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2025年3月1日土曜日

アフリキヤ・ワン: 代金と所有権をめぐって苦しんだカダフィ専用機


著:シュタイン・ミッツアー と ヨースト・オリーマンズ(編訳:Tarao Goo)

 この記事は、2023年9月6日に本ブログのオリジナル(本国版)である「Oryx-Blog(英語)」で公開された記事を翻訳したものです。 意訳などにより、僅かに本来のものと意味や言い回しが異なっている箇所があります。

 私は国際的なリーダーであり、アラブの統治者たちの長であり、アフリカの諸王の王であり、ムスリムのイマームである:ムアンマル・カダフィ

 2011年にリビア革命が終結したことは、リビアの人々に、ムアンマル・カダフィが42年にわたる統治下で蓄えていた数十億ドルと、それによって彼が手に入れた贅沢なライフスタイルのレガシーを求めて熱狂させる事態に至らせました。というのも、リビアはアフリカで最も豊富な石油を埋蔵している国にもかかわらず、カダフィの統治下では、リビアの人口600万人のうち約40%が貧困ライン以下で生活しており、適切な医療を受ける機会すら全くなかったからです。[1]

 カダフィ一家が所有する宮殿の内部をリビア人がやっと垣間見ることができたとき、もっとも際立っていたのは、(おそらく大半の人が予想していたような)豪華さではなく、むしろそのお粗末な内装でした。サイフ・アル=イスラム・カダフィの邸宅で発見されたスーパーカーの壁画にしても、カダフィ一家の保養所の廊下の中央に置かれた巨大な石造りの噴水にしても、お金とセンスがイコールではないことは明らかです。彼の独特なインテリア・センスは、反政府軍がカダフィの1億2,000万ドル(約180億円) もしたVIP専用エアバス「A340 "アフリキヤ・ワン"」 の内部を初めて覗いたときに、さらに証明されました。[2]

 国連安全保障理事会がリビア上空に飛行禁止区域を設定した後にトリポリ国際空港(IAP)で立ち往生していた「A340」は、2011年8月に発生した空港をめぐる戦いでは、概ね被害を免れました。この後、反政府軍が首都トリポリを制圧したことは周知のとおりです。反政府軍がトリポリIAPで遭遇した飛行機は、(過去の当ブログで紹介した)リビアが2機保有する「An-124」貨物機のうちの1機だけでなく、カダフィの自家用ジェット機の大部分も含まれていました。[3]

 贅沢をしないふりをしていた割には、彼の専用機は「A340-213(5A-ONE)」1機、「A300-600(5A-IAY、空港の先頭で破壊された)」1機、ダッソー「ファルコン900EX(5A-DCN、近郊のミティガ空軍基地で発見された)」1機で構成されていました。ちなみに、トリポリで発見されたカダフィ専用の高速列車は、イタリアのシルヴィオ・ベルルスコーニ首相(当時)から贈られたものでした。これの詳細は過去に取り上げた記事をご一読ください。[4]

 明らかになったカダフィ専用「A340」の内部は、1990年代のリムジンと遜色ない銀灰色の内装でした。それでも、4発機の「A340」はスタイリッシュさに欠けていたものの、豪華さではそれを補って余りあるものがありました。というのも、カダフィとその側近たち、そして女性だけで構成された親衛隊 "アマゾニア"が利用できた、複数のバスルームと2個のシャワー、ジャグジー、革張りのソファと座席が設けられていたからです。

 このような豪勢なことを考えれば、カダフィ大佐、あるいは彼が好んで使った "大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国の偉大なる9月1日革命の指導者" が、実際に「A300」を愛用した事実は驚くべきことかもしれません。このことは、彼がすでに「A340」の3人目のオーナーであり、自分でインテリアを決めていなかった事実と大いに関係がありそうです。「A300」も中古機でしたが、こちらは2003年にアブダビ・アミリ・フライト(現プレジデンシャル・フライト)から入手した後にカダフィの好みに合わせて改装されました。[5]

 「A340」がカダフィの手元に渡った経緯については、それ自体が興味をそそるストーリーです。まず、この機体は1996年8月にブルネイのジェフリ・ボルキア皇太子によって発注されたもので、2億5,000万ドル(約378億円)を費やして調達と内部の改装が行われました。[6]

 2億5,000万ドルという額の時点でもすでに巨額ですが、それが彼自身のお金でないことを考えれば余計にそう言えます。(お察しの通り)ジェフリ皇太子にはブルネイの国家予算を不正に流用する悪習があり、国庫から148億ドル(約2.2兆円)を不正に持ち出し、多くの宮殿やヨット、そしてこの「A340」を含む9機以上のプライベート機に費やしたとして非難されていたのです。[7]

 結果として、彼は弟の行動を少しも快く思わなかったブルネイのスルタン(兄のハサナル・ボルキア)によって解任され、全ての所有物を売り払われてしまいました。ジェフリ皇太子が "自分の"「A340」に2億5,000万ドルも費やした僅か3年後に、この飛行機はスルタンによって、世界で最も裕福な人物の一人であるサウジアラビアのアル=ワリード・ビン・タラール・アル・サウード王子にたった9,500万ドル(約140億円)で売却されたわけです。

 手っ取り早く金儲けをしようとした王子は、この飛行機をカダフィに売ろうと試みたものの、それがさらなるスキャンダルを招くことになりました。

ゾッとさせるような1990年代風の銀灰色の内装が施されたカダフィの「A340」

"アフリキヤ・ワン" に備えられたカダフィの(旧ジェフリ・ボルキアの)豪勢な玉座

 アル=ワリード王子が最初に直面した障害は、カダフィ大佐が2001年に初めて「A340」を売り込まれた際に少しも興味を示さなかったことでした。そもそもカダフィは飛行機を用いての移動に熱中していたわけではなかったし、リビアへの制裁と政治的な面での国際的孤立の拡大のため、過去10年以上は海外へ飛ぶことがなかったからです。1970年代と1980年代、まだ世界の多くで歓迎されていた頃の彼が単にリビア航空の「ボーイング707」を使用していたことを踏まえると、専用機には特に興味を示していなかったようです。

 アル=ワリードからすると、「A340」の購入に関心を示す相手がいなかったことが問題となったのは容易に想像できるでしょう。買い手からの関心が乏しかったのは、航空機の内装と外装がいずれも著しく魅力のないものだったことが影響しているかもしれません。ジェフリ皇太子は兄が所有する3機(!)の「A340」とほぼ同様の内装をチョイスしたものの、仕上げは兄が使用した金色ではなく、なぜか銀灰色のものだったことは上述のとおりです。彼はその出来栄えに満足したようで、「A340」の外装も同様に仕上げられました。

ブルネイのジェフリ・ボルキア皇太子が所有していた時代の「A340」:外装もパッとしない銀灰色に固執しているように見える (画像:Konstantin von Wedelstaedt)

 アル=ワリード王子は、カダフィが1億2,000万ドルの空飛ぶリムジンの購入に無関心であることに気後れせず、カダフィと人脈を持つヨルダンのフィクサー:ダード・シャラブに依頼し、カダフィにエアバスを購入するよう説得を試みました。それにもかかわらず、シャラブは彼との会談を実現させるのに1年半近くを要して、ようやく実現したのは2003年1月のことです。[6]

 この会談で、カダフィは最終的にエアバスに興味を示した一方、他にも提示された複数の航空機を検討していると述べました。この数日後、シャラブは王子に連絡を取り、カダフィに「A340」だけでなく、同じく売却しようとしていた「ボーイング767」もチェックしてもらうよう提案しました。こうして2003年4月に両機はリビアへ飛び、王子自身も「A340」に搭乗して売り込みにきたのです。

 結果として、カダフィはエアバスを気に入り、売却の手続きが完了するまで機体をトリポリに留め置くよう要請しました。これは、彼の知らないところで機体に手を加えるなどの行為を防止するための措置という意味合いがあります。

 結局、王子は「ボーイング767」でサウジアラビアに戻りました。この時の彼は、おそらく取引の成功の見込みに満足したことでしょう。

アル=ワリード王子は銀灰色の塗装が「A340」の販売に悪影響を及ぼすと判断し、より美しい "キングダム・グリーン" に変更した:カダフィが初めて目にした「A340」はこの塗装の機体だった

 「A340」の売却価格に関して、どうやら王子とシャラブの間には齟齬があったようです。シャラブは1億3,500万ドル(約200億円)と考えていたのに対し、王子は最高でも1億1,000万ドル(約165億円)と考えていました。[6]

 この価格でも、王子にとっては1,500万ドル(約22億円)の利益を手にすることができます。それにもかかわらず、彼はカダフィを騙して「A340」の価格が実際はもっと高価だと信じ込ませ、「1億3,500万ドルという価格は、私たちがこの機体に要した費用です。これには、購入後に機体に施された多種多様な追加の装備や改造が含まれています」とカダフィに伝え、儲けを増やそうとしたのでした。[6]

 後にこれらの改造について尋ねられた際、王子は実際には「A340」に何もしていないことを認めました。

 騙されていたのはカダフィ大佐だけがではありません:というのも、シャラブは「機体を1億1,000万ドルで売却できたならば、王子がそれ以上の金額を自身に支払うことに同意していた」と主張していたものの、後に王子はこの約束を否定したからです。最終的にシャラブは訴訟を起こし、勝訴しました。2013年にイギリスの裁判所は王子に対して彼女に1,000万ドル(約15億円)の(損害賠償を兼ねる)仲介手数料を支払うよう命じたのでした。[8]

 勝訴のちょうど10年前となる2003年6月、カダフィ大佐との交渉を成功させて1億2,000万ドルでエアバス「A340」を売却したのはシャラブでしたが、隣国エジプトにおける王子の農業プロジェクトに対するリビアからの2,000万ドル(約30億円)の投資を決定させたのも彼女でした。[6]

 機体の代金の支払いは2回に分割して行われ、最初の7,000万ドル(約105億円)は王子に直接支払われる予定になっていました。リビア農業投資公社が、第2回目の出資分として残りの7,000万ドルを拠出し、そのうち2,000万ドルは農業プロジェクトに、残りの5,000万ドルは航空機の代金に充てられる予定だったのです。王子は2003年8月に最初の7,000万ドルを受け取ったものの、航空機購入費用の5,000万ドルと農業プロジェクト用の2,000万ドルの入金は実現しませんでした。

 2004年2月、カダフィの代理として「A340」を運航する予定だったリビアのアフリキヤ航空の会長が、王子の代理と会談しました。この会議の途中で、会長はカダフィが7,000万ドルが適正な価格だと考えており、それ以上の金額を支払うつもりはないと述べています。最近調達した「A300」に加えて長距離用のVIP機を追加する必要性が全くないことを踏まえると、この時点でカダフィが後悔していた可能性があるのではないでしょうか。

 おそらく、彼が「A340」の購入を決断した主な理由は、そのサイズと4基のエンジンという点にあったと思われます。一般の読者からすると、4基のエンジンが持つ重要性をすぐに理解するのは難しいかもしれませんが、一般的に中東の指導者たちが4基のエンジンを搭載した「ボーイング747-400」か、より現代的で大型の「ボーイング747-8」を所有していることをイメージすれば分かるのではないでしょうか。というのも、大型機は、指導者とその国に高い威信を授けてくれるからです。

 かつて「A340」は一流の飛行機と見なされていましたが、トルコとエジプトの両政府は、(「A340」に加えて)より大型の「ボーイング747-8」も導入しています。

アラブ諸国の指導者たちの専用機と比較した際に明らかに見劣っていたため、双発機の「A300」はカダフィに劣等感を抱かせていたのかもしれません。カダフィに「A340」購入を動機づけた要因が、これであった可能性は決して低くはないでしょう。ただし、彼がこの購入で1億2,000万ドルもの大金を出すことについては、明らかに快く思っていませんでした。

「A340」を入手した後も、カダフィは海外へのフライトには双発機の「A300」を頻繁に利用した (画像:Dennis)

 別の億万長者が以前所有していた4発エンジンのプライベートジェット機の価格をめぐって2人の億万長者が口論しているという光景がそれほど面白くないと思っても、この事態はさらに滑稽な展開を繰り広げることになります。

 明らかにカダフィは依然として未払いの5,000万ドルをアル=ワリードに渡す意思はなかった一方で、王子の手には隠し玉がありました。

 「A340」は王子がトリポリを去った2003年4月以来、ずっと駐機されたままでした。しかし、機体をフライアブルな状態に維持するには(通常はヨーロッパで行われる)定期点検を受ける必要があったわけです。こうして2004年3月に、この機体がドイツで定期点検を受ける番となりました。

 リビアの当局者たちは「A340」のトリポリへの帰還を期待していたようですが、驚いたことに、その機体は戻ってくることはありませんでした。跡形もなく消えてしまったかのような状態となったわけです。

 以前、カダフィは王子が2,500万ドルの損失を受け入れて、「A340」の所有権を正式にリビアに移転することを予期していたようですが、今や大佐は「A340」とすでに支払った7,000万ドルを失うことになってしまったのでした。

 カダフィは、消えた飛行機を発見する任務に精鋭のエージェントを投入したに違いありません。なぜなら、未だに「A340」の正式な所有者であるアル=ワリード王子が、ドイツでの整備を完了した同機を彼に黙ってサウジアラビアに戻したことを、すぐに突き止めたことで、大佐が激怒したからです。[6]

 このエスカレートする争いの中に巻き込まれヨルダンの仲介人であるシャラブは、結果的に、飛行機の即時返還か7,000万ドルの払い戻しを求めるカダフィの要求を伝えることしかできませんでした。飛行機がサウジアラビアでの駐機中に不正に改造された可能性があることを察知したカダフィは、その後、取引の完全なキャンセルを決定しました。これに対して、(王子は)エアバスの取引はキャンセルするものの、補償金として7,000万ドルを支払う意向を表明しました。文字どおり、アル=ワリード王子は大佐よりも上手に立ち回ったわけです。[6]

 これまでのカダフィは、他国への徹底的な侵攻によって紛争を解決しようとしてきましたが、サウジアラビアとの国境を接していない上にリビア軍も機能していなかったため、この選択肢は実現不可能なものでした。つまり、王子が「A340」と7,000万ドルの両方を掌握した時点で、カダフィに残された手段はなくなってしまったのです。

 状況の行き詰まりから3か月後、シャラブはアル=ワリードとカダフィがトリポリでの直接会談を手配することで、事態の打開を計画しました。結局、彼女はこのプランを通じて少なくとも1,000万ドルの報酬を得ることになったわけですが、そう簡単にはいかなかったことを後で触れます。

 復讐のためにカダフィが王子の自家用機を押収するリスクを回避するため、王子はチャーター機でリビアに向かいました。その後、王子とカダフィの公開の会談が行われ、大佐は最終的に未払いの5,000万ドルを支払う意向を表明しました。[6]

 しかし、その翌日の会合で詳細を話し合った際、リビア側はまたしても決定を覆して再び7,000万ドルの返還を求める事態に展開したのです。カダフィとの非常に長期に渡る話し合いに耐え、この取引を解決するためにトリポリに赴いたアル=ワリード王子は、この突然の展開に不愉快だったに違いありません。しかし、結局はリビア側が譲歩して、飛行機の購入を進めることに同意しました。[6]

 王子の農業プロジェクトに対する2,000万ドルの投資はもはや議題から消えたものの、リビアは未払いの5,000万ドルを支払って遂に飛行機の所有権を得ることで決着がつきました。ただし、終わりにはまだ時間がかかります。この新たな契約は9月に王子によって署名されたものの、リビア側が署名をするのにそこから6か月、実際に王子に代金を支払うまでにさらに6か月を要したことも触れておかなければなりません。

 2006年9月、カダフィの手にようやく飛行機の所有権が渡り、3年半を費やした1億2,000万ドルの取引がやっと完了しました!

 王子はこの売却で2,500万ドルの利益を得ました。ただし、話はこれで終わりません。というのも、シャラブが1,000万ドルの仲介手数料を自分に支払うべきだと主張したからです。不思議なことに、今回その支払いを拒否したのは(カダフィの支払い拒否に苦しめられた)王子でした。[8]

新たなカラーリングを施された「A340 "5A-ONE"」 : ジェフリ皇太子が使用していた銀灰色よりも、この白と黒の配色の方がより視覚的に引き立つ

 しかし、この時期のシャラブにとって最大の心配事は、王子の不払い支払いではありませんでした。なぜなら、彼女は(ヨルダン国籍保有者にもかかわらず)どうやらカダフィの怒りを買ったらしく、そのためにトリポリで軟禁状態に置かれていたからです。[9]

 彼女が自宅軟禁に追いやられた理由は、カダフィの被害妄想でしかなかったようです。彼は、シャラブがヨルダンのアブドラ2世とエジプト大統領のホスニイ・ムバラクと共謀して自分を失脚させようと画策していると非難しました。彼の主張は次のとおりです:「私は、お前の王がエジプトの大統領と一緒になって、私に対して何を企てているかを知っているぞ」。[9]

 これらの疑惑に対する自己弁護の機会を認められなかった彼女は、2011年のリビア革命で反体制派に解放されるまで、トリポリで21か月間のも及ぶ軟禁に耐えなければならなかったのです。

 解放後、彼女はアル=ワリード王子に対する1,000万ドルの要求を続け、最終的に2013年7月にイギリスの裁判所で損害賠償(兼仲介手数料)の請求が認められました。[8]

2011年、反体制派の戦闘員が "アフリキヤ・ワン" の魅力的な内装について熟考している

 2006年にカダフィに売却された後、「A340」はドイツのルフトハンザ・テクニークで再塗装を施されました。以前にカダフィの「A300」で行われたのと同様に、彼が本当に民間の旅客機で移動しているかのような虚偽のイメージを与えるため、「A340」はアフリキヤ航空のカラーで飾られたのです。

 目立つように表示された9.9.99のロゴは、アフリカ連合の設立を呼びかけた1999年9月9日のシルテ宣言の署名日を記念したものです。この 「9.9.99」 という日付は、少なくとも2012年までは)アフリキヤ航空の機体カラーの大部分を占めており、カダフィのアフリカに対する新たに生じた親近感を象徴していました。

 1970年代に自分の指導の下でアラブ諸国を統一しようとして失敗した後、カダフィは1990年代後半から2000年代にかけて新たにアフリカへの取り組みを開始し、アフリカ連合を土台にして、自らを将来のアフリカ合衆国の指導者に位置づけようとしたわけです。

 ところが、アフリカのほぼ全ての指導者たちがカダフィの提案から静かに距離を置くようになり、アフリカ連合はカダフィの議長在任中、彼を事実上の孤立に追いやってしまいました。このため、カダフィはAUや別のアフリカの構想に資金を投入したことを後悔するようになります。「議長が持つ権力がこんなに小さいことを事前に知っていたら、私はこの仕事を拒否していただろう」と述べる有様でした。[10]

 アフリカをテーマにしたアフリキヤ航空のカラーリングの背後にあった意図は別として、「A340」の "9.9.99 " の塗装が極めて際立っていたことは否定できません。

2009年6月、イタリアへの公式訪問で "アフリキヤ・ワン" を降りた直後、軍服姿で演奏されるリビアの国歌に敬礼するカダフィ:シルテ宣言を記念した "リビア-アフリカ 9.9.99" のマーキングにも注目

 機体の外観には新たな塗装が施された一方で、カダフィは内装を一切変更しないことを選択しました。この決定については、彼がこの飛行機を入手するまでにすでに3年半もかかっており、これ以上就役を遅れさせたくなかったという事実が影響しているのでしょう。もしくは、カダフィの嗜好がジェフリ王子と一致したのかもしれません。

 いずれにせよ、外観は型破りだったものの、内装はカダフィ大佐が望むだけの豪華さを備えており、ジャグジーなどの設備や  "革命の尼僧" や "アマゾニアン・ガード" として知られる女性だけで構成された護衛部隊員用の座席も十分に完備されていました。

 この「A340」については、2006年から2011年にかけて何度もカダフィを乗せて海外と行き来したことが知られています。

 リビア革命で、カダフィがベネズエラやジンバブエに脱出するために「A340」を使用するという憶測が流れたにもかかわらず、国連が飛行禁止区域を設定するまで彼はリビアに留まり続けました。こうして、事実上最後の脱出ルートが絶たれてしまったのです。

 その後、カダフィは2011年10月に殺害されるという悲惨な運命を迎えました。

"アフリキヤ・ワン" のカダフィ専用ベッド

殺風景な座席:これらは大佐の女性ボディーガート部隊用だ

 同じ空港にあったカダフィの「A300」が完全に破壊されたのとは対照的に、幸いなことに「A340」はリビア革命からほぼ無傷で生き延びることができました。

フランスで修理を受けた後、新しい塗装を施されたこのエアバスは、リビア新政府のVIP機として一時的に使用された記録があります。ところが、リビアの治安情勢が悪化したため、「A340」は2014年にフランスに再び移送されてしまいました。その後、同機はさまざまな法的紛争に巻き込まれたため、2021年までフランスで駐機状態に置かれることになったのです。もちろん、駐機も無料ではなく、1日につき1,200ドル(約18万円)の費用がかかりました。[11]

 こうした法廷闘争については、カダフィの債務不履行を理由に同機を押収を図ろうとする多国籍企業の試みもあったようです。しかしながら、フランスの高等裁判所は、同機は主権免除を享受しており、差し押さえできないとの判決を下しました。[11]

 ただし、「A340」を押収しようとしたのは多国籍企業だけではありません。国内で分裂したトリポリ政府(暫定国民統一政府:GNU)とトブルク政府(GNS/LNA)も同機の所有権を主張していたからです。結局は、国際的に承認されたトリポリ政府が同機の所有権を確保することに成功し、2021年6月に同機を手に入れました。

新しいカラーリングの「A340」:この画像は2014年から2021年までフランスに駐機していた際に撮影された

 今回紹介した「A340」の歴史は、当初の目的から、その後のカダフィへの売却、そしてリビアでの就航に至るまで、スキャンダルに満ちています。ただし、長年にわたって変わらなかったものがあります:センスに欠けたインテリアです。この飛行機は駐機していた空港での戦闘に耐え、差し押さえを試みる企業・組織・個人による法的紛争に何度も直面したものの、最終的にはこれらの試練を乗り切ったのです。

 「A340」は27年の歴史の中で初めて、選挙で選ばれた政府首脳を乗せて飛行します。これは、億万長者や独裁者に仕えるという今までの役目から脱却するものと言えます。波乱に満ちた過去があったにせよ、「A340」がこれ以上の論争や衝突に出会うことなく、これからもずっと空を優雅に飛び続けてくれることを願うばかりです。

2021年6月、(1日に1,200ドルの駐機代を支払わなければならなかった)フランスから戻った「A340」の前でポーズをとるアブドゥル・ハミド・ムハンマド・ドベイバ暫定国民統一政府首相

[1] Poverty persists in Libya despite oil riches https://www.thenationalnews.com/world/africa/poverty-persists-in-libya-despite-oil-riches-1.384738
[2] Libya Conflict: Inside Colonel Gaddafi's Private Jet https://youtu.be/cysf9zT6Hso
[3] Giants Of The Skies - The An-124 In Libyan Service https://www.oryxspioenkop.com/2020/09/an-124-article.html
[4] This Was Gaddafi’s Personal Italian High-Speed Train https://www.oryxspioenkop.com/2021/02/this-was-gaddafis-personal-italian-high.html
[5] 5A-IAY Afriqiyah Airways Airbus A300-600 https://www.planespotters.net/airframe/airbus-a300-600-5a-iay-afriqiyah-airways/l3wn53
[6] Selling a VIP business jet to Colonel Gaddafi https://www.corporatejetinvestor.com/news/selling-a-vip-business-jet-to-muammar-gadafi/
[7] How The Playboy Prince Of Brunei Blew Through $14.8 Billion https://www.businessinsider.com/prince-jefri-brunei-spending-habits-2011-6
[8] Billionaire Saudi prince loses UK court battle over Gaddafi jet https://www.reuters.com/article/uk-britain-saudi-gaddafi-idUKBRE96U0G920130731
[9] Colonel Muammar Gaddafi memoir author: ‘Judge him for yourself’ https://www.thenational.scot/news/19652822.colonel-muammar-gaddafi-memoir-author-judge-yourself/
[10] Why Gaddafi Is Unhappy https://youtu.be/cjBGn8TVUT8?si=dzEoUiAUcQfF_Shb
[11] Qaddafi’s former Presidential plane returns to Libya – end of a saga https://libyaherald.com/2021/06/qaddafis-former-presidential-plane-returns-to-libya-end-of-a-saga/

ヘッダー画像: Joan Martorell

2025年に改訂・分冊版が発売予定です(英語版)

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2025年2月1日土曜日

世界で最も醜悪な大統領専用機を見よ: ガンビアのエアフォース・ワン


著:シュタイン・ミッツアー と ヨースト・オリーマンズ(編訳:Tarao Goo)

 当記事は、2022年12月24日に本国版「Oryx」に投稿されたものを翻訳した記事です。 意訳などにより、僅かに本来のものと意味や言い回しが異なっている箇所があります。

 私に投票する地域は発展させますが、私に投票しないのであれば...何も期待しないでいただきたい:ヤヒヤ・ジャメ 

 世界のトップリーダーたちが豪勢な外遊をすることを知らない人はいません。アメリカの 「エアフォース・ワン 」やカタール王室が所有する豪華なVIP専用機を見れば一目瞭然でしょう。こうした専用機はそれぞれ豪華さのレベルが異なるものの、一つだけ確かなことがあります: 世界の指導者たちはスタイリッシュな移動を好むということです。

 このことは、失脚したガンビア共和国のジャメ大統領を除く全世界のリーダーに言えると思います。と言うのも、ジャメ大統領は、「Il-62M」を含む(おそらく)世界で最も見栄えの悪い内装のVIP専用機を誇示していたからです。

 1970年代の内装を備えたソ連製のジェット旅客機が、自国の年金基金で購入したアフリカの独裁者のために、キューバから来た乗員によって整備され、飛んでいる: これが気にならない読者がいますか?。

 公式には「シャイフ・プロフェッサー・アルハジ・ドクター・ヤヒヤ・アブドゥル=アズィーズ・アワル・ジェムス・ジュンクング・ジャメ・ナーシル・ディーン・バビリ・マンサ閣下」と称されるヤヒヤ・ジャメは、軍の最高司令官にしてガンビアの神聖な憲法における最高責任者であり、1994年から2017年までガンビアを統治した人物です。より詳しく説明すると、最初は軍事政権の議長として、その後の1996年から2017年に失脚するまでは大統領の地位にありました。

 在任中、彼は(自身が作った薬で)HIV/エイズや喘息、さらには不妊症を治療できると豪語し、世界最貧国の一つである自国に世界最大級の高級車コレクションを築き上げたことで、国際的な悪名を轟かせました。

 同様に目立ったのは、一時は「IL-62M」が1機と「ボーイング727」が2機、さらにはボンバルディア・「チャレンジャー601」が1機あったジャメのVIP専用機群です。どの国の政府でも4機のVIP専用機を保有することは、すでに相当の負担が発生することは言うまでもありません。ガンビアの場合では、専用機で恩恵を受ける人間がヤヒヤ・ジャメ自身だけであることを考えると、なおさら贅沢と言えます。

 さらに深刻なのは、同国の国営航空会社であるガンビア国際航空が航空機を1機も保有していなかったために、運休を余儀なくされたことでしょう。状況がどれほど深刻だったのかについては、(正式に設立されなかった)ガンビア空軍でさえ、ジャメの便宜のためだけに運用され、1機の「Su-25」対地攻撃機と2機の「AT-602」農薬散布機は、パレードでの飛行やジャメの所有地を肥沃にするために使用される有り様だったことで察することができるはずです。この状態はジャメが個人的に「Su-25」のパイロットを解雇するまで続き、それ以後は同機の運用が放棄されてしまいました。 [1]

 人口が200万人弱のアフリカ大陸で最も小さな国であることから、4機のVIP専用ジェット機は国外への公式訪問時にしか飛ばすことができませんでした(1回に1機ずつの飛行自体が、明らかに4機も所有する必要性を自己否定していると言っても過言ではありません)。実際、ガンビアは国土が狭いため、ジャメは国内の移動でヘリコプターさえも使いませんでした。彼は宮殿から宮殿(そして故郷に建設した私設動物園)への移動に、自身が保有する膨大な車のコレクションを利用することを好んでいたのです。

 それでも、ムスリムの指導者にして(少なくとも2013年までは)台湾を国家承認していた世界でも数少ない国の大統領として、ジャメは長距離用の「Il-62M」を使って中東や台湾を頻繁に訪問しています。

 「チャレンジャー601」については、ショッピングを目的としたヨーロッパへのお忍び旅行を念頭に置いて購入されたものの、実際に使用されることは滅多にありませんでした。

2013年、東京国際空港(羽田)に着陸するジャメの「Il-62M」:機体の外観は間違いなく大統領専用機らしく見える

 ジャメ大統領が国家予算を大量に費やして、最新のロールスロイスやメルセデス、ハマー、ランドローバーでマイカーのコレクションを拡大している一方で、彼の飛行機は驚くほど古いものでした。

 彼が所有する2機の「ボーイング727」はそれぞれ1966年(C5-GAF)と1971年(C5-GOG)に製造されたものにもかかわらず、細心の注意が払われて良好な状態が維持されていました(フランスのペルピニャンで頻繁にオーバーホールが行われていたのです)。C5-GOGについては、2016年に新しいエンジンに換装されました。[2] [3] [4]

 G5-GAFは、以前にサウジアラビア王室用のプライベート機として使用されていたものであり、「チャレンジャー601」は1985年の製造で2010年にドイツ空軍から購入された機体です。[5]

 これらとは対照的に、ジャメが最初に所有した「Il-62M(C5-GNM)」は、ロシアの武器密輸業者であるヴィクトー・. バウトの協力を得て入手されたものでした。この機体が最終的にジャメのエアフォース・ワンとして使われるようになった経緯は、アフリカでダイヤモンドや武器の密輸に用いられる航空機には比較的よくあるものですが、実に興味をそそられる話です。

 1980年にアエロフロート用に製造されたこの機体は、1999年にセントラアフリカン・エアに登録されました。ところが、それ自体がヴィクトー・. バウトの密輸事業のための巧妙な隠れ蓑でした。[6]

 バウトはいくつかの航空機を中央アフリカ共和国に登録したわけですが、要は民間航空を管理するの腐敗した役人が彼の機体を登録(合法化)していたということです。[7]

 登録された直後、「Il-62M」はガンビアのニュー・ミレニアム・エアに譲渡されました。同社のCEOはガンビアの政治家であるババ・ジョベでした。つまり、会社とCEOは実質的にバウトの別の隠れ蓑と言える存在だったわけです。

 当時のヴィクトー・バウトは、『彼は母を殺し、父を殺した。でも、私は彼に投票する!』というスローガンを掲げてチャールズ・テイラーが選挙で勝利したばかりのリベリアから、ダイヤモンドと武器の密輸に深く関わっていたことで知られていました。

 しかし、この陰謀はすぐに国連安全保障理事会に気づかれてしまったことで、2001年にガンビア・ニュー・ミレニアム・エアと(そのCEOである)ババ・ジョベに制裁が科され、彼はガンビアで9年の刑期を宣告されるという結果で頓挫しました。[8]

 この出来事で「Il-62M」は所有者を失い、しばらくガンビア後で立ち往生することになります。所有者を失った4発エンジンの旅客機が自分の空港に放置されたら、あなたはどうしますか?そう、自分のものだと主張するのでしょう。まさにジャメはそうしたのです。

 彼には、この飛行機に全く馴染みがなかったわけではありません。 (まだセントラアフリカン・エアが正式に所有していた頃の)1999年12月、ジャメはガボンのリーブルヴィルへの公式訪問のために「Il-62M をチャーターしたことがあります。ここで彼は、乗ってきた飛行機の大きさについて、他ならぬ中央アフリカ共和国のアンジュ=フェリックス・パタッセ大統領から(本当に)褒められたわけですが、パタッセ自身は、これが(汚職役人のおかげで)自国に登録された機体であることを全く知らなかったようです。
[9]

 パタッセの褒め言葉はジャメを喜ばせたようで、彼は「ボーイング727」の代わりにこの機体を定期的に使用するようになりました。特に主要なイベントでの使用例としては、2003年の台湾への国賓訪問や2004年の国連総会でのニューヨーク訪問が挙げられます。[10] [11]

ジャメ大統領が使用していた最初の「Il-62M(C5-GNM)」:この機体は2000年代後半に退役するまでガンビア・ニュー・ミレニアム・エアの塗装で運航された

 アフリカ大陸で最も小さな国がアフリカ大陸で最大のVIP専用機を運航しているという皮肉をジャメは自覚していないわけではなかったようです。彼が大型機に対する賛辞を頭の片隅に置きながら、2000年代半ばに専用機の後継機探しを始めたのは間違いないでしょう。

 そして、彼は中古のエアバスで妥協するのではなく、実際にウズベキスタンから代わりの「IL-62M」を購入したのです!

 2005年にガンビアに到着した後にC5-RTGの登録を受けたこの機体は、1993年に組立ラインを離れたばかりの、末期に生産された「Il-62M」の1機でした。同機は完成後にウズベキスタン政府に引き渡され、2000年まで同国のVIP専用機として活躍したことで知られています。[12]

 C5-RTGが引き渡されると、最初の「Il-62M(C5-GNM)」は退役となり、現在でもバンジュール国際空港の廃棄物集積場に放置された状態で残っています

 新たに導入されたC5-RTGの運航については、キューバの国営航空会社であるクバーナ航空で同型機を操縦していたキューバ人の乗員に委託され、機体の整備が必要となった場合はキューバに空輸され、ハバナのホセ・マルティ国際空港にあるクバーナ航空の整備施設でオーバーホールを受けました

 しかしながら、この飛行機が正式に就航する前に、まずはシャイフ・プロフェッサー・アルハジ・ドクター・ヤヒヤ・ジャメ閣下の個人的なニーズに合わせて改造する必要があったことに言及しなければなりません。実際、彼は独特な要望を持っていたのです。面白いことに、その要望にはジャグジーや国家安全保障の問題を協議する会議室の設置ではなく、空港のターミナルから外してそのまま持ってきたようなマッサージチェアが含まれていました。その他の追加装備には、(1970年代風の装飾で飾られた)新しい座席エリアと、(いくつかの)DVDプレーヤー付きテレビモニターの設置が含まれています。

 彼の要望を受け入れて改装した結果、内装は1970年代風としか言いようがないものに仕上がるという、1993年に製造された機体としては驚くべき偉業が成し遂げられました。なお、この内装については、その後における同機の平穏無事なキャリアで更新されることはありませんでした。ちなみに、C5-RTGのコックピットはオリジナルの状態であり、未改修のままです。

 いずれにせよ、個人的な好みがどうであれ、ジャメの飛行機が独特だったことは否定できません!




 2017年のジャメ追放後、アダマ・バロウ大統領率いる新政権は資金難に陥っている国のために少なくとも1,000万ドル(約15億円)を集めようと期待を抱いて、即座に4機のVIP専用機と2機の「AT-602」農薬散布機、そして膨大な車のコレクションを売りに出しました。[13]

 ガンビアはもともと貧しい国ですが、ジャメが在位の最後の数日間を利用して、国庫を事実上ゼロにしたことがすぐに明らかとなりました(そのためにコレクションが売りに出された)。

 赤道ギニアへの亡命では高級車のほとんどを置き去りにせざるを得なかったジャメですが、在任最後の週に貨物機をレンタルしてお気に入りの車を空輸するという手段に出ました。しかも、辞任を可能な限り長引かせて一台でも多く空輸できるよう試みたのです。[14]

 ジャメがどのようにして贅沢な暮らしをする余裕があったのかという謎についても、その後すぐに明らかとなりました。大統領は国有企業の大部分から分け前を得ていた上に、自身の浪費を支えるためにジャメ平和財団が集めた資金を充てていたのでした。 [15]

ジャメが所有していた7台の「ハマーH2(SUT)」リムジンのうちの1台:彼はこれを持ち出すことができなかったため、新政権によって売りに出された

 VIP用ジェット機4機、農薬散布機2機、高級車約30台に1,000万ドルという目標額は、それほど多くないように感じるかもしれません。しかし、50年前のボーイング2機と、すでに商用(旅客)運航されていないソ連のジェット旅客機1機の相場を考えると、決して非現実的な金額ではないことには間違いないでしょう。

 そして、需要が無かったわけでもありません。事実、(他国で)最後に売りに出された「Il-62」が2012年に北朝鮮に渡ったことが確認されています。自国が抱える2機のVIP用機のスペアパーツの供給源とするために、北朝鮮は元クバーナ航空の「Il-62M」を調達したのです。[16]

 2019年に2機の「AT-602」の売却に成功した後、残ったボーイングと「Il-62」については、同年に国内外の複数の入札者を競り落としたガンビアの起業家に僅か50万ドルで売却されるという結果を迎えました。[17]

 ところが、この売却で「Il-62M」の当面の運命が少しも変わることはありませんでした。
というのも、この起業家は、すぐに別の利害関係者に売却する意図で飛行機を購入したからです。

 彼の計画は2021年にやっと実現しました。この年、「Il-62M」は貨物機としてベラルーシのラーダ・エアラインズに売却され、2021年8月にミンスクに到着したことが確認されています。[22]

 すでに2機の「Il-62M」を運用していた同社にとって、売りに出された機体が1993年と比較的新しいことが魅力的に感じたのでしょう。なお、「ボーイング727」は依然として売れ残っており、今でもバンジュール国際空港に放置されています。

2018年、バンジュール国際空港で埃まみれとなったジャメの「Il-62M(C5-RTG)」:再び飛行する日を迎えるまで、さらに3年を要した

バンジュール国際空港の駐機場における「ボーイング727」の1機:もう1機と共に4年以上もこの場所で放置されている

 ジャメと彼の飛行機の双方が、ほとんど読まれることのないマイナーな歴史年表に登場するようになれば、詐欺的な独裁者としての彼のレガシーは、自身の理解し難い趣味の悪さに関するエピソードと競い合うことになるでしょう。

 ガンビアの人々や世界中の老朽化したVIP用機は、「美とは見る人の目の中にある」という格言を具現化したような、国家どころかファッションの問題でさえ判断力に欠ける男の君臨した時代が終わったことを知って、ホッと胸をなで下ろしたのではないでしょうか。

判断力に欠けた男:ヤヒヤ・ジャメ

[1] African MiGs Volume 1: Angola to Ivory Coast https://www.harpia-publishing.com/galleries/AfrM1/index.html
[2] C5-GAF https://www.jetphotos.com/info/727-19252
[3] Registration Details For C5-GOG (Gambia Republic) 727-1H2 https://www.planelogger.com/Aircraft/Registration/C5-GOG/498390
[4] https://www.airplane-pictures.net/photo/739326/c5-gog-gambia-government-boeing-727-100/
[5] Registration Details For C5-AFT (Gambian Air Force) Challenger-601 https://www.planelogger.com/Aircraft/Registration/C5-AFT/540182
[6] Registration Details For C5-GNM (Gambia New Millenium Air) Il-62-M https://www.planelogger.com/Aircraft/Registration/C5-GNM/722468
[7] https://airlinehistory.co.uk/airline/centrafricain-airlines-centrafricaine/
[8] ACCORD – Austrian Centre for Country of Origin and Asylum Research and Documentation a-7674 (ACC-GMB-7674) https://www.ecoi.net/en/document/1264492.html
[9] Registration Details For TL-ACL (Centrafrican Airways) Il-62-M https://www.planelogger.com/Aircraft/Registration/TL-ACL/722467
[10] https://www.jetphotos.com/photo/166632
[11] https://www.jetphotos.com/photo/372347
[12] Registration Details For UK-86569 (Uzbekistan Gvmt) Ilyushin Il-62M https://www.planelogger.com/Aircraft/Registration/UK-86569/722819
[13] Gambia to sell off presidential planes https://standard.gm/gambia-to-sell-off-presidential-planes/
[14] Gambia Got Robbed: Jammeh’s Cars Being Loaded Into An Awaiting Cargo Plane - Photos https://www.gistmania.com/talk/topic,323209.0.html
[15] Exclusive: How money flowed to Gambia's ex president https://www.reuters.com/article/us-gambia-jammeh-idUSKBN16312M
[16] https://www.flickr.com/photos/tpeddle/8261940065/
[17] Gov’t disposes 3 Jammeh aircraft https://thepoint.gm/africa/gambia/headlines/govt-disposes-off-3-jammeh-aircrafts
[18] Republic of Gambia sells VIP Il-62M to Belarus https://www.ch-aviation.com/portal/news/106777-republic-of-gambia-sells-vip-il-62m-to-belarus

2025年前半に改訂・分冊版が発売予定です

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2024年12月16日月曜日

姿を消した幻の野獣:シリア・アラブ航空の「ボーイング747SP」


著:シュタイン・ミッツアー と ヨースト・オリーマンズ(編訳:Tarao Goo)

 当記事は、2016年8月5日に本国版「Oryxブログ」(英語)に投稿されたものを翻訳した記事です。 意訳などにより、僅かに本来のものと意味や言い回しが異なっている箇所があります。

 シリア・アラブ航空は内戦で荒廃したシリアでの運行を続けていますが、所属機の中でも由緒ある「ボーイング747SP」が同社が運行を続ける数少ない路線や目的地からぱったりと姿を消してしまいました。

 もともと、同航空は1976年に納入された「ボーイング747SP(超長距離用に開発されたボーイング747-100の短縮型)」を2機運航していたものの、アメリカの制裁措置で航空機がD整備を受けられなくなったため、2008年には2機とも事実上放置状態となり、結果としてシリア航空は32年間運航した「ボーイング747SP」の退役を余儀なくされたのです。

 ところが、アメリカとシリアの関係が一時的に修復されたことで「YK-AHA 「11月16日」」と「YK-AHB 「アラブの連帯」」のD整備に必要なスペアパーツの引き渡しが認められ、その後シリアはサウジアラビアのアルサラーム・エアクラフト社との間でD整備とプラット・アンド・ホイットニー製「JT9D-7」エンジンと着陸装置のオーバーホールの契約が結ばれました。

 両機は2010年12月16日にダマスカスで調印された契約に基づいて、2011年後半には再就役する予定だったようです。


 2011年4月、シリア航空の社長兼CEOは、オーバーホールの状況を確認するため(この時点では退役状態の)「ボーイング747」の整備を行っていたアルサラーム・エアクラフト社を訪問し、「アルサラームのチームと、納期を厳守するための彼らの努力に感謝する」と述べています。

 その時点でプロジェクトはまだ予定通り進んでいたようですが、両機ともにシリアに戻ることなく、今でもサウジアラビアのリヤドにあるアルサラーム社の施設に残されたままです。「ボーイング747SP」の整備中止の正確な理由はいまだ不明のままですが、アルサラーム社に今後の全作業を中止せざるを得なくなった主な要因である可能性が高いのは、シリアでの内戦勃発でアメリカがシリア政府に対する姿勢を再考したことでしょう。

 アメリカの新たなシリアへの姿勢の一つとして、2011年8月に当時のオバマ大統領によって署名された大統領令13582号が発効されたことが挙げられます。この大統領令には「直接または間接的に、アメリカから、あるいはアメリカ人による、シリアへのいかなるサービスの輸出、再輸出、販売、供給」の禁止が含まれていたのです。

 言うまでも無く、シリア航空の「ボーイング747SP」のオーバーホールにはアメリカ製の部品が必要であったことから、大統領令13582号はアルサラーム社が同機の整備を継続することを妨げるものであったわけです。

 D整備が未完了のままで頓挫した結果、塗装はほとんど剥がれ落ち、部品が欠落したことで「ボーイング747SP」はシリアに戻る見込みもなく、サウジアラビアで立ち往生し続けています。2013年になると、アルサラーム社の駐機場で埃をかぶっていた2機は同社の施設の片隅へ追いやられてしまいました。

 ボーイング機の喪失については、制裁の発動によりシリア航空のほとんどの路線が廃止されたことで部分的に相殺されたものの、この飛行機の不在はその後の数年間で大きく目立つものとなってしまったようです(注:路線縮小で喪失自体はあまり問題とならなくなったが、後で存在感の大きさに気づく人が出てきたということ)。


 14年間に僅か45機しか生産されなかった「ボーイング747SP」は、胴体が短くなったにもかかわらず747のクラシックな特徴を維持し、当時のどの旅客機よりも長い航続距離を誇ったことで知られる希少な名機です。その優れた航続距離と見た目のおかげで、この航空機はアラブの国家元首が選ぶ交通手段として人気を博しました。

 南アフリカ航空では、アパルトヘイト(人種隔離政策)時代に自国の空域の飛行を禁止していた国々を回避するため、6機を活用したことが知られています。

 シリア・アラブ航空では、1970年代後半にニューヨークへの直行便を就航させることを見越して2機を導入しました。ところが、その計画が実現しなかったため、シリア航空は(ほぼ)短距離路線しか就航していない航空会社にもかかわらず世界でも最長の航続距離を誇る旅客機を保有することになったのです。
 
 超長距離路線が存在しないこと、機体の高い維持費、そして燃料消費量の多さから、「ボーイング747SP」はシリア航空が持つ小型機群の中でいつしか無用の長物のような存在と化してしまったのでした。シリア航空で現役時代の「ボーイング747SP」は、定期便で使用されていない間は小型機と一緒にヨーロッパや中東への路線で不定期に使用されていました。


 売却しても莫大な損失しか残らないせいか、最終的に「ボーイング747SP」は2008年まで使用され続けました。(予定された)最後のD整備の後でも、少なくともより現代的な航空機に更新されるまで、さらに数年間は運航されたことでしょう。

 ところが、運命はこれらの素晴らしい飛行機に対し、サウジアラビアの灼熱の駐機場に放置されたまま早すぎる最期を迎えることを求めたのです。

 追記:グーグルアースでは2023年4月の時点でも依然として2機の「ボーイング747SP」が放置されている状況が確認されています(座標: 24°57'49.82"N、 46°43'53.58"E)。アサド政権崩壊に伴ってこの機体が復帰すること自体は絶望的ですが、今後どのような運命を迎えるのか注目されます。

リヤドにおけるシリアの「ボーイング747SP」(左下と中央の2機)

3枚名の画像: Aviafan

2025年前半に改訂・分冊版が発売予定です

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2017年12月11日月曜日

身売りの手前:リビアのAn-124がウクライナで競売されるかもしれない立場に陥る


著:シュタイン・ミッツアー 編訳:Tarao Goo)

 当記事は、2017年11月27日に元記事を執筆するシュタイン・ミッツアーが運営していたブログ「Al Maha Aviation」に投稿されたものです(ブログはすでに閉鎖)。意訳などにより、僅かに本来のものと意味や言い回しを変更した箇所があります。

 リビアを疲弊させ続けている混乱が安定する見込みの無いまま継続しているため、リビアが所有する2機の巨大An-124輸送機の1機は、2010年からキエフにある施設で同機の保管と定期的なメンテナンスを行っているアントノフ社に対して同国政府が120万ドルを支払うことに失敗した場合、ウクライナによって競売にかけられる可能性に直面しています 。

 リビアは2001年にリビア・アラブ・エア・カーゴ(LIBAC)のために2機のAn-124を取得し、An-124ほどの大型機を要する国際チャーターの貨物便にこれらの巨人機を使用し始めました。パンアメリカン航空103便爆破事件によって科された制裁措置の結果としてリビアは対外的にほぼ完全な孤立状態に耐えていたものの、かつての宿敵との関係を正常化し始めたことからAn-124は再び世界中を飛び回るようになっていたのです。

 2011年のリビア革命とそれに続く内戦の勃発は同国の民間航空に重大な影響を与えました。An-124は2機とも2011年の爆撃やその破片による破壊から逃れたものの、LIBACの運航を再開するための構想と資金が不足していたことは、An-124 「5A-DKN」がトリポリ国際空港(IAP)に放置され続け、同「5A-DKL "スーサ"」がウクライナから本国へ回収されずに今日までキエフのアントノフ社の施設に残り続けることを意味しました。

 国内で続く内戦のために、リビアの航空会社による通常の運行が崩壊し始めて民間機の破壊がありふれた光景になったことから、リビアにおけるAn-124の将来は次第に厳しいものになりました。しかしながら、LIBAC職員が機体に描かれた緑のジャマーヒリーヤ旗を新しいリビアの国旗に置き換えることを妨げていなかったようです。


 リビアの治安情勢はさらに悪化したものの、「5A-DKN」は紛争当事者がトリポリIAPを制圧するための戦闘で、付近の施設を標的にしてAn-124の近くに駐機されていたいくつかの航空機を壊滅させた後も奇跡的に生き残りました。

 An-124は破片による損傷だけで済みましたが、大規模な戦闘が旅客ターミナルを完全に破壊した結果として、空港が閉鎖され少数の航空便がトリポリからミティガの空港に行き先が変更されてしまいました。

 (リビア側が維持する)動機がなく、アントノフの保管施設に残っているAn-124を回収する資金が不足している可能性が高いため、同機が最高入札者へ競売される見込みはますます高くなってきています。

 他のAn-124と比較すると飛行時間が比較的少ないことから、「5A-DKL」はアントノフ自身の航空会社やAn-124を運行する他の会社にとって魅力的な機体となるでしょう。

 現在のリビア政府はAn-124を維持する価値があると考えているのでしょうか?この答えについては、疑いようも無く今でも非常に好ましくない財政事情と安定性が関係してくるでしょう。

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