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2021年11月25日木曜日

牙を抜かれたサメたち:コートジボワールの「Su-25」攻撃機


著:ステイン・ミッツァー と ヨースト・オリーマンズ(編訳Tarao Goo

 それは2004年11月6日、土曜日の出来事でした。その日、コートジボワール空軍(FACI)の「Su-25UB」2機が、ブアケのフランス・平和維持軍の拠点に猛爆撃したのです。突然の一方的な攻撃が開始された結果、フランス兵9人が死亡しただけではなく31人の負傷に至らせました。

 この深刻な挑発行為は最終的にFACIの壊滅につながり、この先何年にもわたってコートジボワールに非常に大きな影響を与えることになったことをFACI自身が想定していたのかは定かではありません。間違いないのは、攻撃から僅か数時間後、設立されたばかりの航空兵力に残されていたものは煙を上げているガラクタの山だけだったということです。

 この悲劇につながる出来事は、反政府勢力の下部組織であるコートジボワール愛国運動(MPCI)が同国北部の大部分を支配し、コートジボワールが事実上2つに分断されたことで、ローラン・バグボ政権が不安定な状況に陥った2002年9月19日(第一次コートジボワール内戦)に始まりました。

 MPCIによって非稼働状態にある6機の「アルファジェット」軽攻撃機が拠点としていたブアケ空軍基地が占領された...つまりジェット機の鹵獲によって自軍が著しく増強されたことで、彼らは「アルファジェット」を復活させて前の所有者に対して使用すると大胆に脅迫しました。政府側は自らが保有する軍用機が存在しないため、この脅威に対抗するためにほとんど何もできなかったようです 。[1]

 蜂起が国中に拡大したスピードは、現地の治安部隊を完全に驚かせました。政府側は今や南下して首都ヤムスクロや最大都市アビジャンにまで広がる反乱に直面してたことから、フランスは「リコルヌ作戦」の一環として介入し、依然として国内に残っていた外国人全員を避難させました。

 パリが仲介した停戦を巧みに利用して、バグボ政権はこの休戦状態の間にFACIを地域最強の空軍に変えることを目指した野心的な再装備計画を立ちあげました。

 ベラルーシとブルガリアはすぐにバグボの援助に乗り出し、その結果として、前者からは4機の「Su-25」と1機の「Mi-8」、そして少なくとも2機の「Mi-24」が、後者からは2機の「MiG-23MLD」、2機の「Mi-8」、そして2機の「Mi-24」が引き渡されました。[1]

 不思議なことに、2機の「MiG-23」は彼らを運んできた「An-124」に積み戻されてトーゴのロメに移送されたものの、地元の当局に押収されて屋外に保管されてしまいました。また、コートジボワールはBAC「ストライクマスター」も2機入手しましたが、これらはフランスの民間軍事会社がボツワナから(マルタ経由で)入手して飛ばして来たものです。

 さらに、ルーマニアは「IAR-330」ヘリコプターを4機、イスラエルは偵察用の「エアロスター」UAV(下の画像)を2機納入しました。

 こうした新たな装備と人員の輸送については、FACIはウクライナ人パイロットが操縦する「An-12」に依存していた可能性があります。[1]


 それぞれ2機ずつの単座型と複座型(Su-25UB)から構成された4機の「Su-25」は2002年に引き渡され、ベラルーシ空軍のストックから直接届けられました。[1]

 単座型には「02」と「03」のシリアルナンバーが、複座型には「20」と「21」のシリアルナンバーが付与されました。興味深いことに、「21」の後部座席の外側には、「MiG-23BN」や「MiG-27」を彷彿とさせる装甲板と思しきものが装備されていました。著者の知る限りでは、装甲板の追加はこのSu-25特有の特徴であり、世界中に存在する他の「Su-25」でも見られなかったものです。

 また、「20」以外の3機だけはチャフ・フレア用のディスペンサーが装備されていました。


飛行隊発足時の苦労

 2機の複座型は2003年初頭に就役しましたが、2機の単座型を組み立てる過程では多数の歯が生える時の苦しみ(初期トラブル)に遭遇したようで、その作業はゆっくりと進められました。

 両機はコートジボワールに引き渡される以前の段階ですでに運用する必要性が大きく超過していると判断された可能性があり、この事実は、「MiG-23MLD」が納入されてすぐに返却された理由にもなっているかもしれません。

 いずれにせよ、2004年後半にフランスが介入した時点でどちらの単座型も稼働状態にはありませんでした。


 全4機の「Su-25」は、2000年代初頭からFACIのほぼ全ての作戦機やヘリコプター(そして一部のジープにさえも)に施されていた、鋭い歯をしたシャークマウスのペイントで飾り付けされました。その結果、これらの機体はこれまで空を飛び回ってきた中で最も威嚇的なカラーリングの1つと言い表すことができるものになったことは確実でしょう。

 これらの際立ったシャークマウスについては一般的にコートジボワールの航空機やヘリコプターで見られる独自の特徴だと思われていますが、実際には1990年代に一部の「Mi-24」に初めて施し始めたベラルーシが起源です。2000年代初頭にコートジボワールがベラルーシから「Mi-24」の引き渡しを受け始めた時点で、この「シャークマウス・スタイル」は好評を博し、結果的に継続されました。


 ほぼ2年間にわたる運用期間中の「Su-25」は主にヤムスクロで運用され、ベラルーシ人とコートジボアール人で構成されたパイロットと技術者の集団によって共同で飛行と整備が行われました。コートジボワールのパイロットにはかなりの年配者も含まれていたため、彼らがかつて「アルファジェット」のパイロットだったと推測することができます。

 ちなみに、ヤムスクロにおけるベラルーシ人と「Su-25」の活動については、それらと飛行場を共有していたフランス軍によって注意深く監視されていました



終わりの始まり

 作戦機という新兵器で政権の戦力が増強された後の2004年11月4日に、バグボは反政府勢力に対して最初の行動を起こしました。停戦状態にあるにもかかわらず、「Su-25UB」が北部の反政府勢力の拠点を爆撃し始めたのです。弾薬庫や反政府勢力の主要なリーダーの隠れ家を標的にしたことは別として、空爆によって多くの民間人が犠牲になったと伝えられています。[2]

 これらの出撃は、2機の「Su-25UB」がブアケにある(識別できるようにはっきりと表示された)フランスの平和維持部隊のキャンプを空爆・ロケット弾攻撃をした2日後の11月6日まで続きました。この結果として生じた悲劇については、9人のフランス人兵士と1人のアメリカ人宣教師の命が奪われ、さらに数十人の兵士が負傷したと伝えられています。

 完全に狂気の沙汰としか言いようのないことですが、その後、ベラルーシ人とコートジボワール人の乗員が混成して乗っていたスホーイは当たり前のようにヤムスクロ空港に戻ってきました。そこで彼らは期せずして今や怒りに満ちた大勢のフランス空挺部隊と隣り合わせになってしまったことは言うまでもありません。

 どうやら何事もなかったかのように行動するのが最善だと判断したためか、2機の「Su-25」は燃料と兵装の補給を受けるためにタキシングして駐機場に向かいました。しかし、ほぼ同じ頃のパリではフランス軍の最高司令部がちょうどこの攻撃の知らせを受け、報復としてヤムスクロにある2機の「Su-25」をはじめとしたFACI全体の無力化を命じていたたのです。[1]


 ヤムスクロの空挺部隊は直ちに素早く行動を起こし、まだ給油と兵装の搭載作業中であった2機の「Su-25」に対して2発の「ミラン」対戦車ミサイル(ATGM)を発射しました。結果として生じた被害は甚大なものとなりました:「Su-25UB[20]」はキャノピーが吹き飛ばされ、[21]に命中したミサイルは機首の一部を引き裂くという大きな損傷をもたらしたのです。

 アビジャンでは2機の非稼働状態にあった単座機がフランス軍に鹵獲され、翼を折られた2機のエアロスター」UAVと共に今後の使用を防ぐために無力化されました。

 これらの出来事は最終的にコートジボワールとフランスを戦時体制に突入させたことであり、約20人から60人の死者を伴う数多くの武力衝突をもたらしました。[3]

 ちなみに、パイロットの地図にフランス軍基地の位置が記されていたことが後で判明したため、フランスはFACIとお粗末な標的の選択をしたその傭兵にこの攻撃の責任を負わせました。[1]



フランスの官僚制度

 すでに平和維持軍キャンプへの攻撃と同じ日に、フランス軍兵士はアビジャンでFACIのために働いていた15人のベラルーシ人、ロシア人、ウクライナ人傭兵を逮捕しましたが、奇妙なことに彼らは詳細不明な理由によってその4日後には釈放されてしまいました。[4] [5]

 その10日後の11月16日には、コートジボワールから入国した8人の自称「農業技術者」のベラルーシ人がトーゴ当局に逮捕されました。地元当局はこの男たちと平和維持軍キャンプへの攻撃との関連性を即座に理解し、フランスに攻撃の実行犯と思われる人物の身柄を拘留している旨を通知したのです。

 今でも理由は不明のままですが、結果としてフランスは彼らを裁判にかける機会を逃がし、トーゴは「農業技術者」一行がベラルーシに戻ることを許可する以外に何もできませんでした。

 しかし、フランスの官僚主義の典型的な例としか言い表すことができませんが、驚くべきことに、フランスは攻撃の発生から17年(!)後の2021年3月になって「Su-25」のパイロットを起訴することに決めたのです。実行犯を正当に責める機会は過ぎ去ってしまったようですが、存命している3人のパイロット(コートジボワール人2名、ベラルーシ人1名)は、今やフランスで欠席裁判を受けることになるでしょう(注:攻撃に関与したほかの2人のパイロットはすでに死去していました)。

 ただし、攻撃の際に最大で4人しか「Su-25UB」に搭乗できなかったという事実は、フランスで実行犯と考えられている5人のパイロットのうちの1人が実際には完全に無実ということを意味します(注:2機の復座機に5人搭乗するのは物理的に不可能なため)。それにもかかわらず、殺人罪で裁かれた場合、生き残った3人は欠席裁判で終身刑を宣告されるかもしれません。[4] [5]


 2004年後半、損傷を受けた2機の「Su-25UB」はアビジャンのフェリックス・ウフェ=ボワニIAPに運ばれ、同所でフランスの報復により軽微な損傷を受けた2機の「Su-25(単座型)」と合流しました。

 コートジボワールはこれらの機体を運用に復帰させることに関心を持っていたようですが、そのためのどんな試みでも部品やコンポーネントごと海外から持ち込む必要がありました。結論は言うまでもなく、コートジボワールに課せられた武器禁輸措置がこの企てを頓挫させたようです。結果として、これらの「Su-25」は空軍の格納庫内で放置され続けることになってしまいました。[1]



 ヤムスクロ空軍基地に残された「Su-25」用の搭載兵装や弾薬は、その後にヤムスクロにある故フェリックス・ウフェ=ボワニ初代大統領の旧宮殿に運ばれました。ここでの彼らの存在については、第二次コートジボワール内戦中の2011年4月に(現大統領である)アラサン・ワタラの忠実な部隊に発見されるまで、完全に忘れ去られていたようです。



絶滅した種

 おそらく格納庫内のスペースを空けるためか、2015年には4機の「Su-25」が、2機のBAC「ストライクマスター」と3機の「Mi-24 "ハインド"」、そして「Su-25」用の支援資機材と一緒に屋外に移されました。

 露天に放置されたおかげで著しく損傷した機体は今や完全に風雨にさらされて、雨が自由に「Su-25」の開いたコックピットや損傷した胴体に入り込んでしまう状態となったため、この移動は彼らの最終的な運命(廃棄)を示していたのかもしれません。

 その後の彼らの行方は不明のままですが、全機が地元のスクラップヤードに移されて解体されたと思われます。




 FACIは最近になって特徴的なシャークマウスが施された数機の「Mi-24」を現役に復帰させましたが、4機の「Su-25」はスクラップとして解体されるショベルカーの爪の中でその地味なキャリアを終えたようです。

 コートジボワールが小規模なジェット機の飛行隊を再び保有することを試みるかどうかについては、同国の運用上の必要性と財政事情に直結していることは間違いないでしょう。

 もしこの国が再び「Su-25」を導入することがあれば、1つだけ確実なことがあります:彼らはシャークマウスを施されるに違いありません。

[1] African MiGs Volume 1: Angola to Ivory Coast https://www.harpia-publishing.com/galleries/AfrM1/index.html
[2] Air strikes 'kill 85 civilians' in Ivory Coast https://www.abc.net.au/news/2004-11-10/air-strikes-kill-85-civilians-in-ivory-coast/582556
[3] French foreign minister's visit is first since 2003 https://web.archive.org/web/20110520122915/http://www.france24.com/en/20080614-ivory-coast-bernard-kouchner-gbabgo-france%26navi%3DAFRIQUE
[4] Bombardement de Bouaké: trois pilotes jugés par défaut et une énigme intacte https://www.africaradio.com/news/bombardement-de-bouake-trois-pilotes-juges-par-defaut-et-une-enigme-intacte-183787
[5] Côte d’Ivoire : le bombardement des soldats français à Bouaké devant les assises de Paris https://www.lemonde.fr/afrique/article/2021/03/28/cote-d-ivoire-le-bombardement-des-soldats-francais-a-bouake-devant-les-assises_6074733_3212.html

※  当記事は、2021年3月31日に「Oryx」本国版(英語)に投稿された記事を翻訳したも
  のです。意訳などにより、僅かに本来のものと意味や言い回しを変更した箇所がありま
    す。