2024年4月3日水曜日

黄計画:1940年におけるドイツ軍のルクセンブルク侵攻で各陣営が損失した兵器類(全一覧)


著:シュタイン・ミッツァー と ヨースト・オリーマンズ (編訳:Tarao Goo

 第二次世界大戦におけるルクセンブルクでの戦いは、ルクセンブルク国家憲兵隊及び志願兵とドイツ国防軍の間で行われた短期間の戦闘であり、ナチス・ドイツが迅速に勝利を収めるという結果で終わったことは以外と知られていません。

 戦いの原因となったドイツによるルクセンブルクへの侵攻は1940年5月10日に始まり、僅か1日で終わりを告げました。

 1867年のロンドン条約の結果として、当時のルクセンブルクは軍隊を持たず、防衛は国家憲兵と志願兵から構成される小規模な部隊を当てにせざるを得ない状態でした。

 それにもかかわらず、ルクセンブルクはドイツの電撃戦からデンマークよりも長く生き残ることができました。なぜならば、デンマークには陸軍と空軍があったものの、1940年4月9日にナチス・ドイツに侵攻で始まった僅か2時間の戦闘の後に降伏したからです。

 ドイツ軍のルクセンブルク侵攻は3つの装甲師団がルクセンブルクの国境を越えた午前4時35分に始まり、彼らはスロープと爆薬を用いてシュスター線のバリケード突破に成功しました。散発的な銃撃戦を除くと、(志願兵の大部分が兵舎に籠城していたこともあったせいか)ドイツ軍が大した抵抗を受けたという記録はありません。

 少数のドイツ兵がヴォルムメルダンジュの橋を占領し、そこでドイツ軍の進撃停止を要求した2人の税関職員を拘束しました。(国境の)ザウアー川に架かる橋は部分的に破壊されていましたが、ドイツの工兵部隊によって迅速に修復を受け、戦車をルクセンブルク領内に入れることを可能にしました。

 国境検問所から国家憲兵隊や志願兵部隊の司令部への通信はルクセンブルク政府と大公宮に侵攻が始まったことを知らせ、午前6時30分に政府関係者の大多数が自動車に乗って首都から国境の町エッシュへ避難しました。ただし、彼らはそこで125人ものドイツ兵が待ち構えていたことを知りませんでした...「Fi156 "シュトルヒ"」で輸送された彼らは、すでに侵攻本隊が到着するまで同地域の確保に当たっていたのです。

 勇敢にも1人の国家憲兵隊員が125人の兵士に立ち向かって国から立ち去るように要求しましたが、彼は希望した答えを得る代わりに捕虜にされてしまったことは言うまでもないでしょう(注:殺害されなかったのは意外かもしれませんが)。

 ルクセンブルク大公を伴った政府関係者の車列はエッシュでの拘束を何とか回避し、田舎道を使ってフランスへの脱出に成功しました。

ルクセンブルクが侵攻される直前に、シュスター線のバリケード前でポーズをとっているルクセンブルクの国家憲兵隊員たち:中央の2名は小銃を背負っているが、両端の2名は非常に小さなスパイク型銃剣を装着可能な「モデル1884」型回転式拳銃を携行している[1]

 午前8時、第1シパーヒー旅団と第5機甲大隊の支援を受けたフランス第3軽騎兵師団は、南の国境を越えてルクセンブルクに入ってドイツ軍への威力偵察を試みるも失敗に終わりました。

 フランス空軍が進撃するドイツ軍に対して出撃を控えていたことに我慢できなかったイギリス空軍は、フランスに駐留していた第226飛行隊のフェアリー「バトル」軽爆撃機にドイツ軍の攻撃を命じました。ルクセンブルク上空で激しい対空砲火に遭った爆撃機部隊は何とかして危険な空域から脱出したものの、大部分の機体が軽い損傷を被り、このうち1機がヒールゼンハフ近郊へ墜落しました(この墜落では、乗員1名が死亡し、負傷した2名もドイツ軍の捕虜となりました)。

1940年5月10日にヒールゼンハフに墜落した "フェアリー「バトル」":3名の乗員はドイツ兵によって燃え上がる残骸から引き揚げられたものの、後にダグラス・キャメロン中尉は負傷が原因で地元の病院にて命を落とした[2][3]

 こうした間も国家憲兵隊はドイツ軍に抵抗し続けましたが全く歯が立たず、正午前に首都が占領され、夕方には南部を除く国土の大部分がドイツ軍に占領されてしまったのです。

 ルクセンブルクが受けた損失は戦傷者7名(このうち国家憲兵隊6名、兵士1名)であり、ドイツ国防軍の損失は戦死者36名でした。

 5月11日、国土から逃れたルクセンブルク政府はパリに到着し、在仏公使館に拠点を構えました。ドイツの空爆を危惧した政府はさらに南下し、最初にフォンテーヌブロー、次にポワチエに移し、その後はポルトガルとイギリスへ逃れ、最終的には戦争の終わりまでカナダに落ち着く結果となりました。

 当然ながら、カナダに亡命したシャルロット大公が国民統合の重要なシンボルとなったことも記憶にとどめておくべきでしょう。

シュスター線上に設けられた41個ものコンクリートブロックと鉄扉のうちの一つを通過する自動車:結果として。これらは実質的にドイツ国防軍の進撃を遅らせることができなかった

  • 以下の一覧では、ルクセンブルクでの戦闘で撃破や鹵獲された各陣営の兵器・装備類を掲載しています。
  • この一覧の対象に、馬は含まれていません(注:騎兵用と思われる)。
  • 仮に新たな損失が確認できる情報を把握した場合は、一覧を随時更新します。
  • 各兵器類の名称に続く数字をクリックすると、撃破や鹵獲された当該兵器類の画像を見ることができます。


  • ナチス・ドイツ (損失なし)


    ルクセンブルク (不明)

    自転車
    •  不明 政府支給の自転車: (多数, 鹵獲)

    フランス (損失なし)


    イギリス (1)

    航空機 (1, 墜落: 1)

    [1]Revolver with a Bayonet: Luxembourg Model 1884 Gendarmerie Nagant https://youtu.be/jYQNSQ3krWw

    ※  当記事は、2023年3月24日に本国版「Oryx」(英語)に投稿された記事を翻訳したも 
      のです。当記事は意訳などにより、僅かに本来のものと意味や言い回しを変更した箇所が
        あります。また、編訳者の意向で大幅に加筆修正を加えたり、画像を差し替えています。


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    2024年3月31日日曜日

    大いなる破壊者:イスラミック・ステートのリジッドダンプトラック転用型VBIED


    著 シュタイン・ミッツァー と ヨースト・オリーマンズ (編訳:Tarao Goo)

     当記事は、2015年8月21日に本国版「Oryx」(英語)に投稿された記事を翻訳したものです。意訳などにより、僅かに本来のものと意味や言い回しを変更した箇所があります。

     車両運搬式即席爆発装置/自動車爆弾(VBIED)は、過去2年間で、シリアとイラクのイスラム国戦闘員によって知られるようになりました。このコンセプトについては、イスラム国が両国の戦場で、より防御力が高く、さらに大型のものを絶え間なく製作と投入し続けることによって完成させたと言えるかもしれません。ラジコンの自動車から爆薬を満載した戦車や自走砲に至るまで、イスラム国はVBIEDであらゆることをやってきたのです。

     イスラム国の部隊が用いるVBIEDは、一般的な軍隊における砲爆撃やロケット弾攻撃とほぼ同じような働きをします。あらゆる部隊の集結地点や基地に致命的な打撃を与える可能性を秘めている点を別にすると、VBIEDは爆発後にまだ生き残っている敵を恐怖に陥れて士気を低下させる心理兵器としての役割も果たす兵器なのです。

     また、十分に防御された基地を攻撃する場合において、イスラム国は最後の一撃を加える前にVBIEDを多用する傾向があります。

     ダマスカスとホムスのT4空軍基地の中間に位置する(イスラム国が支配下に置いた)アル・カリヤタインから上がってきた画像は、彼らが巨大なダンプトラックをVBIEDとして使用し始めたことを示しています。


     運転手と前輪を保護するためか、ダンプトラックにはスラット装甲と装甲板で構成される非常に初歩的なDIY装甲が追加されていました。

     このような重量級の車両で良好な状況認識力を確保するためにダンプトラックの窓は極めて大きいことから、ただでさえ巨大な車両の運転手は機銃掃射にさらされてしまうことは明らかです。そこで、運転手を守るべく、運転席の前には小さな窓付きの装甲板が装備されたほか、その正面にはスラット装甲も取り付けられています。

     2015年5月下旬のイスラム国によるシリア中部への攻勢を細かく観察していた人であれば、巨大なVBIEDの正体が彼らに制圧されたクナイフィス燐鉱山で鹵獲されたダンプトラックだとすぐに気づくでしょう。イスラム国の戦闘員が鉱山を制圧した時点で、クナイフィスには約12台のリジットダンプトラックがあったことから、今後しばらくの間はVBIEDに転用するためのより多くの大型車両が安定的に供給されることになったわけです。

     下の画像では、鉱山に並べられたベラルーシのベラーズ社製リジットダンプトラックを見ることができます。


     先に紹介した個体は、クナイフィスから車で僅か50kmのアル・カリヤタインの北東に位置するアル・マフラク検問所の攻撃に投入されました。

     この巨大なリジッドダンプトラックは一見すると「無事に」目的地に到着して検問所で起爆したようですが、その戦果は今も(そして今後も)不明のままとなることは間違いありません(爆発の模様は下の画像で見ることができます)。

     ダンプトラックに備えられた巨大なバスケットは、無限と思える量の爆薬を目標に向かって運ぶことを可能にしてくれます。問題といえば、クナイフィスとアル・カリヤタイン近郊に配置されているイスラム国の戦闘員たちが、最低でも1個のバスケットを満杯にするほどの十分な武器をかき集めることができるのかということでしょうか。


     鹵獲された約10台のリジッドダンプトラックの約半数がまだ運用可能な状態であることに加えて、シリア中央部には多数の標的が残っていることから、この先も広大なシリアの砂漠を進む巨大な怪物の姿をもっと目にする機会があるかもしれません。

     この車両には無限とも思えるような量の爆薬を輸送する能力があることを説明しましたが、その巨大なサイズを考慮すると、十分に防御された検問所へ攻撃を仕掛けた場合は彼らの射撃訓練の的で終わる可能性が高いと思われます。


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    2024年3月24日日曜日

    大空の巨人:リビアにおける「An-124」:輸送機


    著:シュタイン・ミッツアーとヨースト・オリーマンズ(編訳:Tarao Goo)

     当記事は、2021年1月21日に本国版「Oryx」ブログ(英語)に投稿された記事を翻訳したものです。当記事は意訳などにより、僅かに本来のものと意味や言い回しを変更した箇所があります。

     リビア内戦は同国の民間航空にも壊滅的な打撃を与えており、2機の巨大な「An-124」輸送機も例外なく苦難を免れることはできませんでした。

     リビアの航空産業は2011年の革命時にほぼ休止状態となってしまい、武力衝突の停止後はリビアの航空会社が運航を再開するのに数か月から1年も要しました。中には二度と飛行機を飛ばさなかった会社もあったほどです。

     運行を再開することでリビアの民間航空は将来への新たな自信を得たものの、内戦の余波と政治的混乱は最終的にあらゆる楽観主義に終止符を打ち、やがてリビアの航空産業は存亡をかけて戦うことになりました。

     相対的な安定の見通しが立たないリビアを荒廃させる内戦が続く中、「An-124」には滅亡の危機が大きく迫っていました。当時のリビア国内にとどまっていた1機の「An-124」はどうにかして砲撃の被害を免れており、もう1機については、リビア政府が2009年からキーウのアントノフ社の施設での保管と定期整備の代金として同社に支払うべき120万ドル(約1.7億円)の支払いが不履行のままだった場合、2017年にウクライナによって競売にかけられる可能性に直面していたのです。

     その後、2019年にアントノフ社がサプライズの公表をし、国際的に承認されたリビア政府(GNA:国民合意政府)との間で「An-124」の1機を飛行可能な状態に戻す交渉が行われたことが明らかとなりました。[1]

     両者の合意に従って同機は近代化改修を受けると共に耐用年数が延長されることになっていました。しかし、それ以降の続報が全くないことから実際に合意に達したかさえも不明の状態となっています(編訳者補足:2023年5月の時点でリビアの駐ウクライナ臨時代理大使であるアデル・イッサ氏がアントノフ社に確認したところ、キーウで保管されている「An-124」の状態はロシア・ウクライナ戦争の影響を受けていおらず良好であるという回答を得たとのこと)。

     しかしながら、どんなことがあろうとリビアはまだ「An-124」を運用する意向を認めました。

     リビア政府はウクライナに保管されたままの「An-124」の運命をの掌握と最高入札者への競売を阻止することに成功したようですが、リビアの民間航空が衰えを知らない戦争の影響によって徐々に疲弊していく中で、地上での戦闘はすでに新たな犠牲者を生み出しています。

    リビアでの運用

     もともと、リビアは2001年にリビア・アラブ・エア・カーゴ(LIBAC)のために2機の「An-124(5A-DKN "サブラタ" と 5A-DKL "スーサ")」を導入し、大型機を必要とする貨物の国際チャーター便にこれらの巨人機を投入し始めました。

     リビアはこれまで(特に)ロッカビー上空で発生したパンナム103便爆破事件を画策したことで国際的な制裁を受けた結果として外界からほぼ完全に孤立していたことに苦しんでいましたが、後にかつての宿敵との関係を正常化し始めたことで「An-124」は世界中に重量級の貨物を輸送するようになったわけです。

     2011年の革命勃発時の「サブラタ」はトリポリ国際空港(IAP)で反乱部隊に無傷で鹵獲され、「スーサ」はアントノフの施設で整備中でした。ちなみに、1992年に製造された「スーサ」は2001年12月にLIBACに引き渡される前にはウクライナ航空で使用されていました(1992年~1999年)。

     1994年に製造された "サブラタ" は2001年3月にリビアに引き渡される前に、タイタン・カーゴに代わって同機を運行していたトランス・チャーター航空(1996年~1999年)とヴォルガ・ドニエプル航空(1999年~2001年)によってロシアで運行されていました。[2] [3]



     「An-124」の(短い)運行期間中、リビアはフランスに拠点を置くリビア系企業FLATAM(Franco-Lybienne D'Affretement Et De Transport Arien Et Maritime:フランス-リビア海上・航空輸送用航空チャーター)を通じて、2機を貸し出していたことが知られています。

     FLATAMはリビア空軍の元ミラージュ・パイロットである実業家にして駐仏武官のジャラル・ディラが所有していました。彼は後にフランスの航空機グループ:ダッソー社の調達担当のロビイストとなりましたが、カダフィ政権崩壊前のリビアに「ラファール」戦闘機の売却を試みて失敗しました。[4]


     「An-124」のチャーター便は、リビア革命とそれに続く内戦がこの国の民間航空に大きな打撃を与える2011年2月まで続きました。

     2機とも2011年に破壊から免れることができましたが、LIBACには事業を再開するための構想と資金が欠けていたため、"サブラタ"はトリポリIAPに放置されたままとなり、"スーサ"は2009年から保管されていたウクライナ(キーウ)にあるアントノフ社の施設から回収されることはありませんでした。

     そして、リビアの航空会社による通常の運航が終焉を迎え、国内各地で戦闘が続いた結果、民間機の破壊がありふれた光景となったため、この国で就航していた「An-124」の将来は、ますます厳しいものになり始めたのです。

     それでも、LIBACの職員は緑色のジャマーヒリーヤ・グリーンの国旗を新しいリビア国旗に交換することを躊躇しなかったように見受けられます。


    巨人の死

     2014年初頭からトリポリIAPの一角にある整備用エリアに移動せずに駐機していた "サブラタ" は、同年夏に空港の支配権をめぐって争っていた紛争当事者が近隣の施設を標的にして「An-124」の近くにあった複数の航空機を破壊した後も、本拠地に対する攻撃から奇跡的に生き残りました。破壊された航空機の中には、たった300mほどしか離れていない隣接するエリアに駐機していた4機以上の「Il-76」輸送機も含まれていたにもかかわらずです。

     「An-124」は破片による軽微な損傷で済んだものの、激しい衝突で旅客ターミナルは完全に破壊された結果、空港は閉鎖され、残っていた数便はトリポリ近郊のミティガ空港に振り向けられました。


     しかし、リビア全土を襲う見境のない無慈悲な猛攻撃から約8年間もなんとか逃れることに成功してきた「5A-DKN:サブラタ」ですが、その幸運は最終的に2019年6月22日に尽きてしまいました。トリポリIAPで砲弾の直撃を受け、その後の火災で破壊されたのです。

     くすぶっている巨人の残骸は、2011年のリビア革命の勃発とそれに続く巨人機の運航再開の困難さによって潰えた経歴の悲惨な結末の産物としか言いようがありません。



     「An-124」の破壊は、2機目がまだキーウにある国営のアントノフ社の施設に保管されたままで2018年と2019年にリビアに戻す計画が明らかに停止状態にある中で発生しました。[5] [6]

     興味深いことに、2018年と2019年の交渉はLIBACではなくリビア・ブルーバード航空と行われましたが、この事実はこの国で最古の貨物航空会社の運航がついに終焉を迎えたことを示しているかもしれません。

     キーウにあるリビアの「An-124」に関する問題の打開策は一見して見通しが立っておらず、保管料や整備費用が膨らみ続けているため、リビア側の自主的な売却か強制力のある裁判所からの命令によって所有権が放棄された場合の「5A-DKL」は、アントノフ社自身が保有する貨物航空会社や他の「An-124」を運航する会社にとって魅力的な機体となる可能性があるでしょう。


    残る希望

     リビア政府が生き残った「An-124」を維持して活用するべき資産と判断するかどうかは、間違いなく財政状況と「An-124」のような大型貨物機に対する現実的な必要性に左右されるでしょう。

     ただ、トリポリとその周辺地域の治安がますます安定する状況下の今、リビア政府は少なくとも現存する「An-124」の運航を復活させ、国際貨物便への再投入を試みることが可能になっています。

     さらに、リビアは、現時点で自身を支援する意思を持つ数少ない国の一つ:トルコと手を組む可能性もあります。トルコはすでにウクライナと非常に親密な関係に恵まれており、最近ではいくつかのアントノフ社関連のプロジェクトについて、協力の可能性を協議しています。これらには「An-178」と「An-188」の生産だけでなく、1994年以来製造途中で放置されていた2機目の「An-225」の完成も含まれています(編訳者注:ご存じのとおり、ロシア・ウクライナ戦争でこれらのプロジェクトが前身する見通しは立っていません。ただし、ロシア軍によって「An-225」1号機が破壊されたため、未完の2号機を用いて再建する事業が進行中です。ただし、これにトルコが関与しているかは不明です)。[7] [8] [9]

     トルコの関与は、「An-124」の運命を最終的に確定させるだけでなく、同機を運航へ戻すための刺激と資金を実際にもたらす突破口となるのかもしれません。リビアに科された制裁措置が当面解除される可能性は依然として低いものの、 短期的には、かつてないほど親密な関係を享受している両国(リビアとトルコ)の間で物資や設備を空輸する可能性はあるでしょう。

     それゆえに、長続きしてしまった戦争の不幸な犠牲者である謎めいた巨人には、まだ希望が残されているのです。


    [1] ANTONOV Company will begin works on renewal of Libyan Ruslan https://antonov.com/en/article/dp-antonov-rozpochne-roboti-z-vidnovlennya-liviyskogo-ruslana
    [2] https://www.planespotters.net/airframe/antonov-an-124-5a-dkl-libyan-air-cargo/e01w96
    [3] https://www.planespotters.net/airframe/antonov-an-124-5a-dkn-libyan-air-cargo/ekdg16
    [4] https://www.facebook.com/LibyanPosts/posts/libya-the-real-negotiators-of-the-haftar-sarraj-paris-agreementthe-key-part-of-t/1492605287449867/
    [5] Libya's giant Antonov could soon fly home to Tripoli https://www.africaintelligence.com/north-africa_business/2018/11/08/libya-s-giant-antonov-could-soon-fly-home-to-tripoli,108331371-art
    [6] Libya tracks file of Antonov under 7-year maintenance in Ukraine https://www.libyaobserver.ly/inbrief/libya-tracks-file-antonov-under-7-year-maintenance-ukraine
    [7] Ukraine: Aviation firm Antonov aims to work with Turkey https://www.aa.com.tr/en/economy/ukraine-aviation-firm-antonov-aims-to-work-with-turkey/1965437
    [8] ANTONOV Presents its Advanced Programs in Turkey https://www.defenceturkey.com/en/content/antonov-presents-its-advanced-programs-in-turkey-3002
    [9] Turkey interested in completing An-225 Mriya – Dpty PM https://en.interfax.com.ua/news/general/698799.html


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    2024年3月20日水曜日

    デス・フロム・アバヴ: 「コノコ地区の戦い」で失われた装備(一覧)


    著:シュタイン・ミッツアーとヨースト・オリーマンズ(編訳:Tarao Goo

     この記事は、2023年6月13日に「Oryx」本国版(英語)で公開された記事を日本語にしたものです。

     "ハシャムの戦い"としても知られる「コノコ地区の戦い」は、アメリカ軍と(名目上は傭兵の)ロシア軍が一対一で戦った極めて稀な出来事だったと言えるでしょう。

     この戦いは、機甲・砲兵戦力に支援された約500人のシリア軍兵士とロシアのPMC「ワグネル」戦闘員が、デリゾール市近郊のコノコ・ガス田にあるシリア民主軍(SDF)とアメリカ軍特殊部隊の合同基地を攻撃したことで幕を開けました。

     ワグネル率いる部隊が進撃を進める中で、アメリカ軍は空爆と地上戦で反撃しました。アメリカ軍は交戦中にデリゾール駐在のロシア軍連絡将校と常に連絡を取り合っており、正規のロシア軍部隊が存在しないとの確証を得た後に初めて射撃を開始したと報じられています。[1]

     戦闘は3時間以上続き、結果的に約10人のワグネル戦闘員を含む最大100人のシリア政府系部隊の死者を出した一方で、アメリカ軍とSDFに損害は生じませんでした。

     2023年5月、ワグネル代表のエフゲニー・プリゴジン(故人)は、この戦闘で何が起こったかについて自身の見解を詳細に述べましたが、 これが「冷戦以降にロシアとアメリカの国民の間で発生した最初の死傷者を出した武力衝突」に関する興味深い洞察を示したことは間違いありません。[2]

    1. この一覧は、写真や映像によって証明可能な撃破または鹵獲された兵器類だけを掲載しています。したがって、実際に喪失した兵器類は、ここに記録されている数よりも多いことは間違いないでしょう。
    2. 各兵器類の名称に続く数字をクリックすると、破壊や鹵獲された当該兵器類の画像を見ることができます。

    ワグネル / シリア軍 (11, このうち撃破: 11)

    戦車 (3, このうち撃破: 3)

    装甲戦闘車両 (2, このうち撃破: 2)

    ガン・トラック(1, このうち撃破: 1)
    • 1 ウラル-4320(「AZP S-60」57mm対空機関砲搭載型): (1, 撃破)

    牽引砲 (1, このうち撃破: 1)

    車両 (4, このうち撃破: 4)


    アメリカ合衆国 / シリア民主軍 (損失なし)

    [1] Имена и фамилии погибших бойцов "ЧВК Вагнера" https://www.svoboda.org/a/29038004.html
    [2] https://twitter.com/RonnieAdkins_/status/1668290978237808640



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    2024年3月16日土曜日

    引き継がれる伝統:マリ陸軍のAFVと大砲に記された称号


    著:トーマス・ナハトラブ in collaboration with シュタイン・ミッツアー と ヨースト・オリーマンズ(編訳:Tarao Goo

     当記事は、2021年11月30日に「Oryx」本国版(英語)に投稿された記事を翻訳したものです。

     このブログの読者の多くは、フランスにはフランス軍が戦った重要な戦いの名前と日付を自軍の装甲戦闘車両(AFV)にマーキングするという伝統があることについてよくご存知のこだと思います。現在、この伝統は主にパレードの際に披露されますが、パレードが終わった後もこのマーキングは残されることが多く、時には戦闘配置の際にも見られます。

     しかし、この傾向が旧フランス植民地のいくつかの軍隊にも受け継がれていることについては、一般の人々に全く知られていません。これらの軍隊は、フランスに植民地化される前の古い時代の軍司令官やそれに伴う過去の歴史をよく記憶しているのです。

     (1892年から1960年までフランスに植民地支配されていた)マリもその1つですが、軍事的なものだけではなく都市や地域を記念して、その名をマーキングされた装備もあります。

     この記事では、名前や称号が付与されていることが把握されている全てのマリ軍のAFVと大砲を記録化し、名称の由来を説明します。


    T-54B戦車

    „Bakari Dian(読み方不明)“        

     「Bakari Dian」は、マリ南部のセグー州に伝わる民話に由来するものです。神話によると、村落や命を見逃すことと引き換えに、村人に多くの貢ぎ物を要求する半人半獣の怪物であるとのことです。[1]



    „セコウ・トラオレ大尉“

     このT-54Bは、2012年1月に発生したアグエルホック虐殺事件で「第713ノマド中隊」を指揮したセコウ・トラオレ大尉を記念したものです。

     この事件では、「イスラム・マグレブ諸国のアルカイダ(AQIM)」と「アンサール・ダイン」と「アザワド解放民族運動(MNLA)」の合同部隊が、数日間の戦闘の後にマリ軍の駐屯地を制圧したものであり、後にマリ軍の兵士が大量に処刑されたことで悪名高いものとなりました。[2]



    „コンナ“

    マリ中央部のモプティ圏にある町と田舎のコミューンの名前です。



    „モンゾン・ディアラ“

     動画の画質が悪いため、砲塔に記された正確な文字の判読はできません。しかし、かろうじて判読できた文字から推測できるのは、この名前の由来が王にして熟練した戦士としても知られていたモンゾン・ディアラということだけです。
     
     モンゾン王は(現在のマリ共和国の大部分を占めていた)バンバラ帝国を1795年から1808年にかけて統治しました。[3]



    „スンニ・アリー・ベル“

     「偉大なるスンニ大王」を意味するスンニ・アリー・ベルは、15世紀にスンニ朝ソンガイ帝国に君臨していた人物です。ソンガイ帝国は(現在のマリ共和国の大部分を含む)アフリカ西部の広大な領域を支配していました。マリの都市であるガオは、かつてその帝都でした。[4]



    PT-76 水陸両用戦車

    „アスキア・モハメッド“

     アスキア・モハメッドは、スンニ・アリー・ベルの後継者であり、1493年から1528年に息子のアスキア・ムサに倒されるまでの間、ソンガイ帝国を統治していました。



    „キリナ 1235“

     この名称は、1670年まで存続したマリ帝国の創設に導いた1235年の重要な「キリナの戦い」を思い起こさせるものです。[5]



    „トゥラマカン・トラオレ“

     「トゥラマカン (またはティラマカン)・ トラオレ」は、スンジャタ・ケイタ王の統治化にあった13世紀のマリ帝国の将軍です。 スンジャタ王のリーダーシップの下で、マリ帝国はその領土を劇的なペースで西へと拡大させていきました。 [6]



    „ビトン・クリバリ“

     1712年にバンバラ帝国(セグー王国)を創始した王です。



    ZSU-23 「シルカ」自走対空砲

    „ティラマカン“

     上記PT-76と同じ「トゥラマカン (またはティラマカン)・ トラオレ」将軍のことです。



    BTR-60 装甲兵員輸送車

    „スンニ・アリー・ベル“

     上記T-54Bと同じスンニ・アリー・ベル王のことです。



    „2010年9月22日 マリ共和国建国50周年記念“

     マリ共和国の独立50周年を記念した名称。2010年9月に実施された特殊部隊の演習の際に登場しました。 [7]



    „アラワン“

     トンブクトゥ から北に約250キロメートル離れた場所にある、広大なサハラ砂漠の中にある小さな村の名前です。[8]



    „ガナドゥーグー“

     マリ南部のシカソ圏にある小さな町「フィンコロ・ガナドゥーグー」のことです。 [9]
     


    „ワスル“

     現在のマリ、ギニア、コートジボワールの3カ国で構成される文化圏・歴史的な地域です。 [10]



    „スンジャタ・ケイタ“

     スンジャタ・ケイタは、1235年から1670年まで続いた広大なマリ帝国の創設者にして初代皇帝となった人物です。 [11]
     


    BTR-152 装甲兵員輸送車

    „バマコ“

    マリの首都です。



    BRDM-2 偵察車

    „バンディオウゴウ・ディアラ“

     バンディオゴウは、1890年にマリを植民地化しようとしたフランス軍と戦った部族の指導者にして戦士でした。[12]



    „判読できず“

     下の画像では、少なくとも3台のBRDM-2にパーソナルネームがあることが確認できます。
     残念ながら、中央右側の「バンディオウゴウ・ディアラ」以外の車両に記された名前は判読不可能です。



    BM-21 多連装ロケット砲

    „ニオロ・デュ・サエル“

     マリ西部のカイ州にあるニオロとして知られているニオロ・デュ・サエル圏のことです。 [13]



    „ジトゥームー“

    マリ南部のクリコロ州にある、サナンコロ・ジトゥームーとして知られている村です。



    T-12 100mm対戦車砲

    „セノ“

     「セノ」は、マリ中央部にあるセノ・ゴンド平原か、首都バマコの南西部にある自治体のセヌーを示していると思われます。



    „マシーナ“

     マリ南部にあるマシーナ圏か、1818年から1862年まで存在したマシーナ帝国を指していると思われます。[14]



    特別協力: Esoteric Armour (敬称略)

    [1] Malijet Littérature : La légende de Bakari Dian et Bilissi inspire un roman Bamako Mali
    [2] Bataille d'Aguel'hoc (2012) — Wikipédia (wikipedia.org)
    [3] Mansong Diarra — Wikipédia (wikipedia.org)
    [4] Sonni Ali — Wikipédia (wikipedia.org)
    [5] Battle of Kirina — Wikipédia (wikipedia.org)
    [6] Tiramakhan Traore — Wikipédia (wikipedia.org)
    [7] Mali : Spectaculaire démonstration de force des FAMAS https://youtu.be/aUdv_1VOBC4
    [8] Araouane — Wikipédia (wikipedia.org)
    [9] Finkolo Ganadougou — Wikipédia (wikipedia.org)
    [10] Wassoulou — Wikipédia (wikipedia.org)
    [11] Sundiata Keita — Wikipédia (wikipedia.org)
    [12] Conquêtes coloniales du Soudan français: L’alliance entre Archinard et Koumi Diocé du Bélédougou - abamako.com
    [13] Nioro du Sahel — Wikipédia (wikipedia.org)
    [14] Massina Empire — Wikipédia (wikipedia.org)



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