この記事は、2023年4月4日に本ブログのオリジナル(本国版)である「Oryx-Blog(英語)」で公開された記事を翻訳したものです。 意訳などにより、僅かに本来のものと意味や言い回しが異なっている箇所があります。
Yeni dört denizaltı gemimiz için bildirdiğimiz isimler şunlardır; 1) Saldıray, 2) Batıray, 3) Atılay, 4) Yıldıray. Bunların manalarını izaha bile hacet olmadığı kanaatındayım. Manaları, som Türkçe olan bu kelimelerin kendisindedir, yani saldıran, batıran, atılan, yıldıran. – 私たちが発表した4隻の新潜水艦の名称は次のとおりです:1) サルディライ、2) バティライ、3) アティライ、4) イルディライ。これらの名前の意味については、説明の必要はないと思います。これらは純粋なトルコ語であり、それぞれ「攻撃する者」「沈める者」「射る者」「威圧する者」を意味します:ムスタファ・ケマル・アタテュルク
1930年代の急速に近代化を進めるトルコは、社会や公共サービスなどのさまざまな分野での近代化に大きな関心を寄せていたため、ドイツの高度な産業に目を向けました。それからの10年間を通じて、ナチスから逃れた約300人のドイツ系ユダヤ人科学者がトルコに温かく歓迎され、研究を続けたのです。その一方で、トルコ空軍は1937年にドイツから合計24機の 「He 111」爆撃機と26機の「Fw 44 /58K」練習機を注文する動きを見せています。[1]また、 1940年、国営の鉄道会社であるTCDDは、当時ヨーロッパと世界で最も先進的な列車と肩を並べるドイツの「MT5200」気動車6両を発注しました。[2]
ドイツのハイテク技術を導入する試みの中で最も重要と言っても過言でないものは、1936年にトルコ海軍がドイツの「UボートIX」級を基に設計された「280号計画型/アイ」級潜水艦4隻を発注したことでしょう。
「アイ」級は、オランダのダミー会社「NV Ingenieurskantoor voor Scheepsbouw」によって正式に開発された艦です。同社はドイツの潜水艦開発のフロント企業でした。というのも、この時点で自国での潜水艦の設計等はヴェルサイユ条約で禁止されていたからです。発注された潜水艦について、2隻はドイツで、残りの「アティライ」と「イルディライ」はイスタンブールのタシュキザク造船所で建造される予定でした。ドイツで建造された「バティライ」は機雷敷設用潜水艦として完成したものの、完成後の1939年にドイツ海軍に接収・就役するという運命を迎えたので、トルコ海軍とは無縁の存在となっています。
トルコにとって幸いにも、「サルディライ」は「バティライ」よりも数か月早く完成したため、接収される運命から免れることができました。 Uボートの建造は1937年2月にキールのクルップ・ゲルマニア造船所で開始され、翌年7月にドイツとトルコの高官の立会いの下で進水しました。その後、大規模な艤装を経て、1939年初頭に引き渡し可能な状態になったのです。[3]
トルコにとって幸いにも、「サルディライ」は「バティライ」よりも数か月早く完成したため、接収される運命から免れることができました。 Uボートの建造は1937年2月にキールのクルップ・ゲルマニア造船所で開始され、翌年7月にドイツとトルコの高官の立会いの下で進水しました。その後、大規模な艤装を経て、1939年初頭に引き渡し可能な状態になったのです。[3]
ところが、戦争前の緊迫した情勢下で、完成した潜水艦をトルコへ航行させるための十分な人員を確保できないという事態に陥ってしまいました。これにより、「サルディライ」の出航は1939年4月2日まで延期されることになり、最終的ドイツ国旗を掲げ、トルコ人水兵とドイツ人将校で構成された乗組員の手によってエーゲ海へ出航したのでした。[3]
トルコ政府が自国の水兵をドイツに派遣するという決定は、「サルディライ」をトルコから救った最大の要因と考えられます。仮に回航が数か月遅れていれば、同艦もドイツ海軍に接収されていたはずだからです。1939年6月5日、イスタンブールの金角湾で「サルディライ」の就役式典が実施された時点で、「イルディライ」と「アティライ」は、僅か数キロメートル離れたタシュキザク造船所でまだ建造中でした。これらの潜水艦はドイツの指導の下でトルコの作業員によって建造され、主に現地で調達された資材が使用されました。[4]
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1938年7月、「サルディライ」の進水式でクルップ・ゲルマニア造船所で働く作業員たちがナチス式敬礼を行ってい(背後には敬礼するドイツ海軍将兵の姿が確認できる)。右側は建造中の「バティライ」である。 |
トルコ政府が自国の水兵をドイツに派遣するという決定は、「サルディライ」をトルコから救った最大の要因と考えられます。仮に回航が数か月遅れていれば、同艦もドイツ海軍に接収されていたはずだからです。1939年6月5日、イスタンブールの金角湾で「サルディライ」の就役式典が実施された時点で、「イルディライ」と「アティライ」は、僅か数キロメートル離れたタシュキザク造船所でまだ建造中でした。これらの潜水艦はドイツの指導の下でトルコの作業員によって建造され、主に現地で調達された資材が使用されました。[4]
「アティライ」は1939年に進水して翌年に就役しましたが、第二次世界大戦の勃発に伴うドイツ人技術者の帰国や部品の供給が途絶えたため、「イルディライ」は進水から6年後の1946年にようやく就役しました。
4隻の高度な洋上型Uボートの調達と国内での建造はトルコの防衛にとって極めて重要なものです。そうした理由もあって、トルコ共和国初代大統領ムスタファ・ケマル・アタテュルクは自ら潜水艦の名前を命名することを決定しました。1938年1月17日、彼はマフムト・ジェラル・バヤル首相宛てに4隻の潜水艦の名前を通知する書簡を送ったものの、同年11月に死去したため、最初の潜水艦がトルコに到着する光景を目にすることはありませんでした。
1939年、金角湾で進水した際の「アティライ」。 |
1939年の「イルディライ」進水式の様子。ドイツの技術支援の打ち切りと重要な部品の供給停止により、トルコ海軍が同艦の実戦配備に成功したのは1946年になってからだった。 |
4隻の高度な洋上型Uボートの調達と国内での建造はトルコの防衛にとって極めて重要なものです。そうした理由もあって、トルコ共和国初代大統領ムスタファ・ケマル・アタテュルクは自ら潜水艦の名前を命名することを決定しました。1938年1月17日、彼はマフムト・ジェラル・バヤル首相宛てに4隻の潜水艦の名前を通知する書簡を送ったものの、同年11月に死去したため、最初の潜水艦がトルコに到着する光景を目にすることはありませんでした。
アタテュルクが潜水艦の命名について手書きで記した大統領令についてはイスタンブール海軍博物館で展示されており、それがトルコ海軍にとって重要な意味を有していること(そして、おそらく象徴的な意味では今でも)を物語っています。
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高速で航行中の「アティライ」。司令塔の前方に装備されている10.5cm砲に注意。 |
「アイ」級潜水艦は533mm魚雷発射管を6基(船首に4基、船尾に2基)装備しており、合計14発の魚雷を搭載可能です。この潜水艦は3,500馬力の出力を誇るデンマークのブアマイスタ・オ・ウェーイン製ディーゼルエンジン2基と2基のモーターを装備し、水上で約20ノット(約37km/h)、潜航時で約9ノット(約16.5km/h)で航行することができました。[4]
なお、「バティライ」の航続距離は水上10ノットで13,100海里(19,400km)、潜航時4ノットで最大75海里(144km)でした。[5]
他の3隻は、水上では10ノット(18.5km/h)の速度で8,000海里(14,800km)の航続距離を誇っていました。乗組員は約45名の士官と水兵で構成されています。「アイ」級潜水艦4隻は、司令塔の前方に「L/45」10.5cm砲を装備していました。なお、「サルディライ」と「アティライ」は、司令塔の後方にエリコン製20mm対空機関砲も装備しています。「バティライ」は、魚雷発射管から射出できる機雷を最大で36発も搭載することができました。
ところで、「アイ」級はトルコ海軍に就役した最初の(ドイツ起源の)潜水艦ではありません。1925年、ドイツのダミー企業であるNV Ingenieurskantoor voor Scheepsbouw(IvS)は、トルコ海軍向けに第一次世界大戦時代の「UB III」級潜水艦をベースにした「46号計画型」沿岸型潜水艦2隻を受注しました。両艦はオランダのロッテルダムにあるウィルトン・フェイエノールト造船所で1927年に建造され、1928年にそれぞれ「ビリンジ・イノニュ」と「イキンジ・イノニュ」と命名されてトルコ海軍に就役しました。[6]
ところで、「アイ」級はトルコ海軍に就役した最初の(ドイツ起源の)潜水艦ではありません。1925年、ドイツのダミー企業であるNV Ingenieurskantoor voor Scheepsbouw(IvS)は、トルコ海軍向けに第一次世界大戦時代の「UB III」級潜水艦をベースにした「46号計画型」沿岸型潜水艦2隻を受注しました。両艦はオランダのロッテルダムにあるウィルトン・フェイエノールト造船所で1927年に建造され、1928年にそれぞれ「ビリンジ・イノニュ」と「イキンジ・イノニュ」と命名されてトルコ海軍に就役しました。[6]
「46号計画型」に続いて「111号計画型」設計されましたが、この設計も同じくIvSによって行われています。そもそも、この潜水艦の建造は1930年にスペイン海軍向けに開始されたわけですが、同海軍が関心を示さなかったため、1935年にトルコ海軍に売却され、「ギュル」として就役しています。[7]
そして、イタリアから2隻の潜水艦を調達したことで、1930年代におけるトルコの海軍整備事業が完了したのでした。 [8] [9]
「サルディライ」と「イルディライ」は、1957年に元アメリカ海軍の「バラオ」級潜水艦に更新されるまで、トルコ海軍で平穏無事な経歴を送りました。
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「46号計画型」沿岸型潜水艦は、IvS社によって第一次世界大戦時代の「UB III」級をベースにトルコ海軍用に開発されたものだ。トルコ海軍は1925年に2隻を発注し、1928年に就役した。名称はオスマン語のアラビア文字で表記されているが、1928年にラテン文字を基にした現代のアルファベットに置き換えられた。 |
「サルディライ」と「イルディライ」は、1957年に元アメリカ海軍の「バラオ」級潜水艦に更新されるまで、トルコ海軍で平穏無事な経歴を送りました。
「アティライ」は、1942年7月14日にダーダネルス海峡で触雷して沈没し、乗員38名全員が艦と運命を共にする悲惨な運命を迎えました。この潜水艦が目的地に到着にしなかったことから捜索救助作戦が開始され、同日午後8時30分頃に海面に「アティライ」の浮標が発見されました。浮標に設置された電話は正常に機能していたものの、何度かけても「アティライ」からの応答がなかったことから、その悲惨な運命が確認されたのでした。「アティライ」沈没から52年後の1994年、この潜水艦の残骸は海岸から約6km離れた地点の深さ68メートルの海底でついに発見されました。
「アティライ」と悲しい運命を共にした乗員たちについては、当時の著名なトルコ人歌手ハミイェト・ユジェセスの歌『Gitti de Gelmeyiverdi(彼は行き、そして帰らなかった)』で偲ばれています。彼女の夫も乗員の一人だったのです。
1939年に完成直後に接収された「バティライ」については、同年9月20日に「UA」としてドイツ海軍に就役しています。機雷敷設用の潜水艦として装備されていたものの、ドイツはこれを(「バティライ」のベースとなった)通常のUボート「IX」型として運用しました。運用期間(1940年6月から1941年3月まで)中、同艦は6回の航海を実施し、その間に連合軍の艦船8隻を沈めるという戦果を挙げています。これらの中には、イギリスの補助巡洋艦である「HMSアンダニア」も含まれていました。
「アティライ」と悲しい運命を共にした乗員たちについては、当時の著名なトルコ人歌手ハミイェト・ユジェセスの歌『Gitti de Gelmeyiverdi(彼は行き、そして帰らなかった)』で偲ばれています。彼女の夫も乗員の一人だったのです。
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「アティライ」と運命を共にした乗員たち。1942年7月、同艦は1915年のガリポリの戦いで敷設された機雷によって沈んだ。画像は沈む数か月前に撮影された。 |
1939年に完成直後に接収された「バティライ」については、同年9月20日に「UA」としてドイツ海軍に就役しています。機雷敷設用の潜水艦として装備されていたものの、ドイツはこれを(「バティライ」のベースとなった)通常のUボート「IX」型として運用しました。運用期間(1940年6月から1941年3月まで)中、同艦は6回の航海を実施し、その間に連合軍の艦船8隻を沈めるという戦果を挙げています。これらの中には、イギリスの補助巡洋艦である「HMSアンダニア」も含まれていました。
第二次世界大戦中にドイツ海軍に配備された14隻の外国潜水艦によって沈没した艦艇は10隻ですが、その中の8隻が「UA」によるものです。この潜水艦は1942年7月から訓練用として使用され、それ以降は戦闘任務に就くことはありませんでした。結局、1945年5月3日にキールで自沈処分されるという運命を迎えています。
1930年代に確立された "ドイツ先進的な潜水艦を運用する" という伝統は、完全にドイツが設計した潜水艦で構成された現代のトルコの潜水艦隊で継承されています。
トルコ海軍の「バティライ」は引き渡し前にドイツに接収され、「UA」という名で就役した。 |
1930年代に確立された "ドイツ先進的な潜水艦を運用する" という伝統は、完全にドイツが設計した潜水艦で構成された現代のトルコの潜水艦隊で継承されています。
今後は、すでに就役している「209型」潜水艦に加えて、2020年代に就役する(ドイツの「214型」潜水艦をライセンス生産した)6隻の「レイス」級潜水艦によって潜水艦隊の強化が図られる予定です。 これらのいずれにも「アイ」級潜水艦の名称が付与されることはありませんが、これらの謎多き潜水艦の精神は、ほぼ1世紀後に登場する後継艦に受け継がれることでしょう。
「アティライ」の遺産をより具体的な形で継承するため、その残骸を水深30メートルの海底博物館の一部として移設する試みが提起されています。こうした計画は依然として実現に至っていません。そもそも、船体の状態が構想を実現不可能にする可能性すらあります。38名の乗員の最後の安息の地として、この船が静かな海で残りの時を過ごすことが最善かもしれません。
[1] The unlikely haven for 1930s German scientists https://physicstoday.scitation.org/do/10.1063/pt.6.4.20180927a/full/
[2] Presaging Modernity: Turkey’s MT5200 Trains https://www.oryxspioenkop.com/2021/12/presaging-modernity-turkeys-mt5200.html
[3] TÜRK DENİZALTICILIK TARİHİ http://www.denizalticilarbirligi.com/db.dztarih.htm
[4] SALDIRAY submarines (1939-1946) https://www.navypedia.org/ships/turkey/tu_ss_saldiray.htm
[5] BATIRAY submarine https://www.navypedia.org/ships/turkey/tu_ss_batiray.htm
[6] BİRİNCİ İNÖNÜ submarines (1928) http://www.navypedia.org/ships/turkey/tu_ss_birinci_inonu.htm[7] GÜR submarine (1934) http://www.navypedia.org/ships/turkey/tu_ss_gur.htm
[8] DUMLUPINAR submarine (1931) http://www.navypedia.org/ships/turkey/tu_ss_dumlupinar.htm
[9] SAKARYA submarine (1931) http://www.navypedia.org/ships/turkey/tu_ss_sakarya.htm

【お知らせ】この本の英語版については、2025年7月15日に改訂・分冊版の1冊目が発売されました。
Gitti de gelmeyiverdi - 出て行ったあの人は戻ってこなかったわ
Gözlerim yolarda kaldı - あの人の帰りを待つわ (道を見ながら)
Hele nazlım nerde kaldı - あの人は何処へ?
Ne zaman ne zaman gelir - いつになったらあの人は帰ってくるの?
Gel a nazlım lahuri şallım - 来て、私の愛しいラウリ・シャリム
Sağı solu dolaşalım - 一緒に歩きましょうよ
Ne zaman ne zaman gelir - いつになったらあの人は帰ってくるの?
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海底で眠る「アティライ」 |
[1] The unlikely haven for 1930s German scientists https://physicstoday.scitation.org/do/10.1063/pt.6.4.20180927a/full/
[2] Presaging Modernity: Turkey’s MT5200 Trains https://www.oryxspioenkop.com/2021/12/presaging-modernity-turkeys-mt5200.html
[3] TÜRK DENİZALTICILIK TARİHİ http://www.denizalticilarbirligi.com/db.dztarih.htm
[4] SALDIRAY submarines (1939-1946) https://www.navypedia.org/ships/turkey/tu_ss_saldiray.htm
[5] BATIRAY submarine https://www.navypedia.org/ships/turkey/tu_ss_batiray.htm
[6] BİRİNCİ İNÖNÜ submarines (1928) http://www.navypedia.org/ships/turkey/tu_ss_birinci_inonu.htm[7] GÜR submarine (1934) http://www.navypedia.org/ships/turkey/tu_ss_gur.htm
[8] DUMLUPINAR submarine (1931) http://www.navypedia.org/ships/turkey/tu_ss_dumlupinar.htm
[9] SAKARYA submarine (1931) http://www.navypedia.org/ships/turkey/tu_ss_sakarya.htm

【お知らせ】この本の英語版については、2025年7月15日に改訂・分冊版の1冊目が発売されました。
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