著:シュタイン・ミッツアー と ヨースト・オリーマンズ(編訳:Tarao Goo)
当記事は、2023年3月21日に本国版「Oryx」ブログ(英語)に投稿された記事を翻訳したものです。当記事は意訳などにより、僅かに本来のものと意味や言い回しを変更した箇所があります。
アルバニア社会主義人民共和国は、1946年から1991年まで存在した一党独裁のマルクス・レーニン主義国家です。存在した期間の大部分を通じて、この国はホッジャ主義として知られるスターリン主義的な政治スタイルを確立してアルバニアを統治したエンヴェル・ホッジャによって率いられました。
北朝鮮と極めて酷似しているにもかかわらず、この国の独裁的な支配者は間違いなく冷戦時代の忘れ去られた一章を築いています。
アルバニアは1961年の断交まではソ連と、続く1978年の断交までは中国と緊密な関係にありましたが、最終的に1978年以降はほぼ完全に国際的に孤立した事態は、アルバニア人民軍(UPSh)の装備と作戦即応性に大きな悪影響を与えました。今日に至るまで、アルバニア軍は中国製の兵器、航空機、船舶、その他の装備の大半を保有している欧州で唯一の軍隊であり続けています。
アルバニアは、現在でも山岳地帯の至るところに多くのバンカーが点在していることでよく知られています。隣国ユーゴスラビアからの侵略を妨げるという被害妄想に陥ったエンヴェル・ホッジャは、全国各地に(300万人に満たない人口用として)約75万個ものバンカーの建設を命じました。これらには第二次世界大戦時代の「モシン・ナガン」小銃や「PPS(h)」短機関銃で武装した市民が籠城することになっていたものの、携帯式の対戦車火器は著しく不足していました。より実用的な発展は、アルバニアの山々に掘られた大規模なトンネル群という形でもたらされました。 これらは陸海空軍の重装備の多くを格納することが可能だったほどです。
もしユーゴスラビアがアルバニアへの侵攻を本気で検討していたのであれば、膨大な数のバンカーが...機械化部隊の攻撃を阻止するという本来意図した用途では役不足だったかもしれませんが...ユーゴスラビアがそれらを破壊したり迂回したりする労力を認識させるだけで、全土をアルバニア全土の占領を阻止することに成功した可能性はあったかもしれません。
北朝鮮が経済的・軍事的に最大の利益を得るために慎重にソ連と中国と駆け引きを繰り広げた一方、ホッジャは1961年にソ連と断交し、中国の外交政策を公然と批判したことによって1978年に同国とも国交断絶しました。その時点からアルバニアは事実上の鎖国状態となり、兵器類のスペアパーツを調達したり、旧式化した装備を更新することも不可能となってしまったのです。
1980年代初頭に中国との貿易が再開されたことで、アルバニアは再びスペアパーツを入手できるようになったものの、この国が再び(「HJ-8」対戦車ミサイル:ATGMと「HN-5」携帯式地対空ミサイルシステム:MANPADSで構成される)新兵器群を調達するのは1990年代になってからでした。[1]
1990年代以前にATGMやMANPADSのような装備が皆無だったUPShは、その代わりとして約700台の戦車群や1,600門の火砲、大量の対空機関砲を配備することで近代兵器の不足をカバーしていました。
1970年代後半から1980年代の間に経験した新規調達の失敗を少なくとも部分的に補うため、アルバニアはすでに生産されていたボルトアクション式の「モシン・ナガン」小銃と「SKS」半自動小銃に加えて、中国の「54式」重機関銃、「56式」及び「69式」RPG、そして「56式」自動小銃を含む小火器の大量生産も開始しました。これらの中国製小火器は、1990年代まで製造された数多くの独自型の基礎となったことはよく知られています。[2]
皮肉なことに、アルバニアはソ連の「モシン・ナガン」を生産した最後の国でした。最終ロットを1961年後半まで生産していたのです![3]
1997年に発生したアルバニア暴動は国内各地の兵器庫から多くの武器が略奪されるという結果をもたらし、その相当な量が後日にコソボへ渡りました。その他の中国製やソ連製の兵器の大部分は、その後にスクラップにされたか、今でも博物館で生きながらえています。
それでも、一部の武器は2022年にウクライナに送られるまでの十分な年月を現役のストック品として持ちこたえることができました。その中国製のマークは今まで報じられていなかった中国からウクライナの武器供給に関する憶測を引き起こしましたが、その実際の出自はもっと古いものだったです。
戦車
自走砲
工兵車両及び装備
砲兵牽引車
重迫撃砲
牽引砲
多連装ロケット砲
対空砲
固定式地対空ミサイルシステム
レーダー
汎用車両
[1] https://i.postimg.cc/cHzWxzGk/e3.png
[2] https://i.postimg.cc/G3fZyhyd/miguel-angel-diaz-molina-albanian-automatiku-shqiptar-rifle-family.jpg
[3] Albania & the last Mosin-Nagants made https://wwiiafterwwii.wordpress.com/2021/08/07/albania-the-last-mosin-nagants-made/
[4] The Mercedes Touch: Albanian Military Support To Ukraine https://www.oryxspioenkop.com/2023/07/the-mercedes-touch-albanian-military.html
北朝鮮と極めて酷似しているにもかかわらず、この国の独裁的な支配者は間違いなく冷戦時代の忘れ去られた一章を築いています。
アルバニアは1961年の断交まではソ連と、続く1978年の断交までは中国と緊密な関係にありましたが、最終的に1978年以降はほぼ完全に国際的に孤立した事態は、アルバニア人民軍(UPSh)の装備と作戦即応性に大きな悪影響を与えました。今日に至るまで、アルバニア軍は中国製の兵器、航空機、船舶、その他の装備の大半を保有している欧州で唯一の軍隊であり続けています。
アルバニアは、現在でも山岳地帯の至るところに多くのバンカーが点在していることでよく知られています。隣国ユーゴスラビアからの侵略を妨げるという被害妄想に陥ったエンヴェル・ホッジャは、全国各地に(300万人に満たない人口用として)約75万個ものバンカーの建設を命じました。これらには第二次世界大戦時代の「モシン・ナガン」小銃や「PPS(h)」短機関銃で武装した市民が籠城することになっていたものの、携帯式の対戦車火器は著しく不足していました。より実用的な発展は、アルバニアの山々に掘られた大規模なトンネル群という形でもたらされました。 これらは陸海空軍の重装備の多くを格納することが可能だったほどです。
もしユーゴスラビアがアルバニアへの侵攻を本気で検討していたのであれば、膨大な数のバンカーが...機械化部隊の攻撃を阻止するという本来意図した用途では役不足だったかもしれませんが...ユーゴスラビアがそれらを破壊したり迂回したりする労力を認識させるだけで、全土をアルバニア全土の占領を阻止することに成功した可能性はあったかもしれません。
北朝鮮が経済的・軍事的に最大の利益を得るために慎重にソ連と中国と駆け引きを繰り広げた一方、ホッジャは1961年にソ連と断交し、中国の外交政策を公然と批判したことによって1978年に同国とも国交断絶しました。その時点からアルバニアは事実上の鎖国状態となり、兵器類のスペアパーツを調達したり、旧式化した装備を更新することも不可能となってしまったのです。
1980年代初頭に中国との貿易が再開されたことで、アルバニアは再びスペアパーツを入手できるようになったものの、この国が再び(「HJ-8」対戦車ミサイル:ATGMと「HN-5」携帯式地対空ミサイルシステム:MANPADSで構成される)新兵器群を調達するのは1990年代になってからでした。[1]
1990年代以前にATGMやMANPADSのような装備が皆無だったUPShは、その代わりとして約700台の戦車群や1,600門の火砲、大量の対空機関砲を配備することで近代兵器の不足をカバーしていました。
1970年代後半から1980年代の間に経験した新規調達の失敗を少なくとも部分的に補うため、アルバニアはすでに生産されていたボルトアクション式の「モシン・ナガン」小銃と「SKS」半自動小銃に加えて、中国の「54式」重機関銃、「56式」及び「69式」RPG、そして「56式」自動小銃を含む小火器の大量生産も開始しました。これらの中国製小火器は、1990年代まで製造された数多くの独自型の基礎となったことはよく知られています。[2]
皮肉なことに、アルバニアはソ連の「モシン・ナガン」を生産した最後の国でした。最終ロットを1961年後半まで生産していたのです![3]
1997年に発生したアルバニア暴動は国内各地の兵器庫から多くの武器が略奪されるという結果をもたらし、その相当な量が後日にコソボへ渡りました。その他の中国製やソ連製の兵器の大部分は、その後にスクラップにされたか、今でも博物館で生きながらえています。
それでも、一部の武器は2022年にウクライナに送られるまでの十分な年月を現役のストック品として持ちこたえることができました。その中国製のマークは今まで報じられていなかった中国からウクライナの武器供給に関する憶測を引き起こしましたが、その実際の出自はもっと古いものだったです。
- 以下の一覧は、1991年までアルバニア人民軍で運用された全ての装甲戦闘車両(AFV)などを網羅することを試みたものです。
- この一覧は、(画像などから視覚的に)確認できた車両や装備のみを掲載しています。
- 各兵器の名前をクリックするとアルバニア人民軍で運用されている当該兵器の画像を見るころができます。
戦車
工兵車両及び装備
砲兵牽引車
重迫撃砲
牽引砲
- ZiS-3 "M-1942" 76mm対戦車砲
- M-1943 76mm歩兵砲
- D-44 85mm師団砲
- BS-3 "M-1944" 100mm野砲
- M-30 "M-1938" 122mm榴弾砲
- 54式122mm榴弾砲
- 60式122mm野砲
- 59式130mm野砲
- 59-I式130mm野砲
- SM-4-1 130mm沿岸砲
- ML-20 "M-1937" 152mm榴弾砲
- D-1 "M-1943" 152mm榴弾砲
- 66式152mm榴弾砲
多連装ロケット砲
- 63式107mm多連装ロケット砲 (牽引式)
- 63式107mm多連装ロケット砲 (ジープ搭載型)
- 63式130mm多連装ロケット砲 2種類: (2)
- BM-13 "カチューシャ" 130mm多連装ロケット砲
対空砲
- DShK 12.7mm重機関銃
- 54式12.7mm重機関銃
- ZPU-2 14.5mm対空機関砲
- ZPU-4 14.5mm対空機関砲
- 56式14.5mm対空機関砲
- M-1939 37mm対空機関砲
- 65式37mm対空機関砲
- AZP S-60 57mm対空機関砲
- 52-K "M1939" 85mm対空機関砲
- KS-19 100mm対空砲
- 59式100mm対空砲
固定式地対空ミサイルシステム
レーダー
- P-35 "バー・ロック" 対空レーダー
- SNR-75 ''ファン・ソング'' 管制レーダー (「HQ-2」用) (未確認)
- SON-9 ''ファイア・カン'' 管制レーダー (「S-60」及び「KS-19」用)
汎用車両
軍事パレードに登場した「HQ-2」(首都ティアナでの撮影) |
[1] https://i.postimg.cc/cHzWxzGk/e3.png
[2] https://i.postimg.cc/G3fZyhyd/miguel-angel-diaz-molina-albanian-automatiku-shqiptar-rifle-family.jpg
[3] Albania & the last Mosin-Nagants made https://wwiiafterwwii.wordpress.com/2021/08/07/albania-the-last-mosin-nagants-made/
[4] The Mercedes Touch: Albanian Military Support To Ukraine https://www.oryxspioenkop.com/2023/07/the-mercedes-touch-albanian-military.html
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