソ連の赤い星が描かれているようですが、機体番号は「003x」で最後の桁が不鮮明で判読できませんでした。

 したがって、アフガニスタン空軍に運用されていた「L-39」の数が30機以上あったことはほぼ確実と断言できます。

 旧ソ連軍機は、1980年代にソ連の「L-39」が運用されていた(カブール北部に位置するソ連空軍の主要な拠点だった)バグラム空軍基地から、アフガニスタン空軍の第393訓練航空連隊に流れた可能性があります。このような機体は、1989年におけるソ連のアフガニスタン撤退後に国内に残置されたものと考えるのが妥当でしょう。

2001年のタリバン政権崩壊後に有志連合軍がマザリシャリフ空軍基地で発見した損傷の激しい「L-39」で、機体には「003x」の番号が記されている(最後の桁は「1」だった可能性がある)

バグラム空軍基地に配備されたソ連軍の「L-39C」(1986年)

 「L-39C」は2つのハードポイントに各種の軽量級の爆弾とロケット弾を搭載することができますが、この練習機が1980年代に戦闘に投入されたかどうかは現時点では不明です。

 ロケット弾や爆弾で武装したアフガニスタンの「L-39」が撮影された写真は非常に珍しく、この練習機が実戦に投入されたことを確実に否定できませんが、これらの武装はおそらく兵器訓練のために搭載されたものと考えられます。

 そのような結論に至った理由として、アフガニスタン空軍は数百機もの対地攻撃に適した戦闘機や攻撃ヘリコプターを保有していたため、「L-39」は高等練習機という本来の用途でしか用いられなかったと推測されるからです。

手前のアルバトロスには「UB-16-32」ロケット弾ポッドが、後ろの機体には「FAB-100」爆弾と思しきものが搭載されている(1980年代、デダディ空軍基地)


軍閥とタリバン

 ソ連とアメリカがアフガニスタンにおける全ての戦争当事者に対する軍事援助の停止に合意し、続く1991年末にソ連が崩壊した後にアフガニスタンの共産主義政権は崩壊し始め、1992年4月にはイスラム主義組織が首都で政権を掌握して「アフガニスタン・イスラム国」を発足させました。ただし、実際には国内はいくつかの主要な勢力と無数の現地司令官の間でバラバラになっており、国際的に承認された政府もカブールの一部といくつかの州を支配しているに過ぎない状態だったのは言うまでもないでしょう。

 内戦が続く中で、アフガニスタン空軍は今や自身が各軍閥の間で分断された状況に直面しました。
 
 マザリシャリフを含む北部地域と全ての飛行場はウズベクジン指導者アブドゥル=ラシード・ドスタム将軍の支配下に置かれ、彼の軍は第393訓練航空連隊の残存する全ての「L-39」の運用を継続しました。ドスタムの空軍は共産主義政権時代の赤い星のラウンデルを1978年以前に用いられた伝統的な三角形のものに変えたものの、機体番号や塗装はそのまま維持されました。

 彼の軍閥が飛行場を掌握した後も、デダディで新米パイロットの訓練が続けられた可能性はありますが、どの程度実施されたのかは分かっていません。
 
 アフガニスタン内戦における当事者の「私設」空軍はその全てがリソース不足に悩まされていました。しかし、 ドスタムの空軍は人員と装備が比較的充実していたため、新たなパイロットの訓練は優先されなかったかもしれません。とりわけ元共産体制下の空軍に仕えていた熟練パイロットが十分に活用できる場合は、なおさらそうだったでしょう。

 ドスタムがアフガニスタン北部を統治していた時代に撮影された画像は、彼の「L-39」はデダディだけでなく、主要なマザリシャリフ空港やシェベルガーン市郊外の小さな飛行場でも運用していたことを示唆しています。

北部のシェベルガーン飛行場で撮影されたドスタム将軍の「L-39C」の1機。機体番号の「005」は、1977年に納入された第1陣の機体であることを意味する

 アフガニスタンの情報筋によると、1990年代前半にドスタムはウズベキスタン共和国との間で数機の(彼の)「L-39」と少数の「Su-17」戦闘爆撃機と交換したとのことです。この取引について具体的なことは何も判明しておらず、それ自体が行われなかったという可能性すら考えられます。[3]
 
 ドスタムが統治する北部地方は比較的安定して平和でしたが、アフガニスタンのそれ以外の地方は激しい内戦に見舞われ続けていました。

 1994年秋、タリバンは南部の主要都市カンダハルを制圧し、続く1996年秋には国際的に承認された政府をカブールから追い出すに至りました。

 これらの出来事が発生した後、ドスタム将軍は打倒された政府と同盟を結んで反タリバン運動を開始し、これはドスタム軍の指揮官の一人であるアブドゥル・マリク・パフラワン大将がタリバンと協定を結び、ドスタムが国外脱出を余儀なくされた1997年5月まで続きました。 その結果として、基本的に空軍を含むドスタム軍全体がマリクの指揮下に入ることになったのです。

 混乱がシェベルガンの都市を包む中で、ドスタム軍のパイロットの一人であるユスフ・シャー将軍は「L-39」に乗ってカブールへ逃亡し、タリバンに参加するということがありました。
 
 ほどなくして、マリク将軍はタリバンに裏切られたと確信したようです。なぜならば、タリバンは彼に自身の政権内における高い地位に就かせることを約束したものの、結局それが実際に護られない言葉限りのものだったからです。

 ほんの数日のうちにマリクは束の間の盟友に反旗を翻し、アフガニスタン北部全域がイスラム原理主義勢力とマリク軍との幾重にも重なる戦闘に巻き込まれました。機体が鹵獲されることを避けるため、マリクは残存しているパイロットたちに飛行機を(国境を越えて)タジキスタンへ待避させるように命じました。

 入手できた報告によると、1998年夏にタリバンが北部地方を制圧した際に数機の「L-39」が実際にタジキスタンのクロブ基地に避難し、残存機はタリバンに鹵獲されてカンダハル郊外の主要な空軍基地に移送されたと伝えられています。
 
 おそらく2000年に密かに撮影された写真には、カンダハル空港のエプロンに駐機している4機の飛行可能な「L-39」が写っていました。これは、タリバンが新たなパイロットの訓練を再開したか、少なくとも、長い飛行中断を経てタリバンに合流した元共産体制空軍のパイロットの慣熟飛行に「L-39」を使ったかもしれないということを意味しています。

 タリバン軍の「L-39」もマザリシャリフやほかの前線に近い場所にある空港に配備されましたが、この点に関する詳細は情報は不明です。[3] 

 知られていることは、タリバンが自身による攻勢を何度も防いだ有名なアフマド・シャー・マスード将軍が率いる旧政府軍の残党がいるアフガニスタン北東部に「L-39」を投入したことだけです。

 タリバンが設立した「アフガニスタン・イスラム首長国空軍」が運用する「L-39」は「UB-16」ロケット弾ポッドや「FAB-100」無誘導爆弾を搭載し、練習機から攻撃機に一変した航空機に対処可能なジェット機を有していない敵の拠点を空爆していたものの、1999年にはタリバンが投入した「L-39」の1機が対空砲かMANPADSによって撃墜されました。搭乗していたパイロットの運命は今でも分かっていません。

1999年にクンドゥズ州イマームサヒブの町付近にて撃墜されたタリバン軍の「アルバトロス」(尾翼部分)

 タリバン運用されている間でも、「L-39」は前述の標準的な迷彩塗装を維持していましたた。いくつかの機体にはドスタム軍に所属していた時期に施された三角形の国章が残され続けた一方で、少なくとも1機はタリバンのラウンデルの未知の変種が垂直尾翼や(おそらく)主翼に明るい色で施されていたようです。

タリバンの国章の変種か、あるいは色褪せた三角形のラウンデルを垂直尾翼につけた「L-39」の不鮮明な写真のうちの1枚(2001年末、マザリシャリフ空港)

 ロシアの情報によると2000年8月にタリバンのパイロットが「L-39」と共にタジキスタンに亡命したとされていますが、この情報は未だに真偽が検証されていないままです。これに関する情報源の資料では亡命機の機体番号が「239」となっていますが、これは先に解説したアフガニスタンの「アルバトロス」に付与された番号と一致していません。[3]

 タリバン軍の「L-39」乗員の亡命については、2人のパイロットがウズベキスタンに逃亡したことが唯一確認されている事例です。おそらく、彼らは北部の基地から「L-39」で離陸して、国境を越えたところに位置するウズベキスタンのテルメズ空港に着陸したのでしょう。

 機体番号「0022」を施されていたこの「アルバトロス」は、その後ウズベキスタン空軍で使用されて2020年にはチェコの「アエロ」社の施設でオーバーホールを受けました。[3]



アフガニスタン国軍航空隊での「アルバトロス」


 2001年9月11日に発生したニューヨークとワシントンのでの同時多発テロ事件後、アメリカとイギリスはアフガニスタンに軍事介入(不朽の自由作戦)を実施し、たった数カ月で、(しかも現地の反タリバン勢力の部隊の多大な助けを得て)タリバン政権を崩壊させて国際的に承認された新政府を樹立させました。

2001年10月の「不朽の自由作戦」の初日にカンダハル空軍基地で空爆を受けて破壊されたタリバンの「L-39」

 米英軍の空爆によって、カンダハルや他の空軍基地に拠点を置く「L-39」を含めたアフガニスタン・イスラム首長国空軍のほぼ全機が破壊されました。

 しかし、アフガニスタンにおける「L-39」の物語はここで終わることはありませんでした:タリバン政権崩壊から数か月後、アフガニスタン北部のシェベルガーン基地で2機の「L-39(機体番号005と0021」が撮影されたのです。ただ、この2機がタリバンによって運用された機体で飛行場に駐機した状態で有志連合軍の攻撃から生き延びたものか、それともタリバンが北部地方を制圧する前にタジキスタンへ避難して2001年のタリバン政権崩壊後にパイロットと共に帰還した機体のうちの数機なのかは定かではありません。
 
 これまでの悲運を払いのけ、アフガニスタンのパイロットたちは後にこれらの2機をシェベルガーンからカブールに飛ばし、新設されたアフガニスタン国軍航空隊(ANAAC)の指揮下に入りました。

 タリバン政権崩壊後に復帰した3機目の「L-39(機体番号0023)」は、ある意味で謎に包まれています:この機体がカメラの前に登場したのは、カブールで行われたアフガニスタン国軍の大規模な軍事パレードで会場の上空を飛んだ2002年4月だけです。

 垂直尾翼には濃い緑色の模様があるため、同機は以前にタリバンで運用されていたことが推測されます(注:タリバン機のラウンデルは基本的に緑の円で構成されています)。後に登場した機体だけに見られた三角形のラウンデルに置き換える時間が足りなかったので、おそらくはアフガンの整備士が前所有者(タリバン)の「不適切」な国章を濃緑色で上塗りしたのでしょう。

2002年4月にカブール上空を飛行するL-39(機体番号0023)をキャッチした低画質の映像で、垂直尾翼には塗りつぶされたと思しきタリバンの国章が見える

 2000年代半ばには「0021」と「0023」がロシアでオーバーホールを受け、その一方で「005」は駐機状態という扱いとなってスペアパーツの供給源として用いられました。

 オーバーホールされた機体は、上部が緑色と茶色で下部がライトグレーというツートンカラーの新しい迷彩に塗装され、伝統的な三角形からなるラウンデルが6か所に施されました。

 様々な情報源によると、アフガニスタン最後の2機の「L-39」は1970年代と1980年代に訓練を受けたベテランパイロットによって操縦されたものの、2000年代後半から2010年代前半にかけて駐機状態に入ったとのことです。この主な原因については、パイロットたちが英語を話すことができず、カブールの外国人航空管制官と意思疎通できなかったことにあるようです。[3] 

 この「L-39」のペアは主に式典用として使用され、ときにはカブールでの軍事パレードに参加することもありました。これら最後の2機は戦闘に投入されることはありませんでした。すでにANAACはより実戦に適した戦闘用の航空戦力を保有していたからです。

カブール上空を飛ぶ、ロシアでオーバーホールと再塗装を施された2機の「L-39C」(2007年)

カブールの「イード・ガー」モスクの直上をフライパスするANAACの「L-39」


再びタリバンの手へ?

 アフガニスタン国空軍は新型ジェット機の導入にほとんど関心を持たなかったこともあり、最後の運用可能な2機の「L-39」はロシアでオーバーホールを受けてから僅か数年で地上に置かれてしまいました。その後、両機はスペアパーツ用として活用されていた「005」と共にカブール国際空港における軍用エリアでの(露天)保管庫にたどり着き、 2021年夏にタリバンが戦わずして首都に侵入して突如としてアフガニスタン共和国が滅亡するまで、射出座席が取り外された状態で放置され続けたのです。

  誰もが驚いたことに、同年12月にアルジャジーラの報道番組は、明らかに1980年代の共産主義政権下で訓練されたであろう老いた整備員たちが保管されていた「L-39」を整備している姿を映し出しました。

 もし、彼らがこの機体を稼働状態に戻すことに成功するならば、私たちは間違いなくこの歴史的なジェット機が再びアフガニスタンの空を飛ぶ姿を目にすることになるでしょう

射出座席が取り外されて野ざらしで放置された3機の「L-39」(2021年、カブール国際空港)

2021年12月、カブール国際空港でエンジンテストを実施中の「アフガニスタン・イスラム首長国」の「L-39C」

「L-39(0023)」の整備作業に従事する老整備員

 前述の3機の「L-39」に加えて、過去40年にわたってアフガニスタンを荒廃させた内戦の混乱から生き残った同国軍の「L-39」として最後まで把握されているのがカブールのオマル地雷博物館(注:地雷の展示がメインの博物館ですが、内戦で用いられた他の兵器も展示されているようです)に展示された「0017」番機であり、本稿の執筆時点でも依然として同所に存在しています。ただし、同機に関する個別的な来歴について著者は把握していません。

 アフガニスタンの「L-39」について、あなたはもっと詳細な情報をお持ちですか?カブールに行かれた方で、(おそらく)シェアしたい写真をお持ちの方はいらっしゃいますか?あるいは、「L-39」のアフガニスタンにおける活躍について、何か補足となる情報をお持ちでしょうか?
 遠慮せずに私たちにご連絡ください。私たちは記事をより有益なものにできる方を常に求めています。

[1] الحكومة الأفغانية المؤقتة تعلن إصلاحها أكثر من 40 طائرة حربية عطلها الجيش الأمريكي https://www.facebook.com/watch/?ref=saved&v=1061986771321991
[2] Wings of the Hindu Kush - Air Forces, Aircraft and Air Warfare of Afghanistan, 1989-2001 https://www.helion.co.uk/military-history-books/wings-over-the-hindu-kush-air-forces-aircraft-and-air-warfare-of-afghanistan-1989-2001.php
[3] 著者が独自に得た情報による

※  当記事は、2022年1月8日に「Oryx」本国版(英語)に投稿された記事を翻訳したもの
 です。当記事は意訳などにより、僅かに本来のものと意味や言い回しを変更した箇所があ
 ります。




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2022年8月5日金曜日

知られざる艦艇の話:バングラデシュの「キャッスル」級哨戒艦



著:ステイン・ミッツアー と ヨースト・オリーマンズ(編訳:Tarao Goo

 2020年8月にベイルートで発生した壊滅的な大爆発の映像は、2.750トンの硝酸アンモニウムの保管に関する驚くべき無能と過失によって207人を死に至らせたことに加え、150億ドルを超える損害を生じさせたとして世界中に衝撃を与えました。

 また、この爆発事故によって、国連レバノン暫定軍の海上任務部隊の一員として地中海に派遣され、ベイルートに駐留(停泊)していたバングラデシュ海軍艦艇「BNS ビジョイ(上の画像)」も被災しました。近くにあった穀物倉庫が爆風の大半を受け止めたおかげで爆発による最も極度な影響から免れることはできましたが、それでも乗組員から21名の負傷者が生じ、「ビジョイ」自身も無事に帰国する前にトルコで修理を受けなければなかったのです。[1]

 「BNS ビジョイ(勝利)」は2011年初頭からバングラデシュ海軍で運用されている2隻の哨戒艦のうちの1隻です。両艦のキャリアは1980年代初頭のイギリスで始まり、「キャッスル」級哨戒艦として就役しました。

 この哨戒艦の主要な任務は、北海におけるパトロールと漁業保護の遂行にありました。また、この艦は緊急時の掃海作戦にも使用可能であり、最初から設けられてる兵員の収容スペースや広いヘリ甲板は、同艦をさらなる多数の補助任務にも完璧に適したものにしています。

 1982年のフォークランド戦争後、「キャッスル」級は3年ごとの交代制でフォークランド諸島の警戒任務に従事していました。

 これらは2000年代半ばまでに「リバー」級外洋哨戒艦「HMS クライド」に置き換えられることになり、「キャッスル」級の2隻は2005年と2007年にイギリス海軍から退役しました。

 当初、この2隻は2007年にパキスタン海上保安庁に売却される予定でしたが、取引が成立しなかったため、結果として2010年4月にバングラデシュ海軍へ売却されました。

 2010年5月以降、両艦は(イギリス北東部の)タインサイドにある「A&Pグループ タイン造船所」で大規模な改装を受けました。これにはエンジンのオーバーホール、新しいディーゼル発電機とデッキクレーンの搭載、乗組員の居住空間の徹底的なアップグレードが含まれており、一連の作業は2010年12月まで続きました。[2]

 2011年初頭にバングラデシュに到着した後、両艦は「BNS ダレシュワリ(同国を流れる川の名前)」と「BNS ビジョイ」として同国海軍に就役しました。[3]

       

 ほぼ間違いなく彼らのキャリアの中で最も興味深いものとして、新しい所有者の下で哨戒艦からミサイルコルベットに格上げされたことが挙げられます。

 バングラデシュで改修を受けた結果、「キャッスル」級は中国製の「C-704」対艦ミサイル4発とソ連の「AK-176」76mm砲の中国製コピー「H/PJ-26」で武装したイギリス起源の哨戒艦という世界でも類を見ない独特な艦となりました。

 40mm機関砲1門(後に30mm機関砲に換装)と小型艇に対する近接防御用の7.62mm汎用機関銃(GPG)数門だけを装備していたイギリスでの就役当時のものを考慮すると、これらの新たな艦載兵装は以前のものから著しく向上したことは一目瞭然でしょう。

 新たに搭載された兵装については、艦橋後部に設置された2門の有人式20mm機関砲と、対空・対水上レーダーと火器管制レーダーで一段と強化されています。

爆発に巻き込まれた「BNS ビジョイ」から下船して歩く負傷兵たち(2020年8月4日)

 1993年にモザンビークに初めて派遣されてi以降、バングラデシュ海軍は国連の平和維持活動に定期的に参加しています。約30年間で、バングラデシュ海軍の5,000人以上の人員が、アフリカ、中東、南米、アジアにおける国連ミッションを完遂しました。[4]

 2010年には、海軍はフリゲート「BNS オスマン」と哨戒艦「BNS マドゥマティ」の2隻を国連レバノン暫定軍(UNIFIL)の一員として派遣しました。

 「BNS ビジョイ」は2020年8月4日に文字どおりに爆発に巻き込まれるまでの間、地中海のパトロール、海上阻止、対空監視、そしてレバノン海軍要員の訓練を任務としていましたが、被災後はコルベット「BNS ショングラム(056級コルベットの輸出型)」がその任務を引き継ぎました。[5]

爆発直後に撮影された「BNS ビジョイ」内部の状況

 広いヘリ甲板を備えているにもかかわらず格納庫が存在しないためか、「キャッスル」級にはイギリス海軍もバングラデシュ海軍も作戦配備の際に艦載ヘリコプターを配属させたことがありません。その代わり、ヘリ甲板は複合艇(RHIB)の格納場所や訓練・娯楽エリアを兼ねて使用されており、窮屈な船内に欠けながらも大いに必要とされるスペースを提供しています。

 将来的には、広大な甲板スペースをVTOL型UAV用に活用して「コルベット」の実質的な警戒範囲を大幅に拡大することが可能となるでしょう。この種のUAVはヘリコプターよりも運用コストが大幅に低いだけではなく、船内や甲板の空きスペースに置く専用の(コンテナなどの)小さな構造物に格納できるという付加価値も有しています。

消火訓練で放水中の「BNS ビジョイ」と「BNS ダレシュワリ」(2017年)

 バングラデシュ海軍は(改装された)中古艦艇の運用にかなり慣れている海軍として知られています。

 この2隻はかなりの艦齢にもかかわらず、地中海における国連のミッションへの派遣やバングラデシュの領海警備で、将来にわたってこの国の海軍で十分に役立つ見込みがあります。

 特に世界中のほかのコルベットと比較した場合、主に対空ミサイルや近接防御用火器(CIWS)といった現代的な武装面で乏しいかもしれませんが、現在進行中の大規模な軍の近代化・戦力向上事業「Forces Goal 2030」の後には上記の武装を導入した新型艦を目にする可能性があるでしょう。

 この事業で中国から「035」級潜水艦を導入したことを踏まえると、バングラデシュ海軍には期待すべき明るい未来が待っていることは間違いありません(注:「035」級はバングラデシュ初の潜水艦です)。



特別協力: Rahbar Al Haq (敬称略)

[1] Beirut blast-damaged BNS Bijoy returns home https://www.dhakatribune.com/bangladesh/2020/10/25/beirut-blast-damaged-bns-bijoy-returns-home
[2] A&P Tyne wins massive refit https://www.thenorthernecho.co.uk/news/8119098.p-tyne-wins-massive-refit/
[3] Bangladesh Secures 2 Used British OPVs https://www.defenseindustrydaily.com/Bangladesh-Secures-2-Used-British-OPVs-06369/
[4] Role of Bangladesh navy in UN peacekeeping mission https://m.theindependentbd.com/printversion/details/201462
[5] Bangladesh Navy corvette BNS Shongram en route to help in Lebanon https://www.navyrecognition.com/index.php/naval-news/naval-news-archive/2020/august/8858-bangladesh-navy-corvette-bns-shongram-en-route-to-help-in-lebanon.html

 ものです。当記事は意訳などにより、僅かに本来のものと意味や言い回しを変更した箇所
 があります。




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