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2024年10月13日日曜日

さらばベルリン:トルコの「He111」爆撃機


著:シュタイン・ミッツアー と ヨースト・オリーマンズ(編訳:Tarao Goo)

 当記事は、2022年11月24日に本国版「Oryx」に投稿されたものを翻訳した記事です。意訳などにより、僅かに本来のものと意味や言い回しが異なっている箇所があります。

 タイトルとヘッダー画像を見ると、この記事で私たちが機種を間違えたと容易に結論付けられてしまうかもしれません。誰もが知っているハインケル「He111」が備える特徴的な全面ガラス張りのコックピットはどこにあるのか、と問いたい人もいるでしょう。*

 それでも、画像の機体は正真正銘のドイツ製ハインケル「He111」であり、これは1937年後半から1938年前半にかけてトルコ空軍 (Türk Hava Kuvvetleri) に引き渡された24機のうちの1機なのです。

 「He111」の最大の特徴がない理由については、トルコが購入した機体が初期の「J」シリーズであったことや、機首の全面がガラスで覆われた風防のデザインが、より一般的なタイプである「P」シリーズから導入されたことで説明できます。

 以上で話を進めるための厄介な障害が取り除かれましたので、そもそもトルコがなぜ「He111」を入手したのかの経緯を解説しなければなりません。

 1930年代のトルコは、新たに出現した脅威(特に地中海におけるファシスト・イタリアの台頭)に立ち向うための軍事的手段を欠いていました。

 自国軍の荒廃に直面したため、トルコは海外から大量の軍備を発注し始め、その中のに同国初となる本格的な爆撃機:アメリカのマーチン「139WT」も含まれていました。[1]

 性能は依然としてこの国の対地攻撃機の大部分を占めていた1920年代の「ブレゲー19」複葉機から大幅に向上したものの、僅か20機の爆撃機の入手はトルコのような大国が防衛上のニーズを満たすには到底十分とは言えないものだったことは間違いありません。

 こうした理由から、1937年3月に数多くの航空機メーカーが最新の製品を披露するためにトルコに招かれたのです。

 トルコとのビジネスに意欲的なハインケル社が展示した最新の「He111 F-0」は、この買収劇を主催したトルコから賞賛を得たようで、展示飛行が実施された後の1937年3月には、24機の「He111 J-1」が発注されました。[2]

 このうちの18機はすでに同年10月に到着しており、残る6機も1938年初頭に到着したことが記録に残っています。

 トルコがドルニエ「Do17」を2機入手したとも言われていますが、これは最終的にハインケルが受注した入札向けとして1937年にトルコで展示飛行した機体と混同している可能性があるかもしれません。[3]

トルコのラウンデルが施された「Do 17 M」または「Do 17 P」:実際にトルコがこの機種を入手したのか、あるいは1937年の展示飛行の際にドルニエ社がトルコのラウンデルを施したのかは、いまだに謎に包まれている

 「He111」が発注から僅か7か月で納入されたことが、トルコ空軍を大いに喜ばせたことは間違いないでしょう。また、1932年にフランスから中古で購入した旧式の複葉爆撃機である「ブレゲ19」の退役も可能にさせたようです。

 納入後の「He111」については、北西部のエスキシェヒルを拠点とする第1航空連隊第1大隊の第1及び第2飛行隊に配備され、各飛行隊はそれぞれ8機の「He 111 J-1」を運用し、さらにもう6機が予備機として用いられました。[4][5]

 トルコ軍の「He111」のパイロットは、1937年に同じくドイツから入手した6機のフォッケウルフ「Fw58 "ヴァイエ"」多用途機で訓練を受けました。[4]

 しかし、まもなくしてトルコ空軍は予期しない苦境に立たされることになりました。1941年6月にベルリンからアンカラに「旧式化のために、これ以上は「He111」のスペアパーツの供給できる見込みがない」旨が通告されたからです。[5]

 このお粗末な言い訳をした理由については、その数日後にナチス・ドイツがソ連に侵攻したことで明らかとなりました。つまり、ドイツは自国の「He111」用にその全スペアパーツを必要としたわけです。

 「He111」を手放して処分場送りにすることを望まなかったトルコはイギリスに目を向け、「1940年のバトル・オブ・ブリテンで不時着した "He111" からスペアパーツを集めて供給することは可能か」という不思議な依頼をしたところ、ロンドンはこの要請に応じ、8基のエンジンとその予備部品、機体部品やコックピットの計器類を供給するという結果をもたらしました。[5]

 その一方で運用可能な「He111」の減少は、イギリスから約50機のブリストル 「ブレナム」「ボーフォート」といった爆撃機の安定的な供給を受けることでカバーすることができたようです。

 残存している「He111 J-1」については、1944年に(トルコから返還されずにいた)元アメリカ軍機の「B-24D "リベレーター"」重爆撃機5機と共に「戦略爆撃機」部隊に配備されました。これらの「B-24D」は1942年と1944年にトルコに不時着した11機から成る2個編隊の一部で、トルコ空軍によって運用されていた機体です。

 この新部隊に配備されてから1年後の1945年末に「He111 J-1」が退役したとき、入手した24機のうちの8機が依然として稼働状態にあったことは同機の頑丈な設計を実証したと言えるでしょう。

「He 111 J」の尾翼:納入飛行時に施されていたハーケンクロイツからトルコ国旗へ変更中の様子

 トルコが入手した「He111」のバージョンが「F」か「J」シリーズなのか、まだ若干の誤解がされているようです。

 「He 111 J」は「He 111 F」とほぼ同様ですが、前者はダイムラー・ベンツ製「DB 600G」エンジン2基(大型ラジエーター付き)と後縁を持つ(やや直線的な)新設計の主翼を備えるという特徴があります。

 もともと「He 111 J」はドイツ海軍向けの雷撃機として開発されたタイプですが、海軍がこのタイプに関心を失ったため、結局はドイツ空軍だけが運用することになったという経緯があります。最大120機が製造されたこのタイプは、1941年に「Ju 88」に更新されるまで主に洋上偵察で活用されました。「J」型は最終的に1944年まで訓練学校で使われました。

 結局、トルコが「海軍化」された「He 111 J-1」を入手することになった理由は、納期が約7か月強と短かったからだと思われます。

 「F型」と「J型」の運用上のスペックはほぼ同一であり、最高速度は305km/h、防御機銃は機首・胴体上部に加えて下部の「ダストビン(ゴミ箱)」引き込み式銃塔に 「MG-15」7.92mm機銃が各1門、つまり合計で3門が装備されていました。

 爆弾倉については、マーチン「139WT」が僅か1,025kgしか搭載できないのと比較すると、「F型」及び「J型」は2,000kgものペイロードを誇っていました。

主翼にあるトルコのラウンデルが無ければ、"イギリス上空を飛ぶ2機のハインケル「He 111」"と容易に(誤って)信じられてしまいそうな1枚

 ほとんどの「He111」と異なって、トルコ軍の機体は一度も怒りに任せて爆撃することはなかったものの、戦争で用いた国々の機体よりもはるかに長く(約8年間)運用されたのでした。

 連合国が望んでたようにトルコが(1945年2月にしたよりも)早くナチス・ドイツに宣戦布告していれば、自身の祖国に対する「He 111」の使用は興味深い歴史の一章となったかもしれません。

 いずれにしても、トルコ航空史の草創期に関する物語と常に独特な機体の入手方法は人々の心を必ず捉え、今では遠い昔の記憶と化しつつあるこの激動の時代に対する驚異の念を呼び起こすものと言っても過言ではないでしょう。
 

* 読者からの意見があるにもかかわらず、著者は「He 111」の有名なガラス張りの機首は常識と考えられるべきものと思っています。












2024年7月7日日曜日

消えゆく歴史:トルコ軍のソ連戦車


著:シュタイン・ミッツアー と ヨースト・オリーマンズ (編訳:Tarao Goo)

 当記事は、2023年1月4日に本国版「Oryx」(英語)に投稿された記事を翻訳したものです。当記事は意訳などにより、僅かに本来のものと意味や言い回しを変更した箇所があります。

 あまりにも珍しいという理由で、熟練した軍事愛好家でも正確な識別ができない戦車は滅多にありません。

 とはいうものの、このケースには1934年にトルコへ1台輸出されたソ連の「T-37A」世界初水陸両用偵察戦車が該当すると思われます。なぜならば、この戦車はMKE「クルッカレM-1943」と呼称される国産の水陸両用軽戦車と誤って識別されていたからです。

 このような無知な誤解が生じたのは、1930年代前半から中期にかけて、ソ連がトルコ陸軍に送った兵器に関する情報が不足していたためかもしれません。

 武器市場におけるシェアの拡大や、広大な国境を越えて自身の影響力を拡大することを熱望したソ連邦は、1932年にトルコ軍へ「T-26 "1931年型(7.62mm機関銃塔2門を搭載)"」を2台、「T-27」タンケッテ(豆戦車)4台、若干数のトラックやオートバイを供与しました。[1]

 ソ連は、供与された戦車でトルコ軍が得た成功体験が、彼らによるソ連製兵器の大量発注につながることを期待していたようです。このアプローチは大きな成果を上げ、トルコは1934年に合計で64台の「T-26 "1933年型 "」と1台の「T-37A」軽戦車、そして34台の「BA-3」装甲車を発注するに至りました。[1]

 「T-26」はトルコ軍で就役した初の正真正銘の戦車であり、ギリシャとの国境付近にあるリュレブルガズに駐屯する、第2騎兵師団内に新設された第1戦車連隊に配備されました。[1]

 (この国の戦車隊は)すぐにイギリスから供与された多数のヴィッカース「Mk VI」軽戦車と1940年にトルコに到着した100台のフランス製ルノー「R35」によって補充を受けたものの、比較的強力な45mm砲の貫徹力が「T-26」 を(1941年にイギリスから最初の「バレンタイン」戦車が到着するまで)トルコで最も有能な戦車としての立場を確実なものにさせました。

 当時、戦車第1連隊は第102戦車師団・第103戦車師団・予備師団から構成されており、「BA-3」は第1及び第2装甲車師団に配備されました。[1]

 「T-26 "1931年型」と「T-27」は混成戦車中隊としてグループ化され、(1928年にフランスから「FT-17」を1台導入した理由と同じく)主に歩兵に対する戦車への習熟と他部隊への戦車の有効性を実証するために配備されました。[1]

 この編成は、1943年に最後の「T-26」と「BA-3」が退役するまで維持されたと考えられています。

リュレブルガズの第1戦車連隊に配備された「T-26 "1933年型"」戦車と「BA-3」装甲車

 第二次世界大戦のトルコは1945年2月まで中立だったおかげで、結果的にソ連から受領した「T-26」と「BA-3」が外敵と戦うことはありませんでした。

 ただし、これらのソ連製AFVがトルコ陸軍における戦車運用の基盤になったという事実は現在でもあまり知られていません。

 こうしたソ連製AFVの引き渡しから20年後にはトルコにその痕跡が残されておらず、その代わりに同国がソ連との戦争で用いられるであろう大量のアメリカ製戦車を得たことを考慮すると、この情報はさらに不可解なものと言えるでしょう。

1934年にソ連から供与された唯一の「T-37A」:この戦車は時折「クルッカレ」と呼ばれる国産戦車と思われるものと混同されている

 「T-26」とは対照的に水陸両用軽戦車のコンセプトはトルコ陸軍に全く受け入れられなかったため、「T-37A」は追加発注されることはありませんでした。

 武装はたった1丁の「DT」7.62mm軽機関銃である上に薄い装甲(前面で3mmから10mm程度)はだったため、この戦車には水陸両用能力以外に特筆すべきものはありません。

 それにもかかわらず、ソ連軍はこのコンセプトが自身のドクトリンに最適と見なし、1930年代に2500台以上の「T-37A」、後継の「T-38」を1300台以上、さらにその後継の「T-40」を350台以上も調達しました。

 「T-37A」と同様にタンケットのコンセプトもトルコ軍の首脳部を納得させることができなかったことから、トルコはソ連から供与された4台を除いて「T-27」や同様のものを他国から導入することはありませんでした。

 もちろん、第二次世界大戦後にタンケッテのコンセプトは(ドイツの「ヴィーゼル」を除いて)おおむね放棄され、それらが担っていた偵察の役割は軽戦車や 装甲車によって代替されたことは言うまでもないでしょう。

 トルコの「T-37A」と「T-27」については、その双方が現代に残ることはありませんでした。おそらくは1940年代後半にはすべてスクラップにされたものと思われます。

1933年のパレードに登場したソ連製「T-27」タンケッテ:後ろの横断幕には「ムスタファ・ケマル(のような人物)が生まれることは、私たちの国にとってどれほど幸運なことでしょうか」と書かれている

 「BA-3」装甲車は「T-27」や「T-37A」よりも僅かに好評であり、それは45mm砲1門と 「DT」 7.62mm軽機関銃1丁を装備した「T-26」と同じ砲塔を搭載しているという重武装のおかげでした(注:「DT」は車体にも1丁が装備されていました)。

 この装甲車の大きな弱点は機動性に欠いていることであり、その著しい重量の結果として運用は固い地面に限定せざるを得ない場合が頻繁にあったようですが、後輪への履帯をの装着で悪路における機動性を若干向上させることが可能でした。

 車体の装甲厚が9mmだった「BA-3」は、小火器の射撃や砲弾の破片に対する全方位的な防御力を備えていました。

トルコ軍の「BA-3」装甲車:後輪のフェンダー上にある(悪路走行用の)履帯に注目

 一部の「レオパルド2」 が運用から40年を超えるなど、現代の戦車は数十年の運用寿命を持つことが一般的となっていることとは対照的に、トルコにおける「T-26」の寿命は10年に満たないものでした(それでもこの同時代の戦車の平均寿命よりはるかに長かったのですが)。

 1940年代初頭までにソ連製戦車は酷使され、その悲惨な状態は(もはや戦争に突入したソ連から輸入できない結果として生じた)スペアパーツの不足によってさらに悪化してしまいました。こうした結果を受け、すでに1943年の時点で全ての「T-26」が退役しています。 [1]  

 生き残った2台の「T-26 "1933年型"」は、イスタンブールのハルビエ軍事博物館の敷地とアンカラ近郊のエティメスグット戦車博物館に展示されていますが、残念ながら当時の迷彩塗装のままではありません。

この「T-26 "1931年型"」は1932年にソ連から入手した2台のうちの一つである

歩兵との共同演習で塹壕を乗り越えるトルコ軍の「T-26 "1933年型"」

 今ではドイツやアメリカ製の戦車を大量に運用しているトルコにとって、ソ連製の戦車を装備した戦車部隊(事実上、この国で最初の戦車連隊)の設立は、まさに歴史上の奇妙な出来事と言えるでしょう。

 トルコは(ソ連・イギリス・ドイツ・アメリカ・フランスを含む)第二次世界大戦の主要国が開発したほぼ全ての戦車を運用した世界で唯一の国です。

 今ではこの歴史を示す痕跡はほとんど残っておらず、歴史家や作家たちが失われつつある情報を記録しようと試みているに過ぎません。

2024年4月3日水曜日

黄計画:1940年におけるドイツ軍のルクセンブルク侵攻で各陣営が損失した兵器類(全一覧)


著:シュタイン・ミッツァー と ヨースト・オリーマンズ (編訳:Tarao Goo

 第二次世界大戦におけるルクセンブルクでの戦いは、ルクセンブルク国家憲兵隊及び志願兵とドイツ国防軍の間で行われた短期間の戦闘であり、ナチス・ドイツが迅速に勝利を収めるという結果で終わったことは以外と知られていません。

 戦いの原因となったドイツによるルクセンブルクへの侵攻は1940年5月10日に始まり、僅か1日で終わりを告げました。

 1867年のロンドン条約の結果として、当時のルクセンブルクは軍隊を持たず、防衛は国家憲兵と志願兵から構成される小規模な部隊を当てにせざるを得ない状態でした。

 それにもかかわらず、ルクセンブルクはドイツの電撃戦からデンマークよりも長く生き残ることができました。なぜならば、デンマークには陸軍と空軍があったものの、1940年4月9日にナチス・ドイツに侵攻で始まった僅か2時間の戦闘の後に降伏したからです。

 ドイツ軍のルクセンブルク侵攻は3つの装甲師団がルクセンブルクの国境を越えた午前4時35分に始まり、彼らはスロープと爆薬を用いてシュスター線のバリケード突破に成功しました。散発的な銃撃戦を除くと、(志願兵の大部分が兵舎に籠城していたこともあったせいか)ドイツ軍が大した抵抗を受けたという記録はありません。

 少数のドイツ兵がヴォルムメルダンジュの橋を占領し、そこでドイツ軍の進撃停止を要求した2人の税関職員を拘束しました。(国境の)ザウアー川に架かる橋は部分的に破壊されていましたが、ドイツの工兵部隊によって迅速に修復を受け、戦車をルクセンブルク領内に入れることを可能にしました。

 国境検問所から国家憲兵隊や志願兵部隊の司令部への通信はルクセンブルク政府と大公宮に侵攻が始まったことを知らせ、午前6時30分に政府関係者の大多数が自動車に乗って首都から国境の町エッシュへ避難しました。ただし、彼らはそこで125人ものドイツ兵が待ち構えていたことを知りませんでした...「Fi156 "シュトルヒ"」で輸送された彼らは、すでに侵攻本隊が到着するまで同地域の確保に当たっていたのです。

 勇敢にも1人の国家憲兵隊員が125人の兵士に立ち向かって国から立ち去るように要求しましたが、彼は希望した答えを得る代わりに捕虜にされてしまったことは言うまでもないでしょう(注:殺害されなかったのは意外かもしれませんが)。

 ルクセンブルク大公を伴った政府関係者の車列はエッシュでの拘束を何とか回避し、田舎道を使ってフランスへの脱出に成功しました。

ルクセンブルクが侵攻される直前に、シュスター線のバリケード前でポーズをとっているルクセンブルクの国家憲兵隊員たち:中央の2名は小銃を背負っているが、両端の2名は非常に小さなスパイク型銃剣を装着可能な「モデル1884」型回転式拳銃を携行している[1]

 午前8時、第1シパーヒー旅団と第5機甲大隊の支援を受けたフランス第3軽騎兵師団は、南の国境を越えてルクセンブルクに入ってドイツ軍への威力偵察を試みるも失敗に終わりました。

 フランス空軍が進撃するドイツ軍に対して出撃を控えていたことに我慢できなかったイギリス空軍は、フランスに駐留していた第226飛行隊のフェアリー「バトル」軽爆撃機にドイツ軍の攻撃を命じました。ルクセンブルク上空で激しい対空砲火に遭った爆撃機部隊は何とかして危険な空域から脱出したものの、大部分の機体が軽い損傷を被り、このうち1機がヒールゼンハフ近郊へ墜落しました(この墜落では、乗員1名が死亡し、負傷した2名もドイツ軍の捕虜となりました)。

1940年5月10日にヒールゼンハフに墜落した "フェアリー「バトル」":3名の乗員はドイツ兵によって燃え上がる残骸から引き揚げられたものの、後にダグラス・キャメロン中尉は負傷が原因で地元の病院にて命を落とした[2][3]

 こうした間も国家憲兵隊はドイツ軍に抵抗し続けましたが全く歯が立たず、正午前に首都が占領され、夕方には南部を除く国土の大部分がドイツ軍に占領されてしまったのです。

 ルクセンブルクが受けた損失は戦傷者7名(このうち国家憲兵隊6名、兵士1名)であり、ドイツ国防軍の損失は戦死者36名でした。

 5月11日、国土から逃れたルクセンブルク政府はパリに到着し、在仏公使館に拠点を構えました。ドイツの空爆を危惧した政府はさらに南下し、最初にフォンテーヌブロー、次にポワチエに移し、その後はポルトガルとイギリスへ逃れ、最終的には戦争の終わりまでカナダに落ち着く結果となりました。

 当然ながら、カナダに亡命したシャルロット大公が国民統合の重要なシンボルとなったことも記憶にとどめておくべきでしょう。

シュスター線上に設けられた41個ものコンクリートブロックと鉄扉のうちの一つを通過する自動車:結果として。これらは実質的にドイツ国防軍の進撃を遅らせることができなかった

  • 以下の一覧では、ルクセンブルクでの戦闘で撃破や鹵獲された各陣営の兵器・装備類を掲載しています。
  • この一覧の対象に、馬は含まれていません(注:騎兵用と思われる)。
  • 仮に新たな損失が確認できる情報を把握した場合は、一覧を随時更新します。
  • 各兵器類の名称に続く数字をクリックすると、撃破や鹵獲された当該兵器類の画像を見ることができます。


  • ナチス・ドイツ (損失なし)


    ルクセンブルク (不明)

    自転車
    •  不明 政府支給の自転車: (多数, 鹵獲)

    フランス (損失なし)


    イギリス (1)

    航空機 (1, 墜落: 1)

    [1]Revolver with a Bayonet: Luxembourg Model 1884 Gendarmerie Nagant https://youtu.be/jYQNSQ3krWw

    ※  当記事は、2023年3月24日に本国版「Oryx」(英語)に投稿された記事を翻訳したも 
      のです。当記事は意訳などにより、僅かに本来のものと意味や言い回しを変更した箇所が
        あります。また、編訳者の意向で大幅に加筆修正を加えたり、画像を差し替えています。


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    2023年12月20日水曜日

    「マーチン139」から「クズルエルマ」まで」 :トルコ軍爆撃機の85年


    著:ステイン・ミッツアーとヨースト・オリーマンズ(編訳:Tarao Goo)

     「İstikbal göklerdedir. Göklerini koruyamayan uluslar, yarınlarından asla emin olamazlar - 未来は空にあります。自分の空を守れない国々は、決して自身の未来を確信できないからです。(ムスタファ・ケマル・アタテュルク)」

     2022年12月14日、「バイラクタル・クズルエルマ」無人戦闘攻撃機がテキルダー・チョルル・アタチュルク空港で初フライトを実施しました。偶然にも、この85年前にはアメリカから購入した20機のマーチン「139WT」爆撃機の1号機がトルコ空軍に就役するために同じ空港に着陸しています。

     1937年にチョルルでアメリカから初の本格的な爆撃機が納入されてから85年後に同じ場所で初の国産無人戦闘機の試験飛行を行うまでに至ったトルコは、軍事大国として飛躍的な発展を遂げています。

     85年前と根本的に異なるもう一つの状況としては、トルコがアメリカから軍用機を調達する能力(というよりは能力の欠如)が挙げられます。何年にもわたって多くの西側諸国から事実上の武器禁輸措置を受けているトルコは、2019年にはロシアから「S-400」地対空ミサイルシステムの調達を決定したことを受け、F-35の国際共同プログラムからも追放されてしまったのです。

     トルコ空軍は旧式化した「F-4E "ターミネーター2020"」の後継機として最大100機の「F-35A」を、トルコ海軍は「TCG アナドル」強襲揚陸艦で使用するための「F-35B」の導入を計画していました。

     トルコのF-35国際共同プログラムからの除名と「F-16V」の調達に行き詰まっている状況は、2020年代から2030年代初頭にかけて(少なくともその10年の間に「TF-X」ステルス戦闘機が導入されるまで)トルコ空軍は自身の戦闘機よりはるかに最新で高性能な戦闘機を保有するギリシャ空軍に対抗せざるを得ないことを意味しています。

     しかし、このような環境下であるからこそトルコの兵器産業は栄えてきたことを見落としてはならないでしょう:つまり、今が全ての状況がトルコにとって不利になり、赤字を埋め合わせるために創意工夫が必要とされるというわけです。

     「バイラクタルTB2」「アクンジュ」の開発後、メーカーである「バイカル・テクノロジー」社は 「クズルエルマ」無人戦闘機を開発することを通じてトルコの航空戦力不足の解消に取り組もうとしています。

     同社は、「AI-25TLT」エンジンを1基搭載した亜音速型の「クズルエルマ-A1」と2種類の遷音速型:同エンジンを2基搭載した「クズルエルマ-A2」と「AI-322TF」を1基搭載した「クズルエルマ-B1」を製造する計画です。超音速型の「クズルエルマ-B2」は2基の「AI-322TF」が搭載されることになるでしょう。

     「クズルエルマ」は「バイラクタルTB3」と共に「アナドル」からの運用が可能であり、これまで艦載機として検討されていた「F-35B」を代替するシステムにもなり得ます。

     この新型無人機がその真価を発揮する前には何度かの反復作業を経る必要がありますが、その回を重ねるごとに、この新型UCAVが従来の航空アセットの能力を次第に再現していくことは間違いありません。少なくとも、ロシアから「S-400」の購入を決めた結果として、トルコが「F-35」国際共同プログラムから外されたことによるギャップを部分的に埋め合わせることができるでしょう。その真価には、射程275km以上の巡航ミサイルと(100km離れた目標を攻撃可能な)目視外射程空対空ミサイル(BVRAAM)の発射能力も含まれます。
     
    「バイラクタル・クズルエルマ-A1」試作初号機

     1930年代のトルコは、現在と全く異なる安全保障上の問題に直面していました。つまり、拡張政策を唱えるファシスト・イタリアの台頭です。

     地中海で急速に近代化が進むイタリアの脅威に対抗するには十分な装備をもってなかったトルコ軍は、将来の脅威に対処できる現実的な抑止力を構築すべく、自国に航空機の販売を望んでいる意思があると確認されたあらゆる国から運用機を調達し始めたのです。

     その結果、トルコ空軍はポーランドからPZL「P.24」戦闘機を66機、アメリカからマーチン「139WT」爆撃機20機の導入を通じて増強されました。こうした軍用機の調達は(トルコ空軍に対する)ここ数年で最初の設備投資であり、最終的には、ヨーロッパで新たな世界大戦が近づくことが予想される情勢下で、より大規模な航空機の発注へと道を開けるものとなったのです。

     その数年前に、ムスタファ・ケマル・アタテュルク大統領がトルコ空軍に初めての爆撃機を調達するよう命じたため、慎重な検討を重ねた結果としてアメリカのマーチン「B-10」が選定されました。これを受けてトルコの代表団が現地へ派遣され、マーチン「139WT」と呼称されるようになったエンジンを改良したモデルを20機調達するに至りました。 [1]

     1937年9月に納入されたマーチン「139WT」は、チョルル基地を拠点とする第9航空大隊(Tayyare Taburu)の第55・56飛行隊(Tayyare Bölüğü)に配備されました。同爆撃機は引き渡されてから僅か2年で時代遅れと化したものの、第二次世界大戦中には黒海上空の偵察任務で広く活用されました。

     1944年にイギリス製ブリストル「ブレニム」及び「ボーフォート」に置き換えられた後のマーチン「139WT」は、1946年まで第二線機として活躍し続けたことが記録されています(その時点でも、残存する16機のうち12機が依然として稼働状態にありました)。[1]

    テキルダー・チョルル・アタチュルクに並ぶマーチン「139WT」

     航空機の設計における進歩(とりわけエンジン開発の発展)のおかげで戦闘機や爆撃機のペイロードは機体のサイズ以上に大きな割合で増加してきましたが、このことはマーチン「139WT」や「クズルエルマ」の場合でも変わりません。

     1930年代のマーチン「139WT」は機内の爆弾倉に搭載可能な爆弾のペイロードが1,025kgである一方、「クズルエルマ-A1」は1,500kgで、さらに「クズルエルマ-B2」では推定3,000kgのペイロードを搭載可能となっているのです。

     搭載する兵装自体も、無誘導爆弾から巡航ミサイルやBVRAAMへと大きな進化を遂げています。
     

    マーチン「139WT」が僅か1,025kgしか爆弾を搭載できない一方、「クズルエルマ-B2」はその3倍近い積載量を有することになるだろう

     1世紀近くにも及ぶ技術革新がもたらした違いこそあるにもかかわらず、現代のトルコ製UAVは、この国が爆撃機を運用し始めた際の機体が有していた一部のDNAを継承しています。

     「バイラクタル・アクンジュ」はマーティン「139WT」と同様に2基のエンジンを持つプロペラ機で、エンジンはより効率の良いターボプロップ式ですが、最高出力はほぼ同一です。また、外形寸法においても両機は驚くほど似ていますが、前者はその流線形の機体を活用して最大1,350kgという見事なペイロードも誇っているのです。
     


     マーチン「139WT」と「クズルエルマ」は、過去80年間で航空機の設計及び性能がどれだけ進化してきたかだけでなく、軍備の調達面でトルコが1930年代から2010年代までずっと他国に頼っていたのが2020年代にはほぼ全てを国内産業から調達を目指すことで、トルコがどのようにして安全保障上の課題を対処から発展してきたのかについて興味深い考察を可能にします。

     その目標の実現に向けたトルコの発展は猛烈なスピードで前進していますが、その流れは当然のことでしょう。なぜならば、トルコは世界中の国々と同様に、現代において次の言葉の重要性をますます悟っているためです:「...自分の空を守れない国々は、決して自身の未来を確信できないからです。」


    [1] Martin 139-WT (B-10) http://www.tayyareci.com/digerucaklar/turkiye/1923ve50/martin139wt.asp

    注:当記事は2023年1月7日に本国版「Oryx」(英語)に投稿されたものを翻訳した記事であり、意訳などで僅かに本来のものと意味や言い回しが異なっている箇所があります。


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    2023年10月7日土曜日

    アハトゥンク・パンツァー!:トルコで運用された「Ⅲ号戦車」と「Ⅳ号戦車」


    著:シュタイン・ミッツアーとヨースト・オリーマンズ(編訳:Tarao Goo

     トルコ陸軍による「レオパルト1A3」「レオパルト2A4」戦車の運用は非常によく知られており、後者は2016年末の「イスラム国」との戦闘に投入されたこともあります。

     しかし、トルコにおけるドイツ製戦車の歴史は1980年代から始まった最初の「レオパルド1」の受領から始まったわけではありません。実際には1943年にナチス・ドイツから「III号戦車M型」「IV号戦車G型」が引き渡された時点がその歴史の始まりなのです。これらの戦車は、すでにトルコ陸軍で運用中の戦車やその他の装甲戦闘車両の魅惑的なコレクションに加わりました。

     トルコは(ソ連・イギリス・ドイツ・アメリカ・フランスを含む)第二次世界大戦の主要国が開発したほぼ全ての戦車を運用した世界で唯一の国です。

     1932年、トルコはソ連から「T-26 "1931年型"(機関銃塔2基搭載型) 」軽戦車2台と「T-27」タンケッテ(豆戦車)4台の寄贈を受け、これらの戦車で得た有益な経験は、最終的にトルコが1934年にソ連から「T-26 "1933年型"Mod. (45mm砲搭載)」64台と「T-37A」水陸両用軽戦車1台、そして「BA-3」装甲車34台を発注することに至る結果をもたらしました。

     これらのソ連戦車が、トルコ軍で就役した初の本格的な戦車でした(ただし、歩兵を戦車に慣れさせる目的で1928年にフランスから「FT-17」が1台調達されています)。1940年には、イギリスから少なくとも12台のヴィッカース「Mk VI」軽戦車を導入したほか、フランスが侵攻される僅か数か月前に100台のルノー「R35」軽戦車もトルコに納入されました。

     残念なことに、1930年代から1940年代にかけて導入された戦車を撮影した画像はほとんど残っていません。確かに言えることは、第二次世界大戦中もトルコによる戦車獲得の勢いが衰えなかったということでしょう。

     この国は1945年2月にナチス・ドイツと日本に宣戦布告するまで中立を保っていたものの、トルコ陸軍は国境付近で激しく展開する戦争の中で戦力拡充を図ることを決定しました。

     枢軸国と連合国は互いに自陣営でのトルコの参戦(または忠誠)を望んでいたため、フランス・イギリス・アメリカ・ドイツはトルコ軍に膨大な数の兵器を供与しました。このような取り組みの結果、トルコはイギリスの「ハリケーン」や「スピットファイア」からフランスの「MS.406」、さらにはドイツの「Fw.190」に至るまでのあらゆる戦闘機を入手して運用するまでになったのです。

     また、イギリスは1941年から1944年にかけて「バレンタイン」戦車と「M3"スチュアート"」軽戦車を各200台程度を供給することによって、トルコの機甲戦力の大幅な増強しようと努めました。どちらも当時の時点で既に旧式化していましたが、それでも「R35」と「T-26」に比べて飛躍的な性能向上をもたらし、1943年に残存する「T-26」の退役を可能にさせました。

     トドイツもイギリスに負けじとばかりにトルコへ戦車の売り込みをかけた結果、(砲弾と予備部品と一緒に)1943年に「III号戦車」35台と「IV号戦車」35台を調達するに成功しました。[1]この数はイギリスが納入した500台近い戦車と比べると見劣りますが、もしかするとドイツ側の戦況が反映されているのかもしれません。

    パレード中の(少なくとも7台の)「IV号戦車」:戦後に約30台の「M4A2 "シャーマン"」が納入されるまで、トルコ軍が保有する中で最も高性能な戦車であり続けた

     最終的にトルコが受領した戦車の総数については、いまだに謎のままとなっています。ニーダーザクセン・ハノーヴァー機械工場(MNH)が1943年1月から2月にかけて合計56台の「III号戦車」を組み立て、そのうち35台がトルコに引き渡される予定でしたが、56台のうちの相当数がドイツ国防軍に配備されてしまいました(第505重戦車大隊:Schwere Panzer-Abteilung 505にも割り当てられました)。[2]

     納入された「III号戦車」及び「IV号戦車」はトルコ軍ではそれぞれ「T-3」と「T-4」と呼称され、数年前に入手したドイツの「統制型乗用車(アインハイツ-PKW)」と一緒に運用されました。ただし、予備部品の不足と保有数の少なさが原因で、これらの戦車は1940年代末に退役したようです。

     ちなみにトルコだけがドイツの工業生産力に失望した国ではなったことを疑う余地はありません。というのも、一部の枢軸国でさえ長い間待たされた挙句、結局は発注した戦車が僅かしか納入されなかったからです。

     第一次世界大戦や第二次世界大戦の勃発でイギリスやドイツから何度も徴発されたことがあったため、トルコ軍からすれば発注した兵器が接収されることは全く目新しいことではありません。実際、イギリス政府が国内で建造中の「ドレッドノート」級戦艦2隻を接収したことでオスマン帝国に多大な反感を与え、同帝国政府が中央同盟に加わる決定を下す一因となった過去がありました。

     隣国のブルガリアが(訓練用の3台は納入されなかったものの)91台の「IV号戦車」を完全に受け取ることに成功したのは、同国が枢軸国側として積極的に戦争に関与してきたことが関係していることは明らかでしょう。ブルガリア陸軍は1943年に合計で88台の「IV号戦車のH型とG型を受領しましたが、1944年に43台が、もう11台も1945年に失われました。 [2][3]

     ブルガリアが連合国側に寝返った後の1945年3月以降、ソ連から合計で51台の「IV号戦車」が供与されました。[4]

     これらの戦車は1958年まで現役であり、それ以後はNATO加盟国であるトルコとの国境沿いに固定式のトーチカとして車体が埋められましたが、これらが掘り起こされたのは2010年代に入ってからのことだったのです! [5]

    「IV号戦車」の前でポーズをとる兵役中の俳優ケマル・スナル(1944-2000)(アンカラのエティメスグットにて)

     主都アンカラ近郊のエティメスグット戦車博物館には、トルコ軍の「III号戦車M型」と「IV号戦車G型」が各1台ずつ展示されています(ただし、博物館は軍事基地の敷地内にあるため、一般人は立ち入り禁止です)。

     都市開発事業の余波や、国家情報機構(Millî İstihbarat Teşkilatı)の新本部庁舎と建設中のトルコ版ペンタゴンが演習場のスペースの大半を占めることになるため、基地と博物館の移転が予定されています。

     こうした現代の気晴らし的な事業が、 展示されている装甲戦闘車両の整備に少しも労力が費やされていないという残念な結果を招いているのかもしれません。この一例としては、(奇妙なことに)砲身が小さすぎると判断された戦車に偽の砲身が搭載されたということが挙げられます。幸いにも、「T-3」と「T-4」はすでに十分に大きな砲身を最初から装備していたことから、このような骨抜きにされる運命から免れることができました。


    アンカラのエティメスグット戦車博物館における「III号戦車M型」と「IV号戦車G型」:前者はシュルツェンが外された状態で展示されているが、トルコに納入されたものには最初から装備されていなかったものと思われる

     ドイツ製戦車の納入数が少なかったことは、その長年にわたる運用が決してトルコ軍の運用に本当の影響を与えることがなかったことを意味しました。

     他国から何百台もの戦車やAFVを受領したこともあり、ドイツによる戦車の供給は同国が戦争に負けていることに加えて、自身が同盟国や潜在的な同盟国をしっかりと自国の味方にさせ続けるための十分な兵器を供給できなかったことを示すのに役立った程度でしかなかったことは間違いないありません。

     とはいえ、第二次世界大戦中に急速に変化した戦車の設計思想を十分に観察する機会を得たというだけの理由で、トルコは手に入れられるものなら何でも喜んで受け入れたと思われます。

     皮肉なことに、トルコ軍は1990年代初頭までブルガリア軍の埋められた「パンツァー」に直面していた事実は注目に値します。つまり、第二次大戦時代のドイツ戦車は戦力としてよりも、脅威としてはるかに長く生き残ったのです。

    しかし、今やその両方の役割を明確に放棄した旧式のドイツ製戦車は、興味をかき立てる物語を今日のトルコ(と関心を持つ当ブログの読者に)に思い起こさせてくれる存在であり続けるに違いありません。


    [1] Unearthing WWII aircraft buried in Kayseri https://www.dailysabah.com/op-ed/2019/03/06/unearthing-wwii-aircraft-buried-in-kayseri
    [2] Surviving Panzer III Tanks http://the.shadock.free.fr/Surviving_Panzer_III.pdf
    [3] Matev, Kaloyan, The Armoured Forces of the Bulgarian Army 1936-45, Helion, 2015, pp. 120-122
    [4] The Krali Marko Line https://wwiiafterwwii.wordpress.com/2021/12/25/the-krali-marko-line/

    特別協力: Mark Bevis(敬称略)

    ※  この翻訳元の記事は、2022年12月23日に「Oryx」本国版(英語)に投稿された記事   
      を翻訳したものです。意訳などにより、僅かに本来のものと意味や言い回しを変更した箇    
      所があります。



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    2023年4月30日日曜日

    深海から浮上した物語:インドネシアの実験的な小型"Uボート"


    著:ステイン・ミッツアーとヨースト・オリーマンズ

     ミリタリーファンは、常に見聞きしたことのない魅惑的な戦記を追い求めています。

     すでにマーク・フェルトンが世界中の人々の関心を引くために相当な数の戦記を世に出すという偉業を成し遂げているのもの、依然としてさらに多くの情報が埃にまみれた資料や写真の中に隠されたままとなっており、いつの日にか公表されることを待ち続けています。

     そうした話の一つが、1948年にジャワ島でドイツの元潜水艦乗組員がインドネシアの独立勢力のためにミゼットUボート(以下、特殊潜航艇と記載)を設計・建造した話です。[1]

     この潜航艇は最初の海上公試で沈没してしまいましたが、それでも専門的な機械や機器を備えていない鉄工所で(本物の設計士ではない)ドイツの潜水艦乗組員によって設計と建造がなされたことは目を見張るべき偉業と言えるでしょう。

     今回取り上げた話に登場するドイツ軍の潜水艦乗組員は、第二次世界大戦中の太平洋とインド洋で任務に就いていたドイツ(とイタリア)のUボート部隊「グルッペ・モンズーン(モンスーン戦隊」に所属していた人たちです。

     日本が支配下に置いたマレーシア・シンガポール・インドネシア(当時はまだ蘭印:オランダ領東インド)を拠点に行動していたこの戦隊の作戦地域は、ドイツ軍と日本軍(そしてイタリア軍)が実際に同じ戦域で戦った唯一の場所でした。

     1945年5月8日のドイツ降伏した後に残存していたドイツの潜水艦4隻とイタリアの潜水艦2隻は日本側に接収され、乗組員はインドネシアで抑留されたり、今や日本艦となったこれらの潜水艦を運用するために使役されたりしました。

     興味深いことに、イタリアの潜水艦「ルイージ・トレッリ」「コマンダンテ・カッペリーニ」 の2隻は、すでに一度は日本に拿捕された経歴がありました。最初の拿捕は1943年9月のイタリア降伏後のことであり、インドネシアのサバンでドイツ海軍に引き渡され、ドイツ人とイタリア人の混成クルーによって引き続き運用されました。そしてドイツ降伏後、この2隻は(4隻のドイツ艦と一緒に)再び日本に接収されて今度はドイツ・イタリア・日本の混成クルーによって運用されることになったのです!

     結果として、「ルイージ・トレッリ」と「コマンダンテ・カッペリーニ」は第二次世界大戦中に枢軸国の主要3か国全てで運用された唯一の艦艇となりました。

     2隻の元イタリア艦は主に蘭印と日本を結ぶ輸送潜水艦として活用されて最終的には1945年に神戸でアメリカ軍に接収され、ドイツのUボートである「U-181」、「U-195」、「U-219」、「U-862」はシンガポールと蘭印でイギリスに接収されてその経歴に終止符が打たれました。

     これらの運命を詳しく説明すると、「U-181(伊-501)」「U-862(伊-502)」はシンガポールでイギリスに接収され、その翌年にマラッカ海峡で海没処分されました。

     「U-195 (伊-506)」 と「U-219 (伊-505)」 については、前者は1945年8月にオランダ領東インドのジャカルタで、後者はスラバヤでイギリス軍に接収されました。この2隻を入手するはずだったオランダは、1946年の三者海軍委員会による決定に基づいて入手の断念と処分を余儀なくされたのでした(注:実際の海没処分はイギリス軍によって実施)。 [2]

    「XB」級Uボート「U-219/伊-505」:三者海軍委員会の規則によってオランダ海軍は同艦と「IXD1」級Uボート「U-195/伊-506」の保有を許されなかったため、これらの2隻は1946年にジャワ島沖で海没処分された。

     シンガポールで接収された「U-181」と「U-862」のドイツ人乗組員は終戦後にドイツへ帰国するか、(イギリスの)ウェールズで抑留後にそのまま現地に永住するという運命を辿りました。

     一方で、1945年当時の蘭印に残っていた「U-195」と「U-219」の乗組員や別のドイツ海軍の軍人たちの中には全く別の人生を選択した人もいました。降伏してイギリスに協力する者もいれば、正反対にインドネシア独立戦争でイギリス・オランダ軍と戦い続けるべくインドネシアに忠誠を申し出た者もいたのです。

     その中には、ジャワ島ジョグジャカルタの鉄工所で特殊潜航艇を設計・建造した者も含まれています。[2]

     この異形な鋼鉄製の潜航艇は、インドネシア共和国の首都と指導者を捕らえることを目的とした2度の軍事攻撃の2回目として成功した「カラス作戦(Operatie Kraai)」で、オランダ軍がインドネシアの臨時首都であるジョグジャカルタを占領した後に発見されました。

     興味深いことに、オランダは2度の軍事攻撃の成果としてスカルノ大統領とモハマッド・ハッタ副大統領を捕虜にしただけでなく、1947年8月に実施された最初の攻勢である「プロダクト作戦」で、東ジャワにて5名のドイツ人も捕虜にしたのです。このうちの4名は「U-195(伊-506)」の乗組員だった者たちであり、残りの1名(インドネシア生まれのドイツ人)はインドネシア軍の犬のトレーナーとしての役割を担っていました。[3] [4] [5] [6] [7]

    オランダ軍の兵士たちが鹵獲した鋼鉄製物体を訝しげに調べている様子:船体の左右に取り付けられた安定用のフィンに注目

     粗雑で正常に機能しなかった設計ではあったとはいえ、この特殊潜航艇はインドネシアによって初めて組み立てられて運用された潜水艦です。

     残念なことに、この潜航艇の内部構造については、設計時に設定されたもので初航海での沈没を防げなかったことを除くと、何も分かっていません。[8]

     その後、沈んだ"鋼鉄製の海獣"は引き上げられて修理や設計の改良のために鉄工所に戻されましたが、そうした作業はオランダ軍の占領によって力づくで中断させられてしまいました。もし、この潜航艇の修理が間に合っていれば、ジャワ島のインドネシア領を海上封鎖に従事していた不用心なオランダ海軍の駆逐艦に攻撃する姿が見れたかもしれません。

     この目的のために、この特殊潜航艇は船体下部のマウントに魚雷1本を搭載することが可能でした。[9]

     搭載する魚雷の種類はおそらく日本の「九十三式魚雷」や「九十五式魚雷」、あるいは450mmの「九一式航空魚雷改2」で占められていたと思われます。実際、インドネシア軍は大日本帝国海軍の基地を占領したり引き渡しを受けた際にこれらの魚雷を大量に入手していたからです。[10]

     魚雷の照準については、セイルに格納された大きな潜望鏡を通して合わせることになっていたのでしょう。艦橋構造物の巨大な舷窓や潜望鏡の大きさから判断すると、作戦中の特殊潜航艇は少なくとも一部が水面から突き出ていることになるため、Uボートとはいうものの技術的には半潜水艇と呼ぶべき代物ものでした。

    船体下部のアタッチメントには1発の魚雷を装備できる

     最終設計案に基づいて建造された姿は、この時代の特殊潜航艇とは似ても似つかぬ、極めて粗雑なものであったとしか言いようがありません。

     実際の設計に先立って作られた潜水艦の模型は、ドイツの「ビーバー」級特殊潜航艇から大まかな着想を得たように見えます。これが全くの偶然なのか、それとも建造に関わったドイツの乗組員が蘭印に出発する前に「ビーバー」級を見る機会があって、その後に自らの設計のベースとしたのかは不明です。

     「ビーバー」級の量産は、「U-195」と「U-216」が蘭印へ向けて出発する数か月前の1944年夏に開始されました。両艦とも分解された「V-2」ロケットや最新兵器の設計図を積載していたましたが、この航海で「ビーバー」級の設計図も日本側に移転された可能性もありますが、その真相は歴史の闇に葬り去られてしまいました。

     結局のところ、「ビーバー」級との類似性については「単なる偶然の一致」が最も有力な説となっています。

    ドイツの「ビーバー」級特殊潜航艇

    本物を建造する前にドイツの潜水艦乗組員によって作られた縮小模型

     ナチスドイツと日本の降伏後にインドネシアの独立闘士と共に戦うことを選択した現地のドイツ人潜水艦乗組員によって、日本の魚雷で武装したドイツの特殊潜航艇が設計されていた - これは、まさに魅惑的なもので満ち溢れた物語以外の何ものでもありません。

     その粗雑な設計と製造品質のおかげで、この特殊潜航艇は最初から成功の見込みがなかったかもしれませんが、インドネシア人がオランダ軍に戦いを挑むためにあらゆる手段を模索しようという決意を(他国の人々の協力を得て)ますます強めていったという重要な証拠と言えるでしょう。

     インドネシアが再びオランダの主力艦を沈めるという試みを再び仕掛けるには、オランダ領ニューギニアへの侵攻を企図した「トリコラ作戦」の一環で実行を試みた1962年まで待たねばなりませんでした。当時はソ連から最新の兵器を入手していたため、その結果として立案された計画では「KS-1 "コメット"」対艦ミサイルを搭載した「Tu-16KS-1」爆撃機によるオランダ空母「HNLMS カレル・ドゥールマン」撃沈が求められていました(結局、攻撃は中止に終わりました)。

     明らかにインドネシアの軍事史が西側諸国で全く取り上げられていないという事実は、そこに含まれている多くの興味深い物語が十分に伝えられていないことを意味しています:つまり、それは私たちが好んで取り上げる物語のことです。

    [1] In een staalfabriek in Djocja werkte een ex-Duitse matroos aan een eenmanstorpedo. Zijn uitvinding mislukte. Bij de eerste proefneming zonk het ijzeren gevaarte. https://www.nationaalarchief.nl/onderzoeken/fotocollectie/af009e5e-d0b4-102d-bcf8-003048976d84
    [2] IJN Submarine I-505: Tabular Record of Movement http://www.combinedfleet.com/I-505.htm
    [3] Malang: Een van de vijf op 1 augustus 1947 gearresteerde Duitsers: Erich Döring, geboren 29-03-1921 Muehlhausen. In dienst van de Kriegsmarine als Maschinenunteroff. op U-boot 195. https://www.nationaalarchief.nl/onderzoeken/fotocollectie/3fa45cf9-01a6-7884-0237-db4c606ccfa5
    [4] Malang: Een van de vijf op 1 augustus 1947 gearresteerde Duitsers: Herbert Weber, geb. 3-6-'14 te Leutersdorf. In dienst van de Kriegsmarine als Leitender Ingenieur op U-boot 195 https://www.nationaalarchief.nl/onderzoeken/fotocollectie/f1cca949-fd26-d1c8-3f3a-10a985539386
    [5] Malang: Een van de vijf op 1 augustus 1947 gearresteerde Duitsers: Heinz Ulrich, geboren 14-08-1924 te Berlijn. In dienst van de Kriegsmarine als Maschinenobergefreiter op U-boot 195. https://www.nationaalarchief.nl/onderzoeken/fotocollectie/432b83ec-97d7-308b-08cd-f2470cf2bea8
    [6] Malang: Een van de vijf op 1 augustus 1947 gearresteerde Duitsers: Res. Oberleutnant zur See Fritz Arp, geb. 16-1-'15 te Burg auf Friehmar (Ostsee) In dienst van de Kriegsmarine als 1ste Off. op U-boot 195. https://www.nationaalarchief.nl/onderzoeken/fotocollectie/c8569997-e185-7055-81c5-f70cad6da942
    [7] Malang. Een van de vijf op 1 augustus 1947 te Malang gearresteerde Duitsers: Alfred Pschunder, geboren op 24 december 1918 te Malang, Rijksduitser. Hij richtte o.a. honden af voor de Polisi Negara https://www.nationaalarchief.nl/onderzoeken/fotocollectie/c8569997-e185-7055-81c5-f70cad6da942
    [8] In een staalfabriek in Djocja werkte een ex-Duitse matroos aan een eenmanstorpedo. Zijn uitvinding mislukte. Bij de eerste proefneming zonk het ijzeren gevaarte. Op deze plaats werd de torpedo aan het moeder-scheepje bevestigd. https://www.nationaalarchief.nl/onderzoeken/fotocollectie/af009fe4-d0b4-102d-bcf8-003048976d84
    [9] In een staalfabriek in Djocja werkte een ex-Duitse matroos aan een eenmanstorpedo. Zijn uitvinding mislukte. Bij de eerste proefneming zonk het ijzeren gevaarte. Op deze plaats werd de torpedo aan het moederscheepje bevestigd https://www.nationaalarchief.nl/onderzoeken/fotocollectie/397950e1-fab7-1892-0a70-7d82a6ca43c8
    [10] Hangar met Japanse? voertuigen. In de achtergrond liggen zeetorpedo's opgestapeld https://www.nationaalarchief.nl/onderzoeken/fotocollectie/01ff58e2-1eea-1815-f92d-68bfb852bb8e(リンク切れ)

    ※  当記事は、2023年1月10日に「Oryx」本国版(英語)に投稿された記事を翻訳した
     ものです。当記事は意訳などにより、僅かに本来のものと意味や言い回しを変更した箇所
     があります。

    トルコの建艦100年史:「アタック」級から「TF-2000」級まで


    著:ステイン・ミッツアー  と ケマル

    -主権は与えられるものではなく、自ら手に入れるものである(ムスタファ・ケマル・アタテュルク)-

     トルコ海軍は少なくとも4隻の「TF-2000」級防空駆逐艦を建造する予定です。2030年代を通じて就役したならば、この駆逐艦は地中海で最も高性能かつ重武装の艦艇となるでしょう。

     「TF-2000」には、国産の艦対空ミサイル(SAM)と「ゲズギン」対地巡航ミサイル(LACM)を装填する自前の垂直発射システム(VLS)や高エネルギーレーザー(HEL)を含む指向性エネルギー兵器といった、過去10年間にトルコが海軍システムの分野で成し遂げたほぼ全ての技術的成果を取り入れられることになっています。

     これらの能力によって、「TF-2000」は対地巡航ミサイルで1000km以上離れた高価値目標を攻撃したり、最大で64発もの150km以上の射程を誇るSAMと16発の220km以上の射程を有する対艦ミサイル(AShM)で接近阻止・領域拒否(A2/AD)ゾーンを設定し、搭載された高エネルギーレーザー兵器を用いることによって敵AShMから友軍艦艇の防御することが可能となるのです。

     また、「TF-2000」は最大で4隻のミサイル搭載型武装無人水上艇(AUSV)や「バイラクタルDİHA(VTOL)」無人航空機(UAV)、水中無人機(UUV)を含む無人システムの母艦としての機能も備えることが予定されています。[1]

     さらに、「TF-2000」が国産のレールガン「シャヒ-209」を運用する最初のトルコ海軍の艦となる可能性もあるようです。[2]

     就役後、この新型艦は「TCG アナドル」強襲揚陸艦や将来建造されるかもしれない空母を中心としたトルコの遠征打撃群に不可欠な地位を占めるでしょう。「TCG アナドル」の後には姉妹艦である「TCG トラキア」の建造が続きますが、エルドアン大統領はスペインと共同で設計される大型空母の建造もほのめかしています。 [3]

     これらの主力艦は、敵の航空機・艦船・潜水艦から守るために護衛艦を必要とします。つまり、2038年にこれらの全てが運用可能な状態になっていれば、「TF-2000」にとって自身に最適な役割が与えられることになるのです。

     2038年は、トルコ共和国が初の国産設計の軍艦を進水させてから100年という節目の年です。1938年3月23日、コジャエリ県ギョルジュクにある「ギョルジュク海軍造船所」が(1922年のオスマン帝国崩壊後の1923年10月に創設が宣言された)現在のトルコ共和国が建造した最初の軍艦として、歴史に名を残すことになる機雷敷設艦「アタック」を進水させました。

     「アタック」の進水は、1935年に新生の共和国が設計・建造した最初の民間船である油槽船「ギョルク」の進水から2年後の出来事でした。[4] [5]

    進水直前の機雷敷設艦「アタック」

     大型航洋曳船の船体をベースにした機雷敷設艦「アタック」は、全長44メートル、幅8メートル、総排水量約500トンの艦艇でした。[6]

     この艦は13ノット(時速約20km/h)の最高速度を可能にする1025馬力のディーゼルエンジン1基を搭載しており、主武装は甲板後部に格納された40発の機雷ですが、就役以降のある時点で前部甲板に主砲が追加されたようです。[6]

     「アタック」は、その生涯の大半を通じて(おそらく第二次世界大戦中に塗装されたと思われる)見た者を混乱を生じさせる迷彩パターンが施されていました。

     トルコは第二次世界大戦のほぼ全体を通して中立を維持し、目立った動きは1945年2月にドイツと日本に対して宣戦布告を行った程度です(注:つまり、「アタック」が大々的に活躍することはなかったということ)。

    現存する数少ない「アタック」の写真の1枚は、敵を攪乱するために迷彩パターンが施された船体を示している

     「アタック」の設計自体は特別なものではありませんでしたが、防衛上の需要の一部を国産化で賄おうとするトルコの野心を示したものであったことは間違いないでしょう。この国産艦が進水したのとほぼ同時期にトルコの航空機メーカーである「ヌリ・デミラーグ」は革新的な戦闘機「Nu.D.40」の設計を開始しましたが、残念なことに日の目を見ることはありませんでした。[7]

     実際、意欲的なトルコの実業家はすぐに防衛産業の成長と存続に必要な精度を提供することに気が進まない政府と直面することになったのです。

     1942年にイギリスの「ソーニクロフト」社が設計した「ボラ」級魚雷艇 (MTB)5隻が建造されたことを除けば、1940年代から1950年代にかけてトルコで艦艇の建造が行われることはありませんでした。[8]

     この間にトルコ海軍はアメリカから大量の艦艇を供与されたため、今後数十年にわたる自国での艦艇を建造するという将来的な見込みは実質的に絶望的なものと化したのです。

    ちなみに、「アタック」級機雷敷設艦はこの時代でも運用が続けられ、後継となるイギリス製「シウリヒサル」級掃海艇2隻よりも長生きして1961年に廃船となりました。[9] [6]

    これは「アタック」の進水を報じた1938年3月24日付の新聞のスクラップ記事の画像で、" 機雷敷設艦「アタック」が昨日の(軍事関係の)式典で海に浮かんだ "と書かれている

     トルコが再び海軍艦艇の建造を開始したのは1960年代後半になってからであり、その際に12隻の「AB-25」級哨戒艇が建造され、より野心的なプロジェクトは1967年に開始された2隻の「ベルク」級フリゲートの建造という形で実行に移されました。[10]

     「ベルク」級はアメリカ海軍の「クロード・ジョーンズ」級護衛駆逐艦をベースにトルコの要求に合うように若干の改良を加えたものであり、驚くべきことに1910年代以降のトルコで建造された最初の大型艦でした!これらの艦艇の建造は国産艦が実現する可能性を提示したものの、それ以上の「ベルク」級の発注がなされることはありませんでした。

     2000年代半ばから後半の間に、トルコの海軍関連の産業界は「MILGEM(国家艦艇)」プロジェクトという形で大規模な次世代艦の設計事業を次々と立ちあげ、これまでにいくつかのコルベットやフリゲートの設計案の誕生と建造がなされています。

    フリゲート「ベルク(艦番号D358)

     「MILGEM」プロジェクトの最新バージョンとして登場した「TF-2000」級駆逐艦は、アメリカの「アーレイ・バーク」級駆逐艦と同等の能力を持つ艦となります。

     「TF-2000」級には、国産兵装が装備される予定です(以下のとおり)。
    1. 127mm砲 1門
    2. 「アトマジャ」対艦巡航ミサイル(射程220km) 16発
    3. 「シペル」艦対空ミサイル(射程150km以上)及びその他のSAM、「ゲズギン」対地巡航ミサイル(射程1000km以上)用のVLS 64セル
    4. 「オルカ」324mm短魚雷用発射管
    5. 「ギョクデニズ」35mm近接防御火器システム(アセルサン製)  2門
    6. 「ナザール」高エネルギーレーザー照射機(メテクサン製)   2門
    7. チャフ・デコイ散布システム
    8. 「UMTAS(ウムタス)」対戦車ミサイル(ATGM)用発射システム  2門
    9. リモート・ウエポン・システム 4門


     敵の探知とミサイルの誘導を可能にするため、この駆逐艦にはトルコで設計された広域をカバーできるレーダーとセンサー類も備えられます。

     このほかの「アーレイ・バーク級」駆逐艦との類似点としては、「S-70B "シーホーク"」対潜ヘリコプターを2機搭載できる充実した設備が存在することが挙げられます。[1]


     「千里の道も一歩から」という言葉があります。トルコは1930年代後半に早くもその第一歩を踏み出しましたが、その後の数十年間は国内の防衛産業が軽視された時期が続きました。過去20年間でトルコ政府はこの流れを驚くべきスピードで逆転させ、こんにち起きているこの種の現象としては間違いなく最速の自給自足を目指す旅に乗り出しているのです。

     トルコの防衛産業が、ほぼ全種類の艦船とそれに関連するレーダーやセンサー類を含む装備や兵装を生産できるようになる日はそう遠くないと思われます。

     「TF-2000」が就役するならば、それはトルコが歩んだ自給自足への道のりを示す証となり、「アタック」級機雷敷設艦の進水から100年を迎えるこの国の建艦史の復活にふさわしいものとなるに違いありません。

    [1] IDEF 2021: Turkey Full Steam Ahead with TF-2000 Air Defense Destroyer Project https://www.navalnews.com/naval-news/2021/08/idef-2021-turkey-full-steam-ahead-with-tf-2000-air-defense-destroyer-project/
    [2] Turkish indigenous rail gun “Şahi-209” to be integrated to naval assets https://www.navaltoday.com/2019/10/31/turkish-indigenous-rail-gun-sahi-209-to-be-integrated-to-naval-assets/
    [3] Turkey’s defense industry rolls up sleeves for aircraft carrier https://www.dailysabah.com/business/defense/turkeys-defense-industry-rolls-up-sleeves-for-aircraft-carrier
    [4] Cumhuriyetin İlk Yerli Gemisi: Gölcük Yağ Tankeri https://negatifsephiye.blogspot.com/2019/05/cumhuriyetin-ilk-yerli-gemisi-golcuk.html
    [5] Cumhuriyet Tarihinde İnşa Edilen ilk Gemi https://www.denizbulten.com/yazar-cumhuriyet-tarihinde-insa-edilen-ilk-gemi-111.html
    [6] ATAK http://www.navypedia.org/ships/turkey/tu_ms_atak.htm
    [7] From Nu.D.40 to Bayraktar Akıncı: Demirağ’s Legacy https://www.oryxspioenkop.com/2021/05/from-nud40-to-bayraktar-akinci-demirags.html
    [8] BORA http://www.navypedia.org/ships/turkey/tu_cf_bora.htm
    [9] Sivrihisar http://www.navypedia.org/ships/turkey/tu_ms_sivrihisar.htm
    [10] BERK frigates http://www.navypedia.org/ships/turkey/tu_es_berk.htm

    ※  当記事は、2022年1月16日に「Oryx」本国版(英語)に投稿された記事を翻訳した
     ものです。当記事は意訳などにより、僅かに本来のものと意味や言い回しを変更した箇所 
     があります。



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