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2024年10月13日日曜日

さらばベルリン:トルコの「He111」爆撃機


著:シュタイン・ミッツアー と ヨースト・オリーマンズ(編訳:Tarao Goo)

 当記事は、2022年11月24日に本国版「Oryx」に投稿されたものを翻訳した記事です。意訳などにより、僅かに本来のものと意味や言い回しが異なっている箇所があります。

 タイトルとヘッダー画像を見ると、この記事で私たちが機種を間違えたと容易に結論付けられてしまうかもしれません。誰もが知っているハインケル「He111」が備える特徴的な全面ガラス張りのコックピットはどこにあるのか、と問いたい人もいるでしょう。*

 それでも、画像の機体は正真正銘のドイツ製ハインケル「He111」であり、これは1937年後半から1938年前半にかけてトルコ空軍 (Türk Hava Kuvvetleri) に引き渡された24機のうちの1機なのです。

 「He111」の最大の特徴がない理由については、トルコが購入した機体が初期の「J」シリーズであったことや、機首の全面がガラスで覆われた風防のデザインが、より一般的なタイプである「P」シリーズから導入されたことで説明できます。

 以上で話を進めるための厄介な障害が取り除かれましたので、そもそもトルコがなぜ「He111」を入手したのかの経緯を解説しなければなりません。

 1930年代のトルコは、新たに出現した脅威(特に地中海におけるファシスト・イタリアの台頭)に立ち向うための軍事的手段を欠いていました。

 自国軍の荒廃に直面したため、トルコは海外から大量の軍備を発注し始め、その中のに同国初となる本格的な爆撃機:アメリカのマーチン「139WT」も含まれていました。[1]

 性能は依然としてこの国の対地攻撃機の大部分を占めていた1920年代の「ブレゲー19」複葉機から大幅に向上したものの、僅か20機の爆撃機の入手はトルコのような大国が防衛上のニーズを満たすには到底十分とは言えないものだったことは間違いありません。

 こうした理由から、1937年3月に数多くの航空機メーカーが最新の製品を披露するためにトルコに招かれたのです。

 トルコとのビジネスに意欲的なハインケル社が展示した最新の「He111 F-0」は、この買収劇を主催したトルコから賞賛を得たようで、展示飛行が実施された後の1937年3月には、24機の「He111 J-1」が発注されました。[2]

 このうちの18機はすでに同年10月に到着しており、残る6機も1938年初頭に到着したことが記録に残っています。

 トルコがドルニエ「Do17」を2機入手したとも言われていますが、これは最終的にハインケルが受注した入札向けとして1937年にトルコで展示飛行した機体と混同している可能性があるかもしれません。[3]

トルコのラウンデルが施された「Do 17 M」または「Do 17 P」:実際にトルコがこの機種を入手したのか、あるいは1937年の展示飛行の際にドルニエ社がトルコのラウンデルを施したのかは、いまだに謎に包まれている

 「He111」が発注から僅か7か月で納入されたことが、トルコ空軍を大いに喜ばせたことは間違いないでしょう。また、1932年にフランスから中古で購入した旧式の複葉爆撃機である「ブレゲ19」の退役も可能にさせたようです。

 納入後の「He111」については、北西部のエスキシェヒルを拠点とする第1航空連隊第1大隊の第1及び第2飛行隊に配備され、各飛行隊はそれぞれ8機の「He 111 J-1」を運用し、さらにもう6機が予備機として用いられました。[4][5]

 トルコ軍の「He111」のパイロットは、1937年に同じくドイツから入手した6機のフォッケウルフ「Fw58 "ヴァイエ"」多用途機で訓練を受けました。[4]

 しかし、まもなくしてトルコ空軍は予期しない苦境に立たされることになりました。1941年6月にベルリンからアンカラに「旧式化のために、これ以上は「He111」のスペアパーツの供給できる見込みがない」旨が通告されたからです。[5]

 このお粗末な言い訳をした理由については、その数日後にナチス・ドイツがソ連に侵攻したことで明らかとなりました。つまり、ドイツは自国の「He111」用にその全スペアパーツを必要としたわけです。

 「He111」を手放して処分場送りにすることを望まなかったトルコはイギリスに目を向け、「1940年のバトル・オブ・ブリテンで不時着した "He111" からスペアパーツを集めて供給することは可能か」という不思議な依頼をしたところ、ロンドンはこの要請に応じ、8基のエンジンとその予備部品、機体部品やコックピットの計器類を供給するという結果をもたらしました。[5]

 その一方で運用可能な「He111」の減少は、イギリスから約50機のブリストル 「ブレナム」「ボーフォート」といった爆撃機の安定的な供給を受けることでカバーすることができたようです。

 残存している「He111 J-1」については、1944年に(トルコから返還されずにいた)元アメリカ軍機の「B-24D "リベレーター"」重爆撃機5機と共に「戦略爆撃機」部隊に配備されました。これらの「B-24D」は1942年と1944年にトルコに不時着した11機から成る2個編隊の一部で、トルコ空軍によって運用されていた機体です。

 この新部隊に配備されてから1年後の1945年末に「He111 J-1」が退役したとき、入手した24機のうちの8機が依然として稼働状態にあったことは同機の頑丈な設計を実証したと言えるでしょう。

「He 111 J」の尾翼:納入飛行時に施されていたハーケンクロイツからトルコ国旗へ変更中の様子

 トルコが入手した「He111」のバージョンが「F」か「J」シリーズなのか、まだ若干の誤解がされているようです。

 「He 111 J」は「He 111 F」とほぼ同様ですが、前者はダイムラー・ベンツ製「DB 600G」エンジン2基(大型ラジエーター付き)と後縁を持つ(やや直線的な)新設計の主翼を備えるという特徴があります。

 もともと「He 111 J」はドイツ海軍向けの雷撃機として開発されたタイプですが、海軍がこのタイプに関心を失ったため、結局はドイツ空軍だけが運用することになったという経緯があります。最大120機が製造されたこのタイプは、1941年に「Ju 88」に更新されるまで主に洋上偵察で活用されました。「J」型は最終的に1944年まで訓練学校で使われました。

 結局、トルコが「海軍化」された「He 111 J-1」を入手することになった理由は、納期が約7か月強と短かったからだと思われます。

 「F型」と「J型」の運用上のスペックはほぼ同一であり、最高速度は305km/h、防御機銃は機首・胴体上部に加えて下部の「ダストビン(ゴミ箱)」引き込み式銃塔に 「MG-15」7.92mm機銃が各1門、つまり合計で3門が装備されていました。

 爆弾倉については、マーチン「139WT」が僅か1,025kgしか搭載できないのと比較すると、「F型」及び「J型」は2,000kgものペイロードを誇っていました。

主翼にあるトルコのラウンデルが無ければ、"イギリス上空を飛ぶ2機のハインケル「He 111」"と容易に(誤って)信じられてしまいそうな1枚

 ほとんどの「He111」と異なって、トルコ軍の機体は一度も怒りに任せて爆撃することはなかったものの、戦争で用いた国々の機体よりもはるかに長く(約8年間)運用されたのでした。

 連合国が望んでたようにトルコが(1945年2月にしたよりも)早くナチス・ドイツに宣戦布告していれば、自身の祖国に対する「He 111」の使用は興味深い歴史の一章となったかもしれません。

 いずれにしても、トルコ航空史の草創期に関する物語と常に独特な機体の入手方法は人々の心を必ず捉え、今では遠い昔の記憶と化しつつあるこの激動の時代に対する驚異の念を呼び起こすものと言っても過言ではないでしょう。
 

* 読者からの意見があるにもかかわらず、著者は「He 111」の有名なガラス張りの機首は常識と考えられるべきものと思っています。












2024年4月3日水曜日

黄計画:1940年におけるドイツ軍のルクセンブルク侵攻で各陣営が損失した兵器類(全一覧)


著:シュタイン・ミッツァー と ヨースト・オリーマンズ (編訳:Tarao Goo

 第二次世界大戦におけるルクセンブルクでの戦いは、ルクセンブルク国家憲兵隊及び志願兵とドイツ国防軍の間で行われた短期間の戦闘であり、ナチス・ドイツが迅速に勝利を収めるという結果で終わったことは以外と知られていません。

 戦いの原因となったドイツによるルクセンブルクへの侵攻は1940年5月10日に始まり、僅か1日で終わりを告げました。

 1867年のロンドン条約の結果として、当時のルクセンブルクは軍隊を持たず、防衛は国家憲兵と志願兵から構成される小規模な部隊を当てにせざるを得ない状態でした。

 それにもかかわらず、ルクセンブルクはドイツの電撃戦からデンマークよりも長く生き残ることができました。なぜならば、デンマークには陸軍と空軍があったものの、1940年4月9日にナチス・ドイツに侵攻で始まった僅か2時間の戦闘の後に降伏したからです。

 ドイツ軍のルクセンブルク侵攻は3つの装甲師団がルクセンブルクの国境を越えた午前4時35分に始まり、彼らはスロープと爆薬を用いてシュスター線のバリケード突破に成功しました。散発的な銃撃戦を除くと、(志願兵の大部分が兵舎に籠城していたこともあったせいか)ドイツ軍が大した抵抗を受けたという記録はありません。

 少数のドイツ兵がヴォルムメルダンジュの橋を占領し、そこでドイツ軍の進撃停止を要求した2人の税関職員を拘束しました。(国境の)ザウアー川に架かる橋は部分的に破壊されていましたが、ドイツの工兵部隊によって迅速に修復を受け、戦車をルクセンブルク領内に入れることを可能にしました。

 国境検問所から国家憲兵隊や志願兵部隊の司令部への通信はルクセンブルク政府と大公宮に侵攻が始まったことを知らせ、午前6時30分に政府関係者の大多数が自動車に乗って首都から国境の町エッシュへ避難しました。ただし、彼らはそこで125人ものドイツ兵が待ち構えていたことを知りませんでした...「Fi156 "シュトルヒ"」で輸送された彼らは、すでに侵攻本隊が到着するまで同地域の確保に当たっていたのです。

 勇敢にも1人の国家憲兵隊員が125人の兵士に立ち向かって国から立ち去るように要求しましたが、彼は希望した答えを得る代わりに捕虜にされてしまったことは言うまでもないでしょう(注:殺害されなかったのは意外かもしれませんが)。

 ルクセンブルク大公を伴った政府関係者の車列はエッシュでの拘束を何とか回避し、田舎道を使ってフランスへの脱出に成功しました。

ルクセンブルクが侵攻される直前に、シュスター線のバリケード前でポーズをとっているルクセンブルクの国家憲兵隊員たち:中央の2名は小銃を背負っているが、両端の2名は非常に小さなスパイク型銃剣を装着可能な「モデル1884」型回転式拳銃を携行している[1]

 午前8時、第1シパーヒー旅団と第5機甲大隊の支援を受けたフランス第3軽騎兵師団は、南の国境を越えてルクセンブルクに入ってドイツ軍への威力偵察を試みるも失敗に終わりました。

 フランス空軍が進撃するドイツ軍に対して出撃を控えていたことに我慢できなかったイギリス空軍は、フランスに駐留していた第226飛行隊のフェアリー「バトル」軽爆撃機にドイツ軍の攻撃を命じました。ルクセンブルク上空で激しい対空砲火に遭った爆撃機部隊は何とかして危険な空域から脱出したものの、大部分の機体が軽い損傷を被り、このうち1機がヒールゼンハフ近郊へ墜落しました(この墜落では、乗員1名が死亡し、負傷した2名もドイツ軍の捕虜となりました)。

1940年5月10日にヒールゼンハフに墜落した "フェアリー「バトル」":3名の乗員はドイツ兵によって燃え上がる残骸から引き揚げられたものの、後にダグラス・キャメロン中尉は負傷が原因で地元の病院にて命を落とした[2][3]

 こうした間も国家憲兵隊はドイツ軍に抵抗し続けましたが全く歯が立たず、正午前に首都が占領され、夕方には南部を除く国土の大部分がドイツ軍に占領されてしまったのです。

 ルクセンブルクが受けた損失は戦傷者7名(このうち国家憲兵隊6名、兵士1名)であり、ドイツ国防軍の損失は戦死者36名でした。

 5月11日、国土から逃れたルクセンブルク政府はパリに到着し、在仏公使館に拠点を構えました。ドイツの空爆を危惧した政府はさらに南下し、最初にフォンテーヌブロー、次にポワチエに移し、その後はポルトガルとイギリスへ逃れ、最終的には戦争の終わりまでカナダに落ち着く結果となりました。

 当然ながら、カナダに亡命したシャルロット大公が国民統合の重要なシンボルとなったことも記憶にとどめておくべきでしょう。

シュスター線上に設けられた41個ものコンクリートブロックと鉄扉のうちの一つを通過する自動車:結果として。これらは実質的にドイツ国防軍の進撃を遅らせることができなかった

  • 以下の一覧では、ルクセンブルクでの戦闘で撃破や鹵獲された各陣営の兵器・装備類を掲載しています。
  • この一覧の対象に、馬は含まれていません(注:騎兵用と思われる)。
  • 仮に新たな損失が確認できる情報を把握した場合は、一覧を随時更新します。
  • 各兵器類の名称に続く数字をクリックすると、撃破や鹵獲された当該兵器類の画像を見ることができます。


  • ナチス・ドイツ (損失なし)


    ルクセンブルク (不明)

    自転車
    •  不明 政府支給の自転車: (多数, 鹵獲)

    フランス (損失なし)


    イギリス (1)

    航空機 (1, 墜落: 1)

    [1]Revolver with a Bayonet: Luxembourg Model 1884 Gendarmerie Nagant https://youtu.be/jYQNSQ3krWw

    ※  当記事は、2023年3月24日に本国版「Oryx」(英語)に投稿された記事を翻訳したも 
      のです。当記事は意訳などにより、僅かに本来のものと意味や言い回しを変更した箇所が
        あります。また、編訳者の意向で大幅に加筆修正を加えたり、画像を差し替えています。


    おすすめの記事

    2023年9月18日月曜日

    国土奪還に向けて紅茶を一杯:イギリスによるウクライナへの軍事支援(一覧)


    著: シュタイン・ミッツアー と キャリブレ・オブスキュラ

     2022年2月以降、イギリスはウクライナに46億ポンド(約8,515億円)以上の軍事援助を約束しています。
    1. 以下に列挙した一覧は、2022年からのロシアによるウクライナ侵攻の最中にイギリスがウクライナに供与した、あるいは提供を約束した軍事装備等の追跡調査を試みたものです。
    2. 一覧の項目は武器の種類ごとに分類されています(各装備名の前には原産国を示す国旗が表示されており、末尾には供与された月などが記載されています)。
    3. イギリスの武器供与に関する機密性のため、表示している数量はあくまでも最低限の数となっています。
    4. この一覧には、個人や団体などがイギリスの防衛企業から調達・ウクライナへ寄贈した兵器類は含まれていません。
    5. この一覧はさらなる軍事支援の表明や判明に伴って更新される予定です。
    6. 各兵器類の名称をクリックすると、当該兵器類などの画像を見ることができます。

    空中発射式巡航ミサイル

    地対空ミサイル (600+ ミサイルと数十台の発射機)

    対艦ミサイル

    ヘリコプター(3)

    地対空ミサイル(SAM)システム (3+ 発射機)

    対空砲 (125)
    • 125 対空砲 [2022年/2023年]

    多連装ロケット砲 (14)

    自走砲 (52)

    牽引砲 (54)

    戦車(14)

    装甲(戦闘)車両(70)

    装甲兵員輸送車 (220+)

    MRAP:耐地雷・伏撃防護車両

    歩兵機動車

    車両(133)

    工兵・支援車両等

    携帯式地対空ミサイルシステム (MANPADS)

    対戦車ミサイル (ATGM)
    • 数百発 '' 射程200km級の徘徊兵器'' [2022年/2023年]

    無人偵察機

    輸送用ドローン(少数)

    電子戦装備
    • ''電子戦装備'' [2022年5月 または 6月]
    • ''GPS妨害装置" [同上]
    • 対ドローン用電子戦装備 [2023年前半]

    レーダー

    弾薬
    • 30,000,000 小火器用の弾薬 [2022年/2023年]
    • 300,000+ 122mm, 152mm 及び 155mm砲弾 と 122mmロケット弾 [同上]
    • 数千発 120mm粘着榴弾 と 劣化ウラン弾 (「チャレンジャー2」用) [2023年]
    • 対空砲用の弾薬 [2022年/2023年]
    • 4.5トン プラスチック爆弾 [同上]
    • 相当数「M31A1 "GMLRS"」精密誘導ロケット弾 [2022年以降に供与] (「M270B1」及び「ハイマース」用)
    • 2,600 ラファエル「マタドール」対構築物用ロケット弾発射器 [2022年4月]
    • 数百発 レイセオン「AMRAAM」空対空ミサイル [2022年10月 または 11月] (「 NASAMS」及び「コヨーテ」 HMTベースのSAM発射機用)

    被服及び個人装備
    • 84,000 ヘルメット [2022年]
    • 8,450セット ボディアーマー [同上]
    • 25.000セット 極寒地用被服[同上]
    • コンバット・ブーツ [同上]
    • 5,000 暗視装置 [同上]

    その他の装備品
    • 予備部品及び各種装備(最大100台のソ連製戦車及び歩兵戦闘車のリファビッシュ用) [2023年]
    • 測距器 [2022年]
    • 20,000 寝袋 [同上]
    • 150 断熱テント [同上]
    • 医療物資 [同上]
    • 地雷探知装備 [2022年/2023年]

    [1] Military assistance to Ukraine since the Russian invasion https://commonslibrary.parliament.uk/research-briefings/cbp-9477/

    ※ この記事は2022年4月11日に本国版「Oryx」(英語)に投稿された記事を翻訳したもの