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2023年8月18日金曜日

我らの大砲はマカロニに非ず:イタリアによるウクライナへの軍事支援(一覧)


著:ステイン・ミッツアーとヨースト・オリーマンズ in collaboration with ニコラウス・Concu

  1. 以下に列挙した一覧は、2022年からのロシアによるウクライナ侵攻の最中にイタリアがウクライナに供与した、あるいは提供を約束した軍事装備等の追跡調査を試みたものです。
  2. 一覧の項目は武器の種類ごとに分類されています(各装備名の前には原産国を示す国旗が表示されており、末尾には供与された月などが記載されています)。
  3. 一部の寄贈された武器などは機密性の関係上、表示している数量はあくまでも最低限の数となっています。
  4. この一覧はさらなる軍事支援の表明や判明に伴って更新される予定です。
  5. * はイタリア企業から個人(ポロシェンコ前大統領)が調達したものを指します
  6. 各兵器類の名称をクリックすると、当該兵器類などの画像を見ることができます。

防空システム (3個中隊分)

多連装ロケット砲 (2)

自走砲 (106+)

牽引砲

迫撃砲

装甲兵員輸送車

歩兵機動車

携帯式地対空ミサイルシステム (MANPADS)

対戦車ミサイル (ATGM)

レーダー

小火器

個人装備

その他の装備品
 です。



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2023年4月30日日曜日

深海から浮上した物語:インドネシアの実験的な小型"Uボート"


著:ステイン・ミッツアーとヨースト・オリーマンズ

 ミリタリーファンは、常に見聞きしたことのない魅惑的な戦記を追い求めています。

 すでにマーク・フェルトンが世界中の人々の関心を引くために相当な数の戦記を世に出すという偉業を成し遂げているのもの、依然としてさらに多くの情報が埃にまみれた資料や写真の中に隠されたままとなっており、いつの日にか公表されることを待ち続けています。

 そうした話の一つが、1948年にジャワ島でドイツの元潜水艦乗組員がインドネシアの独立勢力のためにミゼットUボート(以下、特殊潜航艇と記載)を設計・建造した話です。[1]

 この潜航艇は最初の海上公試で沈没してしまいましたが、それでも専門的な機械や機器を備えていない鉄工所で(本物の設計士ではない)ドイツの潜水艦乗組員によって設計と建造がなされたことは目を見張るべき偉業と言えるでしょう。

 今回取り上げた話に登場するドイツ軍の潜水艦乗組員は、第二次世界大戦中の太平洋とインド洋で任務に就いていたドイツ(とイタリア)のUボート部隊「グルッペ・モンズーン(モンスーン戦隊」に所属していた人たちです。

 日本が支配下に置いたマレーシア・シンガポール・インドネシア(当時はまだ蘭印:オランダ領東インド)を拠点に行動していたこの戦隊の作戦地域は、ドイツ軍と日本軍(そしてイタリア軍)が実際に同じ戦域で戦った唯一の場所でした。

 1945年5月8日のドイツ降伏した後に残存していたドイツの潜水艦4隻とイタリアの潜水艦2隻は日本側に接収され、乗組員はインドネシアで抑留されたり、今や日本艦となったこれらの潜水艦を運用するために使役されたりしました。

 興味深いことに、イタリアの潜水艦「ルイージ・トレッリ」「コマンダンテ・カッペリーニ」 の2隻は、すでに一度は日本に拿捕された経歴がありました。最初の拿捕は1943年9月のイタリア降伏後のことであり、インドネシアのサバンでドイツ海軍に引き渡され、ドイツ人とイタリア人の混成クルーによって引き続き運用されました。そしてドイツ降伏後、この2隻は(4隻のドイツ艦と一緒に)再び日本に接収されて今度はドイツ・イタリア・日本の混成クルーによって運用されることになったのです!

 結果として、「ルイージ・トレッリ」と「コマンダンテ・カッペリーニ」は第二次世界大戦中に枢軸国の主要3か国全てで運用された唯一の艦艇となりました。

 2隻の元イタリア艦は主に蘭印と日本を結ぶ輸送潜水艦として活用されて最終的には1945年に神戸でアメリカ軍に接収され、ドイツのUボートである「U-181」、「U-195」、「U-219」、「U-862」はシンガポールと蘭印でイギリスに接収されてその経歴に終止符が打たれました。

 これらの運命を詳しく説明すると、「U-181(伊-501)」「U-862(伊-502)」はシンガポールでイギリスに接収され、その翌年にマラッカ海峡で海没処分されました。

 「U-195 (伊-506)」 と「U-219 (伊-505)」 については、前者は1945年8月にオランダ領東インドのジャカルタで、後者はスラバヤでイギリス軍に接収されました。この2隻を入手するはずだったオランダは、1946年の三者海軍委員会による決定に基づいて入手の断念と処分を余儀なくされたのでした(注:実際の海没処分はイギリス軍によって実施)。 [2]

「XB」級Uボート「U-219/伊-505」:三者海軍委員会の規則によってオランダ海軍は同艦と「IXD1」級Uボート「U-195/伊-506」の保有を許されなかったため、これらの2隻は1946年にジャワ島沖で海没処分された。

 シンガポールで接収された「U-181」と「U-862」のドイツ人乗組員は終戦後にドイツへ帰国するか、(イギリスの)ウェールズで抑留後にそのまま現地に永住するという運命を辿りました。

 一方で、1945年当時の蘭印に残っていた「U-195」と「U-219」の乗組員や別のドイツ海軍の軍人たちの中には全く別の人生を選択した人もいました。降伏してイギリスに協力する者もいれば、正反対にインドネシア独立戦争でイギリス・オランダ軍と戦い続けるべくインドネシアに忠誠を申し出た者もいたのです。

 その中には、ジャワ島ジョグジャカルタの鉄工所で特殊潜航艇を設計・建造した者も含まれています。[2]

 この異形な鋼鉄製の潜航艇は、インドネシア共和国の首都と指導者を捕らえることを目的とした2度の軍事攻撃の2回目として成功した「カラス作戦(Operatie Kraai)」で、オランダ軍がインドネシアの臨時首都であるジョグジャカルタを占領した後に発見されました。

 興味深いことに、オランダは2度の軍事攻撃の成果としてスカルノ大統領とモハマッド・ハッタ副大統領を捕虜にしただけでなく、1947年8月に実施された最初の攻勢である「プロダクト作戦」で、東ジャワにて5名のドイツ人も捕虜にしたのです。このうちの4名は「U-195(伊-506)」の乗組員だった者たちであり、残りの1名(インドネシア生まれのドイツ人)はインドネシア軍の犬のトレーナーとしての役割を担っていました。[3] [4] [5] [6] [7]

オランダ軍の兵士たちが鹵獲した鋼鉄製物体を訝しげに調べている様子:船体の左右に取り付けられた安定用のフィンに注目

 粗雑で正常に機能しなかった設計ではあったとはいえ、この特殊潜航艇はインドネシアによって初めて組み立てられて運用された潜水艦です。

 残念なことに、この潜航艇の内部構造については、設計時に設定されたもので初航海での沈没を防げなかったことを除くと、何も分かっていません。[8]

 その後、沈んだ"鋼鉄製の海獣"は引き上げられて修理や設計の改良のために鉄工所に戻されましたが、そうした作業はオランダ軍の占領によって力づくで中断させられてしまいました。もし、この潜航艇の修理が間に合っていれば、ジャワ島のインドネシア領を海上封鎖に従事していた不用心なオランダ海軍の駆逐艦に攻撃する姿が見れたかもしれません。

 この目的のために、この特殊潜航艇は船体下部のマウントに魚雷1本を搭載することが可能でした。[9]

 搭載する魚雷の種類はおそらく日本の「九十三式魚雷」や「九十五式魚雷」、あるいは450mmの「九一式航空魚雷改2」で占められていたと思われます。実際、インドネシア軍は大日本帝国海軍の基地を占領したり引き渡しを受けた際にこれらの魚雷を大量に入手していたからです。[10]

 魚雷の照準については、セイルに格納された大きな潜望鏡を通して合わせることになっていたのでしょう。艦橋構造物の巨大な舷窓や潜望鏡の大きさから判断すると、作戦中の特殊潜航艇は少なくとも一部が水面から突き出ていることになるため、Uボートとはいうものの技術的には半潜水艇と呼ぶべき代物ものでした。

船体下部のアタッチメントには1発の魚雷を装備できる

 最終設計案に基づいて建造された姿は、この時代の特殊潜航艇とは似ても似つかぬ、極めて粗雑なものであったとしか言いようがありません。

 実際の設計に先立って作られた潜水艦の模型は、ドイツの「ビーバー」級特殊潜航艇から大まかな着想を得たように見えます。これが全くの偶然なのか、それとも建造に関わったドイツの乗組員が蘭印に出発する前に「ビーバー」級を見る機会があって、その後に自らの設計のベースとしたのかは不明です。

 「ビーバー」級の量産は、「U-195」と「U-216」が蘭印へ向けて出発する数か月前の1944年夏に開始されました。両艦とも分解された「V-2」ロケットや最新兵器の設計図を積載していたましたが、この航海で「ビーバー」級の設計図も日本側に移転された可能性もありますが、その真相は歴史の闇に葬り去られてしまいました。

 結局のところ、「ビーバー」級との類似性については「単なる偶然の一致」が最も有力な説となっています。

ドイツの「ビーバー」級特殊潜航艇

本物を建造する前にドイツの潜水艦乗組員によって作られた縮小模型

 ナチスドイツと日本の降伏後にインドネシアの独立闘士と共に戦うことを選択した現地のドイツ人潜水艦乗組員によって、日本の魚雷で武装したドイツの特殊潜航艇が設計されていた - これは、まさに魅惑的なもので満ち溢れた物語以外の何ものでもありません。

 その粗雑な設計と製造品質のおかげで、この特殊潜航艇は最初から成功の見込みがなかったかもしれませんが、インドネシア人がオランダ軍に戦いを挑むためにあらゆる手段を模索しようという決意を(他国の人々の協力を得て)ますます強めていったという重要な証拠と言えるでしょう。

 インドネシアが再びオランダの主力艦を沈めるという試みを再び仕掛けるには、オランダ領ニューギニアへの侵攻を企図した「トリコラ作戦」の一環で実行を試みた1962年まで待たねばなりませんでした。当時はソ連から最新の兵器を入手していたため、その結果として立案された計画では「KS-1 "コメット"」対艦ミサイルを搭載した「Tu-16KS-1」爆撃機によるオランダ空母「HNLMS カレル・ドゥールマン」撃沈が求められていました(結局、攻撃は中止に終わりました)。

 明らかにインドネシアの軍事史が西側諸国で全く取り上げられていないという事実は、そこに含まれている多くの興味深い物語が十分に伝えられていないことを意味しています:つまり、それは私たちが好んで取り上げる物語のことです。

[1] In een staalfabriek in Djocja werkte een ex-Duitse matroos aan een eenmanstorpedo. Zijn uitvinding mislukte. Bij de eerste proefneming zonk het ijzeren gevaarte. https://www.nationaalarchief.nl/onderzoeken/fotocollectie/af009e5e-d0b4-102d-bcf8-003048976d84
[2] IJN Submarine I-505: Tabular Record of Movement http://www.combinedfleet.com/I-505.htm
[3] Malang: Een van de vijf op 1 augustus 1947 gearresteerde Duitsers: Erich Döring, geboren 29-03-1921 Muehlhausen. In dienst van de Kriegsmarine als Maschinenunteroff. op U-boot 195. https://www.nationaalarchief.nl/onderzoeken/fotocollectie/3fa45cf9-01a6-7884-0237-db4c606ccfa5
[4] Malang: Een van de vijf op 1 augustus 1947 gearresteerde Duitsers: Herbert Weber, geb. 3-6-'14 te Leutersdorf. In dienst van de Kriegsmarine als Leitender Ingenieur op U-boot 195 https://www.nationaalarchief.nl/onderzoeken/fotocollectie/f1cca949-fd26-d1c8-3f3a-10a985539386
[5] Malang: Een van de vijf op 1 augustus 1947 gearresteerde Duitsers: Heinz Ulrich, geboren 14-08-1924 te Berlijn. In dienst van de Kriegsmarine als Maschinenobergefreiter op U-boot 195. https://www.nationaalarchief.nl/onderzoeken/fotocollectie/432b83ec-97d7-308b-08cd-f2470cf2bea8
[6] Malang: Een van de vijf op 1 augustus 1947 gearresteerde Duitsers: Res. Oberleutnant zur See Fritz Arp, geb. 16-1-'15 te Burg auf Friehmar (Ostsee) In dienst van de Kriegsmarine als 1ste Off. op U-boot 195. https://www.nationaalarchief.nl/onderzoeken/fotocollectie/c8569997-e185-7055-81c5-f70cad6da942
[7] Malang. Een van de vijf op 1 augustus 1947 te Malang gearresteerde Duitsers: Alfred Pschunder, geboren op 24 december 1918 te Malang, Rijksduitser. Hij richtte o.a. honden af voor de Polisi Negara https://www.nationaalarchief.nl/onderzoeken/fotocollectie/c8569997-e185-7055-81c5-f70cad6da942
[8] In een staalfabriek in Djocja werkte een ex-Duitse matroos aan een eenmanstorpedo. Zijn uitvinding mislukte. Bij de eerste proefneming zonk het ijzeren gevaarte. Op deze plaats werd de torpedo aan het moeder-scheepje bevestigd. https://www.nationaalarchief.nl/onderzoeken/fotocollectie/af009fe4-d0b4-102d-bcf8-003048976d84
[9] In een staalfabriek in Djocja werkte een ex-Duitse matroos aan een eenmanstorpedo. Zijn uitvinding mislukte. Bij de eerste proefneming zonk het ijzeren gevaarte. Op deze plaats werd de torpedo aan het moederscheepje bevestigd https://www.nationaalarchief.nl/onderzoeken/fotocollectie/397950e1-fab7-1892-0a70-7d82a6ca43c8
[10] Hangar met Japanse? voertuigen. In de achtergrond liggen zeetorpedo's opgestapeld https://www.nationaalarchief.nl/onderzoeken/fotocollectie/01ff58e2-1eea-1815-f92d-68bfb852bb8e(リンク切れ)

※  当記事は、2023年1月10日に「Oryx」本国版(英語)に投稿された記事を翻訳した
 ものです。当記事は意訳などにより、僅かに本来のものと意味や言い回しを変更した箇所
 があります。

2023年2月3日金曜日

最後の中国製無人機:トルクメニスタンの「CH-3A」UCAV



著:ステイン・ミッツアー と ヨースト・オリーマンズ(編訳:Tarao Goo

 中国製無人戦闘機(UCAV)の商業的成功については、中東、中央アジア、北アフリカの国々がこれまでになく大量の「翼竜」や「CH」シリーズUCAVを導入したことから、かつてはその快進撃を止めることができないだろうと思われていました。

 しかし、この素晴らしい販売実績の理由は、明らかに中国製UCAVが好まれていたということではなかったようです。それどころか、ここ10年の前半はUCAV市場にはほとんど競争がありませんでした。特にUCAVの導入を検討している国がアメリカから武器を調達できる余裕を持っていなかった場合は選択肢自体が事実上中国に限られていたのです。

 ただし、米国と密接な関係にある国でさえ、大抵は武装型「MQ-1 "プレデター "」や「MQ-9 "リーパー"」の購入が禁じられていたり、(トルコの場合のように)特定の地域には展開させないという約束の下でしか入手できませんでした。

 ロシアといったほかの主要な武器生産国はいまだにUCAVの量産や実用化に至っておらず、イスラエルは武装ドローンの輸出販売をしていません。

 競争市場では、生産者が互いに競争することによって販売価格が押し下げられる効果が生じます。

 UCAVの主要生産国としてトルコが出現したことは、ほぼ間違いなく中国を犠牲にする形で武装ドローン市場を一変させました。ただし、UCAV生産国としてのトルコの台頭は、2010年代初頭のトルクメニスタンが必要としていたUCAVのニーズに対応するにはあまりにも遅すぎましたのは周知のとおりでしょう。

 当時は中国からUCAVを調達する以外に選択する余地がほとんど無い状況に迫られていたため、トルクメニスタン空軍はまさにその現状に従って「CASC」「CASIC」「CH-3A」「WJ-600A/D」UCAVを大量に発注しました。[1]

 これらは2016年に実施された独立25周年記念日の軍事パレードで盛大なファンファーレと共に披露されたものの、調達数やその後のトルクメニスタンでの運用に関する情報はほとんど知られていません。

 トルクメニスタンの「CH-3A」で判明していることは、2011年にイタリアから購入した3機の「セレックスES(現レオナルドS.p.A.)」社「ファルコXN」無人偵察機と共に、アク・テペ・ベズメイン空軍基地を拠点としていることです。[2]

 「CH-3A」は左右の主翼にハードポイントを各1基ずつ備えているため、最大で8kmの射程を持つ「AR-1」空対地ミサイル(ASM)を2発搭載するのが標準的な武装となっています。

 また、このUCAVの巡航速度は 200km/hであり、12時間程度の滞空性能を誇ります。現代の基準からすると物足りませんが、それでもジェットエンジンを搭載した「WJ-600A/D」の3〜5時間という滞空時間を上回っています。[4]

アク・テペ・ベズメイン空軍基地で、中国製「FD-2000」及び「KS-1」地対空ミサイルシステムの前を自転車に乗って通過するグルバングルィ・ベルディムハメドフ大統領。「CH-3A」が「KS-1A」の右に置かれている様子は注目すべきことであり、これが2016年の軍事パレードに登場して以降に公開された同UCAV唯一の資料です。

 トルクメニスタンが追加の「CH-3A」、「CH-4B」、あるいは「翼竜」UCAVを導入する代わりに「バイラクタルTB2」を調達するという決定は、「バイカル・テクノロジー」社にとってさらなる注目すべき成功の1つです。[5]

 トルクメニスタンはTB2を導入した5番目の国であり、同機はこれまでに28カ国以上に販売されました。[6]

 武装ドローンの調達における世界的変化は、中国とアメリカという伝統的なサプライヤーを犠牲にしながら表面化しはじめています。このことは一度は停滞した市場を競合する他社から奪取できることを証明しており、この偉業はトルクメニスタンの「CH-3A」と「バイラクタルTB2」によって象徴されているのです。

主翼に「AR-1」空対地ミサイルを搭載した状態で軍事パレードに登場した「CH-3A」

  を翻訳したものです。意訳などにより、僅かに本来のものと意味や言い回しを変更した箇    
  所があります。



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