2023年5月12日金曜日

終わりなき可能性:「バイラクタル・アクンジュ」の豊富な搭載兵装(一覧)


著:ステイン・ミッツアーとヨースト・オリーマンズ

 「バイラクタル・アクンジュ」は世界初の量産型多目的無人戦闘航空機(UCAV)です。

 この「アクンジュ」が持つ中で間違いなく最も革新的な特徴は、国産の「ボズドアン」IIR(赤外線画像誘導)式AAMと(撃ち放し式の)「ゴクドアン」BVRAAMといった空対空ミサイル(AAM)の運用能力があることです。

 もう1つの斬新な特徴としては、 敵の指揮所やSAMサイト、そして強化されたブンカーに入った船や精密打撃を要する標的に使用するために開発された、射程が275km以上もある「SOM」巡航ミサイルも運用できることが挙げられます。

 この「SOM」シリーズは、「MAM」、「クズガン」、「テベル」、「LGK(レーザー誘導キット装着爆弾」、「KGK(射程延長用の折りたたみ式主翼・GPS/INS誘導キット装着爆弾)」、「(L)HGK(レーザー及びGPS/INS誘導キット装着爆弾)」なといった精密誘導弾と共に役立つものとなるでしょう。

 これらの誘導爆弾の多くは、自国で設計された誘導キットと国内生産された「Mark-82」、「Mark-83」、そして「Mark-84」無誘導爆弾を組み合わせたものです。

 前述の兵装を搭載するために「アクンジュ」は合計9基のハードポイント:主翼の下に8基と胴体下部に1基が設けられており、後者には「HGK-84」、「NEB-84」、「SOM」巡航ミサイルなど、このUCAVに搭載可能な最重力級の兵装の搭載が想定されています。

注意点

  1. このリストに掲載している兵装のいくつかについては、本稿執筆時点でも開発と(機体との)インテグレートの試験が継続しています。したがって、このリストは各種検証を終えた後の「アクンジュ」が搭載できる兵装の概観と見るべきでしょう。
  2. 列挙している兵装については、①開発企業、②名前、③最大射程距離、④誘導方式、⑤その他参考事項の順に表記しています(省略しているものもあります)。
  3. リストに表示されている兵装名をクリックすると、当該兵装備の画像を見ることができます。
  4. 開発企業・メーカーは略称などがされていますが、制式名称は以下のとおりです。
      ・TÜBİTAK SAGE(トルコ科学技術研究会議・防衛産業研究開発機関)
      ・TAI(トルコ航空宇宙産業)
      ・STM(防衛技術エンジニアリング


空対空ミサイル


巡航ミサイル


徘徊兵器


精密誘導爆型地中貫通爆弾


空対地ミサイル

 「バイラクタル・アクンジュ」の購入に関心を持っている国にとって、これらの全兵装をトルコからダイレクトに調達できるという事実は間違いなく高く評価されることでしょう。

 さらに、このUCAVがNATO規格の兵装に適合しているという事実は、ウクライナ、アゼルバイジャン、パキスタンといった国々が独自に開発・製造された航空機用の兵装を「アクンジュ」とインテグレートすることも可能ということを意味しています。



 特別協力」SR_71TurkishWarNews(敬称略)

 ものです。当記事は意訳などにより、僅かに本来のものと意味や言い回しを変更した箇所
 があります。



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2023年4月30日日曜日

深海から浮上した物語:インドネシアの実験的な小型"Uボート"


著:ステイン・ミッツアーとヨースト・オリーマンズ

 ミリタリーファンは、常に見聞きしたことのない魅惑的な戦記を追い求めています。

 すでにマーク・フェルトンが世界中の人々の関心を引くために相当な数の戦記を世に出すという偉業を成し遂げているのもの、依然としてさらに多くの情報が埃にまみれた資料や写真の中に隠されたままとなっており、いつの日にか公表されることを待ち続けています。

 そうした話の一つが、1948年にジャワ島でドイツの元潜水艦乗組員がインドネシアの独立勢力のためにミゼットUボート(以下、特殊潜航艇と記載)を設計・建造した話です。[1]

 この潜航艇は最初の海上公試で沈没してしまいましたが、それでも専門的な機械や機器を備えていない鉄工所で(本物の設計士ではない)ドイツの潜水艦乗組員によって設計と建造がなされたことは目を見張るべき偉業と言えるでしょう。

 今回取り上げた話に登場するドイツ軍の潜水艦乗組員は、第二次世界大戦中の太平洋とインド洋で任務に就いていたドイツ(とイタリア)のUボート部隊「グルッペ・モンズーン(モンスーン戦隊」に所属していた人たちです。

 日本が支配下に置いたマレーシア・シンガポール・インドネシア(当時はまだ蘭印:オランダ領東インド)を拠点に行動していたこの戦隊の作戦地域は、ドイツ軍と日本軍(そしてイタリア軍)が実際に同じ戦域で戦った唯一の場所でした。

 1945年5月8日のドイツ降伏した後に残存していたドイツの潜水艦4隻とイタリアの潜水艦2隻は日本側に接収され、乗組員はインドネシアで抑留されたり、今や日本艦となったこれらの潜水艦を運用するために使役されたりしました。

 興味深いことに、イタリアの潜水艦「ルイージ・トレッリ」「コマンダンテ・カッペリーニ」 の2隻は、すでに一度は日本に拿捕された経歴がありました。最初の拿捕は1943年9月のイタリア降伏後のことであり、インドネシアのサバンでドイツ海軍に引き渡され、ドイツ人とイタリア人の混成クルーによって引き続き運用されました。そしてドイツ降伏後、この2隻は(4隻のドイツ艦と一緒に)再び日本に接収されて今度はドイツ・イタリア・日本の混成クルーによって運用されることになったのです!

 結果として、「ルイージ・トレッリ」と「コマンダンテ・カッペリーニ」は第二次世界大戦中に枢軸国の主要3か国全てで運用された唯一の艦艇となりました。

 2隻の元イタリア艦は主に蘭印と日本を結ぶ輸送潜水艦として活用されて最終的には1945年に神戸でアメリカ軍に接収され、ドイツのUボートである「U-181」、「U-195」、「U-219」、「U-862」はシンガポールと蘭印でイギリスに接収されてその経歴に終止符が打たれました。

 これらの運命を詳しく説明すると、「U-181(伊-501)」「U-862(伊-502)」はシンガポールでイギリスに接収され、その翌年にマラッカ海峡で海没処分されました。

 「U-195 (伊-506)」 と「U-219 (伊-505)」 については、前者は1945年8月にオランダ領東インドのジャカルタで、後者はスラバヤでイギリス軍に接収されました。この2隻を入手するはずだったオランダは、1946年の三者海軍委員会による決定に基づいて入手の断念と処分を余儀なくされたのでした(注:実際の海没処分はイギリス軍によって実施)。 [2]

「XB」級Uボート「U-219/伊-505」:三者海軍委員会の規則によってオランダ海軍は同艦と「IXD1」級Uボート「U-195/伊-506」の保有を許されなかったため、これらの2隻は1946年にジャワ島沖で海没処分された。

 シンガポールで接収された「U-181」と「U-862」のドイツ人乗組員は終戦後にドイツへ帰国するか、(イギリスの)ウェールズで抑留後にそのまま現地に永住するという運命を辿りました。

 一方で、1945年当時の蘭印に残っていた「U-195」と「U-219」の乗組員や別のドイツ海軍の軍人たちの中には全く別の人生を選択した人もいました。降伏してイギリスに協力する者もいれば、正反対にインドネシア独立戦争でイギリス・オランダ軍と戦い続けるべくインドネシアに忠誠を申し出た者もいたのです。

 その中には、ジャワ島ジョグジャカルタの鉄工所で特殊潜航艇を設計・建造した者も含まれています。[2]

 この異形な鋼鉄製の潜航艇は、インドネシア共和国の首都と指導者を捕らえることを目的とした2度の軍事攻撃の2回目として成功した「カラス作戦(Operatie Kraai)」で、オランダ軍がインドネシアの臨時首都であるジョグジャカルタを占領した後に発見されました。

 興味深いことに、オランダは2度の軍事攻撃の成果としてスカルノ大統領とモハマッド・ハッタ副大統領を捕虜にしただけでなく、1947年8月に実施された最初の攻勢である「プロダクト作戦」で、東ジャワにて5名のドイツ人も捕虜にしたのです。このうちの4名は「U-195(伊-506)」の乗組員だった者たちであり、残りの1名(インドネシア生まれのドイツ人)はインドネシア軍の犬のトレーナーとしての役割を担っていました。[3] [4] [5] [6] [7]

オランダ軍の兵士たちが鹵獲した鋼鉄製物体を訝しげに調べている様子:船体の左右に取り付けられた安定用のフィンに注目

 粗雑で正常に機能しなかった設計ではあったとはいえ、この特殊潜航艇はインドネシアによって初めて組み立てられて運用された潜水艦です。

 残念なことに、この潜航艇の内部構造については、設計時に設定されたもので初航海での沈没を防げなかったことを除くと、何も分かっていません。[8]

 その後、沈んだ"鋼鉄製の海獣"は引き上げられて修理や設計の改良のために鉄工所に戻されましたが、そうした作業はオランダ軍の占領によって力づくで中断させられてしまいました。もし、この潜航艇の修理が間に合っていれば、ジャワ島のインドネシア領を海上封鎖に従事していた不用心なオランダ海軍の駆逐艦に攻撃する姿が見れたかもしれません。

 この目的のために、この特殊潜航艇は船体下部のマウントに魚雷1本を搭載することが可能でした。[9]

 搭載する魚雷の種類はおそらく日本の「九十三式魚雷」や「九十五式魚雷」、あるいは450mmの「九一式航空魚雷改2」で占められていたと思われます。実際、インドネシア軍は大日本帝国海軍の基地を占領したり引き渡しを受けた際にこれらの魚雷を大量に入手していたからです。[10]

 魚雷の照準については、セイルに格納された大きな潜望鏡を通して合わせることになっていたのでしょう。艦橋構造物の巨大な舷窓や潜望鏡の大きさから判断すると、作戦中の特殊潜航艇は少なくとも一部が水面から突き出ていることになるため、Uボートとはいうものの技術的には半潜水艇と呼ぶべき代物ものでした。

船体下部のアタッチメントには1発の魚雷を装備できる

 最終設計案に基づいて建造された姿は、この時代の特殊潜航艇とは似ても似つかぬ、極めて粗雑なものであったとしか言いようがありません。

 実際の設計に先立って作られた潜水艦の模型は、ドイツの「ビーバー」級特殊潜航艇から大まかな着想を得たように見えます。これが全くの偶然なのか、それとも建造に関わったドイツの乗組員が蘭印に出発する前に「ビーバー」級を見る機会があって、その後に自らの設計のベースとしたのかは不明です。

 「ビーバー」級の量産は、「U-195」と「U-216」が蘭印へ向けて出発する数か月前の1944年夏に開始されました。両艦とも分解された「V-2」ロケットや最新兵器の設計図を積載していたましたが、この航海で「ビーバー」級の設計図も日本側に移転された可能性もありますが、その真相は歴史の闇に葬り去られてしまいました。

 結局のところ、「ビーバー」級との類似性については「単なる偶然の一致」が最も有力な説となっています。

ドイツの「ビーバー」級特殊潜航艇

本物を建造する前にドイツの潜水艦乗組員によって作られた縮小模型

 ナチスドイツと日本の降伏後にインドネシアの独立闘士と共に戦うことを選択した現地のドイツ人潜水艦乗組員によって、日本の魚雷で武装したドイツの特殊潜航艇が設計されていた - これは、まさに魅惑的なもので満ち溢れた物語以外の何ものでもありません。

 その粗雑な設計と製造品質のおかげで、この特殊潜航艇は最初から成功の見込みがなかったかもしれませんが、インドネシア人がオランダ軍に戦いを挑むためにあらゆる手段を模索しようという決意を(他国の人々の協力を得て)ますます強めていったという重要な証拠と言えるでしょう。

 インドネシアが再びオランダの主力艦を沈めるという試みを再び仕掛けるには、オランダ領ニューギニアへの侵攻を企図した「トリコラ作戦」の一環で実行を試みた1962年まで待たねばなりませんでした。当時はソ連から最新の兵器を入手していたため、その結果として立案された計画では「KS-1 "コメット"」対艦ミサイルを搭載した「Tu-16KS-1」爆撃機によるオランダ空母「HNLMS カレル・ドゥールマン」撃沈が求められていました(結局、攻撃は中止に終わりました)。

 明らかにインドネシアの軍事史が西側諸国で全く取り上げられていないという事実は、そこに含まれている多くの興味深い物語が十分に伝えられていないことを意味しています:つまり、それは私たちが好んで取り上げる物語のことです。

[1] In een staalfabriek in Djocja werkte een ex-Duitse matroos aan een eenmanstorpedo. Zijn uitvinding mislukte. Bij de eerste proefneming zonk het ijzeren gevaarte. https://www.nationaalarchief.nl/onderzoeken/fotocollectie/af009e5e-d0b4-102d-bcf8-003048976d84
[2] IJN Submarine I-505: Tabular Record of Movement http://www.combinedfleet.com/I-505.htm
[3] Malang: Een van de vijf op 1 augustus 1947 gearresteerde Duitsers: Erich Döring, geboren 29-03-1921 Muehlhausen. In dienst van de Kriegsmarine als Maschinenunteroff. op U-boot 195. https://www.nationaalarchief.nl/onderzoeken/fotocollectie/3fa45cf9-01a6-7884-0237-db4c606ccfa5
[4] Malang: Een van de vijf op 1 augustus 1947 gearresteerde Duitsers: Herbert Weber, geb. 3-6-'14 te Leutersdorf. In dienst van de Kriegsmarine als Leitender Ingenieur op U-boot 195 https://www.nationaalarchief.nl/onderzoeken/fotocollectie/f1cca949-fd26-d1c8-3f3a-10a985539386
[5] Malang: Een van de vijf op 1 augustus 1947 gearresteerde Duitsers: Heinz Ulrich, geboren 14-08-1924 te Berlijn. In dienst van de Kriegsmarine als Maschinenobergefreiter op U-boot 195. https://www.nationaalarchief.nl/onderzoeken/fotocollectie/432b83ec-97d7-308b-08cd-f2470cf2bea8
[6] Malang: Een van de vijf op 1 augustus 1947 gearresteerde Duitsers: Res. Oberleutnant zur See Fritz Arp, geb. 16-1-'15 te Burg auf Friehmar (Ostsee) In dienst van de Kriegsmarine als 1ste Off. op U-boot 195. https://www.nationaalarchief.nl/onderzoeken/fotocollectie/c8569997-e185-7055-81c5-f70cad6da942
[7] Malang. Een van de vijf op 1 augustus 1947 te Malang gearresteerde Duitsers: Alfred Pschunder, geboren op 24 december 1918 te Malang, Rijksduitser. Hij richtte o.a. honden af voor de Polisi Negara https://www.nationaalarchief.nl/onderzoeken/fotocollectie/c8569997-e185-7055-81c5-f70cad6da942
[8] In een staalfabriek in Djocja werkte een ex-Duitse matroos aan een eenmanstorpedo. Zijn uitvinding mislukte. Bij de eerste proefneming zonk het ijzeren gevaarte. Op deze plaats werd de torpedo aan het moeder-scheepje bevestigd. https://www.nationaalarchief.nl/onderzoeken/fotocollectie/af009fe4-d0b4-102d-bcf8-003048976d84
[9] In een staalfabriek in Djocja werkte een ex-Duitse matroos aan een eenmanstorpedo. Zijn uitvinding mislukte. Bij de eerste proefneming zonk het ijzeren gevaarte. Op deze plaats werd de torpedo aan het moederscheepje bevestigd https://www.nationaalarchief.nl/onderzoeken/fotocollectie/397950e1-fab7-1892-0a70-7d82a6ca43c8
[10] Hangar met Japanse? voertuigen. In de achtergrond liggen zeetorpedo's opgestapeld https://www.nationaalarchief.nl/onderzoeken/fotocollectie/01ff58e2-1eea-1815-f92d-68bfb852bb8e(リンク切れ)

※  当記事は、2023年1月10日に「Oryx」本国版(英語)に投稿された記事を翻訳した
 ものです。当記事は意訳などにより、僅かに本来のものと意味や言い回しを変更した箇所
 があります。

トルコの建艦100年史:「アタック」級から「TF-2000」級まで


著:ステイン・ミッツアー  と ケマル

-主権は与えられるものではなく、自ら手に入れるものである(ムスタファ・ケマル・アタテュルク)-

 トルコ海軍は少なくとも4隻の「TF-2000」級防空駆逐艦を建造する予定です。2030年代を通じて就役したならば、この駆逐艦は地中海で最も高性能かつ重武装の艦艇となるでしょう。

 「TF-2000」には、国産の艦対空ミサイル(SAM)と「ゲズギン」対地巡航ミサイル(LACM)を装填する自前の垂直発射システム(VLS)や高エネルギーレーザー(HEL)を含む指向性エネルギー兵器といった、過去10年間にトルコが海軍システムの分野で成し遂げたほぼ全ての技術的成果を取り入れられることになっています。

 これらの能力によって、「TF-2000」は対地巡航ミサイルで1000km以上離れた高価値目標を攻撃したり、最大で64発もの150km以上の射程を誇るSAMと16発の220km以上の射程を有する対艦ミサイル(AShM)で接近阻止・領域拒否(A2/AD)ゾーンを設定し、搭載された高エネルギーレーザー兵器を用いることによって敵AShMから友軍艦艇の防御することが可能となるのです。

 また、「TF-2000」は最大で4隻のミサイル搭載型武装無人水上艇(AUSV)や「バイラクタルDİHA(VTOL)」無人航空機(UAV)、水中無人機(UUV)を含む無人システムの母艦としての機能も備えることが予定されています。[1]

 さらに、「TF-2000」が国産のレールガン「シャヒ-209」を運用する最初のトルコ海軍の艦となる可能性もあるようです。[2]

 就役後、この新型艦は「TCG アナドル」強襲揚陸艦や将来建造されるかもしれない空母を中心としたトルコの遠征打撃群に不可欠な地位を占めるでしょう。「TCG アナドル」の後には姉妹艦である「TCG トラキア」の建造が続きますが、エルドアン大統領はスペインと共同で設計される大型空母の建造もほのめかしています。 [3]

 これらの主力艦は、敵の航空機・艦船・潜水艦から守るために護衛艦を必要とします。つまり、2038年にこれらの全てが運用可能な状態になっていれば、「TF-2000」にとって自身に最適な役割が与えられることになるのです。

 2038年は、トルコ共和国が初の国産設計の軍艦を進水させてから100年という節目の年です。1938年3月23日、コジャエリ県ギョルジュクにある「ギョルジュク海軍造船所」が(1922年のオスマン帝国崩壊後の1923年10月に創設が宣言された)現在のトルコ共和国が建造した最初の軍艦として、歴史に名を残すことになる機雷敷設艦「アタック」を進水させました。

 「アタック」の進水は、1935年に新生の共和国が設計・建造した最初の民間船である油槽船「ギョルク」の進水から2年後の出来事でした。[4] [5]

進水直前の機雷敷設艦「アタック」

 大型航洋曳船の船体をベースにした機雷敷設艦「アタック」は、全長44メートル、幅8メートル、総排水量約500トンの艦艇でした。[6]

 この艦は13ノット(時速約20km/h)の最高速度を可能にする1025馬力のディーゼルエンジン1基を搭載しており、主武装は甲板後部に格納された40発の機雷ですが、就役以降のある時点で前部甲板に主砲が追加されたようです。[6]

 「アタック」は、その生涯の大半を通じて(おそらく第二次世界大戦中に塗装されたと思われる)見た者を混乱を生じさせる迷彩パターンが施されていました。

 トルコは第二次世界大戦のほぼ全体を通して中立を維持し、目立った動きは1945年2月にドイツと日本に対して宣戦布告を行った程度です(注:つまり、「アタック」が大々的に活躍することはなかったということ)。

現存する数少ない「アタック」の写真の1枚は、敵を攪乱するために迷彩パターンが施された船体を示している

 「アタック」の設計自体は特別なものではありませんでしたが、防衛上の需要の一部を国産化で賄おうとするトルコの野心を示したものであったことは間違いないでしょう。この国産艦が進水したのとほぼ同時期にトルコの航空機メーカーである「ヌリ・デミラーグ」は革新的な戦闘機「Nu.D.40」の設計を開始しましたが、残念なことに日の目を見ることはありませんでした。[7]

 実際、意欲的なトルコの実業家はすぐに防衛産業の成長と存続に必要な精度を提供することに気が進まない政府と直面することになったのです。

 1942年にイギリスの「ソーニクロフト」社が設計した「ボラ」級魚雷艇 (MTB)5隻が建造されたことを除けば、1940年代から1950年代にかけてトルコで艦艇の建造が行われることはありませんでした。[8]

 この間にトルコ海軍はアメリカから大量の艦艇を供与されたため、今後数十年にわたる自国での艦艇を建造するという将来的な見込みは実質的に絶望的なものと化したのです。

ちなみに、「アタック」級機雷敷設艦はこの時代でも運用が続けられ、後継となるイギリス製「シウリヒサル」級掃海艇2隻よりも長生きして1961年に廃船となりました。[9] [6]

これは「アタック」の進水を報じた1938年3月24日付の新聞のスクラップ記事の画像で、" 機雷敷設艦「アタック」が昨日の(軍事関係の)式典で海に浮かんだ "と書かれている

 トルコが再び海軍艦艇の建造を開始したのは1960年代後半になってからであり、その際に12隻の「AB-25」級哨戒艇が建造され、より野心的なプロジェクトは1967年に開始された2隻の「ベルク」級フリゲートの建造という形で実行に移されました。[10]

 「ベルク」級はアメリカ海軍の「クロード・ジョーンズ」級護衛駆逐艦をベースにトルコの要求に合うように若干の改良を加えたものであり、驚くべきことに1910年代以降のトルコで建造された最初の大型艦でした!これらの艦艇の建造は国産艦が実現する可能性を提示したものの、それ以上の「ベルク」級の発注がなされることはありませんでした。

 2000年代半ばから後半の間に、トルコの海軍関連の産業界は「MILGEM(国家艦艇)」プロジェクトという形で大規模な次世代艦の設計事業を次々と立ちあげ、これまでにいくつかのコルベットやフリゲートの設計案の誕生と建造がなされています。

フリゲート「ベルク(艦番号D358)

 「MILGEM」プロジェクトの最新バージョンとして登場した「TF-2000」級駆逐艦は、アメリカの「アーレイ・バーク」級駆逐艦と同等の能力を持つ艦となります。

 「TF-2000」級には、国産兵装が装備される予定です(以下のとおり)。
  1. 127mm砲 1門
  2. 「アトマジャ」対艦巡航ミサイル(射程220km) 16発
  3. 「シペル」艦対空ミサイル(射程150km以上)及びその他のSAM、「ゲズギン」対地巡航ミサイル(射程1000km以上)用のVLS 64セル
  4. 「オルカ」324mm短魚雷用発射管
  5. 「ギョクデニズ」35mm近接防御火器システム(アセルサン製)  2門
  6. 「ナザール」高エネルギーレーザー照射機(メテクサン製)   2門
  7. チャフ・デコイ散布システム
  8. 「UMTAS(ウムタス)」対戦車ミサイル(ATGM)用発射システム  2門
  9. リモート・ウエポン・システム 4門


 敵の探知とミサイルの誘導を可能にするため、この駆逐艦にはトルコで設計された広域をカバーできるレーダーとセンサー類も備えられます。

 このほかの「アーレイ・バーク級」駆逐艦との類似点としては、「S-70B "シーホーク"」対潜ヘリコプターを2機搭載できる充実した設備が存在することが挙げられます。[1]


 「千里の道も一歩から」という言葉があります。トルコは1930年代後半に早くもその第一歩を踏み出しましたが、その後の数十年間は国内の防衛産業が軽視された時期が続きました。過去20年間でトルコ政府はこの流れを驚くべきスピードで逆転させ、こんにち起きているこの種の現象としては間違いなく最速の自給自足を目指す旅に乗り出しているのです。

 トルコの防衛産業が、ほぼ全種類の艦船とそれに関連するレーダーやセンサー類を含む装備や兵装を生産できるようになる日はそう遠くないと思われます。

 「TF-2000」が就役するならば、それはトルコが歩んだ自給自足への道のりを示す証となり、「アタック」級機雷敷設艦の進水から100年を迎えるこの国の建艦史の復活にふさわしいものとなるに違いありません。

[1] IDEF 2021: Turkey Full Steam Ahead with TF-2000 Air Defense Destroyer Project https://www.navalnews.com/naval-news/2021/08/idef-2021-turkey-full-steam-ahead-with-tf-2000-air-defense-destroyer-project/
[2] Turkish indigenous rail gun “Şahi-209” to be integrated to naval assets https://www.navaltoday.com/2019/10/31/turkish-indigenous-rail-gun-sahi-209-to-be-integrated-to-naval-assets/
[3] Turkey’s defense industry rolls up sleeves for aircraft carrier https://www.dailysabah.com/business/defense/turkeys-defense-industry-rolls-up-sleeves-for-aircraft-carrier
[4] Cumhuriyetin İlk Yerli Gemisi: Gölcük Yağ Tankeri https://negatifsephiye.blogspot.com/2019/05/cumhuriyetin-ilk-yerli-gemisi-golcuk.html
[5] Cumhuriyet Tarihinde İnşa Edilen ilk Gemi https://www.denizbulten.com/yazar-cumhuriyet-tarihinde-insa-edilen-ilk-gemi-111.html
[6] ATAK http://www.navypedia.org/ships/turkey/tu_ms_atak.htm
[7] From Nu.D.40 to Bayraktar Akıncı: Demirağ’s Legacy https://www.oryxspioenkop.com/2021/05/from-nud40-to-bayraktar-akinci-demirags.html
[8] BORA http://www.navypedia.org/ships/turkey/tu_cf_bora.htm
[9] Sivrihisar http://www.navypedia.org/ships/turkey/tu_ms_sivrihisar.htm
[10] BERK frigates http://www.navypedia.org/ships/turkey/tu_es_berk.htm

※  当記事は、2022年1月16日に「Oryx」本国版(英語)に投稿された記事を翻訳した
 ものです。当記事は意訳などにより、僅かに本来のものと意味や言い回しを変更した箇所 
 があります。



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