ラベル 潜水艦 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 潜水艦 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2025年7月19日土曜日

アタテュルクの潜水艦:トルコ海軍で運用されたドイツのUボート


著:シュタイン・ミッツアー と ヨースト・オリーマンズ(編訳:Tarao Goo)


 この記事は、2023年4月4日に本ブログのオリジナル(本国版)である「Oryx-Blog(英語)」で公開された記事を翻訳したものです。 意訳などにより、僅かに本来のものと意味や言い回しが異なっている箇所があります

 Yeni dört denizaltı gemimiz için bildirdiğimiz isimler şunlardır; 1) Saldıray, 2) Batıray, 3) Atılay, 4) Yıldıray. Bunların manalarını izaha bile hacet olmadığı kanaatındayım. Manaları, som Türkçe olan bu kelimelerin kendisindedir, yani saldıran, batıran, atılan, yıldıran. – 私たちが発表した4隻の新潜水艦の名称は次のとおりです:1) サルディライ、2) バティライ、3) アティライ、4) イルディライ。これらの名前の意味については、説明の必要はないと思います。これらは純粋なトルコ語であり、それぞれ「攻撃する者」「沈める者」「射る者」「威圧する者」を意味します:ムスタファ・ケマル・アタテュルク

 1930年代の急速に近代化を進めるトルコは、社会や公共サービスなどのさまざまな分野での近代化に大きな関心を寄せていたため、ドイツの高度な産業に目を向けました。それからの10年間を通じて、ナチスから逃れた約300人のドイツ系ユダヤ人科学者がトルコに温かく歓迎され、研究を続けたのです。その一方で、トルコ空軍は1937年にドイツから合計24機の 「He 111」爆撃機と26機の「Fw 44 /58K」練習機を注文する動きを見せています。[1]また、 1940年、国営の鉄道会社であるTCDDは、当時ヨーロッパと世界で最も先進的な列車と肩を並べるドイツの「MT5200」気動車6両を発注しました。[2]

 ドイツのハイテク技術を導入する試みの中で最も重要と言っても過言でないものは、1936年にトルコ海軍がドイツの「UボートIX」級を基に設計された「280号計画型/アイ」級潜水艦4隻を発注したことでしょう。

 「アイ」級は、オランダのダミー会社「NV Ingenieurskantoor voor Scheepsbouw」によって正式に開発された艦です。同社はドイツの潜水艦開発のフロント企業でした。というのも、この時点で自国での潜水艦の設計等はヴェルサイユ条約で禁止されていたからです。発注された潜水艦について、2隻はドイツで、残りの「アティライ」と「イルディライ」はイスタンブールのタシュキザク造船所で建造される予定でした。ドイツで建造された「バティライ」は機雷敷設用潜水艦として完成したものの、完成後の1939年にドイツ海軍に接収・就役するという運命を迎えたので、トルコ海軍とは無縁の存在となっています。

 トルコにとって幸いにも、「サルディライ」は「バティライ」よりも数か月早く完成したため、接収される運命から免れることができました。 Uボートの建造は1937年2月にキールのクルップ・ゲルマニア造船所で開始され、翌年7月にドイツとトルコの高官の立会いの下で進水しました。その後、大規模な艤装を経て、1939年初頭に引き渡し可能な状態になったのです。[3] 

 ところが、戦争前の緊迫した情勢下で、完成した潜水艦をトルコへ航行させるための十分な人員を確保できないという事態に陥ってしまいました。これにより、「サルディライ」の出航は1939年4月2日まで延期されることになり、最終的ドイツ国旗を掲げ、トルコ人水兵とドイツ人将校で構成された乗組員の手によってエーゲ海へ出航したのでした。[3]

1938年7月、「サルディライ」の進水式でクルップ・ゲルマニア造船所で働く作業員たちがナチス式敬礼を行ってい(背後には敬礼するドイツ海軍将兵の姿が確認できる)。右側は建造中の「バティライ」である。

 トルコ政府が自国の水兵をドイツに派遣するという決定は、「サルディライ」をトルコから救った最大の要因と考えられます。仮に回航が数か月遅れていれば、同艦もドイツ海軍に接収されていたはずだからです。1939年6月5日、イスタンブールの金角湾で「サルディライ」の就役式典が実施された時点で、「イルディライ」と「アティライ」は、僅か数キロメートル離れたタシュキザク造船所でまだ建造中でした。これらの潜水艦はドイツの指導の下でトルコの作業員によって建造され、主に現地で調達された資材が使用されました。[4]

 「アティライ」は1939年に進水して翌年に就役しましたが、第二次世界大戦の勃発に伴うドイツ人技術者の帰国や部品の供給が途絶えたため、「イルディライ」は進水から6年後の1946年にようやく就役しました。

1939年、金角湾で進水した際の「アティライ」。

1939年の「イルディライ」進水式の様子。ドイツの技術支援の打ち切りと重要な部品の供給停止により、トルコ海軍が同艦の実戦配備に成功したのは1946年になってからだった。

 4隻の高度な洋上型Uボートの調達と国内での建造はトルコの防衛にとって極めて重要なものです。そうした理由もあって、トルコ共和国初代大統領ムスタファ・ケマル・アタテュルクは自ら潜水艦の名前を命名することを決定しました。1938年1月17日、彼はマフムト・ジェラル・バヤル首相宛てに4隻の潜水艦の名前を通知する書簡を送ったものの、同年11月に死去したため、最初の潜水艦がトルコに到着する光景を目にすることはありませんでした。 

 アタテュルクが潜水艦の命名について手書きで記した大統領令についてはイスタンブール海軍博物館で展示されており、それがトルコ海軍にとって重要な意味を有していること(そして、おそらく象徴的な意味では今でも)を物語っています。

高速で航行中の「アティライ」。司令塔の前方に装備されている10.5cm砲に注意。

 「アイ」級潜水艦は533mm魚雷発射管を6基(船首に4基、船尾に2基)装備しており、合計14発の魚雷を搭載可能です。この潜水艦は3,500馬力の出力を誇るデンマークのブアマイスタ・オ・ウェーイン製ディーゼルエンジン2基と2基のモーターを装備し、水上で約20ノット(約37km/h)、潜航時で約9ノット(約16.5km/h)で航行することができました。[4]
 なお、「バティライ」の航続距離は水上10ノットで13,100海里(19,400km)、潜航時4ノットで最大75海里(144km)でした。[5]

 他の3隻は、水上では10ノット(18.5km/h)の速度で8,000海里(14,800km)の航続距離を誇っていました。乗組員は約45名の士官と水兵で構成されています。「アイ」級潜水艦4隻は、司令塔の前方に「L/45」10.5cm砲を装備していました。なお、「サルディライ」と「アティライ」は、司令塔の後方にエリコン製20mm対空機関砲も装備しています。「バティライ」は、魚雷発射管から射出できる機雷を最大で36発も搭載することができました。

 ところで、「アイ」級はトルコ海軍に就役した最初の(ドイツ起源の)潜水艦ではありません。1925年、ドイツのダミー企業であるNV Ingenieurskantoor voor Scheepsbouw(IvS)は、トルコ海軍向けに第一次世界大戦時代の「UB III」級潜水艦をベースにした「46号計画型」沿岸型潜水艦2隻を受注しました。両艦はオランダのロッテルダムにあるウィルトン・フェイエノールト造船所で1927年に建造され、1928年にそれぞれ「ビリンジ・イノニュ」と「イキンジ・イノニュ」と命名されてトルコ海軍に就役しました。[6]

 「46号計画型」に続いて「111号計画型」設計されましたが、この設計も同じくIvSによって行われています。そもそも、この潜水艦の建造は1930年にスペイン海軍向けに開始されたわけですが、同海軍が関心を示さなかったため、1935年にトルコ海軍に売却され、「ギュル」として就役しています。[7] 

 そして、イタリアから2隻の潜水艦を調達したことで、1930年代におけるトルコの海軍整備事業が完了したのでした。 [8] [9]

「46号計画型」沿岸型潜水艦は、IvS社によって第一次世界大戦時代の「UB III」級をベースにトルコ海軍用に開発されたものだ。トルコ海軍は1925年に2隻を発注し、1928年に就役した。名称はオスマン語のアラビア文字で表記されているが、1928年にラテン文字を基にした現代のアルファベットに置き換えられた。

 「サルディライ」と「イルディライ」は、1957年に元アメリカ海軍の「バラオ」級潜水艦に更新されるまで、トルコ海軍で平穏無事な経歴を送りました。

 「アティライ」は、1942年7月14日にダーダネルス海峡で触雷して沈没し、乗員38名全員が艦と運命を共にする悲惨な運命を迎えました。この潜水艦が目的地に到着にしなかったことから捜索救助作戦が開始され、同日午後8時30分頃に海面に「アティライ」の浮標が発見されました。浮標に設置された電話は正常に機能していたものの、何度かけても「アティライ」からの応答がなかったことから、その悲惨な運命が確認されたのでした。「アティライ」沈没から52年後の1994年、この潜水艦の残骸は海岸から約6km離れた地点の深さ68メートルの海底でついに発見されました。

 「アティライ」と悲しい運命を共にした乗員たちについては、当時の著名なトルコ人歌手ハミイェト・ユジェセスの歌『Gitti de Gelmeyiverdi(彼は行き、そして帰らなかった)』で偲ばれています。彼女の夫も乗員の一人だったのです。

「アティライ」と運命を共にした乗員たち。1942年7月、同艦は1915年のガリポリの戦いで敷設された機雷によって沈んだ。画像は沈む数か月前に撮影された。

 1939年に完成直後に接収された「バティライ」については、同年9月20日に「UA」としてドイツ海軍に就役しています。機雷敷設用の潜水艦として装備されていたものの、ドイツはこれを(「バティライ」のベースとなった)通常のUボート「IX」型として運用しました。運用期間(1940年6月から1941年3月まで)中、同艦は6回の航海を実施し、その間に連合軍の艦船8隻を沈めるという戦果を挙げています。これらの中には、イギリスの補助巡洋艦である「HMSアンダニア」も含まれていました。

 第二次世界大戦中にドイツ海軍に配備された14隻の外国潜水艦によって沈没した艦艇は10隻ですが、その中の8隻が「UA」によるものです。この潜水艦は1942年7月から訓練用として使用され、それ以降は戦闘任務に就くことはありませんでした。結局、1945年5月3日にキールで自沈処分されるという運命を迎えています。

トルコ海軍の「バティライ」は引き渡し前にドイツに接収され、「UA」という名で就役した。

 1930年代に確立された "ドイツ先進的な潜水艦を運用する" という伝統は、完全にドイツが設計した潜水艦で構成された現代のトルコの潜水艦隊で継承されています。

 今後は、すでに就役している「209型」潜水艦に加えて、2020年代に就役する(ドイツの「214型」潜水艦をライセンス生産した)6隻の「レイス」級潜水艦によって潜水艦隊の強化が図られる予定です。 これらのいずれにも「アイ」級潜水艦の名称が付与されることはありませんが、これらの謎多き潜水艦の精神は、ほぼ1世紀後に登場する後継艦に受け継がれることでしょう。

 「アティライ」の遺産をより具体的な形で継承するため、その残骸を水深30メートルの海底博物館の一部として移設する試みが提起されています。こうした計画は依然として実現に至っていません。そもそも、船体の状態が構想を実現不可能にする可能性すらあります。38名の乗員の最後の安息の地として、この船が静かな海で残りの時を過ごすことが最善かもしれません。


Gitti de gelmeyiverdi - 出て行ったあの人は戻ってこなかったわ
Gözlerim yolarda kaldı - あの人の帰りを待つわ (道を見ながら)
Hele nazlım nerde kaldı - あの人は何処へ?
Ne zaman ne zaman gelir - いつになったらあの人は帰ってくるの?
Gel a nazlım lahuri şallım - 来て、私の愛しいラウリ・シャリム
Sağı solu dolaşalım - 一緒に歩きましょうよ
Ne zaman ne zaman gelir - いつになったらあの人は帰ってくるの?

海底で眠る「アティライ」

[1] The unlikely haven for 1930s German scientists https://physicstoday.scitation.org/do/10.1063/pt.6.4.20180927a/full/
[2] Presaging Modernity: Turkey’s MT5200 Trains https://www.oryxspioenkop.com/2021/12/presaging-modernity-turkeys-mt5200.html
[3] TÜRK DENİZALTICILIK TARİHİ http://www.denizalticilarbirligi.com/db.dztarih.htm
[4] SALDIRAY submarines (1939-1946) https://www.navypedia.org/ships/turkey/tu_ss_saldiray.htm
[5] BATIRAY submarine https://www.navypedia.org/ships/turkey/tu_ss_batiray.htm
[6] BİRİNCİ İNÖNÜ submarines (1928) http://www.navypedia.org/ships/turkey/tu_ss_birinci_inonu.htm[7] GÜR submarine (1934) http://www.navypedia.org/ships/turkey/tu_ss_gur.htm
[8] DUMLUPINAR submarine (1931) http://www.navypedia.org/ships/turkey/tu_ss_dumlupinar.htm
[9] SAKARYA submarine (1931) http://www.navypedia.org/ships/turkey/tu_ss_sakarya.htm



【お知らせ】この本の英語版については、2025年7月15日に改訂・分冊版の1冊目が発売されました。

おすすめの記事

2023年4月30日日曜日

深海から浮上した物語:インドネシアの実験的な小型"Uボート"


著:ステイン・ミッツアーとヨースト・オリーマンズ

 ミリタリーファンは、常に見聞きしたことのない魅惑的な戦記を追い求めています。

 すでにマーク・フェルトンが世界中の人々の関心を引くために相当な数の戦記を世に出すという偉業を成し遂げているのもの、依然としてさらに多くの情報が埃にまみれた資料や写真の中に隠されたままとなっており、いつの日にか公表されることを待ち続けています。

 そうした話の一つが、1948年にジャワ島でドイツの元潜水艦乗組員がインドネシアの独立勢力のためにミゼットUボート(以下、特殊潜航艇と記載)を設計・建造した話です。[1]

 この潜航艇は最初の海上公試で沈没してしまいましたが、それでも専門的な機械や機器を備えていない鉄工所で(本物の設計士ではない)ドイツの潜水艦乗組員によって設計と建造がなされたことは目を見張るべき偉業と言えるでしょう。

 今回取り上げた話に登場するドイツ軍の潜水艦乗組員は、第二次世界大戦中の太平洋とインド洋で任務に就いていたドイツ(とイタリア)のUボート部隊「グルッペ・モンズーン(モンスーン戦隊」に所属していた人たちです。

 日本が支配下に置いたマレーシア・シンガポール・インドネシア(当時はまだ蘭印:オランダ領東インド)を拠点に行動していたこの戦隊の作戦地域は、ドイツ軍と日本軍(そしてイタリア軍)が実際に同じ戦域で戦った唯一の場所でした。

 1945年5月8日のドイツ降伏した後に残存していたドイツの潜水艦4隻とイタリアの潜水艦2隻は日本側に接収され、乗組員はインドネシアで抑留されたり、今や日本艦となったこれらの潜水艦を運用するために使役されたりしました。

 興味深いことに、イタリアの潜水艦「ルイージ・トレッリ」「コマンダンテ・カッペリーニ」 の2隻は、すでに一度は日本に拿捕された経歴がありました。最初の拿捕は1943年9月のイタリア降伏後のことであり、インドネシアのサバンでドイツ海軍に引き渡され、ドイツ人とイタリア人の混成クルーによって引き続き運用されました。そしてドイツ降伏後、この2隻は(4隻のドイツ艦と一緒に)再び日本に接収されて今度はドイツ・イタリア・日本の混成クルーによって運用されることになったのです!

 結果として、「ルイージ・トレッリ」と「コマンダンテ・カッペリーニ」は第二次世界大戦中に枢軸国の主要3か国全てで運用された唯一の艦艇となりました。

 2隻の元イタリア艦は主に蘭印と日本を結ぶ輸送潜水艦として活用されて最終的には1945年に神戸でアメリカ軍に接収され、ドイツのUボートである「U-181」、「U-195」、「U-219」、「U-862」はシンガポールと蘭印でイギリスに接収されてその経歴に終止符が打たれました。

 これらの運命を詳しく説明すると、「U-181(伊-501)」「U-862(伊-502)」はシンガポールでイギリスに接収され、その翌年にマラッカ海峡で海没処分されました。

 「U-195 (伊-506)」 と「U-219 (伊-505)」 については、前者は1945年8月にオランダ領東インドのジャカルタで、後者はスラバヤでイギリス軍に接収されました。この2隻を入手するはずだったオランダは、1946年の三者海軍委員会による決定に基づいて入手の断念と処分を余儀なくされたのでした(注:実際の海没処分はイギリス軍によって実施)。 [2]

「XB」級Uボート「U-219/伊-505」:三者海軍委員会の規則によってオランダ海軍は同艦と「IXD1」級Uボート「U-195/伊-506」の保有を許されなかったため、これらの2隻は1946年にジャワ島沖で海没処分された。

 シンガポールで接収された「U-181」と「U-862」のドイツ人乗組員は終戦後にドイツへ帰国するか、(イギリスの)ウェールズで抑留後にそのまま現地に永住するという運命を辿りました。

 一方で、1945年当時の蘭印に残っていた「U-195」と「U-219」の乗組員や別のドイツ海軍の軍人たちの中には全く別の人生を選択した人もいました。降伏してイギリスに協力する者もいれば、正反対にインドネシア独立戦争でイギリス・オランダ軍と戦い続けるべくインドネシアに忠誠を申し出た者もいたのです。

 その中には、ジャワ島ジョグジャカルタの鉄工所で特殊潜航艇を設計・建造した者も含まれています。[2]

 この異形な鋼鉄製の潜航艇は、インドネシア共和国の首都と指導者を捕らえることを目的とした2度の軍事攻撃の2回目として成功した「カラス作戦(Operatie Kraai)」で、オランダ軍がインドネシアの臨時首都であるジョグジャカルタを占領した後に発見されました。

 興味深いことに、オランダは2度の軍事攻撃の成果としてスカルノ大統領とモハマッド・ハッタ副大統領を捕虜にしただけでなく、1947年8月に実施された最初の攻勢である「プロダクト作戦」で、東ジャワにて5名のドイツ人も捕虜にしたのです。このうちの4名は「U-195(伊-506)」の乗組員だった者たちであり、残りの1名(インドネシア生まれのドイツ人)はインドネシア軍の犬のトレーナーとしての役割を担っていました。[3] [4] [5] [6] [7]

オランダ軍の兵士たちが鹵獲した鋼鉄製物体を訝しげに調べている様子:船体の左右に取り付けられた安定用のフィンに注目

 粗雑で正常に機能しなかった設計ではあったとはいえ、この特殊潜航艇はインドネシアによって初めて組み立てられて運用された潜水艦です。

 残念なことに、この潜航艇の内部構造については、設計時に設定されたもので初航海での沈没を防げなかったことを除くと、何も分かっていません。[8]

 その後、沈んだ"鋼鉄製の海獣"は引き上げられて修理や設計の改良のために鉄工所に戻されましたが、そうした作業はオランダ軍の占領によって力づくで中断させられてしまいました。もし、この潜航艇の修理が間に合っていれば、ジャワ島のインドネシア領を海上封鎖に従事していた不用心なオランダ海軍の駆逐艦に攻撃する姿が見れたかもしれません。

 この目的のために、この特殊潜航艇は船体下部のマウントに魚雷1本を搭載することが可能でした。[9]

 搭載する魚雷の種類はおそらく日本の「九十三式魚雷」や「九十五式魚雷」、あるいは450mmの「九一式航空魚雷改2」で占められていたと思われます。実際、インドネシア軍は大日本帝国海軍の基地を占領したり引き渡しを受けた際にこれらの魚雷を大量に入手していたからです。[10]

 魚雷の照準については、セイルに格納された大きな潜望鏡を通して合わせることになっていたのでしょう。艦橋構造物の巨大な舷窓や潜望鏡の大きさから判断すると、作戦中の特殊潜航艇は少なくとも一部が水面から突き出ていることになるため、Uボートとはいうものの技術的には半潜水艇と呼ぶべき代物ものでした。

船体下部のアタッチメントには1発の魚雷を装備できる

 最終設計案に基づいて建造された姿は、この時代の特殊潜航艇とは似ても似つかぬ、極めて粗雑なものであったとしか言いようがありません。

 実際の設計に先立って作られた潜水艦の模型は、ドイツの「ビーバー」級特殊潜航艇から大まかな着想を得たように見えます。これが全くの偶然なのか、それとも建造に関わったドイツの乗組員が蘭印に出発する前に「ビーバー」級を見る機会があって、その後に自らの設計のベースとしたのかは不明です。

 「ビーバー」級の量産は、「U-195」と「U-216」が蘭印へ向けて出発する数か月前の1944年夏に開始されました。両艦とも分解された「V-2」ロケットや最新兵器の設計図を積載していたましたが、この航海で「ビーバー」級の設計図も日本側に移転された可能性もありますが、その真相は歴史の闇に葬り去られてしまいました。

 結局のところ、「ビーバー」級との類似性については「単なる偶然の一致」が最も有力な説となっています。

ドイツの「ビーバー」級特殊潜航艇

本物を建造する前にドイツの潜水艦乗組員によって作られた縮小模型

 ナチスドイツと日本の降伏後にインドネシアの独立闘士と共に戦うことを選択した現地のドイツ人潜水艦乗組員によって、日本の魚雷で武装したドイツの特殊潜航艇が設計されていた - これは、まさに魅惑的なもので満ち溢れた物語以外の何ものでもありません。

 その粗雑な設計と製造品質のおかげで、この特殊潜航艇は最初から成功の見込みがなかったかもしれませんが、インドネシア人がオランダ軍に戦いを挑むためにあらゆる手段を模索しようという決意を(他国の人々の協力を得て)ますます強めていったという重要な証拠と言えるでしょう。

 インドネシアが再びオランダの主力艦を沈めるという試みを再び仕掛けるには、オランダ領ニューギニアへの侵攻を企図した「トリコラ作戦」の一環で実行を試みた1962年まで待たねばなりませんでした。当時はソ連から最新の兵器を入手していたため、その結果として立案された計画では「KS-1 "コメット"」対艦ミサイルを搭載した「Tu-16KS-1」爆撃機によるオランダ空母「HNLMS カレル・ドゥールマン」撃沈が求められていました(結局、攻撃は中止に終わりました)。

 明らかにインドネシアの軍事史が西側諸国で全く取り上げられていないという事実は、そこに含まれている多くの興味深い物語が十分に伝えられていないことを意味しています:つまり、それは私たちが好んで取り上げる物語のことです。

[1] In een staalfabriek in Djocja werkte een ex-Duitse matroos aan een eenmanstorpedo. Zijn uitvinding mislukte. Bij de eerste proefneming zonk het ijzeren gevaarte. https://www.nationaalarchief.nl/onderzoeken/fotocollectie/af009e5e-d0b4-102d-bcf8-003048976d84
[2] IJN Submarine I-505: Tabular Record of Movement http://www.combinedfleet.com/I-505.htm
[3] Malang: Een van de vijf op 1 augustus 1947 gearresteerde Duitsers: Erich Döring, geboren 29-03-1921 Muehlhausen. In dienst van de Kriegsmarine als Maschinenunteroff. op U-boot 195. https://www.nationaalarchief.nl/onderzoeken/fotocollectie/3fa45cf9-01a6-7884-0237-db4c606ccfa5
[4] Malang: Een van de vijf op 1 augustus 1947 gearresteerde Duitsers: Herbert Weber, geb. 3-6-'14 te Leutersdorf. In dienst van de Kriegsmarine als Leitender Ingenieur op U-boot 195 https://www.nationaalarchief.nl/onderzoeken/fotocollectie/f1cca949-fd26-d1c8-3f3a-10a985539386
[5] Malang: Een van de vijf op 1 augustus 1947 gearresteerde Duitsers: Heinz Ulrich, geboren 14-08-1924 te Berlijn. In dienst van de Kriegsmarine als Maschinenobergefreiter op U-boot 195. https://www.nationaalarchief.nl/onderzoeken/fotocollectie/432b83ec-97d7-308b-08cd-f2470cf2bea8
[6] Malang: Een van de vijf op 1 augustus 1947 gearresteerde Duitsers: Res. Oberleutnant zur See Fritz Arp, geb. 16-1-'15 te Burg auf Friehmar (Ostsee) In dienst van de Kriegsmarine als 1ste Off. op U-boot 195. https://www.nationaalarchief.nl/onderzoeken/fotocollectie/c8569997-e185-7055-81c5-f70cad6da942
[7] Malang. Een van de vijf op 1 augustus 1947 te Malang gearresteerde Duitsers: Alfred Pschunder, geboren op 24 december 1918 te Malang, Rijksduitser. Hij richtte o.a. honden af voor de Polisi Negara https://www.nationaalarchief.nl/onderzoeken/fotocollectie/c8569997-e185-7055-81c5-f70cad6da942
[8] In een staalfabriek in Djocja werkte een ex-Duitse matroos aan een eenmanstorpedo. Zijn uitvinding mislukte. Bij de eerste proefneming zonk het ijzeren gevaarte. Op deze plaats werd de torpedo aan het moeder-scheepje bevestigd. https://www.nationaalarchief.nl/onderzoeken/fotocollectie/af009fe4-d0b4-102d-bcf8-003048976d84
[9] In een staalfabriek in Djocja werkte een ex-Duitse matroos aan een eenmanstorpedo. Zijn uitvinding mislukte. Bij de eerste proefneming zonk het ijzeren gevaarte. Op deze plaats werd de torpedo aan het moederscheepje bevestigd https://www.nationaalarchief.nl/onderzoeken/fotocollectie/397950e1-fab7-1892-0a70-7d82a6ca43c8
[10] Hangar met Japanse? voertuigen. In de achtergrond liggen zeetorpedo's opgestapeld https://www.nationaalarchief.nl/onderzoeken/fotocollectie/01ff58e2-1eea-1815-f92d-68bfb852bb8e(リンク切れ)

※  当記事は、2023年1月10日に「Oryx」本国版(英語)に投稿された記事を翻訳した
 ものです。当記事は意訳などにより、僅かに本来のものと意味や言い回しを変更した箇所
 があります。