2024年11月10日日曜日

メイド・イン・アルメニア:トルクメニスタンで運用される「K6-92」短機関銃


著:シュタイン・ミッツアーとヨースト・オリーマンズ(編訳:Tarao Goo)

※  この翻訳元の記事は、2021年2月6日に「Oryx」本国版(英語)に投稿された記事を翻訳したものです。意訳などにより、僅かに本来のものと意味や言い回しを変更した箇所があります。

 アルメニア共和国は軍事産業では特に知られた存在ではなく、武器輸出はこれまで記録に残されてきませんでした。1990年代の大半を通じて有望な兵器の研究開発をしたにもかかわらず、資金不足と発注に至らなかったことで、開発は本格化する前に頓挫してしまったからです。

 少数生産された武器の派生型は後にチェチェンや独立国家共同体(CIS)全域の犯罪者の手に普及しましたが、アルメニアの小火器産業の功績はそこで潰えたと考えられていました。ただし、その考えはアルメニアが開発した短機関銃(SMG)がトルクメニスタンで突如として姿を現したことで一変したのです。

 この小火器は「K6-92(92は最初に製造された年:1992年を示す数字)」であり、当時迫っていたナゴルノ・カルバフをめぐるアゼルバイジャンとの全面戦争を想定し、安価で製造が容易な武器として1991年に開発されたシンプルなブローバック式のSMGです。「K6-92」の最も特筆すべき点は、その独特の粗末な仕上がりでしょう。ほとんどDIYで製造した銃器のような外観となっています。

 見た目はともかく、「K6-92」は非常に優れたSMGであり、その影響力によってアルメニアで最も成功した武器でもあります。実際、読者の中には、すでに「K6-92」とチェチェンの「ボルツ(狼)」SMGの類似性に気づいた人もいるかもしれません。 後者の名称は主にチェチェン由来の即製SMG全般に付与されたものです。当初は「K6-92」の設計に倣って作られたものでしたが、その後の改良で外見以外の共通点はほとんど見られなくなりました。


 1991年にアルメニアがソ連から独立すると、「AK(M)」及び「AK-74」アサルトライフル、「PK(M)」機関銃、そして「SVD」狙撃銃を補完するため、ほぼ即座に国産小火器産業の確立に着手しました。

 銃器製造における最初の試みの一つは、ヴァハン・S・ヴァハンによって行われた自身の名前が付けられたアサルトライフルの開発です。5.45x39mm口径の「ヴァハン」はアサルトライフルの設計としては時代遅れとはいえ興味深い試みだったものの、軍で(採用に向けた)本格的な検討がされることはありませんでした。

 「ヴァハン」は革新的な特徴に欠けていたかもしれませんが、アサルトライフル開発におけるアルメニアの次の取り組みは、それを補って余りあるものでした。5.45x39mm口径の「K3」ブルパップ式アサルトライフルは、アルメニアが生んだ小火器の中で最も先進的な設計な誇っています。それにもかかわらず、(おそらくは発注を得られなかったせいか)1996年の登場から程なくして生産が中止されたようです。

 時折、ごく少数が生産された「K-3」が選抜されたアルメニアの特殊部隊に配備されたのではないかと推測されていますが、こうした情報の全てが2006年のアルメニア独立記念日のパレードで、特殊部隊の一部が同ライフルを手にしている姿を目撃したことに起因しているようです。それ以降、「K3」は二度と(運用される)姿を見せることはありませんでした。パレードでの登場は一度限りの宣伝的効果を意図したものだったと思われます。

 同じ頃、アルメニアの武器メーカーであるガルニ-レール社「K11」として知られる一連の狙撃銃の設計に着手していました。見た目は猟銃や成功な玩具の銃に似ていますが、このプロジェクトは試作段階を脱していないようです。

 「K2」自動式拳銃や「V1」SMG、「K15」12.7mm対物ライフルを開発する試みも、全て同様の運命をたどったようです。外国製兵器の継続的な調達と(ごく最近に始まった)ロシアの「AK-103」アサルトライフルのライセンス生産によって、アルメニアで設計された武器が実用化される可能性に終止符が打たれたものと思われます。[1]

 もちろん、定評のある「AK-103」の生産は決して容易なことではありません。アルメニア(と国内の小火器メーカー)にとって、このライセンス生産がいかなる自国の設計品よりも恩恵をもたらすことは言うまでもないでしょう。

 こうして、アルメニア初にして(ほぼ)間違いなく最も野心的でなかった国産銃が最も成功した小火器にもなりました。

 「K6-92」SMGは、単発またはフルオート射撃が可能なシンプルな構造の銃器です。銃弾は9x18mm口径のマカロフ弾で、24連の着脱式の箱型弾倉を使用しますが、16連の弾倉も存在します。後者は持続的なフルオート射撃には全く不向きであるものの、コートの下やバッグの中にSMG全体を隠匿しやすくなる利点をもたらします。

 1990年代のある時点で「K6M」として知られるようになった改良版が登場しました。発射速度が向上したほか、セレクタースイッチの位置が変更され、SMGの全長が大幅に短縮された。

 「K6-92」は少数ながらもアルメニア陸軍や警察で採用された一方で、「K6M」や前述の「V-1」SMGは採用されなかったようです(ただし、少なくとも1丁の「K6M」はシリアに渡ったようですが)。

 それでも、「K6」シリーズにはいくつかの派生型が存在します。最も注目すべき点としては、一部の"K6M"とされるSMGは本物の「K6M」ではなく「K6-92」の短縮版であったり、ほかには折り畳み式ストックを備えたタイプもあることです。下の画像で「K6-92(上)」、「短縮版K6-92(中)」、「K6M(下)」を比較することができます。


 間違いなくシンプルな構造のおかげで、「K6-92」は紛争に苦しむチェチェンのガンスミスの間で人気の的となりました。

 チェチェンがどのようにして「K6-92」を入手したのかは依然として議論が続いています。首都グロズヌイに同SMGの生産ラインが設置されたという主張さえあるほどです。別に考えられるものとしては、1994年の第一次チェチェン紛争以前に、チェチェン・イチケリア共和国が少数の「K6-92」をアルメニアから直接輸入していた可能性が挙げられます。

 いずれにせよ、この「K6-92」のデザインが多数の即製SMGのモチーフになったことは言うまでもありません(下の画像のとおり)。ただ、戦争が進行して物資が不足するにつれて、オリジナルとの共通性は大幅に減少てしまいました。


 四面楚歌となった戦闘員たちにあらゆる種類のDIY小火器をもたらすべく、チェチェンのガンスミスたちが依然として残業に励むうちに、アルメニアはすでに「K6-92」の2度目の輸出契約を結んでいたようです。賢明な読者ならこの時点で察しがつくでしょうが、この契約はトルクメニスタンへの納入に関するものでした。

 トルクメニスタンがこのSMGを入手した正確な時期は不明ですが「K6M」ではなく「K6-92」が引き渡されたという事実は、1990年代初頭から半ばにかけて納入された可能性を示唆しています。それにもかかわらず、このSMGの存在が初めて確認されるまでにはトルクメニスタン国境警備庁と国内軍の演習で目撃された2019年までかかったのです。この演習では「ARX-160」や「TAR-21」アサルトライフル、「MP5」や「X95」SMGといった現代的な武器が山ほどある中で、「K6-92」明らかに異彩を放っていました。

 大規模な小火器の調達がなされているにもかかわらず、「K6-92」は明らかに退役していないどころか、保管状態にも入っていません。「K6-92」がこのような現代的なライバルの隣でいまだに使用されていることは、その設計の頑丈さを証明しています。


 そのレガシーは控えめなままですが、今や「K6-92」はアルメニアがまだ独自の小火器を開発していた時代の証しとして、また、最も無名の武器でさえ予測不可能な影響力を持つことを思い出させる存在として語り継がれるものとなっています。

 どんなに生産数が少なくても、武器は常に世界の思いがけない場所に出現するものであり、その過程で、これまで知られていなかった国際的な武器取引の興味深い一面が明らかになることも少なくありません。

 アナリストにとって、大局的な視野の中から小さなものを追求することほど魅力的なトピックはないでしょう。


[1] Armenian assault rifle factory begins production https://www.janes.com/defence-news/news-detail/armenian-assault-rifle-factory-begins-production


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2024年10月27日日曜日

思わぬ伏兵:PKKのDIY式対空砲


著:シュタイン・ミッツアー と ヨースト・オリーマン(編訳:Tarao Goo)

 当記事は2021年に本国版「Oryx」(英語)に投稿されたものを翻訳した記事です。意訳などで僅かに本来のものと意味や言い回しが異なっている箇所があります(本国版の記事はリンク切れです)。

 トルコから公式に撤退してから約8年経過した今でも、クルド労働者党またはクルディスタン労働者党(PKK)はゲリラ戦を展開しており、イラク北部の山岳地帯からトルコに潜入しています。脅威を絶つことを決心したトルコ軍は、隠れ家や武器庫を無力化するためにPKKの勢力圏への攻勢を頻繁に実施してきました。

 トルコ軍ヘリコプターによる襲撃や攻撃ヘリの脅威を食い止めるべく、PKKは独自に改造した各種の重機関銃(砲)を使って、ヘリコプターのみならず機体から降り立つ兵員も狙った攻撃をしています。

 広い視野を得られ、迫りくる空中の脅威を遠くから発見することが可能な山間部の高い位置に備えられてきた場合が一般的だったこともあり、PKKの対空砲とその操作要員は過去数年間でトルコ軍のヘリコプターに対して小さな成果を上げてきました。

 これらの成功の大半はヘリコプターの撃墜ではなく損傷を与える程度のものでしたが、PKKの支配地域への不時着に至るケースもありました。トルコのヘリボーンへの対抗や抑止には少しも成功していないものの、PKKの対空砲は依然として強力な脅威であり、真剣に対処する必要があります。

 一般的にシリア軍やイラク軍から鹵獲した旧ソ連または中国製の兵器を原則としたPKKの対空砲に求められる主要な条件は、荒れた地面や山岳地帯を輸送するためにいくつかに分解できることです。その理由で、ありふれた(中国製コピーを含む)「DShK」12.7mm重機関銃と「KPV」及び「ZPU-1」14.5mm機関砲は特に人気が高く、その他にも数種類の対空砲が混在していることが判明しています。

 ごく最近では、PKKは隣接する地下洞窟内の安全な場所から操作可能なリモート・ウェポン・ステーションを導入し始めています。このシステムを運用する部隊については、ほとんど知られていません。

 PKK内には「殉教者デラル・アメド防空部隊」と呼ばれる部隊が存在しますが、これまでのところ、その任務は潜入用パラモーターと自家製の爆弾で武装した攻撃用ドローンの運用に限定されているようです。したがって、対空砲は各作戦区域のPKK部隊によって運用されている可能性が高いと思われます。おそらく、トルコ軍のヘリコプターの飛来を別の区域に警告するための全域的な警報システムも備えているのでしょう。

 対空砲が所定の場所に運び込まれて組み立てられた後は、使用する必要が生じるまで秘匿され続けるのが一般的な流れです。対空砲は頻繁に点検され、現地の状況下で確実に継続的な運用ができるように整備されていると思われます。

 下の画像の「KPV」14.5mm機関砲は、秘匿された対空砲の典型的な様子を見せています。被発見率を下げるために木の下に配置され、布と木の枝で覆われているため、上空どころか地上の遠距離からでさえ視認することが不可能に近くなっています。[1]


 この「KPV」は、ほとんどの重機関銃に施された改造の一部も披露しています- 特に注目すべきはマズルブレーキ、三脚、銃床、肩当てです。異彩を放つマズルブレーキは「KPV」に特有の強烈な反動を幾分和らげてくれるものの、命中精度をある程度維持するためには短いバースト射撃しかできません。さらに照準を合わせやすくするため、銃身のキャリングハンドルの後方に照星が追加されました(注:機関砲の後部には照門も追加されています)。


 もう一つの簡易対空システムは、「ZSU-23-4 "シルカ"」自走対空砲(SPAAG)から取り外された「2A7/2A7M」機関砲をベースにしたものです。[1]

 前述の「KPV」と同様に、この機関砲も新たにマズルブレーキ、照星、三脚が装着されました。その大口径ゆえに、「2A7」は反動が大きいおかげで単発かごく短い連射しかできません。このため、実質的には対空砲というよりは対物ライフルに近い性格となっています。

 それでも、23mm砲弾はヘリコプターに対して非常に強力な損傷を与えます。つまり、砲手が「KPV」で同様の(あるいはそれ以上の)効果を得るよりも、目標に命中させるのに必要な弾数は大幅に少なくなるというわけです。

 改造型「KPV」と同様に、この対空砲は2020年6月から9月にかけて実施されたトルコのクローイーグル・タイガー作戦の際に鹵獲されました。[1]


 「KPV」がPKKによって対空砲として使えるように改造されたのに対し、「ZPU-1」は最初から軽量の対空砲として設計されたものです。

 「ZPU-1」は通常であれば二輪式の砲架で移動しますが、ラバや人力で輸送できるように数個のコンポーネント(重量80kg)に分解することが可能となっています。「KPV」と同様の砲弾を約2km先まで発射可能な最大射程、容易な操作性と専用の対空照準器、そして大容量の弾倉はPKKに重宝されているに違いありません。

 下の画像の個体は2021年4月と5月に実施されたクローライトニング・クローサンダーボルト作戦でトルコ軍に鹵獲されたものですが、砲と砲架の大部分が錆で覆われています。これは、おそらく全ての対空砲が適切な手入れをされていたわけではないことを示しています。


 より近年における発明品は、「DShK」12.7mm機関銃(またはその中国の派生型である「54式」や「W85」)をベースにした一連のリモート・ウェポン・ステーション(RWS)です。こうしたRWSの主な利点は、砲手が敵に晒されるリスクを冒さずに安全な洞窟から操作できることにあります。

 欠点としては、状況認識の大幅な低下と弾倉が空になるごとに人力で再装填する必要があることが挙げられます – どのヘリコプターも交戦圏内の飛行時間が短いことを考慮すると、後者は想像以上に問題とはならないかもしれません(注:交戦時間自体が短いため)。

 前述の対空砲と同様に、「DShK」RWSも山の谷間を進む歩兵を標的にする副次的な役目を担っています。

 クローライトニング・クローサンダーボルト作戦の際に、少なくとも3基のRWSがトルコ軍に鹵獲されました。どれもが地下洞窟の付近に配置されていたようです。[2]

 これらは近くにいる敵兵への強力な抑止効果をもたらす一方で、その存在はトルコ軍にPKKが潜む洞窟が本当に近くにあることを即座に警告するデメリットも生じてしまいます。
作戦機やUCAVから投下される精密誘導弾や火砲によってさらに強化されたトルコ軍の数的・戦術的優位を考慮すれば、後に彼らの洞窟が全滅するのはほぼ確実と言ってもいいでしょう。[3]



 前述の多用途兵器システムの開発に多大な努力を注いでいる一方で、PKKが保有している中で最も恐れられている兵器は、いまだに携帯式地対空ミサイルシステム(MANPADS)であり続けています。明らかに、システムの複雑性と精密な電子機器が搭載されているおかげで、MANPADSが積極的に使用されたケースはほとんどなく、過去には使用前にトルコ軍に鹵獲されたものもありました。

 PKKにとって最も注目すべき成功例は、2016年5月に「9K38 "イグラ"(NATOコード:SA-18 "グロウス")」MANPADSでトルコ軍の「AH-1W "スーパーコブラ"」攻撃ヘリコプターを撃墜したことです。[4]

 この撃墜はMANPADSがもたらす深刻な脅威を際立たせましたが、これ以降に撃墜に成功したことはありません。


 トルコ軍のヘリコプターがイラク北部で自在に飛び回るのを阻止するため、自由に使用可能な(ATGMを含む)手段を何でも活用しようとしているPKKの試みが紛れもなく機知に富んでいるものの、同時に、トルコ軍のヘリボーン作戦に直面した彼らが対処しなければならない全体的な欠点を象徴しています。

 相応の武器なしに、利用可能なアセットと革新的な能力の双方で優勢な敵に対抗できる希望はほとんど残されていません。それでも、PPKのDIY式対空砲の脅威は強力と言えます。なぜならば、ローテクゆえに対抗することが困難だからです。

 トルコ側には、対空銃座に対して何らかの対抗策を実行に移せるかどうかが注目されます。例えば、無人機に作戦予定区域内の稜線をスキャンして不審な形状や動きの有無を確認させることが挙げられます。

 武器や通貨の流入不足だけでなく、近年におけるPKKの対空砲の消耗率は、彼らが対抗するトルコの装備に損耗をはるかに上回っている可能性があります。新たな重機関銃を入手するよりも早く重機関銃を失った場合、トルコが実行可能な対抗策を考え出す前に、重機関銃の配備と運用上の有効性が低下することも否定できません。


[1] Northern Iraq PKK-Weapon Caches of Operation ‘Claw Tiger’ https://silahreport.com/2020/08/27/northern-iraq-pkk-weapon-caches-of-operation-claw-tiger-miles-check-this/
[2] Claw-Lightning and Claw-Thunderbolt: Turkey Engages PKK In Iraq https://www.oryxspioenkop.com/2021/04/claw-lightning-and-claw-thunderbolt.html
[3] https://twitter.com/COIN_V2/status/1389131420614991874
[4] Video appears to show Kurdish militants shooting down Turkish military helicopter https://www.washingtonpost.com/video/world/video-appears-to-show-kurdish-militants-shooting-down-turkish-military-helicopter/2016/05/14/d64e96e2-19f6-11e6-971a-dadf9ab18869_video.html

ヘッダー画像:Abdullah Ağar、特別協力:COIN_V2(敬称略)


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2024年10月20日日曜日

サバンナの「ゴア」:マリ軍の「S-125」地対空ミサイルシステム




 この記事は2022年2月19日に「Oryx」本国版(英語)に投稿された記事を翻訳したものです。当記事は意訳などにより、僅かに本来のものと意味や言い回しを変更した箇所がある場合があります。

 「S-125」は、1967年と1973年の中東戦争で発揮した性能によって各国から好評を得た地対空ミサイル(SAM)システムです。

 当初、「S-125(NATO呼称:SA-3 "ゴア" )」は東欧・中東・北アフリカの国々に引き渡されたものの、やがてサハラ以南におけるアフリカ諸国へも大量に行き渡るようになりました。

 その一国がマリで、同国は1980年代前半から半ばの間に「S-125」を受領しましたが、同国における「S-125」の運用史や画像については、ほかのマリ軍装備と同様に見つけることが困難です。

 入手できた資料には、1980年代にソ連が6基の4連装発射機(合計で2つのSAM陣地用)を引き渡したことが記録されていました。[1] 

 アフリカにおけるソ連の従属国に配備された大部分の高度な兵器システムと同様に、マリにおける「S-125」のデリケートなコンポーネントは1980年代後半までソ連の軍事顧問によって、そのほとんどが維持されていたようです。[2] 
 
 マリ軍の「S-125」2セットについて、当初はガオモプティにある空軍基地に配備されたと考えられています。[3] 

 この2つの基地は、共に1985年末に短期間ながらも激しい国境紛争を繰り広たブルキナファソとの国境近くに位置しています。と言っても、ブルキナファソ空軍は1980年代に「MiG-17」戦闘機を1機だけしか運用していない上、その短い航続距離はブルキナファソに存在する2つの空軍基地から出撃させてもガオやモプティに到達できない不十分なものでした。
 
 1980年代後半から1990年代前半のある時点で「S-125」陣地はバマコ・セヌー空港に移され、そこで1つの陣地用のSAM一式が保管状態に置かれましたが、その各装備は後に運用が続けられたSAMの部品取り用として使われるようになってしまいました。

 生き残った「S-125」は空港の敷地内に配備されました。なぜならば、この空港は「第101空軍基地(Base Aérienne 101:BA101)」と呼ばれる軍事的な性格を併せ持っていたからです。

 ちなみに、BA101は昔も今もマリ空軍の主要な空軍基地として知られています。

マリの「S-125」発射機から1発のミサイルが発射態勢にある状況を捉えた貴重な画像

バマコ空港にある「S-125」陣地はすでに放棄されました。画像ではミサイルがまだ発射機に搭載されています。

 1990年代初頭にマリからソ連の軍事顧問が撤収した後、マリ空軍はまもなく「S-125」と「MiG-21」戦闘機を自ら維持管理するという難題に直面することとなりました。

 唯一残った「S-125」SAM陣地の運用は1990年代後半から2000年代前半の間に終えたようで、(ほかのサハラ以南のアフリカの「S-125」運用国の大半がそうであったように)システムのオーバーホールや新しい装備の調達は試みられませんでした。

 2010年代初頭における軍事パレードで「S-125」用「PR-14」弾薬輸送車兼装填車が何度か登場したことを考慮すると、マリはパレードの観衆を喜ばせるという怪しげな任務のために、少なくとも「S-125」のコンポーネントの一部を依然として維持(またはリファビッシュ)していると見られます。

「S-125」用ミサイルキャニスター2本を搭載した「ジル-131」トラック(1991年の軍事パレードにて)

バマコでのパレードに登場した「PR-14」弾薬輸送車兼装填車(2010年1月)

「S-125」用ミサイルキャニスター吊り上げ用の「ウラル-4320」クレーン車(2011年の軍事パレードにて)

 2012年のマリ北部紛争の勃発以降、マリ共和国軍が優先とする事項は一変しました。パレードで披露するためだけに車両や装備を維持する余裕はもはや存在せず、「PR-14」は最終的に放棄されてしまったのです。

 2022年時点で、退役した発射機や関連するレーダー、弾薬輸送車兼装填車などは、首都バマコのBA101で今も錆び続けています。

退役した「Mi-24D」攻撃ヘリの直近で、いくつかの「PR-14」弾薬輸送車兼装填車が放棄されている状況

 「S-125」用「V-601」地対空ミサイルは適切なメンテナンスなしでは長期間にわたって保管が不可能であることから、2013年末にマリ国防省はBA101に保管されたままの同ミサイル84発を安全に処分するため、UNMAS(国連地雷対策サービス部)に支援を求めました。 [4] [5] 

 2014年3月28日、UNMASの要員はマリ軍と協力してミサイルをバマコの南東約80kmに位置するクリコロ郊外の解体現場へ向けた移送を開始しました。



 約2か月の間に84発の「V-601」ミサイルが(ロケットブースターの撤去を含む)解体を受け、遠隔操作によって爆破処分されました。[4] [5] 

 こうして、マリにおけるSAMの運用は確実に終わりを告げたのです。



[1] THE SOVIET RESPONSE TO INSTABILITY IN WEST AFRICA https://www.cia.gov/readingroom/document/cia-rdp86t00591r000300440002-2
[2] SUB-SAHARAN AFRICA: A GROWING SOVIET MILITARY PRESENCE https://www.cia.gov/readingroom/document/cia-rdp91t01115r000100390002-1
[3] WEST AFRICA: THE SOCIALIST HARDCORE LOOKS WESTWARD https://www.cia.gov/readingroom/document/cia-rdp86t00589r000200200005-9
[4] Stockpile Destruction of Obsolete Surface-to-Air Missiles in Mali - Issuu
[5] Work in Mali a success – The Development Initiative https://thedevelopmentinitiative.com/work-in-mali-success/

2024年10月13日日曜日

さらばベルリン:トルコの「He111」爆撃機


著:シュタイン・ミッツアー と ヨースト・オリーマンズ(編訳:Tarao Goo)

 当記事は、2022年11月24日に本国版「Oryx」に投稿されたものを翻訳した記事です。意訳などにより、僅かに本来のものと意味や言い回しが異なっている箇所があります。

 タイトルとヘッダー画像を見ると、この記事で私たちが機種を間違えたと容易に結論付けられてしまうかもしれません。誰もが知っているハインケル「He111」が備える特徴的な全面ガラス張りのコックピットはどこにあるのか、と問いたい人もいるでしょう。*

 それでも、画像の機体は正真正銘のドイツ製ハインケル「He111」であり、これは1937年後半から1938年前半にかけてトルコ空軍 (Türk Hava Kuvvetleri) に引き渡された24機のうちの1機なのです。

 「He111」の最大の特徴がない理由については、トルコが購入した機体が初期の「J」シリーズであったことや、機首の全面がガラスで覆われた風防のデザインが、より一般的なタイプである「P」シリーズから導入されたことで説明できます。

 以上で話を進めるための厄介な障害が取り除かれましたので、そもそもトルコがなぜ「He111」を入手したのかの経緯を解説しなければなりません。

 1930年代のトルコは、新たに出現した脅威(特に地中海におけるファシスト・イタリアの台頭)に立ち向うための軍事的手段を欠いていました。

 自国軍の荒廃に直面したため、トルコは海外から大量の軍備を発注し始め、その中のに同国初となる本格的な爆撃機:アメリカのマーチン「139WT」も含まれていました。[1]

 性能は依然としてこの国の対地攻撃機の大部分を占めていた1920年代の「ブレゲー19」複葉機から大幅に向上したものの、僅か20機の爆撃機の入手はトルコのような大国が防衛上のニーズを満たすには到底十分とは言えないものだったことは間違いありません。

 こうした理由から、1937年3月に数多くの航空機メーカーが最新の製品を披露するためにトルコに招かれたのです。

 トルコとのビジネスに意欲的なハインケル社が展示した最新の「He111 F-0」は、この買収劇を主催したトルコから賞賛を得たようで、展示飛行が実施された後の1937年3月には、24機の「He111 J-1」が発注されました。[2]

 このうちの18機はすでに同年10月に到着しており、残る6機も1938年初頭に到着したことが記録に残っています。

 トルコがドルニエ「Do17」を2機入手したとも言われていますが、これは最終的にハインケルが受注した入札向けとして1937年にトルコで展示飛行した機体と混同している可能性があるかもしれません。[3]

トルコのラウンデルが施された「Do 17 M」または「Do 17 P」:実際にトルコがこの機種を入手したのか、あるいは1937年の展示飛行の際にドルニエ社がトルコのラウンデルを施したのかは、いまだに謎に包まれている

 「He111」が発注から僅か7か月で納入されたことが、トルコ空軍を大いに喜ばせたことは間違いないでしょう。また、1932年にフランスから中古で購入した旧式の複葉爆撃機である「ブレゲ19」の退役も可能にさせたようです。

 納入後の「He111」については、北西部のエスキシェヒルを拠点とする第1航空連隊第1大隊の第1及び第2飛行隊に配備され、各飛行隊はそれぞれ8機の「He 111 J-1」を運用し、さらにもう6機が予備機として用いられました。[4][5]

 トルコ軍の「He111」のパイロットは、1937年に同じくドイツから入手した6機のフォッケウルフ「Fw58 "ヴァイエ"」多用途機で訓練を受けました。[4]

 しかし、まもなくしてトルコ空軍は予期しない苦境に立たされることになりました。1941年6月にベルリンからアンカラに「旧式化のために、これ以上は「He111」のスペアパーツの供給できる見込みがない」旨が通告されたからです。[5]

 このお粗末な言い訳をした理由については、その数日後にナチス・ドイツがソ連に侵攻したことで明らかとなりました。つまり、ドイツは自国の「He111」用にその全スペアパーツを必要としたわけです。

 「He111」を手放して処分場送りにすることを望まなかったトルコはイギリスに目を向け、「1940年のバトル・オブ・ブリテンで不時着した "He111" からスペアパーツを集めて供給することは可能か」という不思議な依頼をしたところ、ロンドンはこの要請に応じ、8基のエンジンとその予備部品、機体部品やコックピットの計器類を供給するという結果をもたらしました。[5]

 その一方で運用可能な「He111」の減少は、イギリスから約50機のブリストル 「ブレナム」「ボーフォート」といった爆撃機の安定的な供給を受けることでカバーすることができたようです。

 残存している「He111 J-1」については、1944年に(トルコから返還されずにいた)元アメリカ軍機の「B-24D "リベレーター"」重爆撃機5機と共に「戦略爆撃機」部隊に配備されました。これらの「B-24D」は1942年と1944年にトルコに不時着した11機から成る2個編隊の一部で、トルコ空軍によって運用されていた機体です。

 この新部隊に配備されてから1年後の1945年末に「He111 J-1」が退役したとき、入手した24機のうちの8機が依然として稼働状態にあったことは同機の頑丈な設計を実証したと言えるでしょう。

「He 111 J」の尾翼:納入飛行時に施されていたハーケンクロイツからトルコ国旗へ変更中の様子

 トルコが入手した「He111」のバージョンが「F」か「J」シリーズなのか、まだ若干の誤解がされているようです。

 「He 111 J」は「He 111 F」とほぼ同様ですが、前者はダイムラー・ベンツ製「DB 600G」エンジン2基(大型ラジエーター付き)と後縁を持つ(やや直線的な)新設計の主翼を備えるという特徴があります。

 もともと「He 111 J」はドイツ海軍向けの雷撃機として開発されたタイプですが、海軍がこのタイプに関心を失ったため、結局はドイツ空軍だけが運用することになったという経緯があります。最大120機が製造されたこのタイプは、1941年に「Ju 88」に更新されるまで主に洋上偵察で活用されました。「J」型は最終的に1944年まで訓練学校で使われました。

 結局、トルコが「海軍化」された「He 111 J-1」を入手することになった理由は、納期が約7か月強と短かったからだと思われます。

 「F型」と「J型」の運用上のスペックはほぼ同一であり、最高速度は305km/h、防御機銃は機首・胴体上部に加えて下部の「ダストビン(ゴミ箱)」引き込み式銃塔に 「MG-15」7.92mm機銃が各1門、つまり合計で3門が装備されていました。

 爆弾倉については、マーチン「139WT」が僅か1,025kgしか搭載できないのと比較すると、「F型」及び「J型」は2,000kgものペイロードを誇っていました。

主翼にあるトルコのラウンデルが無ければ、"イギリス上空を飛ぶ2機のハインケル「He 111」"と容易に(誤って)信じられてしまいそうな1枚

 ほとんどの「He111」と異なって、トルコ軍の機体は一度も怒りに任せて爆撃することはなかったものの、戦争で用いた国々の機体よりもはるかに長く(約8年間)運用されたのでした。

 連合国が望んでたようにトルコが(1945年2月にしたよりも)早くナチス・ドイツに宣戦布告していれば、自身の祖国に対する「He 111」の使用は興味深い歴史の一章となったかもしれません。

 いずれにしても、トルコ航空史の草創期に関する物語と常に独特な機体の入手方法は人々の心を必ず捉え、今では遠い昔の記憶と化しつつあるこの激動の時代に対する驚異の念を呼び起こすものと言っても過言ではないでしょう。
 

* 読者からの意見があるにもかかわらず、著者は「He 111」の有名なガラス張りの機首は常識と考えられるべきものと思っています。












2024年10月5日土曜日

"アフリカの真珠" の守護者:ウガンダの軍用車両・重火器(一覧)


著:シュタイン・ミッツアーとヨースト・オリーマンズ(編訳:Tarao Goo

 この記事は2023年8月6日に本国版「Oryx」(英語)に投稿された記事を翻訳したものです。

 過去10年間で、ウガンダは静かに軍の大規模な近代化に着手してきました。この野心的な取り組みの結果として、ロシアから「Su-30MK2」多用途戦闘機、「Mi-28N」攻撃ヘリコプター、「T-90S 」戦車の導入という形で具現化したのです。

 さらに、ウガンダは「ATMOS」155mm自走榴弾砲、「スピアーMk.2」120mm自走迫撃砲、「CARDOM」自走迫撃砲、「ヘルメス 900」 UAVなど、イスラエルの高度な兵器システムにも投資を行ってきました。地上戦力をさらに増強するため、この国は中国から「85-IIM式戦車」と「VN2C」装甲兵員輸送車、北朝鮮から 「M-1991」240mm多連装ロケット砲も調達しています。

 ウガンダの軍事力強化に対する関与は、新しくAFV(装甲戦闘車両)を導入するという域に留まっていません:それらの整備と近代化事業に不可欠なインフラの整備にも向けられているのです。この献身ぶりは、AFV修理工場の設立や、南アフリカとUAE起源の多種多様な装甲車の組み立てを専門とする工場の建設からも見てとれます。こうした動きについて、ウガンダが自国の防衛上の需要を満たすだけでなく、アフリカの防衛市場で商機を探ろうとしていることを示していることは間違いないでしょう。

 機甲戦力のさらなる強化を追求する中で、ウガンダは機甲戦訓練学校の設立で大きな前進を見せています。この中で特筆すべきものとしては、ロシア人教官による訓練が挙げられます。[1]

 装備・整備・訓練の各方面に投資をすることによって、この国は防衛力を向上させ、近隣の地域で想定される作戦上の課題に対処可能な熟練した機甲部隊の育成を目指しているのは一目瞭然です。

  1. この一覧は、現在のウガンダ人民防衛軍(UPDF)及び警察部隊で使用されている全種類のAFVをリストアップ化を試みたものです。
  2. レーダーやトラック、ジープ類はこの一覧には含まれていません。
  3. 各兵器の名前をクリックするとウガンダで運用中の当該兵器の画像を見ることができます。

戦車

歩兵機動車

工兵・支援車両

牽引砲

[1] Museveni Passes Out 60 Russian-Trained Army Commanders: 'You Don't Choose A Season To Fight' https://chimpreports.com/museveni-passes-out-60-russian-trained-army-commanders-you-dont-choose-a-season-to-fight/