2020年12月15日火曜日

忘れられた軍隊:誰もが忘れた沿ドニエストルの戦勝記念パレード

著:ステイン・ミッツアー(編訳:Tarao Goo

 公式には沿ドニエストル・モルドバ共和国(PMR)と呼ばれる沿ドニエストル(トランスニストリア)はモルドバとウクライナの間に位置する分断国家であり、1990年にソビエト社会主義共和国として独立を宣言した後の1992年にモルドバから流血を伴った離脱をして以来、世界からの注目を避け続けています。

 1992 年に武力紛争が終結したにもかかわらず、沿ドニエストルの状況は 1990年代と同様に複雑なままです。同国はロシア連邦への加盟を希望する儚い国でありながら、経済産出量としてモルドバへのわずかな農産物の輸出に大きく依存し続けているのです。

 現在のところ、いずれも自身が未承認国家であるアブハジア共和国、南オセチア共和国と(何とか残った)アルツァフ共和国(ナゴルノ・カラバフ)のみから承認されていますが、沿ドニエストルは自らの陸軍と航空兵力、そして独自の軍需産業を持つ事実上の国家として機能しています。

 沿ドニエストルは本質的には依然としてハンマーと鎌をその国旗の中で使用している – KGBでさえも主要な治安機関として保持し続けているソビエト社会主義共和国です。

 ロシアは現在でも沿ドニエストルに限られた軍事的プレゼンスを維持しており、ロシア兵は公式に国内で平和維持活動を行っています。

 2020年にはCOVID-19の世界的大流行により、第二次世界大戦終結75周年の戦勝記念日に関する行事が延期され、4月21日にはクラスノセリスキー大統領が戦勝記念日パレードの中止を正式に発表しました。

 しかし、その後の6月24日にパレードをモスクワでの戦勝記念日パレードの当日にして、この未承認国家「独立」30周年の日でもある9月2日の共和国記念日に開催することが発表されたのでした。


 どのような装備が紹介されるかという点において、沿ドニエストルの軍事パレードはそのほとんどが過去の繰り返し(注:参加する装備に変化が見られないということ)ですが、まさにそれがパレードを面白いものにしています。

 世界で開催されている殆どの軍事パレードは、通例ならばその国が開発・入手した最新型の兵器が含まれる壮大なショーですが、沿ドニエストルの場合は従来の方法では旧式装備を更新することができないため、その代わりとして、様々なDIY装備とソ連製の覚えにくいAFVを混ぜ合わせた独特のブレンド品を紹介しています。

 沿ドニエストルのエキゾチックな装備と車両の構成がなされるようになったのは長く複雑なプロセスを経た結果であり、それはソ連崩壊の直後まで遡ります。

 ソ連が崩壊したとき、かつてソ連軍を構成していた人員や関連する兵器類の多くは、それらが所在する地で新しく誕生した国に所属することになりました。このプロセスは旧ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の外に駐留していた多くの民族的ロシア人の離脱(注・分離独立や脱走)によってしばしば問題となりましたが、沿ドニエストルに駐留していたソ連地上軍第14軍が遭遇した問題はこれだけではありませんでした。

 第14軍は実際にはウクライナ、モルドバ、そして分離独立国家である沿ドニエストル(トランスニストリア)に配置されており、同軍の様々な部隊は、ウクライナ、モルドバ、ロシアや新たに形成された沿ドニエストル共和国に所属しました。

 モルドバ政府よれば依然として同国領土だった地域への1992年の侵攻(トランスニストリア戦争)の間、 第 14 軍の大量の武器と弾薬は(沿ドニエストルを自らの支配下に戻そうとするモルドバの試みを撃退するために)沿ドニエストルの現地住民(部隊)に引き継がれ、結果として4 ヶ月後に停戦が宣言されるまで短期間ながらも激しい紛争に至りました。

 沿ドニエストルが領土内の武器保管庫の大部分を掌握した際には大量の高度な特殊車両を受け継ぎましたが、(自走)砲や歩兵戦闘車両(IFV)は僅かな数しか残されていませんでした。 

 沿ドニエストルに存在していた限られた量のIFVなどは戦争終結後にロシアに返還されたため、PMRには世界の数カ国でしか使用されていない工兵車両の豊富なストックが残され、その一方で大砲やIFVのような装備はほとんど完全に取り上げられてしまいました。

 東ヨーロッパの未承認国家、希少な工兵車両、様々なDIY装備...非常に興味深い軍事パレードには必要とされるすべてのネタがあります!



 2020年のパレードは、(1945年5月2日のベルリン攻防戦でソ連の赤旗を帝国議会議事堂の上に掲げた兵士が所属していた)クトゥーゾフ勲章2級授与第150親衛狙撃兵師団(名誉称号「イドリツァ」・「ベルリン」)の旗のコピーを掲げた儀仗兵の入場から始まりました。

 (未だにロシアとの統一を望んでいる)沿ドニエストルとロシアの国旗も掲げられていたことがこの「国」の微妙な立場を暗示しています。



 パレードに参加した1200人以上の軍部隊と法執行部隊を観閲したのは、ワジム・クラスノセルスキー大統領、オレグ・オブルチコフ国防相とイーゴリ・スミルノフ初代大統領(1991年~2011年)を含むPMRの指導者たちでした。

 下の写真からPMRがソビエトに起源があることを特定するのにロケット科学者は必要ありません(注:国章で一目瞭然ということ)。それ故にクラスノセルスキー大統領の個人的な見解には驚くべきものがあります。大統領は「古き良き時代のソ連」に憧れる人々とは全く対照的であり、10月革命を「大惨事」と呼び、ボリシェビキを「裏切り者」と言及し、ソ連の指導者よりもロシア帝国の指導者を称えることを提案しているからです。

 また、彼は君主制主義者としての姿も現しており、ソ連時代のシンボルはこの国と無関係であるとし、トランスニストリアをソ連の断片と見なすべきではないと主張しました。この時点でご想像いただけるかと思いますが、この「国」は分析してみると非常に面白いものがあります。


左: オレグ・オブルチコフ国防相(少将)、中央:ワジム・クラスノセルスキー大統領、右:イーゴリ・スミルノフ初代大統領

 パレードの参加者や観衆に向けて演説したクラスノセルスキー大統領は次のように述べました。

 「それ(COVID-19)が我が国の発展を遅らせたものの、ストップさせることはなかったと強調したいと思います。私たちは社会インフラの構築と近代化、投資家の誘致、そして私たちのトランスニストリアの近代化を続けています。時間はいかなる困難も一緒にならば乗り越えられることを示しています。
 軍司令官は、この国の人々の「団結・連帯・勇気」が、大祖国戦争での抵抗と勝利と1990年代初頭のトランスニストリアの建国と防衛に寄与したと語りました。
 私たち沿ドニエストル人は、大切な記憶がいかに重要であるか、世代の継続性を知っている賢明な人々です。過去を記憶し、現在を創造し、私たちは、私たちの大地で、私たちの法律に従って、未来を共に構築していきます。今までそうであったように、これからも同様にです。
 この日、私はロシア連邦に最も温かい感謝の言葉を表明します。友愛的関係と支援と平和に感謝します。」

 第二次世界大戦と1992年のトランスニストリア戦争の犠牲者に敬意を表して、パレードの出席者は1分間の黙祷を捧げました。



 今年の8月初頭には、沿ドニエストルの小規模な陸軍航空隊の本拠地でもあるティラスポリ空軍基地の誘導路でパレードの練習が行われ始めました(航空隊については今後の記事で紹介する予定です)。 パレードの訓練をしている兵士や車両の映像はで視聴することができます。パレード本番の模様はで視聴することができます。




 UAZ-469の上から閲兵部隊に敬礼するオレグ・オブリュチコフ国防相(下の画像)。
 このオフロード車は新しいホイールで「アップグレード」されていますが、UAZ-469のノスタルジックな外観と完全にマッチしていません。



 多くのソ連後継国家で軍事行進の標準となっているように、歩兵分野では2つの女性部隊も行進に参加しました(下の画像)。





 ソ連のSKSカービンとAK-74を手にした儀仗隊の兵士たちがスヴォロフ広場を行進する部隊に注目の姿勢をとっています(下の画像)。
 
 沿ドニエストルの軍隊はAK-74(74Mを含む)とAKS-74をほぼ全般的に装備しており、SKSは主に式典における儀仗兵によって使用されています。





 下の画像はパレードに参加する部隊の概要を示しています。閲兵部隊には、機械化歩兵、空挺部隊(VDV)の降下兵、特殊部隊、ドニエストル即応部隊、国境警備隊と内務省の部隊が含まれています。


 すでに気づいているかもしれませんが、沿ドニエストル軍の制服はロシア軍のものと区別がつきません。同軍では、デジタルフローラ迷彩とゴルカ(防寒服)の制服はどちらも現用です。下の画像では、小さな沿ドニエストル国旗のベルクロ式パッチにも注意する必要があります。




 他の多くのソ連後継諸国と同様に、沿ドニエストルにも依然として(一般的にVDVとして知られている)空挺部隊が編成されており、下の画像ではAKS-74を携行しています。

 VDVは航空隊の An-2やMi-8を用いた訓練を受けていますが、モルドバとの間で紛争が発生した場合はその大半が地上部隊として活用されることでしょう。



 緊急対応特殊部隊(SOBR)に所属する兵士たち(下の画像)。SOBRは非常時には通常の警察で使用可能な即応部隊として機能します。 これもソ連時代の遺産です。



 十分に装備が行き渡った平和維持部隊(MC=миротворческих сил )がAK-74Mを手にしながら行進しています(下の画像)。

 沿ドニエストルは未承認国家のままなので、 この部隊をどこに展開させるのかという疑問が(おそらく)解消されることはないでしょう。



 下の画像では、国防省の将校やティラスポリ司法学院(注:内務省が管轄する教育機関)の士官候補生たちが派手な制服と典型的なソ連式の制帽を披露しています。




 ケバブ店を背景に、パレードの車両部門を先導する式典用のT-34/85戦車がガタゴトと音を立てて通り過ぎます(下の画像)。

 これらの戦車をパレードで展示する目的は単に第二次世界大戦の従軍兵士たちに敬意を表することだけにありますが、T-34/85がイエメンや北朝鮮などの国では現役であることに言及しなければなりません。北朝鮮におけるT-34の運用と施された改修に関する詳細は、私たちの本で読むことができます



 T-34/85の乗員が第79親衛狙撃師団の旗を掲げています(下の画像)。この師団は1943年に沿ドニエストルでのドニエプル川の戦いに参加して戦後もドイツ駐留ソ連軍部隊の一員として活躍し、1992年にウズベキスタンのサマルカンドで解隊されました。

 戦車の砲身に描かれた5つのキルマークにも注目です。



 T-34/85に続いて、132mmロケット弾を搭載したBM-13「カチューシャ」多連装ロケット砲、ZIS-3 76mm野砲を牽引するYaG-6トラックやGAZ-67オフロード車といった、より式典用らしい記念車両が登場しました(下の画像)。 

 第二次世界大戦当時からのものということになっている多くの旧ソ連時代の車両がそうであるように、実際にはこれらが当時の車両に似せて改造されたより近代的なトラックであることに注意してください。BM-13の場合は戦後製のZIL-157トラックをベースにしたレプリカです。





 トラックに乗車している第二次世界大戦時の制服を着用した部隊がPPSh-41を手にしていますが、下の画像からは一丁だけPPD-34/38短機関銃と思しき銃も見えます。よく見ると実際にはこれらが偽物であることがわかりますが、そのようなことを一体誰が気にするでしょうか?



 また、このパレードにはアメリカ「陸軍」のウィリスMB「ジープ」と第二次世界大戦中のナチスドイツで使用されたものに似た、模造品のMG42機関銃を装備したサイドカーも登場しました(下の画像)。




 サイドカーは世界の多くの軍隊からその存在を史料からも追いやられていますが、沿ドニエストル軍では現在でも活躍しており、たまに演習にも登場しているため、その運用状況を確認することができます。サイドカーの機関銃手はRPK-74M 5.45mm 軽機関銃を構えています(下の画像)。



 次にパレードに登場したのは、装甲車から転用した1丁のPKT 7.62mm軽機関銃で武装した数台の独自型バギーでした(下の画像)。

 これらの非装甲バギーは被弾を避けるためにその小さなシルエットとスピードを頼りにしています。パレードでは沿ドニエストルの特殊部隊と一緒に登場しました。



 このバギーには派生型があり、そのほとんどが軽機関銃(通常は7.62 PK/PKM、下の車両の場合はRPK-74 5.45mm)を1丁装備しています。派生型には水陸両用型も存在します!



 軽偵察車のための独自の解決策を考え出すという、より深刻な試みはラーダ・ニーヴァ4x4で見られました。同車はランドローバー・ディフェンダーに類似した軽偵察車として容易に改造することができ、市場で容易に入手可能な民生車です。



 話題をパレードに戻します。バギーの後には2種類のBTRがパレード会場に入ってきました。
 
 まずは、BTR-60の車体をベースにした指揮車両であるR-145BMです。同車は1基の折りたたみ式フレームアンテナ、1基の高伸縮式マスト、5台の無線機などの特殊装備を搭載しています(下の画像)。



 続いて、沿ドニエストル軍の主力APCであるBTR-70が登場しました(下の画像)。ただし、より旧式のBTR-60も現役で運用され続けています。




 このパレードに目を光らせている人は、(縦二列で行進している)BTRの列の片方には6台、もう一列の列には5台しかいないことに気づいたかもしれません。 映像をよく観察してみると、1台のBTR-70がメイン会場に到着する直前に煙を上げて隊列から離れていく様子が分かりますが、幸いにもほとんどの観衆の視界には入っていませんでした。



 堂々とした姿のT-64BVは沿ドニエストル軍で唯一使用されている戦車です(下の画像)。
 
 T-64は1992 年のトランスニストリア戦争に投入され、数台がモルドバ軍によって破壊されました。現在のモルドバは戦車を運用していないため、今後の紛争で戦車戦が発生することは基本的にありません。




 これらの後にはパレードの中で最も興味深い部分であるIRM、UR-77、BMP-2、9P148 「コンクールス」の列が続きます(下の画像)。



 少数しか生産されなかったIRM「ジューク」は、ソ連軍で使用されたAFVの中で最も見つけにくい車両の1つです(下の画像)。

 地上と河川偵察用の戦闘工兵車両として設計されたIRMは、ソナー送受信器付き音響測深機、地雷探知機と専用の2本のアーム、アイスドリル、水中で航行・方向転換するための2つの格納式プロペラ、泥から脱出するための16基の9M39ロケットエンジンを搭載した2つのケースなどの多数の専用装置を装備しています。武装は近距離での自衛用として、IRMは小型砲塔にPKT 7.62mm機関銃を装備しています。
 
 IRMと沿ドニエストルの関係で面白いところは、同国はほとんどの国が持つ一般的な装備が不足しているにもかかわらず、渡河用の特殊車両をヨーロッパで最も多く保有していることです。




 IRMの直後には UR-77地雷原処理車が続いています(下の画像)。

 この車両は味方の部隊が前進するための安全な通路を開くために地雷除去用導爆索を使用しますが、おそらく最もよく知られているのはシリア内戦における破壊的な用途でしょう。シリアでは建物に陣取る敵を追い出すために、対象とする建物自体が存在する区画全体の一掃に使用されました(注:2022年現在はロシア軍がウクライナの市街地に向けて使用しています)。

 沿ドニエストルでは、UR-77の現代的な使用法を見つけることは想像以上に難しいでしょう。 




 UR-77 の後ろから9P148「コンクールス」対戦車ミサイル(ATGM)搭載車が迫ってきています(下の画像)。

 同車は(搭載されているのが見える)旧式の 9M111と、より高性能な 9M113の両方を使用することが可能です。9P148は最近では2020年のナゴルノ・カラバフ戦争においてアルメニア側で使用されており、適切な状況下で使用されるのであれば強力な兵器システムであり続けるでしょう。



 次の装備は沿ドニエストルのパレードでは初登場でしたが、全く予想外というわけではありませんでした。ごく僅かな数のBMP-2歩兵戦闘車(IFV)が沿ドニエストル軍で運用されていると考えられています。興味深いことに、BMP-2はパレードの訓練に登場しませんでした。実際のパレードに土壇場で追加されたものと思われます(下の画像)。




 今年の軍事パレードではBTRG-127「バンブルビー」の未登場が注目に値します(下の画像)。

 2016年に初めて就役した、このユニークな装甲兵員輸送車(APC)はソ連製のGMZ-3地雷敷設車をベースにしており、現地で改造されて地雷敷設装置の代わりに大型の兵員区画が設けられました。また、 Afanasev A-12.7機関銃が1門装備され、その機関銃手用のスペースも設けられました。

 BTRG-127「バンブルビー」についての記事はこちらで読むことができます



 BTRG-127とは対照的に、過去のパレードには登場していたにもかかわらず今回は未登場だったもう一つの注目すべき装備はBMP-1の派生型であるBMP-1KSh指揮通信車です(下の画像)。

 2A28「グロム」73mm低圧砲は、10mの長さの伸縮式マストとTNA-3ジャイロ式航法装置、追加の無線機のみならず電信や電話装置、発電機やアンテナに置き換えられました。

 これらを装備した結果として、砲塔は定位置に固定されています。



 沿ドニエストルが保有している別の珍しいタイプの車両には、GT-MU多目的装甲車が含まれています。(下の画像)。

 現代の世界ではGT-MUが登場する機会が皆無に近いことから、その存在を知っている人はごく僅かしかいません。それでもなお、GT-MUはSPR-1移動式電波妨害システムを含むいくつかの高度に特化された派生型のベース車両として活用されました。

 当初から多目的プラットフォームとして設計されていたため、沿ドニエストルは必要以上に保有しているGT-MUのいくつかを指揮観測車や即席の対戦車車両に改造しました。その詳細はこちらで読むことができます


 

 GAZ-66トラックとUAZ-452 オフロード・バンが120-PM-38/43 120mm迫撃砲を牽引しています(下の画像)。



 下の画像のZiL-131トラックに牽引されたZU-23 23mm対空機関砲(下の画像)のように、さまざまな種類の牽引式の対空砲や対戦車砲がパレードの最後尾を形成していました。 




 沿ドニエストルは、ヨーロッパで最後のZPU-4 14.5mm対空機関砲の運用国になる可能性が大いにあります(下の画像)。




 D-44 85mm野砲をUral-375Dトラックが牽引しています(下の画像)。
 
 この砲のパッとしない装甲貫徹能力は、モルドバがそもそも機甲戦力を全く運用していないことで緩和されています。



 MT-LB装甲牽引車は、上記のD-44に比べて確実に能力が向上しているMT-12「ラピーラ」100mm対戦車砲を牽引しています(下の画像)。

 この砲から発射されるHEAT弾は厚さ400mmの装甲を貫通することが可能です。それと比べてみると、モルドバが運用しているBMD-1は車体の大部分が厚さ15mm以下の装甲板で覆われており、最厚部でも33mmしかありません。





 沿ドニエストルとモルドバの両軍で運用されているAZP S-60 57mm対空機関砲も登場しました(下の画像)。

 対地攻撃用途における機関砲の機動性を向上させるために、後者はかつてBM-27 220mm多連装ロケット砲システム(MRL)を構成していた(今ではロケット砲が撤去された)ZiL-135トラックにまで搭載しています




 KS-19 100mm高射砲は沿ドニエストル軍が保有するもので最も強力な対空砲ですが、同軍の保有リストには牽引砲と自走砲の両方が欠けていることから、1992年の戦争以降はそのほとんどが普通の砲兵戦力として用いられています(下の画像)。

 対地攻撃のためにこの旧式砲を再利用している国は沿ドニエストルだけが唯一ではないことは確実であり、シリアとアルメニアもそれを踏襲しています。興味深いことに、イランは別目的に転用せずにレーダーや電子光学装置と組み合わせたり、自動装填装置を装着することで、本来の用途での有効性を向上させることに力を入れています。




 今年のパレードの車両部門を締めくくったのは「プリボール-1」MRLでした(下の画像)。

 このMRL(生産工場では「プリボール」と呼ばれていますが、正式には「S1T」や「1ST」として知られています)は、ZiL-131トラックと、(BM-21と同様の働きをする)独自の起立式122mmロケット弾発射システムを組み合わせたものです。
 
 しかし、BM-21との最大の違いは1回の斉射で発射できるロケット弾の総数にあります。なぜならば、BM-21では40発であるのに対してプリボール-1では僅か20発と50%も低下したからです。





 現在では、プリボール-1はより優れている(正式には「S2T」や「2ST」として知られている)プリボール-2に取って代わられています(下の画像)。この新MRLは今回のパレードに未登場だった注目すべき装備の一つです。

 プリボール-1の20本のロケット弾発射器チューブとは対照的に、プリボール-2は1回の斉射で48発という目を見張るような数の122mmロケット弾を発射することができます。民生用のカマズ-4310トラックをベースにしたプリボール-2は、(ほかのMRLのデザインと比較すると)12連装の122mmロケット弾発射器チューブの束を4基という面白い配列と、発射器を後ろ向きに搭載している点で際立っています。

 プリボール-2に関する私たちの記事はこちらで読むことができます



 記念式典は、ティラスポリの上空に大きな音を響かせながら火花を散らす8門のD-44 85mm 対戦車砲による祝砲で締めくくられました





 沿ドニエストルにおける戦勝記念日のパレードは、ほかの場所で行われている現代的なパレードよりも確かに華やかさが少なめですが、その不足分のすべてがパレードに登場する軍用装備の多彩な構成で補われています。

 モルドバと沿ドニエストルが現状(分断状態)を打開できるかどうかは不明ですが、筆者の見解では、この見応えのある伝統(パレード)は今後も確実に生き残るはずです。



[1] В столице состоялся парад в честь 30-летия республики и 75-летия Победы gov-pmr.org/item/18429

 ※  この記事は、2020年11月30日に本国版「Oryx」に投稿された記事を翻訳したもので
   す。当記事は意訳などにより、本来のものと意味や言い回しが異なっている箇所があり 
       ます。  


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2020年11月29日日曜日

消耗との戦い: ダマスカスのAFV修理施設の中を覗いてみよう



著:ステイン・ミッツアー(編訳:Tarao Goo

この記事に掲載されている画像は、2017年1月にロシア人ジャーナリストがダマスカス郊外にある小さなAFV修理施設を訪れた際に撮影されたものです。
撮影時期は数年前のものですが – AFVのいくつかは戦闘による損傷で失われたであろう姿を撮影しています – それにもかかわらず、撮影された画像は私たちに小さなシリアの戦車工廠の内部作業に関する興味深い知見を与えてくれます。

紛争地における整備士の仕事は(通常ならば)比較的安全であることが保証されていますが、特にこの工場は、AFVの修理とジョバルからの反乱軍の侵入を阻止するための防御拠点の両方の役割を果たしているという点で、独特なものでした。事実、この施設は事実上の最前線からたった300メートル離れた場所(33°32'2"N 36°20'11"E) にあったのです!
施設で働く整備士にとっては幸いなことに、ジョバルの抵抗勢力の最後の孤立地帯が2018年3月に無力化されるまで、(施設が)彼らから奇襲を受けることはありませんでした。
その結果として、私たちがここで考察する画像は(まだ稼働している工廠を確認することができる)稀な例外となります(注:殆どは陥落した後に紹介されるため)。



下の画像では、悲惨なT-55(A)MVの残骸が大量のBMP-1用履帯の山の前で横たわっています。砲塔と車体にあるほぼ全てのコンタークト-1の爆発反応装甲(ERA)を含む、大半のコンポーネントが剥ぎ取られていることから、どうやらこのT-55は(おそらく戦闘中にある種の修復不可能な損傷を受けた後に、同じ型の戦車を運用し続けるための)ドナー車としての役目を終えたようです。
また、背景の屋根が崩れていることにも注目で、この施設の状態の悪さをはっきりと示しています。



綺麗な状態の3台のT-55Aが修理施設の外側で警備に就いています。これらの状態の良さは、先述のT-55やシリアで運用されている他のT-55と比較すると雲泥の差です。
これらの戦車は前線に向かう準備ができているように見えるかもしれませんが、衛星画像では同じ戦車が2015年から2018年初頭まで全く同じ場所に駐車されていたことを示していました。このことは、戦車が(反乱軍が維持している)ジョバルからの予想されうる攻撃から工廠とその周辺地域を防御することを任務とする常駐の部隊に所属していた可能性が高いことを示唆しています。


直近に着弾したロケット弾や砲弾の破片から保護するために、前照灯と赤外線サートライトと照準システムが全て土嚢でカバーされていることにも注目してください。背後の建物に見えるように、この施設は小火器や迫撃砲の攻撃を繰り返し受けているため、(もし何もしていなければ)戦車はカバーされていない電子/光学機器に深刻な損傷を受ける可能性があるのです。




次に私たちが見る2台のT-72は、彼らが果たす役割においてはそれほどの違いはありません。左は自力で動けないAFVを施設の至る所に引っ張っていく牽引車に改造されたT-72「ウラル」で、右は全てのコンタークト-1ERAを剥がされたシリア軍のT-72AVです。
このT-72AVは、(明らかにそれをより必要としている)前線で働く戦車のためにERAを取り外されて訓練部隊で運用されている可能性があります。



工廠の車両置き場は施設内の倉庫の一角で静かに埃を被っています。
(シリア軍が)老朽化したソ連製トラック群の大部分を放棄して、ロシアが供与したGAZやウラル、カマズ製トラックのみならず、より信頼性が高く燃費の良い市販車を使用することを選択したため、かつてシリア軍の車両置き場の主力を形成していたジル-131やジル-157、ウラル375のようなトラックは、今ではシリア各地にある基地の放棄された場所で朽ち果てています。



工廠のメイン・ホールでは、シリア軍のT-55(A)MVが徹底した整備を受けたエンジンを搭載されています。 興味深いことに、先に紹介した共食い整備に使用されたと思しきT-55(A)MVには少なくともERAの一部が残っていましたが、この戦車は完全に剥ぎ取られています。 
この姿は、同じ画像の左奥に見えるT-55(A)MVの砲塔とは著しく対照的です。そのT-55(A)MVでは、砲塔後部にERAを装着しているDIY的追加装甲の配置状況を見ることができます。

二枚目の画像の戦車後部にあるマーキングから、かつてはこの戦車が第5機械化師団に所属していたことを示していますが、 整備を必要として工廠に入った時には、実際には別の部隊で運用されていたとしても不自然なことではありません。




下の画像では1台のBMP-1がデポレベルの整備(分解やオーバーホールなどを含む高度な整備)を受けていますが、兵員席を撤去しても車内がいかに窮屈なのかがはっきりと分かります。このように内部空間が狭いため、BMP-1の設計者が燃料タンクをどこに配置するか巧妙な解決策を工面しなければならなかったのは、驚くようなことではないのかもしれません。
BMPの中に乗っていた歩兵にとっては残念なことに、燃料タンクは兵員席と後部ドアの間の区画に配置されました(注:後部ドアが副燃料タンクを兼ねている)。
歩兵を運ぶことができるAPCとIFVは需要が高く、BMP-1の頑丈さは長期間にわたる整備の怠慢や戦場での酷使を可能にしていますので、シリアで運用されているBMP-1のデポレベルの整備は珍しいものに違いありません。




下の画像では、(上の画像の車体から取り出したと思われる)T-55(A)MVの砲塔が内部の整備を受けています。
高度な火器管制システムを備え、一部には独自の赤外線映像装置も装備されていることから、T-55(A)MVはシリアで運用されている初期型のT-72(T-72 「ウラル」、T-72M、T-72M1)よりも強力な相手であると言えます。

また、この戦車は(少なくともより高度なT-72Bの派生型とT-90S(シリアのサービスで9M119 スヴィーリ/レフレークス GLATGMを装備している)が引き渡される2015年までは)9M117M砲発射式対戦車ミサイル(GLATGM)の搭載が確認された、シリアで運用されている唯一の戦車でもあります。

T-55(A)MVのもう一つの特徴は、砲塔、車体とサイドスカートの広範囲にわたってコンタークト-1 ERAが装着されていることです。運用中にある同型戦車の大半は現在でもその原型をとどめていますが、この戦車はERAを全て別のやり方で再装着されています。 このDIY的なERAの配置は確かにオリジナルのものよりも高水準ではないように見えますが、それはおそらくERAがもたらす防御力にあまり影響を与えることはないでしょう(注:配置が少し違ったとしても防御力に変化がないということ)。
この画像では、砲塔のすぐ後ろの壁にT-72の転輪が並べられていることにも注目です。



放棄された施設の一角ではタイヤとトラックのエンジンの山が埃を被っており、そのほとんどが二度と使用されないことを示唆しています(下の画像)。



下の画像では、ボロボロのT-72AVが(既に車体から脱落してしまっている)コンタークト-1ERA付きのサイドスカートを保持するために使用されていた部分に(整備兵の)注目を受けています。
酷使のため、多くのT-72AVはすぐにサイドスカートなしの状態になってしまいました(実際、これは共和国防衛隊の戦車兵が持つ一般的な不満の一つでした)。たいていはRPGの一撃でサイドスカートが脱落し、車体側面が(更なる)敵のRPG攻撃に対して危険なほどに晒されてしまったのです。
この戦車には砲塔の防御力の簡易的な向上策として、スラットアーマーとして機能すると同時にスペースに土嚢や他の物を入れて防御力をさらに高めることができる、溶接した金属棒で作られた鉄カゴを取り付けられています。



下の画像では、300馬力を誇るBMP-1のUTD-20エンジンが整備を受けています。
シリアの機甲部隊は 2012年以降の継続的な戦闘に従事しており、極めて重要な修理を受ける時間がほとんどないため、それが戦場での高い故障率をもたらしています。実際、車両や装備の定期的な整備はシリア内戦や大半の紛争において見過ごされてきた要素であることが証明されています。いかなる高度な装備にも当てはまりますが、コンポーネントは定期的に点検、テスト、修理または交換されなければなりません。
これらの事実を考慮すると、ロシアがT-62M(V)や BRM-1(K)のような旧式装備を供与したことは、戦闘効率を維持するために定期的な整備が必要な(しかもマンパワーも消耗する)より高度な装備を引き渡すよりは賢明なものといえます。



近い将来、ハマー県にあるシリア軍の主要な戦車・大砲の修理工場をカバーする記事を投稿する予定ですのでご期待ください!



全ての画像はスプートニクのMikhail Voskresensky氏のご厚意によって掲載されました。


 ※  この翻訳元の記事は、2020年11月23日に投稿されたものです。当記事は意訳など 
   により、本来のものと意味や言い回しが異なっている箇所があります。
   正確な表現などについては、元記事をご一読願います。

2020年11月22日日曜日

海軍自身の「沈没」:ギニアのソ連製「ボゴモール」級哨戒艇



著:ステイン・ミッツアー

 ギニア・コナクリと呼ばれるギニア共和国は西アフリカに位置するフランス語圏の国で、乏しい経済的な見込みに苦しめられながらも人口が急速に増加しています。この国にはイギリスよりも僅かに広い面積に約1240万人が住んでいますが、ギニアは未だに発展途上国であり続けています。また、ギニアはイスラム教徒が主流の国で、人口の約85%かそれ以上を彼らが占めています。

 ボーキサイトの産出量が世界第二位であることに加えて、ギニアには 「敵の砲火によってではなく、純粋な怠慢によって全ての戦闘艦を沈没させた」という、全くありがたくない名誉を持っています。この驚くべき偉業の中心には、(この記事のテーマである)比較的先進的なソビエト製の「ボゴモール」級哨戒艇がいました。

 「プロジェクト02065 "ヴィーフリ-III(NATO側呼称:ボゴモール)"」は1980年代後半にソ連で設計・建造された哨戒艇です。この哨戒艇は「プロジェクト206MR "ヴィーフリ(NATO側呼称:マトカ)"」級ミサイル艇がベースになっており、1989年に建造が終了するまでに僅か9隻しか完成されませんでした。 [1] 
 
 「ボゴモール」級の武装は「AK-176」76mm速射砲と「AK-630」近接防御システム(CIWS)であり、どちらも艦橋上部に搭載された「MR-123」火器管制レーダーによって制御されます。設計目的の哨戒任務においては、この哨戒艇を依然として今日でも強力なプラットフォームと言えるでしょう。

 興味深いことに、ソ連はボゴモル級を1980年代までに先進的な艦艇の運用と維持が比較的可能となっていたキューバ、ベトナムやイエメンといった国々へ引き渡す代わりに、全9隻のうち4隻をイラクとギニアに輸出しました。

 ギニアは艦艇の維持に関して言えば不注意と怠慢だったという確かな実績がありますが、この国は歴史上極めて重要な時期(ソ連の没落)に間違いなく西アフリカ沿岸全体で最も近代的な艦艇を入手したことは注目すべき出来事と言えます。

 ただし、兵器・スペアパーツの供給や技術支援をしてくれる従来からのサプライヤーが(ソ連崩壊で)いなくなったため、これらの船はすぐに荒廃状態へと陥ってしまったのでした。


 最初に独立を得たフランスの植民地の一つとして(1958年)、ギニアは(特に初期の段階における)ソ連の軍事援助の被援助国となり、1950年代後半には最初の援助が到着し始めました。

 ソ連圏と緊密な関係を築いたことで、ギニアの要衝はソ連とキューバの両方によって完全に悪用されました。これらの国はギニアを植民地支配者からの独立をまだ達成していない近隣諸国の独立運動を支援するための前進基地として使用したのです。
 
 それにもかかわらず、ソ連との緊密な関係が外国からの攻撃に対してギニアを脆弱にしてしまうのではという懸念の結果として、ソ連圏との関係は1960年代の大半を通じて衰退しました。この衰退は、ポルトガルの侵攻が差し迫っているというアフメド・セク・トゥーレ大統領の被害妄想が高まった結果、1960年代後半に再びソ連圏との緊密な関係が築かれるまで続きました。

 実際、ポルトガルはギニアビサウにおける(ポルトガルによる)植民地支配と戦う独立運動へのギニアの支援に、ますます苛立ちを募らせるようになっていたのです。[2]


 トゥーレ大統領の恐怖は無駄ではありませんでした。1970年11月には、約200人のギニア系ポルトガル兵と100人の反体制派ギニア人からなるポルトガルのコマンドー部隊がポルトガル軍の将校に指揮されて、公然とギニアに侵攻しました。彼らの目標はトゥーレ政権の転覆とギニアビサウの独立運動の指導者アミルカル・カブラルの暗殺、25人のポルトガル人捕虜の解放であり、捕虜の解放のみが成功しました。[2]

 ポルトガルの攻撃を受け、トゥーレはソ連との緊密な関係を再構築して、将来に予想されうるポルトガルの侵略を払いのける追加のMiG戦闘機や戦車、高射砲の供与を受けました。

 ポルトガル人が再びギニアの地に足を踏み入れることを制止するため、数隻の艦艇から構成されたソ連海軍の哨戒部隊が頻繁にこの地域に呼ばれました。この派遣は、コナクリに定期的に配備されていたいくつかの「Tu-95RT」洋上哨戒機も含む、西アフリカ沖へソ連海軍が恒常的に配備される前触れとなったようです。

 その後の1973年1月、ギニアでのアミルカル・カブラル暗殺事件を受け、コナクリに停泊していたソ連の駆逐艦が暗殺犯を追跡・拘束してギニア当局に引き渡しました[3]。

 ポルトガルが1974年にギニアビサウの独立を認めて徐々に(1999年に中国に返還したマカオを除く)植民地から撤退し始めたため、トゥーレが抱いていたポルトガルへの恐怖は殆ど解消されました。

 自国における大規模なソ連海軍の存在が効果的な防衛策というよりはむしろ重荷になりつつあったため、トゥーレはソ連の活動を抑制し始めました。

 1977年にトゥーレはソ連の「Tu-95RT」がギニアへアクセスする許可を取り消し、続く1978年後半にはソ連とキューバの顧問団が追放され、1979年前半にはコナクリにおけるソ連艦艇の動きに更なる制限をかけたのです。

 これらの動きが、最終的に(ギニアにはるかに巨大で恒久的な海軍基地を建設するという)ソ連の希望に終止符を打つことになります。 [3]

 ギニア領海におけるソ連の漁業権に関する論争や、ソ連のギニアに有意義な経済支援を提供するという意思の欠如のため、数年間は両国の関係が冷え切ったままとなりました。[4] 

 トゥーレが死去した1984年に軍事クーデターが勃発してランサナ・コンテ将軍が実権を握り、彼は2008年に死去するまでギニアを支配し続けました。


 ソ連との緊密な関係は、虚弱なギニア海軍に大きな影響を与えました。なぜならば、ギニアは創設直後のソ連の衛星国海軍と同じような訓練と装備を受け、全ての海軍装備はソ連由来のものだったからです。
 
 ポルトガルによる侵略の後で、ギニア海軍の人員は150人から300人に増加し、1972年にはさらに150人が増強されました。同年にはギニア海軍の要員はいくつかの中国の哨戒艇の獲得を見越して中国で訓練を開始しましたが、その調達は実現しなかったようです。[5] 

 1970年代初頭におけるギニア海軍の艦船は、双連の12.7mm重機関銃2基を装備した4隻の「ポルチャット-Ⅰ」級哨戒艇、2基の533mm魚雷発射管と双連の25mm機関砲を装備した数隻の「P-6」魚雷艇、双連の25mm機関砲2基と対潜弾投射機2基だけでなく対潜水艦戦用(!)の爆雷も装備した2隻の「MO-VI」級駆潜艇で構成されていました。[5]      

 ギニアによる不十分な整備は1967年までに既に2隻の船の沈没を引き起こしており、他の船が似たような運命に遭うことを防ぐため、1971年にはソ連の技術派遣団が介入しなければいけないほどでした。[5]

 これによって艦隊の運用性が改善されたとはいえ、艦船の大半は滅多に出港することはありませんでした。ギニアは装備の信頼性の欠如と、艦船を適切に整備するための予備部品が十分に供給されないことに不満を訴えました。[3]

 ソ連はこの問題に取り組むのではなく、魚雷発射管が撤去された3隻か4隻の「シェルシェン級」哨戒艇と西アフリカの熱帯気候での運用のために改修を施された1隻の「T-43級」掃海艇を引き渡すことで、ギニア海軍に(装備面で)創設以来最大級の大変動をもたらしました。[3] 

 これらの艦船の引き渡しはギニアにとって「ボゴモール級」が引き渡される前の最後の目立った艦艇の入手となりましたが、結局は1980年代後半か1990年代初頭に密かに就役してその数年後には退役しました。

 それでもなお、ギニアは1980年代の半ばから後半にかけて、(「MiG-21bis」戦闘機と「9K35 "ストレラ-10 "地対空ミサイルシステムを含む)毎年数千万ドル相当の装備をソ連から受け取り続けました。 [6]

2007年2月:2隻のボゴモール級は既に用廃となっていましたが、埠頭にしっかりと係留されています。

2007年12月:1隻目の船尾はすでに水没しています。浸水による重量の増加で、この船はさらに海の底までゆっくりと引きずり込まれていきます。

2008年8月:満潮時ですと、かろうじて艦橋とレーダー・マストだけが水面に突き出ている状態を見ることができます。もう一隻は埠頭の反対側に移動されています。

2009年12月:干潮時には(AK-176速射砲を含めた)1隻目の上部構造の大半を視認することができます。この港の至る所では、さらに数隻の沈没船を見ることができます。

2013年3月:水圧でAK-176速射砲が船体から外れたようです。画像の左側にある浮きドックにも注目してください。

2019年8月:2隻目のボゴモール級も浸水が始まり、船首と上部構造のみがかろうじて水面より上にある状態になっています。その一方で、2013年の時点でまだ使用されていた浮きドックも沈没しました。


 イラクのような輸出先にとっては未だに比較的高度な水準であるとはいえ、(レーダー誘導式の「AK-176」76mm速射砲と「AK-630」CIWSを装備している)「ボゴモール」級はギニアのような小さな海軍のニーズを完全に超過していましたし、今でもそうと言えます。驚くべきことではないでしょうが、ギニアの場合、退役した「ボゴモール」級などを代替した艦隊は維持と運用が容易な(軽機関銃だけを装備した)小船で構成されていました。

 ギニアの隣国であるギニアビサウも1988年から1990年にかけて2隻の「ボゴモール」級哨戒艇を入手したと報告されていますが、それらが実際に引き渡されたことを示す公的な証拠は現時点で存在しません。[1][7] 

 だからといって、実際に引き渡しがなかったと言うことはできません。これらの船が、商業衛星画像の登場以前にスクラップにされたり、港の底に存在していた(既に沈没していた)可能性があるからです。

(ギニア以外で)唯一「ボゴモール」級を受け取ったことが確認されているイラクとイラン(1991年にイラクから1隻を引き継ぎました)の例については、将来的にこのブログで紹介する予定です。

 ロシアでは、「ボゴモール」級は最終的により近代的な「プロジェクト10410 "スヴェトリャク"」級に取って代わられ、たった2隻 (PSKR-726 と PSKR-727)が今でも太平洋艦隊で運用されていると考えられています。


 「ボゴモール」級の沈没 - この武勇伝は、かなりの財政的・物的支援なしに運用できない顧客国に高度な兵器を提供するというソ連の失政を証明しています。この失政の結果は今でもアフリカ各地で錆びついており、それらは港の底にいるか、解体を待っているかのどちらかとなります: それは苦痛を伴いながらも崩れていく、失敗した野望と、ゆっくりと消えていく過去の記念碑です。

[1] RussianShips.info http://russianships.info/eng/borderguard/project_02065.htm
[2] MEMORANDUM SOME REPERCUSSIONS OF THE RAID ON GUINEA https://www.cia.gov/library/readingroom/document/cia-rdp85t00875r002000110005-8
[3] IMPACT OF SOVIET NAVAL PRESENCE IN THIRD WORLD COUNTRIES https://www.cia.gov/library/readingroom/document/cia-rdp84t00658r000100030004-5
[4] EQUITIES IN THE SOVIET-GUINEAN RELATIONSHIP https://www.cia.gov/library/readingroom/document/cia-rdp85t00287r001400740001-7
[5] GUINEA https://www.cia.gov/library/readingroom/docs/CIA-RDP01-00707R000200110060-7.pdf
[6] THE SOVIET RESPONSE TO INSTABILITY IN WEST AFRICA https://www.cia.gov/library/readingroom/document/cia-rdp86t00591r000300440002-2
[7] SIPRI Trade Registers http://armstrade.sipri.org/armstrade/page/trade_register.php

※  この記事は、2020年11月16日に「Oryx」本国版に投稿された記事を翻訳したもので 
  す。当記事は意訳などにより、本来のものと意味や言い回しが異なっている箇所があります。 

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2020年11月6日金曜日

都合の悪い武器:中東における北朝鮮の武器


 時が経つにつれて、北朝鮮による中東各国への武器輸出の詳しい話がますます一般的なものになりました。

 北朝鮮との軍事的なつながりについて、関係する国々はそれを誇示するようなことは今までにしていなかったようですが、これらの話に登場する当事者たちは既に見慣れた存在であったため、ある意味では驚くようなものではありません。

 過去にはエジプトとイエメンが北朝鮮の熱心な顧客でしたが、イランとシリア(と彼らが支援する非国家的主体)は記録化されたつながりを今日に至るまで正常に維持しています。

 これらのつながりの大きさをあばくことは決して些細なことではありませんが、それ自体が興味深いテーマであることは明白です。今回、私たちは「つながり」の中で全く知られていなかったものに光を当てました。

 中東では、長い間地域の隣国との軍事的均衡を維持することが重要な検討事項であり、しばしば多大な費用をかけられてきた目標です。単なる金銭的コストだけが武器の調達でその国が支払うことになる唯一の方法ではありません(注:北朝鮮の武器を購入したことで制裁を受けるリスクがあるということ)。最初はお買い得に見えた武器も、時が経つにつれて一部の国にとっては不都合なものになってきたように見えます。

 今では長く忘れ去られていたかもしれませんが、北朝鮮の武器が(それがあったかどうかは別として)オープンマーケットで入手可能なものに比べてかなり先進的だった時代がありました。当時、北朝鮮は非同盟諸国への弾道ミサイルの輸出をほぼ独占していたため、武器輸出の面で著しい収益の増加を得ることができたのです。


 アラブ首長国連邦(UAE)を例にしてみましょう。驚くほど世界中の多くの国と同様に、UAEも一時は北朝鮮がオファーした最新技術への投資を熱望していましたが、それ以後はこの事実を「オブザーバー」に知られることを慎重に避けてきました。

 UAEが保有している北朝鮮製武器の画像は極めて僅かな数だけしか公開されておらず、実施された武器取引について詳述した資料はさらに少ない数しかありません。それでも、限られた入手可能な情報は私たちに好奇心をそそる物語を伝えてくれます。

 1980年代末にUAEは武器取引で北朝鮮と交渉を開始しました。伝えられるところによれば、1989年に「火星-5」弾道ミサイル(「R-17E "スカッドB" 」のコピー)、高射砲、自走砲、多連装ロケット砲とロケット弾の移転が含まれた1億6000万ドルの取引が成立しました。

 当然ながら、国際的なオブザーバーが最も関心を持つのは弾道ミサイルです。したがって、取引の内容について詳細に知ることができるものは弾道ミサイルしかありませんでした。1999年のアメリカの国家情報評価では18発から24発(と数量不明の発射機)が引き渡されたと推測されていましたが、この数は同年の第106回米国連邦議会・対北朝鮮政策に関する公聴会にて用いられた資料では25発に上方修正されたようです。

 従来の話では、UAE は「火星-5」の品質に不満を持ち、それらをすぐに解体待ちとして保管庫に入れたと言われています。しかし、この政治的に都合の良い話は、(後に見るように)精密な調査にはあまり耐えることはできません(注:見破ることが可能だったということ)。

 その一方で、(北朝鮮の砲兵システムが過去に無数の他国の軍隊でされてきたように)
残りの武器は問題なくUAEの軍隊に導入されたと推測するしかありません。実際にインターネット上に流れた(本来は公開されるべきではなかった)映像は、私たちにUAEがお金で得たものを見せてくれました。

UAE軍の演習でロケット弾を発射する北朝鮮製240mmMRL

 これらの240mm多連装ロケット砲(MRL)は北朝鮮やイラン、ミャンマーやアンゴラといった国が保有する兵器としてよく知られています。北朝鮮に導入された時点では、これが既存のMRLの中で最も射程距離が長い重MRLであり、90kgの弾頭を43km離れた目標に向けて投射することが可能でした。

 UAEが購入した派生型ではトラックは12本の発射管を備えています。つまり、4台のトラックからは目標に対して48発のロケット弾の集中砲火を浴びせることができるというわけです。
 
 問題はMRLを搭載しているトラックであり、特有の形状をしています。このトラックを特定することができる、もっと良い映像が世に出るまでにはかなりの長い時間がかかることでしょう。もちろん、UAE自身がそのような映像を提供してくれるとは期待できませんでした。

 そうしているうちに、これらの武器の特定の部分は(かなりの長期間にわたってその起源を不明瞭にした)変形が施されましたことが判明したのです。

 2020年6月上旬、リビアの国民合意政府(GNA)の兵士たちは、ついにハフタル将軍率いるリビア国民軍(LNA)が支配していたタルフーナを奪取しましたが、その過程で彼らはその時点で全く知られていなかった多くのMRLに遭遇しました。タルフーナはリビア西部におけるLNAの本拠地であり、LNAがUAEから軍事支援を受けていることから、この地でも両者のつながりを簡単に構築することができました。

 正体不明のMRLの発射管自体は容易に特定することができました。なぜならば、それらはトルコのロケットサン社がUAEに納入した、巨大な「ジョバリア防衛システム(重多連装ロケット砲)」に搭載されているものと同じだったからです。

 ただし、北朝鮮によるUAEへの武器輸出に関する予備知識がない限り、トラックと架台を特定することは困難を極めます。実際、発射管の架台は(他国で使用されているものとは明らかに異なる)北朝鮮の12連装240mmMRLに使用されているものと簡単に特定することができます。

 トラック自体も注目に値するものであり、それは装甲を強化された(「ACP90」としても知られているらしい)イタリアの「イヴェコ260/330.35」でした。北朝鮮はこのタイプのトラックを運用していませんが、この事実は長くにわたって軍事装備を搭載するための適切な大型トラック産業を欠いていた同国が、外国から輸入したものを適応させることで(需要に)しばしば間に合わせていたことを意味しています。 

 このケースでは、北朝鮮は単に専用のトラックを引き渡さなかったようで、おそらくはMRLを搭載するのに適したプラットフォームを(それ専用に)改修することを支援したものと考えられます。

タルフーナでGNA軍が遭遇した正体不明のMRL

UAE軍が運用するイヴェコ320.45WTM戦車輸送車。イヴェコ260/330.35も運用されていると思われる。

 北朝鮮がどの程度のMRLをUAEに引き渡したのか、同様にUAEがそれをLNAに供与したのかが不明であることから、今でもUAE軍に多くの同MRLが存在する可能性があることは確実でしょう。

 しかし、今や(最近では射程を60kmか70kmまでの延長とGPS誘導による精密打撃を含むアップグレードがされたと思われる)北朝鮮の独特な240mmロケット弾を複数の国際制裁体制からの怒りを招くことなく入手できなくなったことは、UAEが北朝鮮から得た全てのMRLがトルコ製122mmロケット弾を発射できるように改修された可能性が高いことを意味します。
 
 1989年に引き渡された他の装備はどうなっているでしょうか?

 北朝鮮は過度な数の自走砲(SPG)を製造・運用していますが、1989年にUAEが非常に興味を持ったであろうものが一つだけあります。いわゆる「コクサン(北朝鮮での言い回しならば主体砲)」は、導入された当時は本当にユニークな「怪物」でした。

「コクサン」は直径170mmある独自の分離式砲弾と決定的に巨大な砲身長で、当時のあらゆる砲兵システムの中でも最長である約50kmを射程内に収める能力がありました。古い1973年型は過去にイランに輸出されており、イラン・イラク戦争中にイラク軍の陣地や(イラクを支援したことに対する懲罰として)クウェートの油田を敵の報復圏外から砲撃するのに使用されました。

UAEが入手した派生型はより新型の1989年型であり、同国で開催された武器展示会「IDEX2005」内の辺鄙な場所で撮影された貴重な画像がその存在を裏付けています。北朝鮮製の「ZPU-4」対空機関砲と並んで展示されているこの自走砲は、現存する大砲の中でも(間違いなく北朝鮮でも)依然として最も強力なものです。

IDEX2005(UAE)にて展示されたM-1989「コクサン」

 北朝鮮から引き渡された武器はもっと存在するでしょうか?おそらくあります。デンマークの映画監督であるマッツ・ブリューガー氏による最近公開されたドキュメンタリー番組「ザ・モウル」は「モグラ(スパイ)」を使って北朝鮮製兵器システムの写真を含む北朝鮮の武器取引の内部構造を明らかにしました。

 このうちの一つは武器のカタログ内から発見されました。それは砂漠にいる初期型の火星-5を撮影したものに見えます。注目すべきことに、従来のMAZ-543の輸送起立発射機(TEL)がドイツのMAN社製KAT-1トラックをベースにしたものに変更されています。

 先述のとおり、北朝鮮はこれらのTEL用トラックを生産することが困難だったために、1993年にニューヨーク・タイムズが報じた記事のとおり輸入品に依存していました。それにもかかわらず、このTELに施された迷彩塗装とその周囲の風景はこの画像が北朝鮮で撮影されたものではないことを示しています。

 通常の推測ではイラン、リビアやシリアである可能性(特にシリアは注目を浴びます)が確実と考えられますが、これらの国ではスカッドのTELを閲覧可能な画像で見ることができます(注:つまり、検証に使用できる画像が多く存在するということ)。

 リビアとシリアでは10年に及ぶ全国規模の戦闘によってスカッドのTELが十分に晒されており、イランでは常に驚くほどオープンに(貴重な北朝鮮製TELを含めた)保有を公開してきました。これは、前述の国と違ってMAN社製トラックを無数に運用しているUAEやこれから見るサウジアラビアのような国が写真の起源である可能性を残しています。

「ザ・モウル:北朝鮮への潜入」で紹介された北朝鮮の武器カタログに掲載されていた、火星-5を搭載したMAN社製KAT-1 TEL。

 いずれにしても、1989年の取引はUAEの(北朝鮮が絡む)冒険の完全な終わりを意味するものではありませんでした。なぜなら、火星-5に不満があったと思われているにもかかわらず、すぐに北朝鮮と別の弾道ミサイルに関する交渉に入ったからです。

 ミサイルが引き渡されたのは1999年であり、これらの弾道ミサイルシステムの導入はすぐに米国のミサイル制裁法に基づいてUAEに制裁を科す可能性を(米国が)審査するきっかけとなりましたが、この件は厳重に秘匿され続けました。

 この件について、UAE軍のムハンマド・ビン・ザーイド参謀長(MbZ:アブダビの皇太子) は弾道ミサイルの総数は30発以下で(内訳は)火星-5と火星-6(注:500km先の標的に到達可能な改良型「スカッド-C)でほぼ均等に分けられており、これらのシステムを追加して取得しないとアメリカ政府に対して個人的な保証をしました。

 その後にMbZはこの状況をUAEの優位に転じさせる機会と見たようで、弾道ミサイルの引き渡しとミサイル技術管理レジーム(MCTR)への加入と引き換えに、MGM-140 ATACMS戦術ミサイルとMQ-1BプレデターUCAVの調達交渉を開始しました。この時点で彼が認めたスカッドの数は38発 – つまり以前にカウントされた数より増加していますが、これは新しくミサイルが引き渡されたのではなく 単に最初のカウントの不正確さが引き起こしたギャップである可能性が高いと思われます。

アメリカがこれらのシステムをすぐに入手できないようにしたため(その代わりに非武装型のプレデターを提示したり、後にATACMSをあまりにも法外な値段での販売を打診しました)、UAEはこの交渉から手を引いて自国の弾道ミサイル部隊を残しました。

 一部では2000年代に(北朝鮮からの)3回目となる弾道ミサイルの引き渡しがあったのではないかとの憶測がありますが、今までにそれが実際にあったのかを証明する決定的な証拠はありません。

 それにもかかわらず、北朝鮮の関与が今日まで続いていることを示す報告があります。アメリカから問い合わせがあったにもかかわらず、UAEの代表団は2008年8月に北朝鮮を訪問しました。それはミャンマーの代表団が(スカッド・ミサイル工場を視察したことで知られる)同様の訪朝をした数ヶ月前の出来事だったのです。この訪問がミサイルなどの購入に至ったのかはもちろん不明ですが、より最近の2015年の時点では両国の関係性が特に弱まっていないことは明らかでした。

 サウジアラビア主導のイエメンに対する軍事介入を支援するため、UAEは仲介人を通じて、北朝鮮から機関銃やライフル、ロケット弾を含む約1億ドル相当の武器を調達しました。彼らがそこで戦っているフーシ派が(近年に直接輸入したものではありませんが)北朝鮮製の様々な種類の武器を装備しているという事実は、おそらく完全に皮肉ではないでしょう。
 
 UAEが北朝鮮の武器を継続的に購入しているのは、北朝鮮が敵(イランやフーシ派)に武器を提供することの阻止も目的としているのかもしれません(注:UAEがあえて顧客となることで武器を敵に行き渡らせないようにすること)。

 驚いたことに、この武器取引はUAEに対する厳しい制裁の引き金とはなりませんでした。これは同国が湾岸協力理事会(GCC)のアメリカが最も信頼している同盟国の一つであるという優遇された立場のおかげであるとしか説明のしようがありません。

 (当事者の利害関係が隠蔽を望むのであれば)、このような武器取引が公知から隠蔽されている可能性があるということは本当に注目すべきものです。UAEの冒険的事業が決して独特なものではないことは間違いありませんが、新しい情報や画像がリークされない限り、これらの出来事が明るみに出る可能性は薄いでしょう。結果として、OSINTアナリストは憶測することしかできないのです。

 興味深い事例としてはサウジアラビアがあります。同国の弾道ミサイル戦力は世界で最も不透明なものの一つです。

 サウジアラビアが1988年に中国からDF-3A中距離弾道ミサイル(IRBM)を入手したことは、2014年の大規模な軍事パレードで披露された際に公的に確認されました。さらに最近のミサイル(注:DF-21)については散発的に様々な情報源に記録されていますが、スカッド型の弾道ミサイルがこの王国に引き渡されたことに言及しているものはありません。

 したがって、当時の防衛副大臣が2013年に戦略ミサイル軍部隊を訪問した際にショーケースに入った3種類の弾道ミサイルの模型をプレゼントされた光景は非常に重要です。なぜならば、3種類のミサイルのうちの2種類はサウジアラビアが保有していると知られていないタイプのものだったからです。

2013年、サウジアラビアで運用されていたと思われる3種類の弾道ミサイルの模型をプレゼントされるファハド・ビン・アブドゥッラー・ビン・ムハンマド・アル・サウード王子 (当時の防衛副大臣)。

 3つのうち最大のものは明らかにDF-3Aを正確に表現したものであり、最小のものは形状がR-17「スカッド」や北朝鮮の火星-5/6(またはその派生型)とほぼ一致しています。真ん中にあるミサイルが3種類の中で最大の謎であり、火星-7(ノドン1号)や火星-9、前者の外国の派生型に見られるような独特の三重円錐型のノーズコーンが特徴的に見えます。

 しかし、このような乏しい証拠を基にしてサウジアラビアと北朝鮮とのつながりをほとんど立証することはできません。それでもなお、サウジアラビアの暗い過去の中で、まだ知られていない弾道ミサイルの移転が行われたことは明らかです– それは中国のDF-3A IRBMよりも証明することが困難な移転です。

 この時期にサウジアラビアへのスカッド型弾道ミサイルの供給を厭わないであろう国は、特により大型で高度なシステムも同時に提供していたことを考えると、その数は驚くほど少ないものとなります(注:北朝鮮である可能性が高いということ)。

 前世紀に行われた武器取引については、関係国では極秘に関する問題として残り続けていることから、中東における北朝鮮の武器売買の全史が近い将来に明らかになる望みはほとんどありません。

 問題の当事者達が困惑する可能性を考えると、これらの不都合な武器は高いフェンスやバンカーのドアの後ろにある軍事基地で厳重に保管され続けるか、もしそうでなければ誰かが気づく前に解体されているのかもしれません。

 私たちはその全貌を見いだすことができるでしょうか?おそらくできるはずです。
しかし、関係国が(情報の取り扱いを)十分に注意するのであれば、真実は単に暗闇の中で朽ち果てていくでしょう。

 ※  この記事は、2020年11月2日に本家Oryxブログ(英語版)投稿された記事を翻訳し
  たものです。当記事は意訳などにより、本来のものと意味や言い回しが異なっている箇
  所があります。