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2026年1月16日金曜日

つつましやかな始まり:トルコ航空の「Ju 52」


著:シュタイン・ミッツアー と ヨースト・オリーマンズ(編訳:Tarao Goo

 この記事は、2021年4月5日に「Oryx」本国版 (英語)に投稿された記事を翻訳したものです。意訳などにより、僅かに本来のものと意味や言い回しを変更した箇所があります。

 トルコ航空(ターキッシュ・エアラインズ)は世界最大級の航空会社の一つであり、世界で最も多くの便を運航しています。今では350機以上のエアバスとボーイングの旅客機を運用し、国内・国際線合わせて約300の航路で運航させているのです。1933年に国内の4路線で始まった会社が2003年には103路線まで持つまでに拡大したことから考えると、飛躍的な成長を遂げたと言えます。過去1世紀にわたってトルコ航空は数多くの航空機を運航してきましたが、その全部が今の機体ほど注目を浴びてきたわけではありません。その目立たなかった機種の一つがドイツの「Ju 52」です。この機体は、トルコでの運用中に画像や映像で記録された事例が極めて稀でした。

 ユンカース「Ju52」は史上最も有名な航空機の一つです。1930年代初頭のドイツで(当初は)民間市場向けの単発旅客機として設計されたこの飛行機は、すぐに3発機として再設計され、現代の私たちが知る「Ju52」となりました。このエンジンの配置のおかげで、「Ju52」はすぐに世界中の航空会社で評判を得て南米やアジアまで旅客便を運航することになったわけです。第二次世界大戦が差し迫る中、多くの「Ju52」がドイツ空軍に爆撃機や輸送機として導入されたことは誰もが知るところでしょう。

 「Ju52」が最初に投入された主要な作戦は、1940年4月のデンマーク侵攻における空挺部隊の輸送任務です。デンマークはドイツの侵攻が迫っているという情報をキャッチしていたものの、完全に油断していたため、武力での抵抗を開始してから僅か2時間で降伏してしまいました。この驚異的な戦果に勇気づけられたドイツ空軍は、それから1か月後のオランダ侵攻においてこの成功の再現を試みようとしました。ところが、歴史の必然として、オランダの空は彼らにとって特に過酷なものとなったようです。結局、数日間の間に約250機の「Ju52」が失われました。[1] [2]

 1940年までに既に著しい旧式化が進んでいたにもかかわらず、「Ju52」は第二次世界大戦終結までドイツ空軍の主力輸送機として活躍し続け、ドイツ軍が戦っていたほぼ全ての戦場に兵士と物資を輸送しました。「Ju52」の後継機としてより現代的な機体(「Ju252」と「Ju352」)の開発が試みられましたが、「Ju52」の生産は1944年まで続けられたのです。戦後の生産については、フランスでアミオ「AAC.1 トゥーカン(1945-1947)」として、スペインでは「CASA 352(1945-1952)」として続けられ、旅客機や軍用輸送機として1970年代初頭まで使用されたことが知られています。

 しかし、今回のテーマを始めるには、そこから数年 – つまり、5機の「Ju52」がイスタンブールのイェシルキョイ空港に着陸した 1944年4月2日– に遡らなければなりません。ドイツのハーケンクロイツを施されたまま到着したおかげで、この機体の売り手について疑問の余地を残さなかったようです。その後、これらの「Ju52」はトルコ航空(Türk Hava Yolları)の前身である国営航空(Devlet Hava Yolları:DHY)で就航を開始しました。[3]

 トルコにおける「Ju52」の運用に関する情報は極めて少なく、機体の写真もほとんど残っていません。


 国営航空は、1933年5月20日にトルコの主要な人口密集地を結ぶ国内線の航空会社として設立されました。当初はドイツのユンカース「F13」2機や同数のアメリカ製カーチス「モデル55 "キングバード"」、そして1機のソ連製ツポレフ「ANT-9」といった多種多様な航空機を導入したものの、国内航空の需要増加に伴ってDHYの保有機リストが拡大し、1930年代後半から1940年代初頭にかけて、イギリスから4発エンジンのデ・ハビランド「D.H.86 "エクスプレス"」を含むデ・ハビランド機を調達しました。[4] [5]

 ところが、第二次世界大戦中に連合国が航空機の供給を拒否したことにより、トルコは自身に航空機を調達する意欲のある供給源:つまりドイツに頼らざるを得なくなったわけです。

この美しいイラストは1946年4月の航空便の時刻表の表紙に描かれたものだ:トルコの農村上空を飛ぶDHYの 「Ju52」が描かれている。




 第二次世界大戦の大部分で、トルコは隣国のギリシャやブルガリア、カフカス地方のみならず中東が瞬く暇もなく戦争に引きずり込まれていく中で、中立をどうにか維持し続けました。結局、この国の中立は1945年2月まで続き、トルコはついにドイツと日本に対して宣戦布告して連合国に加わることで中立に終止符を打ちました。ちなみに、その約1年前の1944年4月の時点でトルコはドイツへのクロム鉱石の輸出を停止し、続く同年8月には国交と貿易を完全に断絶しています。

 鋼の生産に用いられるクロム鉱石は、ドイツの軍事産業を維持するために極めて重要な役割を果たしていました。この貴重な資源の供給を保証する見返りとして、ドイツはトルコに対して連合国から入手する見込みがほぼ完全にない物資や軍備を提供していました。したがって、「Ju52」がこうした条件での取引を通じて入手された可能性は高く、土独関係が完全に断絶する直前に受け取った最後の兵器だったことも想定されます。

 1944年4月にトルコに到着した「Ju52」については、尾翼の大きなハーケンクロイツやその他のマーキングは急いで塗りつぶされ、必要最小限の塗装に塗り直されました。これらの機体の旧塗装を見ると、少なくとも一部の機体がナチス・ドイツの国営航空会社であるドイツ・ルフト・ハンザによって運用されていたことを示しています。一方、新たに導入した「Ju52」は乗客を約17名しか乗せることができなかったものの、それでもDHYの主力機となっていた大多数のデ・ハビランド機よりも2倍のペイロードを有していました。

 下の画像は、トルコ軍で運用された「Ju52」の現存する数少ない写真です。この機体には、機体番号「TC-RUH」と尾部に「18」のシリアル番号、そして(トルコ国旗の一部と推定される)三日月のマークが確認できます。また、別の写真(ヘッダー画像)の機体には、機首側面の窓の下に「Devlet Hava Yolları」のステッカーが貼られている姿が一目瞭然となっています。

 第二次世界大戦中におけるDHYの「Ju52」はトルコ国内の路線だけで運航されていたため、トルコの所属を示す大きな旗や目立つ識別マークは不要だったようです。1940年代後半にアメリカから供与されたダグラス「DC-3」に置き換えられるまで、引き続きこのシンプルなカラーリングのまま運用されていた可能性はおおいに有り得るでしょう。


 「Ju52」には別の塗装が施された可能性も否めません。ただし、こちらの根拠はより信憑性の低い情報が由来です:下にある、1946年にトルコ赤新月社が発行した記念切手を見てください。この切手には、翼と機体に大きな赤い新月マークを付けた「Ju52」が医療搬送機として描かれています。[6]

 トルコの「Ju52」が実際にこのような塗装で運用されたのか、あるいは切手用に特別にデザインされた架空の塗装であるかは不明ですが、後者の方が可能性が高いと考えられます。


 ユンカース「Ju52」は別として、2種類のユンカース機:「G24」とより小型の「F13」が戦間期のトルコで運用されていました。「G24」は「Ju-52」の精神的な先駆者と言える存在で、似たような3発エンジンの配置と波型外板を特徴とした機体です。興味深いことに、トルコで運用された唯一の機体は実はトルコが所有していませんでした。というのも、1920年代半ばから後半にかけてユンカースが実施した(最終的に失敗した)マーケティングキャンペーンの一環として運用されていたからです。[7]

 その一方で、3機の「F13は」1930年代後半に退役するまで、旅客機や連絡機、空中探査機、郵便機として運用されたことが記録されています。[9]

 一時期、トルコ初の航空機製造工場であるトムタシュ(Tayyare ve Motor Türk Anonim Şirketi)で約20機の「F13」の生産が計画されましたが、財政難によりこのプロジェクトは中止に追いやられ、最終的にTOMTAŞが倒産するという形で国内航空産業の有望なスタートは残念な終わりを迎えました。[8]


トルコの国籍マークが施されたユンカース「G24」:実際にはトルコがこの機体を所有したことはなかったが、同国で1925年から1927年までの約2年間運航された。

 トルコにおける「Ju52」の運用期間は僅か数年と短かったかもしれません。しかし、この機体はトルコの航空産業の humble beginnings( つつましやかな始まり)の物語において際立つ章を刻んだ機体であり、後世に語り継ぐ価値のある物語の断片です。そのつつましさは長く続きましたが、約30年後、トルコ航空は3発エンジン搭載の旅客機:「DC-10」を運航する最初の航空会社の一つとなりました。

 現在、この国は航空宇宙分野のパイオニアとして、多種多様な先進的な航空機やその試作機を生産しています。ただし、「TRジェット」計画を通じて国産旅客機の生産を目指す取り組みは2017年に中止されました。しかし、忘れ去られた過去にたった数機の「Ju52」を運用していた時代から(イスタンブールの交通渋滞を実際に体験した人なら、その価値を高く評価するであろう)バイカルの「ジェゼリ」のような開発に至るまでの驚くべき進化は、つつましやかな始まりは偉大さの誕生を予感させるということを私たちに教えてくれます。

ジェゼリ・フライングカー

[1] Mei 1940 - de verdediging van het Nederlandse luchtruim http://www.bataafscheleeuw.nl/db/main/assortiment/index.php?book_id=514
[2] De gebroken vleugel van de Duitse adelaar https://uitgeverijaspekt.nl/boek/de-gebroken-vleugel-van-de-duitse-adelaar/
[3] 1/48 Revell Ju-52 3/m TC-RUH Turkish Airliner https://www.aircraftresourcecenter.com/Gal3/2701-2800/Gal2785-Ju-52-Gerdan/00.shtm
[4] Turkish Airlines History http://www.thy-heritage.com/history/
[5] Turkish Airlines Fleet http://www.thy-heritage.com/flit/
[6] Kızılay uçak resimli pullar, Sanayi Kongresi ve ilk uçuş zarfları https://pulveposta.com/2018/02/11/kizilay-ucak-resimli-pullar-sanayi-kongresi-ve-ilk-ucus-zarflari/
[7] 1/72 Plastikart Junkers G 24 https://www.aircraftresourcecenter.com/Gal3/2901-3000/Gal2904-Ju-G24-Gerdan/00.shtm
[8] JUNKERS F13 Limuzin http://www.tayyareci.com/digerucaklar/turkiye/1923ve50/junkers-f13.asp
3枚目の画像: Gökhan Sarigöl via Stuart Kline.


2025年に改訂・分冊版が発売予定です(英語版のみ)


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2025年8月10日日曜日

「Nu.D.40」から「バイラクタル・アクンジュ」まで:デミラー氏のレガシー


著:シュタイン・ミッツアー と ヨースト・オリーマンズ(編訳:Tarao Goo)

 この記事は、2021年5月19日に本ブログのオリジナル(本国版)である「Oryx-Blog(英語)」で公開された記事を翻訳したものです。 意訳などにより、僅かに本来のものと意味や言い回しが異なっている箇所があります。

 Benden bu millet için bir șey istiyorsanız, en mükemmelini istemelisiniz. Madem ki bir millet tayyaresiz yaşayamaz, öyleyse bu yaşama vasıtasını başkalarının lütfundan beklememeliyiz. Ben bu uçakların fabrikasını yapmaya talibim. - この国のために私に何かして欲しいなら、最も素晴らしいものを求めるべきだ。飛行機なしでは国家は生きられないのだから、私たちはこの生きる術を他人の恩恵に期待すべきではない。私はこれらの飛行機の工場を建てることを熱望している:ヌリ・デミラー

 航空大国としてのトルコの台頭について、その規模と範囲、そしてスピードの面で、近代史において比類のないものです。この偉業は、彼らが防衛分野でのほぼ自給自足を達成させるという目標に向けた不断の努力と、外国のサプライヤーやトルコに何度も制裁を加えている国への依存度を軽減させてきたことが大いに影響しています。この政策の成果はすでにトルコ軍のほとんどの軍種で活躍していますが、自給自足を達成するための最も野心的な試みは、間違いなく新型ジェット練習機「ヒュルジェット」とステルス戦闘機「TF-X(カーン)」の開発でしょう。いずれもこの10年で初の試験飛行が予定されています。(注:前者は2023年4月25日、後者は2024年2月21日に初飛行を実施しました)

 しかしながら、トルコによる軍用機開発・生産への取り組みは有人システムだけに限定されるものではありません。トルコには現在、無人戦闘機の開発計画が少なくとも2つあります。そのうちの1つは、今年後半に就役する予定のバイカル・テクノロジーが開発した「バイラクタル・アクンジュ」です。「アクンジュ」は、巡航ミサイルや視界外射程空対空ミサイル(BVRAAM)発射能力を含む斬新な能力をこの分野にもたらし、自身がそれらを実行可能な世界初の無人プラットフォームとなります。このUCAVはトルコの無人機戦能力の範囲を飛躍的に拡大させることになるでしょう。というのも、100キロメートルも離れた敵機やUAV、ヘリコプターも標的にできるようになるからです。

 「アクンジュ」の生産が意欲的に進められている一方で、もう1つの無人戦闘機「MİUS(Muharip İnsansız Uçak Sistemi)」計画が進められています。2023年までに初飛行を予定しているこの超音速戦闘無人機は、戦闘空域で精密爆撃、近接航空支援(CAS)任務、敵防空圏制圧(SEAD)を遂行できるように設計されています。(この記事を執筆した2021年5月)現在のところ、MİUS計画はまだ設計段階にとどまっていますが、トルコの防衛産業が盛況していることを示すものです。 独自の解決策で困難を克服する素晴らしい能力のおかげで新しい計画が迅速に採用され、トルコは複数の防衛分野で技術革新の最前線に立っていると言っても過言ではありません注:「MİUS」は「クズルエルマ」と命名され、試作機が2022年12月に初飛行を記録しました

 しかし、多くの人に知られていないのは、「TF-X」も現在開発中の「MİUS」も、トルコが初めて国産戦闘機の設計に挑戦したものではないという事実です。このような航空機を実現させようと最初に挑戦したのは、実は1930年代まで遡ることができます。当時、トルコの航空機設計者であるヌリ・デミラー(1886~1957年)が型破りで革新的な双発単座戦闘機の設計に着手したのです。 残念なことに、ヌリ・デミラーの功績はトルコ国外ではほとんど注目されておらず、国内でも彼の斬新な飛行機が最近まで全く知られていませんでした。


 ヌリ・デミラーの功績と「Nu.D.40」そのものについて詳しく説明する前に、より富んだ洞察力を得るために第二次世界大戦勃発以前のトルコにおける航空産業史を簡単に説明します。1930年代にはヨーロッパの大部分の国が何らかの形で航空機産業を抱えていましたが、トルコでは武力衝突や(民間)輸送における航空機の役割が急速に拡大することを見越しており、すでに1925年2月にトルコ航空協会(Türk Hava Kurumu - THK)が設立されていました。そして、彼らは初期段階のサポートと専門知識を得るために外国のパートナーとの提携を求め、ドイツのユンカース社と契約を結び、1925年8月にTayyare and Motor Türk AnonimŞirketi(TOMTAŞ)が設立されるに至りました。[1]

 ユンカースとの契約では、小型機の生産とオーバーホールを行う工場をエスキシェヒルに、大型機の生産と整備を行うより大規模な施設をカイセリに設立することが定められました。当初はドイツが中心となって運営されていたものの、ドイツの関与は徐々に縮小して現地の部品や労働者による生産に置き換えられ、最終的には真の意味での国産化へと進んでいったのです。[1] 

 TOMTAŞで最初に生産されたのはユンカース「A20」偵察機と「F13」輸送機で、それぞれ30機と3機が生産されました。同社が最終的に年間約250機の航空機を生産することを計画していたことは、この設立が国産航空機産業を立ち上げるための形だけの試み以上のものであったことを示しています。

 ところが、設立直後からユンカース側の財政難を主因として、最終的にプロジェクト全体を崩壊に導くような問題が発生し始めました 。この時すでに倒産寸前であったユンカースに対するドイツ政府の支援が打ち切られた後、同社は1928年6月にトルコとの提携を正式に解消し、その数か月後にはTOMTAŞも閉鎖されてしまったのです。[1]

 工場についてはトルコ国防省へ移管後も整備・修理事業を継続し、1931年にカイセリ航空機工場と改称され、1942年まで航空機の組み立てを続けました。[2] 現在、カイセリにあるTOMTAŞの跡地にはトルコ空軍の主要な戦術輸送航空基地である(エルキレト空軍基地)があり、「A-400M」、「C-130」、「CN-235」輸送機が配備されています。

1930年代のカイセリ航空機工場で生産中のPZL「P.24」(ライセンス生産)

 トルコの国産航空機産業の役割が、いつの日か航空機を設計・製造するという当初の目標ではなく、組み立てに絞られるようになったことで、トルコの実業家ヌリ・デミラーは、この分野におけるトルコの取り組みを再始動させるという構想を抱き始めました。彼は技術革新や大規模な建設プロジェクトを全く知らなかったわけではありません。というのも、彼の会社が1920年代の時点でトルコ全土に約1.250kmの鉄道を敷設したことがあるからです。[3] 

 トルコ鉄道発展への貢献を称え、1934年、ムスタファ・ケマル・アタテュルク大統領は彼にデミラー(鉄の網)という姓を与えました。彼の次のプロジェクトはさらに野心的なスケールのもので、私財を投じて1936年にイスタンブールのベシクタシュ地区に航空機工場を設立したのです。すでに同年、デミラーと彼の技術チームが設計した最初の飛行機が形になり始めていました。「Nu.D.36」は2人乗りの初等練習機で、最終的に24機が生産されています。[3]

 まもなく、より野心的な設計の双発旅客機「Nu.D.38」が登場しました。試作機の製造は第二次世界大戦中も続き、1944年には初の試験飛行が行われたものの、試作で終わっています。成長と航空事業をより円滑に進めるため、デミラーはイスタンブールのイェシルキョイに土地を購入し、現在のアタテュルク空港がある場所に飛行場と飛行学校(1943年まで約290人のパイロットを養成)を設立しました。[3]

 彼の幅広い野心と分野を超えた多大な取り組みは、自身の目標が航空機の設計と製造だけにとどまらず、 トルコ全体の航空関連活動に対する大衆の参加と関心を高めるプロセスを立ちあげることも目指していたことを十分に証明していると言えるのではないでしょうか。

1942年、イェシルキョイ空港に並ぶ「Nu.D.36」




1940年代初頭、「Nu.D.38」の試作機が製造されている光景

 献身的な努力にもかかわらず、やがて彼は、自国の航空産業が繁栄するために必要な環境を提供できないばかりか、その存続そのものに積極的に反対する政府に直面することになります。THKは24機の「Nu.D.36」を発注していましたが、イスタンブールからエスキシェヒルへの試験飛行後に不時着した(パイロットのセラハッティン レシット・アランが死亡に至らせた)事故を受け、同機の発注をすべてキャンセルしたのです。[3]

 これに対し、デミラーは訴訟を開始しました。何年にもわたる長引いた裁判でしたが、航空機には何の欠陥もないことを証明する複数の専門家の報告にもかかわらず、裁判所は最終的にTHKを支持する判決を下しました。[3]

 同様に、待望の「Nu.D.38」は、(ターキッシュ エアラインズの前身である)トルコ国営航空やその他の政府機関からの注文を獲得することができませんでした。さらに追い打ちをかけるように、デミラーの飛行機を他国へ輸出することを禁止する法律が制定されたことで、スペインを含む「Nu.D.36」に関心を示していた数か国との交渉が打ち切られてしまったのです。[4]

 そして、トルコ空軍からの発注も得られなかったため、彼の工場は1943年に閉鎖を余儀なくされました。 この状況を覆すため、デミラーはイスメト・イノニュ大統領を含む政府高官に何度も陳情したものの、結局は効果が得られませんでした。[3]

 こうして、彼の多大な努力は実らず、国産航空産業の有望なスタートが途絶えてしまったのです。トルコ航空界への貢献を記念して、2010年にはスィヴァス空港に彼の名前が付けられました。彼の名前が認知されるのは遅くてもないよりはマシですが、トルコの歴史においてデミラーが十分に評価されていない人物であることは間違いないでしょう。

 ヌリ・デミラーと彼の航空機工場の物語はここで終わったと思われていました。数年前、研究者のエミール・オンギュネルがトルコとドイツの公式文書から、デミラーと彼の技術チームによる別のプロジェクト「Nu.D.40」の存在を発見するまでは。その型破りなデザインとドイツで風洞実験が行われた機体という事実を考えると、この飛行機の存在が長い間にわたって忘れ去られていたことは、実に驚くべきことと言えるでしょう。

 「Nu.D.40」に関する情報の多くは、1938年にドイツのゲッティンゲンにある空気力学研究所 (Aerodynamische Versuchsanstalt, AVAが実施した風洞試験に由来します。試験終了後、AVAはデミラーに、(試験で判明した事項を詳述した)110ページにも及ぶ包括的な報告書を送付しました。[5]

 ところが、度重なる連絡ミスにより、AVAは当初要求していた資金の一部しか集めることができず、1940年には「Nu.D.40」に関する機密報告書をドイツの航空会社2社に譲渡してしまったのでした。[6]

 「Nu.D.40」について、機体の構成やエンジンの種類、武装案等はほとんど知られていません。第二次世界大戦が勃発する前に設計されたため、国産化できない部品(特にエンジンと武装)は海外から調達する必要があったものの、ヨーロッパ全土で戦火が拡大する中での調達は不可能に近いものでした。この事実を無視して、仮に完成させた場合を考えてみますと、ドイツ製の航空機用エンジン2台と、機関砲または重機関銃2挺と軽機関銃2挺という武装の組み合わせが、もっとも妥当な機体の構成だったように思われます。


 やがて、エミール・オンギュネルは自分の発見をトルコ航空宇宙産業(TAI)のテメル・コティル会 長兼CEO(当時)に対し、興奮気味に『この飛行機を絶対に作るべきだ!』と伝えたとのことです。こうして、「Nu.D.40」復活チームが結成されたわけですが、まずは3Dのデジタルモデルが作成された後、1/24スケールの模型が製作されました。次のステップには、「Nu.D.40」のUAVモデル(1/8と1/5スケールが1機ずつ)の組み立てが含まれます。[7]

 最終的には、実物大の1/1レプリカモデルが製作され、デミラーの夢である「Nu.D.40」の飛行をついに実現させる予定です。


 計画されている1/1のレプリカモデルの機体構成の場合、「Nu.D.40」は同時代にフォッカーが設計したオランダの「D.23」単座戦闘機と驚くほどよく似た姿になるでしょう(実際のところ、ヘッダー画像は第二次世界大戦時のトルコ空軍の塗装が施された「Nu.D.40」に似せて修正された「D.23」なのです)。

 「D.23」計画は、最高速度約535km/h、13.2mm機関砲2挺と7.9mm機関砲2挺を装備する迎撃機として1937年に構想がスタートしたものです。実寸大のモックアップが1938年のパリ航空ショーで初公開され、翌年の1939年3月に試作機が完成しました。[8] 「D.23」はその2か月後に初飛行を実施しましたが、1940年4月の11回目の試験飛行中に機首車輪が損傷したため、分解して修理のために輸送しなければならない状態となりました。[8]

 1940年5月にドイツ軍がオランダに侵攻したとき、「D.23」はまだ機首の車輪を修理しておらず、格納庫に保管されたままだったため、ほとんど無傷で生き残ることができました。オランダ征服から僅か2週間後、ドイツ空軍がこの飛行機の視察と、ドイツへの輸送準備をしにやって来ました。有望なプロジェクトをそう簡単に敵に引き渡すわけにはいかなかったフォッカーは、ドイツの代表団に対し、「D.23」はオランダ空軍ではなくフォッカーの所有物であり、ドイツがこれを欲しいのであれば高額の買収費用を支払う必要があることを要求したことで、ドイツ側の関心が急速に失われていったのです。 [8] 

 結局、この機体は「記念品ハンター」によって次第に分解されていき、連合軍によるスキポール空襲で破壊されました。「D.23」が就役していれば、その時代で最も興味深い航空機の一つになっていたでしょう。しかしながら、第二次世界大戦の勃発によって、この飛行機は大きな期待に応えることができなかったのは言うまでもありません。






 長年にわたる綿密な調査を経て、エミール・オンギュネルは「Nu.D.40」に関する全ての知見を『Bir Avcı Tayyaresi Yapmaya Karar Verdim』という本にまとめました。この本は、ドイツとトルコの公文書館から収集した公文書を用いて、この航空機の設計史に焦点を当てています。現在はトルコ語版しかありませんが、将来的には英語版も出版されることを期待しています。『Bir Avcı Tayyaresi Yapmaya Karar Verdim』は、トルコの有名オンラインストアやトルコ科学技術研究会議(TÜBİTAK )で260トルコリラ(約943円)で注文可能です。


 トルコ初の(無人)国産戦闘攻撃機は、「Nu.D.40」の設計から約83年後の2021年に就役する予定です。「Nu.D.40」が当時革新的であったように、「アクンジュ」も革新的なものです。ヌリ・デミラーは今ではほとんど忘れ去られてしまいましたが、近代的な国産航空産業に対する彼のビジョンを受け継ぐ人々がいることは注目に値します。

 バイカル・テクノロジーのような企業は、非常に献身的な人々のチームが何を達成できるかを実証しています。 彼らはデミラーのようにリスクを恐れず、祖国と技術への愛を第一とし、多くの利益を得ることを二の次にしているのです。100年近く前にデミラーが知っていたように、これらの目標を達成するためには人々の関心を集めることが重要です。デネヤップテクノフェストといった技術ワークショップやイベントを通じて、バイカルは同社の工場や他のトルコの技術系企業に同じ志を持つ大勢の人々を引き寄せるに違いありません。未来を見据えるこれらの企業は、空における自国の運命のみならず、人々の心にも変革をもたらそうとしているのです。

 編訳者注:「アクンジュ」は2021年8月29日に就役し、対テロ作戦など実戦に投入されています。ムラドAESAレーダーの統合試験などが実施されています(この統合によって、BVRAAMなどの運用能力が付与され、本来想定していた能力が完全に発揮できることになります)。


[1] Turkey's First Aircraft Factory TOMTAŞ https://www.raillynews.com/2020/07/The-first-aircraft-factory-turkiyenin-tomtas/
[2] TOMTAS - Tayyare Otomobil ve Motor Türk Anonim Sirketi http://hugojunkers.bplaced.net/tomtas.html
[3] Aviation Facilities of Nuri Demirağ in Beşiktaş and Yeşilköy https://dergipark.org.tr/tr/download/article-file/404341
[4] The 24 Nu.D.36s that had been produced for the THK were donated by to the local flight school and later scrapped.
[5] Nuri Demirağ’ın Almanya’da kaybolan avcı uçağı: Nu.D.40 https://haber.aero/sivil-havacilik/nuri-demiragin-cok-az-bilinen-ucagi-nu-d-40/
[6] Nuri Demirağ’ın Bilinmeyen Uçağı: Nu.D.40 https://www.havayolu101.com/2019/01/10/nuri-demiragin-bilinmeyen-ucagi-nu-d-40/
[7] We’re very proud to realize Nuri Demirağ’s dream https://defensehere.com/eng/defense-industry/we-re-very-proud-to-realize-nuri-demirag-s-dream/75967
[8] Fokker D.23 https://geromybv.nl/home/fokker-d-23-willem-vredeling/



 2025年現在の情報にアップデートした改訂・分冊版が発売されました(英語のみ)

2025年7月19日土曜日

アタテュルクの潜水艦:トルコ海軍で運用されたドイツのUボート


著:シュタイン・ミッツアー と ヨースト・オリーマンズ(編訳:Tarao Goo)


 この記事は、2023年4月4日に本ブログのオリジナル(本国版)である「Oryx-Blog(英語)」で公開された記事を翻訳したものです。 意訳などにより、僅かに本来のものと意味や言い回しが異なっている箇所があります

 Yeni dört denizaltı gemimiz için bildirdiğimiz isimler şunlardır; 1) Saldıray, 2) Batıray, 3) Atılay, 4) Yıldıray. Bunların manalarını izaha bile hacet olmadığı kanaatındayım. Manaları, som Türkçe olan bu kelimelerin kendisindedir, yani saldıran, batıran, atılan, yıldıran. – 私たちが発表した4隻の新潜水艦の名称は次のとおりです:1) サルディライ、2) バティライ、3) アティライ、4) イルディライ。これらの名前の意味については、説明の必要はないと思います。これらは純粋なトルコ語であり、それぞれ「攻撃する者」「沈める者」「射る者」「威圧する者」を意味します:ムスタファ・ケマル・アタテュルク

 1930年代の急速に近代化を進めるトルコは、社会や公共サービスなどのさまざまな分野での近代化に大きな関心を寄せていたため、ドイツの高度な産業に目を向けました。それからの10年間を通じて、ナチスから逃れた約300人のドイツ系ユダヤ人科学者がトルコに温かく歓迎され、研究を続けたのです。その一方で、トルコ空軍は1937年にドイツから合計24機の 「He 111」爆撃機と26機の「Fw 44 /58K」練習機を注文する動きを見せています。[1]また、 1940年、国営の鉄道会社であるTCDDは、当時ヨーロッパと世界で最も先進的な列車と肩を並べるドイツの「MT5200」気動車6両を発注しました。[2]

 ドイツのハイテク技術を導入する試みの中で最も重要と言っても過言でないものは、1936年にトルコ海軍がドイツの「UボートIX」級を基に設計された「280号計画型/アイ」級潜水艦4隻を発注したことでしょう。

 「アイ」級は、オランダのダミー会社「NV Ingenieurskantoor voor Scheepsbouw」によって正式に開発された艦です。同社はドイツの潜水艦開発のフロント企業でした。というのも、この時点で自国での潜水艦の設計等はヴェルサイユ条約で禁止されていたからです。発注された潜水艦について、2隻はドイツで、残りの「アティライ」と「イルディライ」はイスタンブールのタシュキザク造船所で建造される予定でした。ドイツで建造された「バティライ」は機雷敷設用潜水艦として完成したものの、完成後の1939年にドイツ海軍に接収・就役するという運命を迎えたので、トルコ海軍とは無縁の存在となっています。

 トルコにとって幸いにも、「サルディライ」は「バティライ」よりも数か月早く完成したため、接収される運命から免れることができました。 Uボートの建造は1937年2月にキールのクルップ・ゲルマニア造船所で開始され、翌年7月にドイツとトルコの高官の立会いの下で進水しました。その後、大規模な艤装を経て、1939年初頭に引き渡し可能な状態になったのです。[3] 

 ところが、戦争前の緊迫した情勢下で、完成した潜水艦をトルコへ航行させるための十分な人員を確保できないという事態に陥ってしまいました。これにより、「サルディライ」の出航は1939年4月2日まで延期されることになり、最終的ドイツ国旗を掲げ、トルコ人水兵とドイツ人将校で構成された乗組員の手によってエーゲ海へ出航したのでした。[3]

1938年7月、「サルディライ」の進水式でクルップ・ゲルマニア造船所で働く作業員たちがナチス式敬礼を行ってい(背後には敬礼するドイツ海軍将兵の姿が確認できる)。右側は建造中の「バティライ」である。

 トルコ政府が自国の水兵をドイツに派遣するという決定は、「サルディライ」をトルコから救った最大の要因と考えられます。仮に回航が数か月遅れていれば、同艦もドイツ海軍に接収されていたはずだからです。1939年6月5日、イスタンブールの金角湾で「サルディライ」の就役式典が実施された時点で、「イルディライ」と「アティライ」は、僅か数キロメートル離れたタシュキザク造船所でまだ建造中でした。これらの潜水艦はドイツの指導の下でトルコの作業員によって建造され、主に現地で調達された資材が使用されました。[4]

 「アティライ」は1939年に進水して翌年に就役しましたが、第二次世界大戦の勃発に伴うドイツ人技術者の帰国や部品の供給が途絶えたため、「イルディライ」は進水から6年後の1946年にようやく就役しました。

1939年、金角湾で進水した際の「アティライ」。

1939年の「イルディライ」進水式の様子。ドイツの技術支援の打ち切りと重要な部品の供給停止により、トルコ海軍が同艦の実戦配備に成功したのは1946年になってからだった。

 4隻の高度な洋上型Uボートの調達と国内での建造はトルコの防衛にとって極めて重要なものです。そうした理由もあって、トルコ共和国初代大統領ムスタファ・ケマル・アタテュルクは自ら潜水艦の名前を命名することを決定しました。1938年1月17日、彼はマフムト・ジェラル・バヤル首相宛てに4隻の潜水艦の名前を通知する書簡を送ったものの、同年11月に死去したため、最初の潜水艦がトルコに到着する光景を目にすることはありませんでした。 

 アタテュルクが潜水艦の命名について手書きで記した大統領令についてはイスタンブール海軍博物館で展示されており、それがトルコ海軍にとって重要な意味を有していること(そして、おそらく象徴的な意味では今でも)を物語っています。

高速で航行中の「アティライ」。司令塔の前方に装備されている10.5cm砲に注意。

 「アイ」級潜水艦は533mm魚雷発射管を6基(船首に4基、船尾に2基)装備しており、合計14発の魚雷を搭載可能です。この潜水艦は3,500馬力の出力を誇るデンマークのブアマイスタ・オ・ウェーイン製ディーゼルエンジン2基と2基のモーターを装備し、水上で約20ノット(約37km/h)、潜航時で約9ノット(約16.5km/h)で航行することができました。[4]
 なお、「バティライ」の航続距離は水上10ノットで13,100海里(19,400km)、潜航時4ノットで最大75海里(144km)でした。[5]

 他の3隻は、水上では10ノット(18.5km/h)の速度で8,000海里(14,800km)の航続距離を誇っていました。乗組員は約45名の士官と水兵で構成されています。「アイ」級潜水艦4隻は、司令塔の前方に「L/45」10.5cm砲を装備していました。なお、「サルディライ」と「アティライ」は、司令塔の後方にエリコン製20mm対空機関砲も装備しています。「バティライ」は、魚雷発射管から射出できる機雷を最大で36発も搭載することができました。

 ところで、「アイ」級はトルコ海軍に就役した最初の(ドイツ起源の)潜水艦ではありません。1925年、ドイツのダミー企業であるNV Ingenieurskantoor voor Scheepsbouw(IvS)は、トルコ海軍向けに第一次世界大戦時代の「UB III」級潜水艦をベースにした「46号計画型」沿岸型潜水艦2隻を受注しました。両艦はオランダのロッテルダムにあるウィルトン・フェイエノールト造船所で1927年に建造され、1928年にそれぞれ「ビリンジ・イノニュ」と「イキンジ・イノニュ」と命名されてトルコ海軍に就役しました。[6]

 「46号計画型」に続いて「111号計画型」設計されましたが、この設計も同じくIvSによって行われています。そもそも、この潜水艦の建造は1930年にスペイン海軍向けに開始されたわけですが、同海軍が関心を示さなかったため、1935年にトルコ海軍に売却され、「ギュル」として就役しています。[7] 

 そして、イタリアから2隻の潜水艦を調達したことで、1930年代におけるトルコの海軍整備事業が完了したのでした。 [8] [9]

「46号計画型」沿岸型潜水艦は、IvS社によって第一次世界大戦時代の「UB III」級をベースにトルコ海軍用に開発されたものだ。トルコ海軍は1925年に2隻を発注し、1928年に就役した。名称はオスマン語のアラビア文字で表記されているが、1928年にラテン文字を基にした現代のアルファベットに置き換えられた。

 「サルディライ」と「イルディライ」は、1957年に元アメリカ海軍の「バラオ」級潜水艦に更新されるまで、トルコ海軍で平穏無事な経歴を送りました。

 「アティライ」は、1942年7月14日にダーダネルス海峡で触雷して沈没し、乗員38名全員が艦と運命を共にする悲惨な運命を迎えました。この潜水艦が目的地に到着にしなかったことから捜索救助作戦が開始され、同日午後8時30分頃に海面に「アティライ」の浮標が発見されました。浮標に設置された電話は正常に機能していたものの、何度かけても「アティライ」からの応答がなかったことから、その悲惨な運命が確認されたのでした。「アティライ」沈没から52年後の1994年、この潜水艦の残骸は海岸から約6km離れた地点の深さ68メートルの海底でついに発見されました。

 「アティライ」と悲しい運命を共にした乗員たちについては、当時の著名なトルコ人歌手ハミイェト・ユジェセスの歌『Gitti de Gelmeyiverdi(彼は行き、そして帰らなかった)』で偲ばれています。彼女の夫も乗員の一人だったのです。

「アティライ」と運命を共にした乗員たち。1942年7月、同艦は1915年のガリポリの戦いで敷設された機雷によって沈んだ。画像は沈む数か月前に撮影された。

 1939年に完成直後に接収された「バティライ」については、同年9月20日に「UA」としてドイツ海軍に就役しています。機雷敷設用の潜水艦として装備されていたものの、ドイツはこれを(「バティライ」のベースとなった)通常のUボート「IX」型として運用しました。運用期間(1940年6月から1941年3月まで)中、同艦は6回の航海を実施し、その間に連合軍の艦船8隻を沈めるという戦果を挙げています。これらの中には、イギリスの補助巡洋艦である「HMSアンダニア」も含まれていました。

 第二次世界大戦中にドイツ海軍に配備された14隻の外国潜水艦によって沈没した艦艇は10隻ですが、その中の8隻が「UA」によるものです。この潜水艦は1942年7月から訓練用として使用され、それ以降は戦闘任務に就くことはありませんでした。結局、1945年5月3日にキールで自沈処分されるという運命を迎えています。

トルコ海軍の「バティライ」は引き渡し前にドイツに接収され、「UA」という名で就役した。

 1930年代に確立された "ドイツ先進的な潜水艦を運用する" という伝統は、完全にドイツが設計した潜水艦で構成された現代のトルコの潜水艦隊で継承されています。

 今後は、すでに就役している「209型」潜水艦に加えて、2020年代に就役する(ドイツの「214型」潜水艦をライセンス生産した)6隻の「レイス」級潜水艦によって潜水艦隊の強化が図られる予定です。 これらのいずれにも「アイ」級潜水艦の名称が付与されることはありませんが、これらの謎多き潜水艦の精神は、ほぼ1世紀後に登場する後継艦に受け継がれることでしょう。

 「アティライ」の遺産をより具体的な形で継承するため、その残骸を水深30メートルの海底博物館の一部として移設する試みが提起されています。こうした計画は依然として実現に至っていません。そもそも、船体の状態が構想を実現不可能にする可能性すらあります。38名の乗員の最後の安息の地として、この船が静かな海で残りの時を過ごすことが最善かもしれません。


Gitti de gelmeyiverdi - 出て行ったあの人は戻ってこなかったわ
Gözlerim yolarda kaldı - あの人の帰りを待つわ (道を見ながら)
Hele nazlım nerde kaldı - あの人は何処へ?
Ne zaman ne zaman gelir - いつになったらあの人は帰ってくるの?
Gel a nazlım lahuri şallım - 来て、私の愛しいラウリ・シャリム
Sağı solu dolaşalım - 一緒に歩きましょうよ
Ne zaman ne zaman gelir - いつになったらあの人は帰ってくるの?

海底で眠る「アティライ」

[1] The unlikely haven for 1930s German scientists https://physicstoday.scitation.org/do/10.1063/pt.6.4.20180927a/full/
[2] Presaging Modernity: Turkey’s MT5200 Trains https://www.oryxspioenkop.com/2021/12/presaging-modernity-turkeys-mt5200.html
[3] TÜRK DENİZALTICILIK TARİHİ http://www.denizalticilarbirligi.com/db.dztarih.htm
[4] SALDIRAY submarines (1939-1946) https://www.navypedia.org/ships/turkey/tu_ss_saldiray.htm
[5] BATIRAY submarine https://www.navypedia.org/ships/turkey/tu_ss_batiray.htm
[6] BİRİNCİ İNÖNÜ submarines (1928) http://www.navypedia.org/ships/turkey/tu_ss_birinci_inonu.htm[7] GÜR submarine (1934) http://www.navypedia.org/ships/turkey/tu_ss_gur.htm
[8] DUMLUPINAR submarine (1931) http://www.navypedia.org/ships/turkey/tu_ss_dumlupinar.htm
[9] SAKARYA submarine (1931) http://www.navypedia.org/ships/turkey/tu_ss_sakarya.htm



【お知らせ】この本の英語版については、2025年7月15日に改訂・分冊版の1冊目が発売されました。

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2024年10月13日日曜日

さらばベルリン:トルコの「He111」爆撃機


著:シュタイン・ミッツアー と ヨースト・オリーマンズ(編訳:Tarao Goo)

 当記事は、2022年11月24日に本国版「Oryx」に投稿されたものを翻訳した記事です。意訳などにより、僅かに本来のものと意味や言い回しが異なっている箇所があります。

 タイトルとヘッダー画像を見ると、この記事で私たちが機種を間違えたと容易に結論付けられてしまうかもしれません。誰もが知っているハインケル「He111」が備える特徴的な全面ガラス張りのコックピットはどこにあるのか、と問いたい人もいるでしょう。*

 それでも、画像の機体は正真正銘のドイツ製ハインケル「He111」であり、これは1937年後半から1938年前半にかけてトルコ空軍 (Türk Hava Kuvvetleri) に引き渡された24機のうちの1機なのです。

 「He111」の最大の特徴がない理由については、トルコが購入した機体が初期の「J」シリーズであったことや、機首の全面がガラスで覆われた風防のデザインが、より一般的なタイプである「P」シリーズから導入されたことで説明できます。

 以上で話を進めるための厄介な障害が取り除かれましたので、そもそもトルコがなぜ「He111」を入手したのかの経緯を解説しなければなりません。

 1930年代のトルコは、新たに出現した脅威(特に地中海におけるファシスト・イタリアの台頭)に立ち向うための軍事的手段を欠いていました。

 自国軍の荒廃に直面したため、トルコは海外から大量の軍備を発注し始め、その中のに同国初となる本格的な爆撃機:アメリカのマーチン「139WT」も含まれていました。[1]

 性能は依然としてこの国の対地攻撃機の大部分を占めていた1920年代の「ブレゲー19」複葉機から大幅に向上したものの、僅か20機の爆撃機の入手はトルコのような大国が防衛上のニーズを満たすには到底十分とは言えないものだったことは間違いありません。

 こうした理由から、1937年3月に数多くの航空機メーカーが最新の製品を披露するためにトルコに招かれたのです。

 トルコとのビジネスに意欲的なハインケル社が展示した最新の「He111 F-0」は、この買収劇を主催したトルコから賞賛を得たようで、展示飛行が実施された後の1937年3月には、24機の「He111 J-1」が発注されました。[2]

 このうちの18機はすでに同年10月に到着しており、残る6機も1938年初頭に到着したことが記録に残っています。

 トルコがドルニエ「Do17」を2機入手したとも言われていますが、これは最終的にハインケルが受注した入札向けとして1937年にトルコで展示飛行した機体と混同している可能性があるかもしれません。[3]

トルコのラウンデルが施された「Do 17 M」または「Do 17 P」:実際にトルコがこの機種を入手したのか、あるいは1937年の展示飛行の際にドルニエ社がトルコのラウンデルを施したのかは、いまだに謎に包まれている

 「He111」が発注から僅か7か月で納入されたことが、トルコ空軍を大いに喜ばせたことは間違いないでしょう。また、1932年にフランスから中古で購入した旧式の複葉爆撃機である「ブレゲ19」の退役も可能にさせたようです。

 納入後の「He111」については、北西部のエスキシェヒルを拠点とする第1航空連隊第1大隊の第1及び第2飛行隊に配備され、各飛行隊はそれぞれ8機の「He 111 J-1」を運用し、さらにもう6機が予備機として用いられました。[4][5]

 トルコ軍の「He111」のパイロットは、1937年に同じくドイツから入手した6機のフォッケウルフ「Fw58 "ヴァイエ"」多用途機で訓練を受けました。[4]

 しかし、まもなくしてトルコ空軍は予期しない苦境に立たされることになりました。1941年6月にベルリンからアンカラに「旧式化のために、これ以上は「He111」のスペアパーツの供給できる見込みがない」旨が通告されたからです。[5]

 このお粗末な言い訳をした理由については、その数日後にナチス・ドイツがソ連に侵攻したことで明らかとなりました。つまり、ドイツは自国の「He111」用にその全スペアパーツを必要としたわけです。

 「He111」を手放して処分場送りにすることを望まなかったトルコはイギリスに目を向け、「1940年のバトル・オブ・ブリテンで不時着した "He111" からスペアパーツを集めて供給することは可能か」という不思議な依頼をしたところ、ロンドンはこの要請に応じ、8基のエンジンとその予備部品、機体部品やコックピットの計器類を供給するという結果をもたらしました。[5]

 その一方で運用可能な「He111」の減少は、イギリスから約50機のブリストル 「ブレナム」「ボーフォート」といった爆撃機の安定的な供給を受けることでカバーすることができたようです。

 残存している「He111 J-1」については、1944年に(トルコから返還されずにいた)元アメリカ軍機の「B-24D "リベレーター"」重爆撃機5機と共に「戦略爆撃機」部隊に配備されました。これらの「B-24D」は1942年と1944年にトルコに不時着した11機から成る2個編隊の一部で、トルコ空軍によって運用されていた機体です。

 この新部隊に配備されてから1年後の1945年末に「He111 J-1」が退役したとき、入手した24機のうちの8機が依然として稼働状態にあったことは同機の頑丈な設計を実証したと言えるでしょう。

「He 111 J」の尾翼:納入飛行時に施されていたハーケンクロイツからトルコ国旗へ変更中の様子

 トルコが入手した「He111」のバージョンが「F」か「J」シリーズなのか、まだ若干の誤解がされているようです。

 「He 111 J」は「He 111 F」とほぼ同様ですが、前者はダイムラー・ベンツ製「DB 600G」エンジン2基(大型ラジエーター付き)と後縁を持つ(やや直線的な)新設計の主翼を備えるという特徴があります。

 もともと「He 111 J」はドイツ海軍向けの雷撃機として開発されたタイプですが、海軍がこのタイプに関心を失ったため、結局はドイツ空軍だけが運用することになったという経緯があります。最大120機が製造されたこのタイプは、1941年に「Ju 88」に更新されるまで主に洋上偵察で活用されました。「J」型は最終的に1944年まで訓練学校で使われました。

 結局、トルコが「海軍化」された「He 111 J-1」を入手することになった理由は、納期が約7か月強と短かったからだと思われます。

 「F型」と「J型」の運用上のスペックはほぼ同一であり、最高速度は305km/h、防御機銃は機首・胴体上部に加えて下部の「ダストビン(ゴミ箱)」引き込み式銃塔に 「MG-15」7.92mm機銃が各1門、つまり合計で3門が装備されていました。

 爆弾倉については、マーチン「139WT」が僅か1,025kgしか搭載できないのと比較すると、「F型」及び「J型」は2,000kgものペイロードを誇っていました。

主翼にあるトルコのラウンデルが無ければ、"イギリス上空を飛ぶ2機のハインケル「He 111」"と容易に(誤って)信じられてしまいそうな1枚

 ほとんどの「He111」と異なって、トルコ軍の機体は一度も怒りに任せて爆撃することはなかったものの、戦争で用いた国々の機体よりもはるかに長く(約8年間)運用されたのでした。

 連合国が望んでたようにトルコが(1945年2月にしたよりも)早くナチス・ドイツに宣戦布告していれば、自身の祖国に対する「He 111」の使用は興味深い歴史の一章となったかもしれません。

 いずれにしても、トルコ航空史の草創期に関する物語と常に独特な機体の入手方法は人々の心を必ず捉え、今では遠い昔の記憶と化しつつあるこの激動の時代に対する驚異の念を呼び起こすものと言っても過言ではないでしょう。
 

* 読者からの意見があるにもかかわらず、著者は「He 111」の有名なガラス張りの機首は常識と考えられるべきものと思っています。












2024年7月7日日曜日

消えゆく歴史:トルコ軍のソ連戦車


著:シュタイン・ミッツアー と ヨースト・オリーマンズ (編訳:Tarao Goo)

 当記事は、2023年1月4日に本国版「Oryx」(英語)に投稿された記事を翻訳したものです。当記事は意訳などにより、僅かに本来のものと意味や言い回しを変更した箇所があります。

 あまりにも珍しいという理由で、熟練した軍事愛好家でも正確な識別ができない戦車は滅多にありません。

 とはいうものの、このケースには1934年にトルコへ1台輸出されたソ連の「T-37A」世界初水陸両用偵察戦車が該当すると思われます。なぜならば、この戦車はMKE「クルッカレM-1943」と呼称される国産の水陸両用軽戦車と誤って識別されていたからです。

 このような無知な誤解が生じたのは、1930年代前半から中期にかけて、ソ連がトルコ陸軍に送った兵器に関する情報が不足していたためかもしれません。

 武器市場におけるシェアの拡大や、広大な国境を越えて自身の影響力を拡大することを熱望したソ連邦は、1932年にトルコ軍へ「T-26 "1931年型(7.62mm機関銃塔2門を搭載)"」を2台、「T-27」タンケッテ(豆戦車)4台、若干数のトラックやオートバイを供与しました。[1]

 ソ連は、供与された戦車でトルコ軍が得た成功体験が、彼らによるソ連製兵器の大量発注につながることを期待していたようです。このアプローチは大きな成果を上げ、トルコは1934年に合計で64台の「T-26 "1933年型 "」と1台の「T-37A」軽戦車、そして34台の「BA-3」装甲車を発注するに至りました。[1]

 「T-26」はトルコ軍で就役した初の正真正銘の戦車であり、ギリシャとの国境付近にあるリュレブルガズに駐屯する、第2騎兵師団内に新設された第1戦車連隊に配備されました。[1]

 (この国の戦車隊は)すぐにイギリスから供与された多数のヴィッカース「Mk VI」軽戦車と1940年にトルコに到着した100台のフランス製ルノー「R35」によって補充を受けたものの、比較的強力な45mm砲の貫徹力が「T-26」 を(1941年にイギリスから最初の「バレンタイン」戦車が到着するまで)トルコで最も有能な戦車としての立場を確実なものにさせました。

 当時、戦車第1連隊は第102戦車師団・第103戦車師団・予備師団から構成されており、「BA-3」は第1及び第2装甲車師団に配備されました。[1]

 「T-26 "1931年型」と「T-27」は混成戦車中隊としてグループ化され、(1928年にフランスから「FT-17」を1台導入した理由と同じく)主に歩兵に対する戦車への習熟と他部隊への戦車の有効性を実証するために配備されました。[1]

 この編成は、1943年に最後の「T-26」と「BA-3」が退役するまで維持されたと考えられています。

リュレブルガズの第1戦車連隊に配備された「T-26 "1933年型"」戦車と「BA-3」装甲車

 第二次世界大戦のトルコは1945年2月まで中立だったおかげで、結果的にソ連から受領した「T-26」と「BA-3」が外敵と戦うことはありませんでした。

 ただし、これらのソ連製AFVがトルコ陸軍における戦車運用の基盤になったという事実は現在でもあまり知られていません。

 こうしたソ連製AFVの引き渡しから20年後にはトルコにその痕跡が残されておらず、その代わりに同国がソ連との戦争で用いられるであろう大量のアメリカ製戦車を得たことを考慮すると、この情報はさらに不可解なものと言えるでしょう。

1934年にソ連から供与された唯一の「T-37A」:この戦車は時折「クルッカレ」と呼ばれる国産戦車と思われるものと混同されている

 「T-26」とは対照的に水陸両用軽戦車のコンセプトはトルコ陸軍に全く受け入れられなかったため、「T-37A」は追加発注されることはありませんでした。

 武装はたった1丁の「DT」7.62mm軽機関銃である上に薄い装甲(前面で3mmから10mm程度)はだったため、この戦車には水陸両用能力以外に特筆すべきものはありません。

 それにもかかわらず、ソ連軍はこのコンセプトが自身のドクトリンに最適と見なし、1930年代に2500台以上の「T-37A」、後継の「T-38」を1300台以上、さらにその後継の「T-40」を350台以上も調達しました。

 「T-37A」と同様にタンケットのコンセプトもトルコ軍の首脳部を納得させることができなかったことから、トルコはソ連から供与された4台を除いて「T-27」や同様のものを他国から導入することはありませんでした。

 もちろん、第二次世界大戦後にタンケッテのコンセプトは(ドイツの「ヴィーゼル」を除いて)おおむね放棄され、それらが担っていた偵察の役割は軽戦車や 装甲車によって代替されたことは言うまでもないでしょう。

 トルコの「T-37A」と「T-27」については、その双方が現代に残ることはありませんでした。おそらくは1940年代後半にはすべてスクラップにされたものと思われます。

1933年のパレードに登場したソ連製「T-27」タンケッテ:後ろの横断幕には「ムスタファ・ケマル(のような人物)が生まれることは、私たちの国にとってどれほど幸運なことでしょうか」と書かれている

 「BA-3」装甲車は「T-27」や「T-37A」よりも僅かに好評であり、それは45mm砲1門と 「DT」 7.62mm軽機関銃1丁を装備した「T-26」と同じ砲塔を搭載しているという重武装のおかげでした(注:「DT」は車体にも1丁が装備されていました)。

 この装甲車の大きな弱点は機動性に欠いていることであり、その著しい重量の結果として運用は固い地面に限定せざるを得ない場合が頻繁にあったようですが、後輪への履帯をの装着で悪路における機動性を若干向上させることが可能でした。

 車体の装甲厚が9mmだった「BA-3」は、小火器の射撃や砲弾の破片に対する全方位的な防御力を備えていました。

トルコ軍の「BA-3」装甲車:後輪のフェンダー上にある(悪路走行用の)履帯に注目

 一部の「レオパルド2」 が運用から40年を超えるなど、現代の戦車は数十年の運用寿命を持つことが一般的となっていることとは対照的に、トルコにおける「T-26」の寿命は10年に満たないものでした(それでもこの同時代の戦車の平均寿命よりはるかに長かったのですが)。

 1940年代初頭までにソ連製戦車は酷使され、その悲惨な状態は(もはや戦争に突入したソ連から輸入できない結果として生じた)スペアパーツの不足によってさらに悪化してしまいました。こうした結果を受け、すでに1943年の時点で全ての「T-26」が退役しています。 [1]  

 生き残った2台の「T-26 "1933年型"」は、イスタンブールのハルビエ軍事博物館の敷地とアンカラ近郊のエティメスグット戦車博物館に展示されていますが、残念ながら当時の迷彩塗装のままではありません。

この「T-26 "1931年型"」は1932年にソ連から入手した2台のうちの一つである

歩兵との共同演習で塹壕を乗り越えるトルコ軍の「T-26 "1933年型"」

 今ではドイツやアメリカ製の戦車を大量に運用しているトルコにとって、ソ連製の戦車を装備した戦車部隊(事実上、この国で最初の戦車連隊)の設立は、まさに歴史上の奇妙な出来事と言えるでしょう。

 トルコは(ソ連・イギリス・ドイツ・アメリカ・フランスを含む)第二次世界大戦の主要国が開発したほぼ全ての戦車を運用した世界で唯一の国です。

 今ではこの歴史を示す痕跡はほとんど残っておらず、歴史家や作家たちが失われつつある情報を記録しようと試みているに過ぎません。

2024年4月3日水曜日

黄計画:1940年におけるドイツ軍のルクセンブルク侵攻で各陣営が損失した兵器類(全一覧)


著:シュタイン・ミッツァー と ヨースト・オリーマンズ (編訳:Tarao Goo

 第二次世界大戦におけるルクセンブルクでの戦いは、ルクセンブルク国家憲兵隊及び志願兵とドイツ国防軍の間で行われた短期間の戦闘であり、ナチス・ドイツが迅速に勝利を収めるという結果で終わったことは以外と知られていません。

 戦いの原因となったドイツによるルクセンブルクへの侵攻は1940年5月10日に始まり、僅か1日で終わりを告げました。

 1867年のロンドン条約の結果として、当時のルクセンブルクは軍隊を持たず、防衛は国家憲兵と志願兵から構成される小規模な部隊を当てにせざるを得ない状態でした。

 それにもかかわらず、ルクセンブルクはドイツの電撃戦からデンマークよりも長く生き残ることができました。なぜならば、デンマークには陸軍と空軍があったものの、1940年4月9日にナチス・ドイツに侵攻で始まった僅か2時間の戦闘の後に降伏したからです。

 ドイツ軍のルクセンブルク侵攻は3つの装甲師団がルクセンブルクの国境を越えた午前4時35分に始まり、彼らはスロープと爆薬を用いてシュスター線のバリケード突破に成功しました。散発的な銃撃戦を除くと、(志願兵の大部分が兵舎に籠城していたこともあったせいか)ドイツ軍が大した抵抗を受けたという記録はありません。

 少数のドイツ兵がヴォルムメルダンジュの橋を占領し、そこでドイツ軍の進撃停止を要求した2人の税関職員を拘束しました。(国境の)ザウアー川に架かる橋は部分的に破壊されていましたが、ドイツの工兵部隊によって迅速に修復を受け、戦車をルクセンブルク領内に入れることを可能にしました。

 国境検問所から国家憲兵隊や志願兵部隊の司令部への通信はルクセンブルク政府と大公宮に侵攻が始まったことを知らせ、午前6時30分に政府関係者の大多数が自動車に乗って首都から国境の町エッシュへ避難しました。ただし、彼らはそこで125人ものドイツ兵が待ち構えていたことを知りませんでした...「Fi156 "シュトルヒ"」で輸送された彼らは、すでに侵攻本隊が到着するまで同地域の確保に当たっていたのです。

 勇敢にも1人の国家憲兵隊員が125人の兵士に立ち向かって国から立ち去るように要求しましたが、彼は希望した答えを得る代わりに捕虜にされてしまったことは言うまでもないでしょう(注:殺害されなかったのは意外かもしれませんが)。

 ルクセンブルク大公を伴った政府関係者の車列はエッシュでの拘束を何とか回避し、田舎道を使ってフランスへの脱出に成功しました。

ルクセンブルクが侵攻される直前に、シュスター線のバリケード前でポーズをとっているルクセンブルクの国家憲兵隊員たち:中央の2名は小銃を背負っているが、両端の2名は非常に小さなスパイク型銃剣を装着可能な「モデル1884」型回転式拳銃を携行している[1]

 午前8時、第1シパーヒー旅団と第5機甲大隊の支援を受けたフランス第3軽騎兵師団は、南の国境を越えてルクセンブルクに入ってドイツ軍への威力偵察を試みるも失敗に終わりました。

 フランス空軍が進撃するドイツ軍に対して出撃を控えていたことに我慢できなかったイギリス空軍は、フランスに駐留していた第226飛行隊のフェアリー「バトル」軽爆撃機にドイツ軍の攻撃を命じました。ルクセンブルク上空で激しい対空砲火に遭った爆撃機部隊は何とかして危険な空域から脱出したものの、大部分の機体が軽い損傷を被り、このうち1機がヒールゼンハフ近郊へ墜落しました(この墜落では、乗員1名が死亡し、負傷した2名もドイツ軍の捕虜となりました)。

1940年5月10日にヒールゼンハフに墜落した "フェアリー「バトル」":3名の乗員はドイツ兵によって燃え上がる残骸から引き揚げられたものの、後にダグラス・キャメロン中尉は負傷が原因で地元の病院にて命を落とした[2][3]

 こうした間も国家憲兵隊はドイツ軍に抵抗し続けましたが全く歯が立たず、正午前に首都が占領され、夕方には南部を除く国土の大部分がドイツ軍に占領されてしまったのです。

 ルクセンブルクが受けた損失は戦傷者7名(このうち国家憲兵隊6名、兵士1名)であり、ドイツ国防軍の損失は戦死者36名でした。

 5月11日、国土から逃れたルクセンブルク政府はパリに到着し、在仏公使館に拠点を構えました。ドイツの空爆を危惧した政府はさらに南下し、最初にフォンテーヌブロー、次にポワチエに移し、その後はポルトガルとイギリスへ逃れ、最終的には戦争の終わりまでカナダに落ち着く結果となりました。

 当然ながら、カナダに亡命したシャルロット大公が国民統合の重要なシンボルとなったことも記憶にとどめておくべきでしょう。

シュスター線上に設けられた41個ものコンクリートブロックと鉄扉のうちの一つを通過する自動車:結果として。これらは実質的にドイツ国防軍の進撃を遅らせることができなかった

  • 以下の一覧では、ルクセンブルクでの戦闘で撃破や鹵獲された各陣営の兵器・装備類を掲載しています。
  • この一覧の対象に、馬は含まれていません(注:騎兵用と思われる)。
  • 仮に新たな損失が確認できる情報を把握した場合は、一覧を随時更新します。
  • 各兵器類の名称に続く数字をクリックすると、撃破や鹵獲された当該兵器類の画像を見ることができます。


  • ナチス・ドイツ (損失なし)


    ルクセンブルク (不明)

    自転車
    •  不明 政府支給の自転車: (多数, 鹵獲)

    フランス (損失なし)


    イギリス (1)

    航空機 (1, 墜落: 1)

    [1]Revolver with a Bayonet: Luxembourg Model 1884 Gendarmerie Nagant https://youtu.be/jYQNSQ3krWw

    ※  当記事は、2023年3月24日に本国版「Oryx」(英語)に投稿された記事を翻訳したも 
      のです。当記事は意訳などにより、僅かに本来のものと意味や言い回しを変更した箇所が
        あります。また、編訳者の意向で大幅に加筆修正を加えたり、画像を差し替えています。


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