2025年1月1日水曜日

贅沢と戦争の果てに:サッダーム・フセインの巨大ヨットとその運命


著:シュタイン・ミッツアー と ヨースト・オリーマンズ(編訳:Tarao Goo)

 当記事は、2023年9月21日に本国版「Oryxブログ」(英語)に最後に投稿されたものを翻訳した記事です。 意訳などにより、僅かに本来のものと意味や言い回しが異なっている箇所があります。

 あなた方アメリカ人はイラクの農民が新婦にするように第三世界を扱っている...3日間のハネムーンが終わったら、あとは畑へ放り出すだけだ:サッダーム・フセイン

 オリガルヒのスーパーヨットは、その巨大なサイズと豪華な内装で多くの注目を集めています。こうした船の多くには、ヘリポート、プール、映画館、スピードボートや高級車専用の格納庫、義理の両親を泊めるのに十分なだけの豪華な客室が備わっています。

 実際、最大のスーパーヨットは、大きさの点ではフリゲートに匹敵するほど巨大です。それに比べると、ヘッダー画像のヨットについては、一見するとクルーズ船やバルト海で見るフェリーと同等のレベルに見えるかもしれません。

 しかし、その見た目に騙されてはいけません。なぜならば、この洋上宮殿は、その時代で最も豪華なものだったのです。

 「アル・マンスール」と名付けられたこの船は、大量の大理石と金メッキで装飾された部屋、印象的なアトリウム、200人収容可能なダイニングルーム、格納庫付きのヘリポート、そして脱出ポッド(小型潜水艦)などを備えていました。このヨットには、2基の「9K31 "ストレラ-1"」対空ミサイルの発射機が船の上部構造に隠される形で装備されていたという噂もあります。

 少なくとも贅沢をしないふりをする努力をしていたムアンマル・カダフィとは異なり、サッダーム・フセインは、その贅沢なライフスタイルを実に堂々と誇示していました。それには、膨大な数の高級外車のコレクション、豪華な専用列車、フランス、イギリス、ドイツ、アメリカ製の(個人用)ヘリコプター群、(現在は売りに出されている「ボーイング747SP」4発旅客機、さらには別のVIP専用機が含まれていたほどです。

 こうした多くの交通手段によって、彼は、一つの宮殿と別の宮殿を楽々と移動することができました(これらの宮殿それぞれが、都市全体に匹敵する広さであったことにも言及しておきます)。

 イランと戦争していないとき、あるいはイラクの村々全体を壊滅していないとき、サッダームとその家族は、イラク海軍の総排水量を上回る3隻のプライベート・ヨットのうちの1隻に乗ってリラックスできたわけです。2003年に失脚するまで、サッダームとその家族が極めて贅沢な生活を謳歌していたと言えば十分に伝わるでしょう。

 ヨットによっては不運だったのは、サッダームが贅沢な暮らしに溺れること以上に大切にしていたことがあったことです:それは外国に侵略を仕掛けることでした。

 敵の海軍や空軍の標的になることなく外洋クルージングで潮風を楽しむため、彼は近隣諸国への侵攻を控える必要がありました。と言うのも、イラクの海岸線は58キロメートルと短い上に実質的な領海が存在しないため、彼が持つ大型ヨットの運航には支障があったからです。それでも、サッダームは正式に政権の座に就いてから僅か1年後にイランを攻撃して、最初の侵攻を開始しました。

 著しく弱体化したイランを相手に迅速な勝利を見込んでいたにもかかわらず、イラン・イラク戦争が結局8年近くも続いたことはご存知のとおりです。この戦争中、イランが(港の)船舶を標的にすることに関心を示さなかったため、彼のヨットはイラクや外国の港に安全に係留されたままでした。

 1988年にイラン・イラク戦争が終結した後、サッダームはようやくヨットを使えるようになりました。しかし、彼はそのヨットに乗る前にクウェートへの侵攻を開始したのです。1990年のクウェート侵攻は、サッダームの圧政と途方もない贅沢な暮らしの終わりの始まりでした。

 その11年前の1979年、サッダームは正式に大統領の座に就き、最高権力者となりました。その年は、彼がバアス党の粛正を画策して党の臨時会議中に対立する党員たちの名前を読み上げ、彼らを外に連れ出して処刑させたほか、デンマークにプライベート・ヨット2隻を発注した年でもあります。

 そのヨットは「カディシヤット・サダーム」と「アル・カーディシーヤ」で、後者はユーフラテス川とチグリス川で運行するために特別設計された河川航行用ヨットです。デンマークの船舶設計企業であるクヌーズ・E・ハンセン社によって設計され、ヘルシンゲル造船所で建造された2隻は、それぞれ1981年と1982年に納入されました。[1] [2]

 イランとの戦争が続いていたおかげで、サッダームは全長80メートルの「カディシヤット」を利用することができませんでしたが、やがて、サウジアラビアの国王が彼に戦争を終結させるだけの説得力のある動機を与えることになります。

「アル・マンスール」には遠く及ばなかったかもしれないが、「カディシヤット・サッダーム」も豪華さに満ちあふれていた

 サウジアラビアのハーリド国王は、イラン・イラク戦争の資金として数百億ドルを提供し、イラク・フランス間のさまざまな武器取引に資金を援助したほか、新品のヨットを贈呈することで(少なくとも一部の湾岸諸国から見れば)イランの脅威に対抗したサッダームに報いました。

 「アル・マンスール(勝者)」は全長120メートルという見事なものでした。その巨体ゆえに、「カディシヤット・サッダーム」の影が完全に消えてしまったほどです。

 驚くべきことに、この船はサッダームが「カディシヤット・サッダーム」を引き渡される前からサウジアラビアに発注されていました。

 同じくクヌーズ・E・ハンセン社が設計し、フィンランドの造船企業であるバルチラによって建造されたこのヨットは、1982年に完成したことが記録されています。

 「アル・マンスール」は、大きさだけでなく設備の面においても「カディシヤット」を凌駕していました。装甲甲板、防弾窓、泳いで侵入して来る者に対する防護設備、病院、格納庫付きヘリポート、サッダームのスイートルームと脱出ポッド(小型潜水艦)を結ぶ脱出ルートを誇っており、伝えられるところによれば、2基の「9K31 "ストレラ-1"」 対空ミサイル発射機も搭載していたとのことです。

バルト海で海上公試中の「アル・マンスール」:後方のヘリポートと中央の大きなアトリウムに注目

 1982年に「アル・マンスール」が完成した後は、このヨットをイラン・イラク戦争が続く中のイラクまで航行させるという困難な任務が残されていました。2005年に行われた「アル・マンスール」の船長へのインタビューでは、1984年に新品のヨットをバスラに到着させることができたのは、綿密な計画の結果というよりも、むしろ奇跡に近い幸運のおかげだったと語られています。[3]

 航海のクライマックスは、1984年2月の暗い夜に狭いホルムズ海峡を抜けてペルシャ湾に入ったときのことでした。というのも、イランの支配下にある海域を通過するという極限の状況だったからです。ウム・カスルの港に到着した後、「アル・マンスール」はすでに同港に停泊していた「カディシヤット・サッダーム」と合流しました。

 サッダームがこのヨットをイラクまで危険な船旅をさせ、結果的に使用不能にすることを選んだ正確な理由は謎のままです。しかし、確実なのは、彼がこの船を一度も目にしたことがないということでしょう。それが、イランとの戦争で抱える過密なスケジュールのためだったのか、それとも船を訪れることでイランの標的になることを懸念してのことだったのかは分かっていません。

 とはいえ、サッダームが自分のヨットを使うためにイランとの戦争を終わらせたわけではないことは明らかです。 したがって、ハーリド国王からの贈り物は太っ腹だったとは言えますが、途方もない無駄遣いに過ぎなかったことに議論の余地がありません。

まだ安全なフィンランド領海内を航行中に撮影された「アル・マンスール」

 この船の豪勢な内装を見れば、いかに巨額の浪費だったことか分かります。

 サッダーム・フセインは、内装のデザイン担当に建築家のDinkha Latchinを起用しました。彼が手がけた略図をここで見ることができます

 サウジアラビアが費用を負担したおかげで、Latchinは事実上、あらゆる創作意欲を満たすことができました。彼によれば、サッダームは「アル・マンスール」を自身の洋上宮殿としてだけでなく、国家的な会議を開催したり、外国の要人を宿泊させたりする場としても想定していたとのことです。[4]

 彼は次のとおり述べました:「あれは多くの会議室を備えたクルーズ船で、湾岸諸国の中心部で会議をするためのものでした。無人の地で公正な会議を開くのであれば中心地でなければならない、それがこの船のコンセプトだったのです」。[4]

 それまでLatchinがサッダームのためにやってきた仕事は、主にイラク大使館や世界各地の文化センターの設計でしたが、彼に与えられた新たな役割は、船内の設計のみならず(経験のない)船の設計顧問として働くことでした。

 それにもかかわらず、クヌーズ・E・ハンセン社の設計士は、6階建ての建物と同じ高さのフェリーの設計図を見せてLatchinを安心させ、「私たちがこのフェリーを浮かべることができれば、あなたが設計したものは何でも浮かべることができます。だから何も心配しないでください。私たちがやってみせますから。」と力説したのです。[4]

 彼は船の外装のデザインも担当し、前部を延長してダウ船を想起させる外観にしたものの、波浪による損傷に脆弱であるとの懸念から、この延長部分については最終的に短縮を強いられてしまいました。[4]

「アル・マンスール」内部の様子:この船は誕生から一度も使用されず、2003年以降は略奪者によって内装が全て奪われてしまった

 ウム・カスルで、「アル・マンスール」は、 (アラブ・イスラム世界がイランを征する契機となった)西暦636年の「アル・カディシヤの戦い」にちなんで命名された「カディシヤット・サッダーム」に隣接して係留されていました。

 イラン軍がイラクとの国境に接近し、続いてイラクに侵入すると、「カディシヤット・サッダーム」は安全のため、1986年にサウジアラビアに移されました。「アル・マンスール」については、待避させられることなくイラクに残されたままとなりましたが、理由が何なのかは分かっていません。

 イランとの戦争が終結した後になっても、サッダームはサウジアラビアからヨットを取り戻す動きを見せなかったようです。その代わり、イラン・イラク戦争で生じた借金の返済を拒否したことが引き金となってクウェートに侵攻し、続く湾岸戦争で不運にもサウジアラビアにも侵攻したことで、サウジアラビアに「カディシヤット・サッダーム」を接収されてしまいました。[5]

 ただし、サウジ国王や王家の面々が新しいヨットを必要としていなかったことから、「アル・ヤマーマ」と改名されたこのヨットは全く使用されなかったようです。

 サッダーム・フセインが「カディシヤット・サッダーム」の所有で恩恵を受けたわけではありませんが、大統領専用ヨットの調達を担当した彼のスタッフが利益を得たことは間違いありません。というのも、彼らがこのヨットに関する交渉を通じて、5%の手数料に加えて「善意の心遣い」として10台のバスと4台のメルセデスを用意するよう要求し続け、最終的にヘルシンゲル造船所に契約を認めさせたからです(編訳者注:発注の見返りに便宜供与を約束させたということ)。もっとも、デンマーク側はその要求を履行しませんでしたが。[5][6]

 ヨットの建造中、サッダームの指示を確実に厳守するため、イラクの当局者たちが造船所を入念にチェックしました。その際の注目すべき出来事として、ある役人がサッダームのスイートルーム用のベッドカバーを交換するよう要求したことがありました。なぜならば、休憩中の作業員がほんの少しだけベットで休んでしまったからです。[7]

 デンマーク人が大いに驚いたことに、高価なベッドカバーが交換された後、件の作業員には(交換前の)ベッドカバーを持ち帰ることが認められました。その後、彼はそれを長年にわたって自分のベッドで使用したとのことです。[5]

「カディシヤット・サッダーム」内のサッダーム専用ベッドと悪名高い新品のベッドカバー

 1990年代初期にサウジアラビアが「カディシヤット・サッダーム」を接収して以降、このヨットが何に使われたかは全く知られていません。後に「オーシャン・ブリーズ」と改名されたこのヨットについては、ヨルダンのアブドラ2世国王に贈られた可能性が伝えられています。

 「オーシャン・ブリーズ」の正式登録はケイマン諸島の企業と関連付けられていましたが、これは真の所有者を偽装するためにスーパーヨットの世界で用いられる一般的な手法のため、特に珍しいものではありません。

 2000年代から2010年代にかけて、イラクの新政権は在外資産の所在を突き止め、本国に引き揚げることを決定しました。2007年に「オーシャン・ブリーズ」がフランスのニースでドック入りした際、イラク当局は同船の所有権を自国に移転するよう申し入れました。[5]

 数年にわたるフランスでの法廷闘争の結果、2009年に裁判所がイラクに勝訴の判決を下しました。こうして、イラクによるヨットの接収が認められたのです(編訳者注:2008年という情報もある)。 大規模な修理の後、ヨットは2010年にバスラに帰還し、「バスラ・ブリーズ」と改名されてバスラ大学海洋科学センターの研究プラットフォームとして再利用されました。[5]

 2018年にバスラ港のイラク人水先案内人用の水上ホテルに転用されたヨットの役目は、今でも続いています(編訳者注:2021年の時点で、バスラの地で洋上博物館として再利用される案が浮上したが、その後の経過については不明)。[11]

 「アル・マンスール号」と同様に、サッダームが「カディシヤット・サッダーム」に足を踏み入れることは一度もありませんでした。

後に「オーシャン・ブリーズ」と呼ばれ、その後「バスラ・ブリーズ」改名された 「カディシヤット・サッダーム」は再びイラク人の手に戻り、バスラ大学の海洋科学センターで利用されている(ただし、今では将来を危ぶまれている)

 サッダームが「カディシヤット・サッダーム」を待避させるという選択をしたことが、このヨットが今日まで現存している理由であることは言うまでもないでしょう。

 より大型の「アル・マンスール」をイラクに残すという決定は、最終的にこのヨットに全く異なる運命をもたらすことになります。イラク沖に展開するアメリカの空母打撃群と遭遇するリスクなしに航行することができなかった「アル・マンスール」は、1991年から2003年まで休眠状態にありました。

 2003年、サッダームはこのヨットをウム・カスルからバスラの内港に移動させるよう命令を出しました。この動きについては、フセイン政権が差し迫った侵攻に何とか耐えられるというサッダームの未練に似た希望を反映したものであり、ヨットが攻撃されることを回避するべく行われたものだったと思われます。ところが、彼の意図は脆くも崩れ去ってしまいました。有志連合軍が「アル・マンスール」がイラク軍及び共和国防衛隊の通信センターあるいは司令部として機能していることを確信し、この船を無力化する決定を下したからです。[8]

 第一撃はアメリカ海軍の空母艦載機ロッキード「S-3B "バイキング」の空爆で始まり、同機がミサイルを1発撃ち込みましたが、機能停止に追い込むことはできませんでした。第二撃として2機の「F/A-18 "ホーネット"」が攻撃しましたが、誘導爆弾は同艦に命中しなかったようです。[8]

 最新鋭の攻撃機と誘導兵器が無防備なプライベート・ヨット相手の攻撃に2度も失敗したことを考慮すると、この時点でアメリカは不満を大きく抱いたのかもしれません。その後、2機の「F-14」に「Mk.82」500ポンド(227kg)爆弾を使用しての「アル・マンスール」攻撃が命じられました。[8]

 1機目の「F-14」は早いタイミングで爆弾を投下したため、結果的に1発が「アル・マンスール」の前面装甲を貫通せずに爆発してしまいました。続く2機目は正確な攻撃に成功し、中央部のアトリウムに命中して炎上を生じさせたものの、沈没に至るほどの致命的な損傷を与えることはできなかったようです。

 この時点で「アル・マンスール」の防御力が見せた強靱性は、この国が経験した全戦争におけるイラク海軍の数少ない成功例を示しました。アメリカとしては、目標の無力化自体が達成されていることから、攻撃が十分に行われたと判断し、沈没まで至らせるようなことをしなかったと見受けられます。

 このヨットは空爆から数年後に転覆という形で最期を迎えましたが、これはアメリカの空爆によるものというよりは、何もせず放置し続けた結果です。

2003年のアメリカ軍による空爆で損傷を受けた「アル・マンスール」:Mk.82爆弾が装甲を突き破れなかった船首部分に注目

ヨットの反対側では、2回目の攻撃で命中したMk.82爆弾による被害を見ることができる:この爆弾は船の最も脆弱な部分に命中し、壊滅的な火災を引き起こした

 想像できる限りの豪華な設備を備えた2隻の外洋ヨットを所有しながらも、イラン(後にアメリカ)との戦争により、サッダームにとってそれらは事実上使用不可能な代物となりました。

 彼にとって幸いだったのは、イラクにはユーフラテス川とチグリス川という、大型船が航行可能な大きな河川があったことです。どうやら、彼はこれらの河川を無駄にするのは惜しいと考えたらしく、1979年にクヌーズ・E・ハンセン社とヘルシンゲル造船所の協力を得て、豪華な河川用ヨットを設計・建造させたのでした。[2]

 このヨットは西暦636年のアル・カーディシーヤの戦いの戦いにちなんで、サッダームの「ボーイング747SP」と同じ「アル・カーディシーヤ」と名付けられました。全長が67メートルで、ユーフラテス川とチグリス川に架かる橋の下を通過できるように低く設計されたデザインが特徴です。

 小型ボート用の格納庫を含む、想像しうる限りの豪華な設備を備えた「アル・カーディシーヤ」は、1982年にサッダームに引き渡されました。このヨットがイラクで使用された情報についてはほとんど存在せず、イラク国内で撮影されたことも確認されていません。

 サダムにとっては不運だったのは、自分が心の底から楽しむことができた唯一のヨットが最初に沈んだヨットになってしまったことでしょう。「アル・カーディシーヤ」は湾岸戦争中の1991年初頭に沈められてしまったのです。[2]

 このヨットについては、今でもイラクの河底に横たわり続けていると考えられています。

「アル・カーディシーヤ」はユーフラテス川とチグリス川での使用を目的としていた:1982年に引き渡されたが、湾岸戦争で戦没した

船尾部分から見た「アル・カーディシーヤ」:後部にはプレジャーボートやジェットスキー専用の格納庫が設けられている

 今日、かつてサッダームが所有していた豪勢な洋上宮殿の名残は、水路に浮かぶ錆びついた船体とホテルとして再活用されたヨットだけです。

 ヨットの1隻がイラクの人々に返還されたことは、少なくとも一つの前向きな結果を示していると言えるでしょう。とはいえ、「アル・マンスール」が誇ったかつての栄華の記憶はいまだにイラクに残っており、沈没船の保存を求める声が上がっています。[9]

 このような事業に資金が得られるかどうか、略奪に遭った沈没船を保存することが本当に価値のある行為なのかどうか、いまだに不透明なままです。それでも、錆びた船体が河川の水質を脅かしているため、この船に何か手を打たなければならないことに議論の余地はありません。[10]

 この先どのような展開になろうとも、否定できない事実が一つだけあります:それは、サッダームが所有したヨットが(誕生から)40年後に再び人びとの好奇心をそそる物語となったことです。

横転・着底した「アル・マンスール」:2024年現在もバスラ港で無残な姿を晒している(座標: 30°31'34.53"N、 47°50'25.67"E)

[1] Qadissiyat Saddam - Design of 80 m luxury yacht https://www.knudehansen.com/reference/qadissiyat-saddam/
[2] Al Quadisiya - Conceptual Design of 67 m river yacht https://www.knudehansen.com/reference/al-quadisiya/
[3] The Best of the Best of the World http://peacework.blogspot.com/2005/04/best-of-best-of-world-now-this-is.html
[4] Saddam’s Love For The Sea — Interview with Architect Dinkha Latchin. https://medium.com/@samt_60363/saddams-love-for-the-sea-interview-with-architect-dinkha-latchin-f0b6ed43a44e
[5] Whatever Happened To Saddam Hussein's Yacht? https://www.boatinternational.com/yachts/editorial-features/basrah-breeze-saddam-hussein-yacht
[6] Inside Saddam Hussein’s abandoned gold-encrusted superyacht with missile launcher and secret passage to mini-sub https://www.thesun.co.uk/news/21705213/saddam-husseins-abandoned-gold-encrusted-superyacht-missile-launcher/
[7] Grusom diktators vilde danske luksus https://jyllands-posten.dk/kultur/article6383273.ece
[8] March 27, 2003: The U.S. Navy F-14 Tomcats Attack On Saddam's Yacht https://theaviationist.com/2013/03/27/saddams-yacht/#.UVRoRqp5LYS
[9] Saddam Hussein's rusting yacht al-Mansur now serves as a picnic spot for Iraqi fishermen https://www.abc.net.au/news/2023-03-17/saddam-s-rusting-yacht-serves-as-picnic-spot-for-iraqi-fishermen/102109946
[10] Al-Mansur: How Saddam Hussein’s largest yacht became a local fishing spot in Iraq https://www.boatinternational.com/yachts/editorial-features/al-mansur-saddam-hussein-yacht
[11] バスラの地元住民が、サダム・フセインの豪華ヨットを展示する計画を提案https://www.arabnews.jp/article/middle-east/article_43641/

2025年前半に改訂・分冊版が発売予定です

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2024年12月22日日曜日

戦術トラック界の巨人:トルコの「M4K」装甲回収車


著:シュタイン・ミッツアー と ヨースト・オリーマンズ(編訳:Tarao Goo)

 当記事は、2022年に本国版「Oryxブログ」(英語)に投稿されたものを翻訳した記事です。 意訳などにより、僅かに本来のものと意味や言い回しが異なっている箇所があります(本国版の記事はリンク切れ)。

 たしかに、機械化部隊の装備で装甲回収車ほど評価されていないものはないでしょう。

 一般的には前線部隊の後方に展開し、何かが深刻な事態に陥ったときにしか目にしない装備ではあるものの、それでも機械化部隊の作戦が任務を達成させるためには不可欠な存在です。この事実は世界中の現代的な軍隊の装備に反映されており、保有兵器の中に相当数のARV(装甲回収車)や別種の装甲支援車両が含まれていることが多く見られます。

 戦場における重要性の観点から、ARVのコンセプトは新たな問題と安全保障上の脅威に対応するために絶えず進化してきました。当初、冷戦時代にドイツの平原を機甲部隊で突破する際に、大量の装甲戦闘車両(AFV)の動きを維持するために考案されたARVですが、今日ではより少数の戦車を支援するために運用されています。

 それにもかかわらず、展開が想定される地域の数が劇的に増加し、対戦車ミサイル(ATGM)の普及や即席爆発装置(IED)といった脅威と相まって、現代のARVに対する要求はこれまでになく高まっているのです。具体的に思い浮かぶ地域はアフガニスタンです。NATOの部隊は携帯式対戦車擲弾発射器(RPG)やIEDの脅威から自らを守るため、軽装甲と重装甲の車両を大量に使用しました。

 近年でAFVが重要な役割を果たしているもう一つの紛争地域はシリアであり、トルコ軍はイドリブとアレッポの両県に展開しています。この地で、彼らはBMC「キルピ」「ヴラン」耐地雷伏撃防護車両(MRAP)で頻繁に基地から出てパトロールを行っているのです。

 MRAPが備える装甲と耐爆性能は、これまでも多くの兵士の命を救ってきました。しかし、MRAPがスタックするというあまりあり得ないシナリオが現実となった場合、危険から救い出すためにはより強力な車両が必要となります。

 この役割のために、トルコ陸軍はアメリカ製の「M984」回収車もシリアに配備し、MRAPとの共同パトロールに参加させています。しかしながら、(非装甲である)「M984」の乗員は車内ではほぼ無防備な状態であったことから、シリアや他の紛争地帯をパトロールするMRAPに同行する装甲車両が緊急に必要とされました:それが今回取り上げるMPG社製「M4K」です。


 「M4K」プロジェクトは、トルコ陸軍による装甲装輪回収車の切迫した要求に応えるため、国防産業庁(SSB)と(クレーン機構の設計を担当する)機械製造グループ(MPG)によって立ち上げられたものです。[1]

 結果として誕生した車両は最大4人乗りで、最高時速は80kmを誇ります。装甲キャビンは小火器やIEDから上院を保護する防御力を備えているほか、同キャビンの上に搭載されたジャマーは、IEDが爆発する前に無力化することが可能です。

 合計で29台の「M4K」がトルコ陸軍によって発注され、2020年1月にM4Kの資格試験が完了した後、その全てが同年の8月に納入されました。このことは、プロジェクトが緊急かつ迅速に成功を収めたことを物語っています。[2] [3]

 「M4K」は、近い将来トルコ陸軍に就役する予定の(アナドールいすゞの防衛部門であるアナドール・ディフェンス「セイト 8x8」戦車運搬車と構成部品の大部分が共通となっています。

 もしトルコが「アルタイ」戦車用エンジンを独自で生産する上での困難を克服し、同戦車の量産を開始することができれば、この国はNATO諸国で最も進んだ戦車と戦車運搬車、そして装輪式ARVを手にすることになるでしょう。

アナドール・ディフェンス製「セイト 8x8」戦車運搬車

 「M4K」が備える主要な車両の回収装置は巨大なクレーンであるため、動けなくなった車両などを溝や泥から傾けて引き上げるだけでなく、AFVの砲塔やエンジンといった大型車両の部品を交換することも可能です。また、このARVには、回収作業用の油圧式ウィンチを2基(前部と後部に1基ずつ)、牽引装置、車両を安定させるためのアウトリガと駐鋤も装備されています。[4]

 「M4K」の車体は不整地での機動性に優れていることから、救助のために駆り出されて苦労する旧式のARVと同じ運命をたどらずに済むことが期待されています。
 
 「M4K」の能力については、2021年5月にルーマニアで行われたNATO主導の「ステッドファスト・ディフェンダー2021」演習において、初めて国際的な場でテストされました。同演習で、「M4K」は他の装輪式ARVでは回収できなかった味方車両の回収任務に参加しています。[5][6]

 2021年4月、「M4K」をベースとした33台の装輪式ARVを納入するため、トルコ軍がMPGと3,850万ドル(約59億円)の契約を結んだことが発表されました。この新型車両については、「M4K」よりも軽装甲であり、キャビン上部のリモートウェポンステーションはオプションとなる予定です。[7] [8]

「M4K」が "損傷した"「ヴラン」MRAPを吊り上げて運搬車の荷台に置いている:車体後部の牽引装置と安定装置(アウトリガと駐鋤)にも注目

 トルコ陸軍におけるARV運用の長い歴史は、どこにでもある「M4 "シャーマン"」戦車の車体をベースにした「M74」に始まります。1960年代後半から西ドイツから大量に調達された「M74」は、長きにわたってトルコで運用される唯一のARVでした。[9]

 ところが、1980年代と1990年代にアメリカとドイツから余剰となった大量の戦車が引き渡されたことで、トルコはさらに数種類のARV(「ベルゲパンツァー2」や「M88A1」)を保有するに至ったのです。

 1990年代には、「M107」及び「M110」自走砲 のシャーシをベースにした「M578」軽回収車も導入されました。そして、2000年代には、アメリカの「M984」回収車と国産の「M48T5」ARVが登場したのです。

 これらのARVに共通しているのは、(「M984」以外は)装軌式のプラットフォームをベースにしているものの、小火器やIEDに対する防御力が低いことでしょう(ただし、戦車ベースのものに関しては相当の防御力があることは言うまでもない)。

1976年1月2日、オーバーシーズ・ナショナル・エアウェイズが運航していた「DC-10」がイスタンブールのイェシルキョイ空港(現アタテュルク国際空港)に不時着した:画像は機体が「M74」ARVによって現場から牽引される際の一コマ

 近年における各国の軍隊は、大型で重量級のAFV を保有する一方で、装輪式の歩兵戦闘車(IFV) や装甲兵員輸送車(APC)、軽戦術車両を大量に導入する傾向にあります。前者のサイズと重量は誇張しがたいものがあり(例えば、イギリスの「エイジャックス」偵察車の重量は38トンで、更新対象の「シミター」や「セイバー」よりも約30トンも重い)、それらを現地で回収するためには完全に斬新な方法が必要となることは容易に想像できます。

 反対に、軽戦術用車両はスピードと機動性を重視した運用がなされるため、IEDや待ち伏せ攻撃だらけの地域で使用される口径が多く見られます。以上のことから、現代のARVは、彼らに追随可能な機動性と同等の防御力を備えることが必須の条件なのです。

「M4K」ARVがBMC「キルピ」MRAPを牽引する様子

 「M4K」の装甲キャビンは、NATOのSTANAG 4569レベルに沿ってセカント社によって設計されました。これによって、キャビンはレベル2までの銃弾(7.62×39mmAPI弾)及びレベル2aまでの地雷(車体の下で6kgの爆風を生じさせるもの)に対する防御力を備えています。[10]

 「M4K」の装甲防御力はMRAPより低いものの、シリアや同様の紛争地域における最前線ではない場所での行動には十分なものです。



 回収任務中に待ち伏せや攻撃を撃退できるよう、「M4K」の屋根にはアセルサン製「サープ」リモート・ウェポン・ステーション(RWS)が装備されています。作戦上の必要性に応じて、40mm自動擲弾銃や12.7mm重機関銃、あるいは7.62mm軽機関銃の装備が可能となっている点が同RWSの特徴です。

 ルーフのIEDジャマー、CBRN防護装置、そして車体上部の右側に装備された6基の発煙弾発射機が加わることで、過酷な状況下における生存性がさらに向上し、「M4K」は間違いなくこのクラスで最高の防御力を備えた車両となったと言えるでしょう。


 MPG「M4K」は、軍事工学の中でも慢性的に過小評価されているこの分野における数少ない魅力的な新装備の一つであり、トルコの国内外での作戦に役立つことは間違いありません。このARVの開発は実戦配備から得られた教訓を踏まえて継続されているため、近い将来に軽量化された新型が大量に配備されることでしょう。

 装輪式AFVを運用する国の数は世界中で増加しており、トルコで生産されたものも多く含まれて言います。したがって、MPG「M4K」も初の輸出先が見つかる日は、そう遠いことではないのかもしれません。


[1] Another Vehicle Contributed by SECANT Enters the Inventory https://www.savunmahaber.com/en/another-vehicle-contributed-by-secant-enters-the-inventory/
[2] https://twitter.com/SavunmaSanayii/status/1292385227977961472?s=20
[3] Delivery of M4K Recovery vehicles to Turkish Forces Complete https://www.defenseworld.net/news/27615/Delivery_of_M4K_Recovery_vehicles_to_Turkish_Forces_Complete
[4] IDEF 2019: Multi-purpose armoured recovery crane for the Turkish Armed Forces https://youtu.be/C4vVLneX7vA
[5] Steadfast Defender-21 Tatbikatında 8×8 kurtarıcı araç M4K boy gösterdi https://www.defenceturk.net/steadfast-defender-21-tatbikatinda-turk-ispanyol-italyan-ortak-egitimi
[6] https://twitter.com/SpainNATO/status/1399292914157731841
[7] TSK, 8×8 M4K Tedarikine Devam Ediyor https://www.defenceturk.net/tsk-8x8-m4k-tedarikine-devam-ediyor
[8] https://twitter.com/TyrannosurusRex/status/1447825102494740484
[9] SIPRI Trade Registers https://armstrade.sipri.org/armstrade/page/trade_register.php
[10] Another Vehicle Contributed by SECANT Enters the Inventory https://www.savunmahaber.com/en/another-vehicle-contributed-by-secant-enters-the-inventory/

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2024年12月16日月曜日

姿を消した幻の野獣:シリア・アラブ航空の「ボーイング747SP」


著:シュタイン・ミッツアー と ヨースト・オリーマンズ(編訳:Tarao Goo)

 当記事は、2016年8月5日に本国版「Oryxブログ」(英語)に投稿されたものを翻訳した記事です。 意訳などにより、僅かに本来のものと意味や言い回しが異なっている箇所があります。

 シリア・アラブ航空は内戦で荒廃したシリアでの運行を続けていますが、所属機の中でも由緒ある「ボーイング747SP」が同社が運行を続ける数少ない路線や目的地からぱったりと姿を消してしまいました。

 もともと、同航空は1976年に納入された「ボーイング747SP(超長距離用に開発されたボーイング747-100の短縮型)」を2機運航していたものの、アメリカの制裁措置で航空機がD整備を受けられなくなったため、2008年には2機とも事実上放置状態となり、結果としてシリア航空は32年間運航した「ボーイング747SP」の退役を余儀なくされたのです。

 ところが、アメリカとシリアの関係が一時的に修復されたことで「YK-AHA 「11月16日」」と「YK-AHB 「アラブの連帯」」のD整備に必要なスペアパーツの引き渡しが認められ、その後シリアはサウジアラビアのアルサラーム・エアクラフト社との間でD整備とプラット・アンド・ホイットニー製「JT9D-7」エンジンと着陸装置のオーバーホールの契約が結ばれました。

 両機は2010年12月16日にダマスカスで調印された契約に基づいて、2011年後半には再就役する予定だったようです。


 2011年4月、シリア航空の社長兼CEOは、オーバーホールの状況を確認するため(この時点では退役状態の)「ボーイング747」の整備を行っていたアルサラーム・エアクラフト社を訪問し、「アルサラームのチームと、納期を厳守するための彼らの努力に感謝する」と述べています。

 その時点でプロジェクトはまだ予定通り進んでいたようですが、両機ともにシリアに戻ることなく、今でもサウジアラビアのリヤドにあるアルサラーム社の施設に残されたままです。「ボーイング747SP」の整備中止の正確な理由はいまだ不明のままですが、アルサラーム社に今後の全作業を中止せざるを得なくなった主な要因である可能性が高いのは、シリアでの内戦勃発でアメリカがシリア政府に対する姿勢を再考したことでしょう。

 アメリカの新たなシリアへの姿勢の一つとして、2011年8月に当時のオバマ大統領によって署名された大統領令13582号が発効されたことが挙げられます。この大統領令には「直接または間接的に、アメリカから、あるいはアメリカ人による、シリアへのいかなるサービスの輸出、再輸出、販売、供給」の禁止が含まれていたのです。

 言うまでも無く、シリア航空の「ボーイング747SP」のオーバーホールにはアメリカ製の部品が必要であったことから、大統領令13582号はアルサラーム社が同機の整備を継続することを妨げるものであったわけです。

 D整備が未完了のままで頓挫した結果、塗装はほとんど剥がれ落ち、部品が欠落したことで「ボーイング747SP」はシリアに戻る見込みもなく、サウジアラビアで立ち往生し続けています。2013年になると、アルサラーム社の駐機場で埃をかぶっていた2機は同社の施設の片隅へ追いやられてしまいました。

 ボーイング機の喪失については、制裁の発動によりシリア航空のほとんどの路線が廃止されたことで部分的に相殺されたものの、この飛行機の不在はその後の数年間で大きく目立つものとなってしまったようです(注:路線縮小で喪失自体はあまり問題とならなくなったが、後で存在感の大きさに気づく人が出てきたということ)。


 14年間に僅か45機しか生産されなかった「ボーイング747SP」は、胴体が短くなったにもかかわらず747のクラシックな特徴を維持し、当時のどの旅客機よりも長い航続距離を誇ったことで知られる希少な名機です。その優れた航続距離と見た目のおかげで、この航空機はアラブの国家元首が選ぶ交通手段として人気を博しました。

 南アフリカ航空では、アパルトヘイト(人種隔離政策)時代に自国の空域の飛行を禁止していた国々を回避するため、6機を活用したことが知られています。

 シリア・アラブ航空では、1970年代後半にニューヨークへの直行便を就航させることを見越して2機を導入しました。ところが、その計画が実現しなかったため、シリア航空は(ほぼ)短距離路線しか就航していない航空会社にもかかわらず世界でも最長の航続距離を誇る旅客機を保有することになったのです。
 
 超長距離路線が存在しないこと、機体の高い維持費、そして燃料消費量の多さから、「ボーイング747SP」はシリア航空が持つ小型機群の中でいつしか無用の長物のような存在と化してしまったのでした。シリア航空で現役時代の「ボーイング747SP」は、定期便で使用されていない間は小型機と一緒にヨーロッパや中東への路線で不定期に使用されていました。


 売却しても莫大な損失しか残らないせいか、最終的に「ボーイング747SP」は2008年まで使用され続けました。(予定された)最後のD整備の後でも、少なくともより現代的な航空機に更新されるまで、さらに数年間は運航されたことでしょう。

 ところが、運命はこれらの素晴らしい飛行機に対し、サウジアラビアの灼熱の駐機場に放置されたまま早すぎる最期を迎えることを求めたのです。

 追記:グーグルアースでは2023年4月の時点でも依然として2機の「ボーイング747SP」が放置されている状況が確認されています(座標: 24°57'49.82"N、 46°43'53.58"E)。アサド政権崩壊に伴ってこの機体が復帰すること自体は絶望的ですが、今後どのような運命を迎えるのか注目されます。

リヤドにおけるシリアの「ボーイング747SP」(左下と中央の2機)

3枚名の画像: Aviafan

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2024年12月8日日曜日

たった3日間の「特別軍事作戦」で :2024年シリア北部における反政府勢力の攻勢とシリア軍の崩壊


著:Elmustek in collaboration with ヤクブ・ヤノフスキ と Buschlaid(編訳:Tarao Goo)

 2024 年 11 月 27 日深夜にシリア・アラブ軍(SyAA)とその協力関係にある部隊の拠点に対して開始されたシリアの反政府勢力による攻勢は、イドリブとアレッポ両県における政府の拠点を崩壊させ、政府軍を駆逐し、反政府勢力がアレッポ市や複数の町、そして無数の村を含む広大な領土の掌握をもたらしました。

 現時点で反政府勢力がどこまで進撃できるかは不明ですが、この記事を執筆している時点で、彼らはすでにハマ市まで迫っています(編訳者注:12月8日時点でハマは制圧され、ホムスの陥落が近い状況です。

 この大規模な反政府軍の進撃のおかげで、政権側は信じられないような物的損失を受けています。失われた装備のほぼ全てが破壊されることなく鹵獲されたため、政権側とその同盟者(ロシア、イラン、ヒズボラなど)にとっては、その損失が余計に深刻なものとなっていることは容易に想像できます。なぜならば、それらの装備がかつての所有者である自分たちに向けて使われることが避けられない可能性が高いからです。

 今回の大攻勢は、シリア・アラブ陸軍(SAA)が敵対勢力へ武器・弾薬を与える最大のサプライヤーであるという事例を再び示しています。 ただし、今回の(SAAの)アレッポとイドリブ両県からの撤退によってもたらされた鹵獲装備や弾薬の量は前例がありません。

 驚くべきは兵器の量だけではありません。反政府勢力が鹵獲した兵器には、戦闘機や長射程の多連装ロケット砲(MRLS)、さらには地対空ミサイルシステムなど、(たとえ鹵獲した兵器の一部しか運用できないとしても)強力で高度な兵器の全てが含まれているのです。

 反政府勢力からすると鹵獲したの高度な兵器の使用は困難を極めることが予想されますが、仮に彼らがその一部でも稼働させることに成功した場合、これはシリア軍とその協力関係にある部隊にとっては深刻な問題となるでしょう。

  1. 当一覧は、2024年12月8日に本ブログのオリジナル(本国版)である「Oryx-Blog(英語)」で公開された記事を翻訳したものです(編訳者は一覧の精査には関与していません)。
  2. この一覧には、写真や映像によって証明可能な撃破または鹵獲された兵器類だけを掲載しています。したがって、実際にシリアの反政府勢力が破壊や鹵獲などした兵器類は、ここに記録されている数よりも間違いなく多いでしょう。
  3. トラックやジープ類の損失は後日に追加する可能性があります。
  4. シリア軍側の損失を記録する人びとの正気を保つため、ライフルなどの小火器や弾薬はこの一覧には含まれません。
  5. この一覧は、各種情報を精査して確実と判断したものだけを掲載しています。したがって、後で誤りや重複が判明したものは適宜修正されます。
  6. 各兵器類の名称に続く数字をクリックすると、破壊や鹵獲された当該兵器類の画像を見ることができます。
  7. この一覧については、資料として使用可能な映像や動画等が追加され次第、更新されます。
 注1:この一覧は、(少なくとも現時点では)2024年12月5日にハマが陥落した時点か、それ以前に判明した装備の損失だけをリストアップしています。後の出来事次第では一覧は後に追加されていくかもしれませんが、仮に現体制が崩壊した場合、シリア軍が保有していたものを文字通り全てここにリストアップする意味と必要性はなくなるでしょう。

 注2:12月8日にアサド政権が崩壊したため、当一覧が更新されるかは不透明な状況となりました。

損失数 - 434(内訳: 撃破: 10, 損傷: 1, 鹵獲:423)

戦車 (156, このうち 撃破: 5, 損傷: 1, 鹵獲: 150)


装甲戦闘車両 (12, このうち 撃破: 0, 損傷: 0, 放棄: 0, 鹵獲: 12)


歩兵戦闘車 (71, このうち 撃破: 2, 鹵獲: 69)


装甲兵員輸送車 (9, このうち 撃破: 0, 損傷: 0, 放棄: 0, 鹵獲: 9)


歩兵機動車 (5, このうち 撃破: 0, 損傷: 0, 放棄: 0, 鹵獲: 5)

工兵・支援車輌等 (20, このうち 撃破: 0, 損傷: 0, 放棄: 0, 鹵獲: 20)


砲兵支援車両または装備類 (1, このうち 撃破: 0, 放棄: 0, 鹵獲: 1)
  • 1 9T452弾薬輸送車兼装填車 (BM-27 "ウラガン" MRL用): (1, 鹵獲)


牽引砲 (53, このうち 撃破: 1, 損傷: 0, 放棄: 0, 鹵獲: 52)


自走砲 (25, このうち 撃破: 0, 損傷: 0, 放棄: 0, 鹵獲: 25)


多連装ロケット砲 (28, このうち 撃破: 0, 損傷: 0, 放棄: 0, 鹵獲: 28)


対空砲 (21, このうち 撃破: 1, 損傷: 0, 鹵獲: 20)


自走対空砲 (16, このうち 撃破: 0, 放棄: 0, 鹵獲: 16)


地対空ミサイルシステム (4, このうち 撃破: 0, 放棄: 0, 鹵獲: 4)


レーダー (3, このうち 撃破: 0, 放棄: 0, 鹵獲: 3)
  • 1 SNR-125 "ロー・ブロー” 射撃管制レーダー : (1, 鹵獲)
  • 1 48Ya6-K1 "ポッドレット" Sバンド低高度対空捜索レーダー: (1, 鹵獲)
  • 1 形式不明のレーダーステーション: (1, 鹵獲)


電子戦システム (0, このうち 撃破: 0, 放棄: 0, 鹵獲: 0)
  • 0 :


航空機 (7, このうち 撃破: 0, 放棄: 0, 鹵獲: 7)


ヘリコプター (2, このうち 撃破: 1, 放棄: 0, 鹵獲: 1)


無人偵察機 (1, このうち 撃破: 0, 放棄: 0, 鹵獲: 1)


 Supecial Thanks: Calibre Obscura, Dan, MrRevinsky, QalaatAlMudiq, C4H10FO2P, Mintel World, Asia Intel, JohnSevenTwoC'est Carré (敬称略)

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