2025年8月29日金曜日

【復刻記事】予感から確信へ:シリア内戦でロシア軍の直接的な関与を示す新たな証拠が浮上


著:シュタイン・ミッツアー と ヨースト・オリーマンズ(編訳:Tarao Goo)

 この記事は、2015年8月29日に本ブログのオリジナル(本国版)である「Oryx-Blog(英語)」で公開された記事を翻訳したものです。

 ラタキア県におけるアサド政権軍の攻勢は、今まで知られていなかったロシアによる内戦の関与を示す詳細な証拠を暴露し続けています。最近納入されたロシア製「BTR-82A」歩兵戦闘車(IFV)の目撃情報とは別に、新たに登場した資料はロシア軍が攻勢を指揮する上重要要な役割を担っていることを裏付けました。

 ラタキアでの攻勢を取材した国民防衛隊(NDF)のメディア部門からのニュース・リポートの動画から聞こえてきた断片的な音声は、シリアにおける「BTR-82A」の存在を初めて明らかにしたものであり、この地域で進行中であるアサド政権軍の作戦を支援するためにロシアの軍人がラタキアに派遣されたという以前の証言を裏付けるものでした。 シリア・アラブ陸軍(SyAA)と最近到着した共和国防衛隊と共に、NDFはラタキア北東部で以前に反政府勢力に制圧された領土の奪還を目的とした新たな攻勢を開始しました。仮にこの攻勢が成功した場合、今や危機に瀕している主要都市へのアサド政権の影響は大幅に向上し、反政府勢力に深刻な打撃を与えることになるでしょう。

 会話は「BTR-82A」の「2A72」30mm機関砲自動砲から出る轟音のために聞き取りにくいものの、火力支援を再開するよう呼びかけたり、ある時点では「Павлин, павлин, мы выходим(ピーコック、ピーコック、我々は撤退する)」(注:ピーコックはコールサインと思われる)を含む特定のフレーズを聞き取ることができます(残念ながら、動画のアカウントがYoutube運営に停止させられたために現在では視聴不可)。

 動画の2:03から2:30までの間に聞き取れる会話の内容を以下に記します。
  • 2:03: ''Давай!'' - 早く!
  • 2:06: ''Бросай!'' - 落とせ!
  • 2:10: "Ещё раз! Ещё давай!'' - もう一度! もう一度だ早く!
  • 2:30: "Павлин, павлин, мы выходим" - ピーコック, ピーコック, 我々は撤退する.

 会話は少ししか聞こえませんが、どうやら「BTR-82A」の乗員に向けられたもののようで、この車両が実際にロシアの兵士によって運用されていることを示唆しています。しかし、(シリア介入に関する)ロシア軍空挺部隊トップの発言を受けて、8月4日にウラジーミル・プーチン大統領の報道官(ペスコフと思われる)にロシア兵のシリア派遣の話が提起された際、彼はシリア政府側からそのような要請がなされたことを否定しました。


 興味深いことに、ロシアが(地上部隊を通じて)シリア内戦に介入したことを示したのは、今回が初めてではありません。ニュースサイト「Souria Net」は8月12日、主にアラウィー派の住民が住む(ラタキアの東約30kmに位置する)スランファにロシア兵が派遣され、反政府勢力の進攻を阻止したと報じています。

 その結果として、親アサド政権の新聞「アル・ワタン(祖国)」は8月26日付で、ロシアが(ラタキア市から南へ25kmほど離れた)ラタキア県沿岸部のジャブラに新たな軍事基地を建設し、シリアにおけるプレゼンスを拡大しているという記事を掲載しました。この記事では、欧米とロシアによるシリア内戦への介入に関するさまざまな噂や陰謀論も言及されていました。その中には、先月にロシアから6機の「MiG-31」迎撃機が届けられたという、大々的に報じられたものの結局は嘘だった話や、ロシアが親アサド勢力に衛星画像を提供し始めたとされる話も含まれています。


 衛星画像の提供に関する証拠はこれまで見つかっていませんが、ロシアは内戦前と内戦中に「センターS」、「S-2」と(おそらく)「S-3」という情報収集施設を通じたSIGINTでシリア政府を支援していたことが知られています。「センターS」については、2014年10月5日に反政府勢力によって初めて制圧されたことを著者が当ブログとベリングキャットで取り上げました。

 この情報はシリア上空でロシア製ドローンの目撃が急増していることと同時に重なっているため、この数か月でロシアによる新たな情報収集ミッションが開始されたことをさらに示唆しています。

 以前にロシアの民間軍事会社がシリアで活動したことがあるという事実から、ロシア語で交わされた会話はロシア軍関係者によるものではない可能性があるという主張するに至る人がいるかもしれませんが、そのような民間企業が「BTR-82A」のような高度な兵器を運用する可能性は非常に低いことに留意すべきでしょう(編訳者注:この記事が執筆された当時はワグネルの存在がそれほどクローズアップされておらず、彼らが戦車を含むAFVを多用していたことも知られていなかったことに注意してください)。そして、ロシア政府は実際にシリアへの「民間企業」の派遣を禁じており、ロシア連邦保安庁(FSB)はいわゆるスラヴ軍団のトップをロシア帰国後に(2013年10月)拘束しました

 もちろん、シリアのメディアによる言及はこの国にロシア兵士がいるという説を補強するものであり、今回の映像での会話が民間軍事会社のメンバーによるものだという説の根拠をさらに覆すものと言えます。

 シリアへ関与しているという今回の証拠の件は、単発の出来事ではありません:大々的に報じられるようになったウクライナにおけるロシア軍関係者の活動や、長年にわたるアサド政権への衰えることのない(むしろ増加さえしている)支援は、たとえそれが公然と紛争にダイレクトに巻き込まれることを意味するとしても、ロシアが国外の利益を守ることに献身していることを証明するものと言えるでしょう。

 こうしたステルス介入が今や再び行われている可能性が高いという事実は、シリアの先行きに対する不確実性を増大させ、5年目を迎えようとしている戦争へのロシアによる大々的な介入の始まるを意味しているかもしれません。

改訂・分冊版が2025年に発売予定です(英語版)

 2025年現在の情報にアップデートした改訂・分冊版が発売されました(英語のみ)

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2025年8月24日日曜日

【復刻記事】介入の予感:シリアでロシアの「BTR-82A」歩兵戦闘車が目撃された


著:シュタイン・ミッツアー と ヨースト・オリーマンズ(編訳:Tarao Goo)

 この記事は、2015年8月24日に本ブログのオリジナル(本国版)である「Oryx-Blog(英語)」で公開された記事を翻訳したものです。情報が古いですが、あえてそのままにしています。 

 シリア向けの軍用品の中に若干の「BTR-80」派生型がロシア黒海艦隊の揚陸艦「ニコライ・フィルチェンコフ」艦上で目撃されてから僅か数日後、より高度なロシア製兵器がシリアに渡ったことが明らかになりました。「BTR-82A」の目撃は、戦争で荒廃した国に対する全く知られていない一連の兵器供給では最も新しいものです。

 ラタキア攻勢の映像では、以前にラタキア北東部で失った領土の奪還を目的とした攻勢に、少なくとも1台の「BTR-82A」歩兵戦闘車(IFV)が参加している様子が見られました。この攻勢は、国家防衛隊(NDF)、シリア・アラブ軍(SyAA)、共和国防衛隊が共同で実施したもので、後者は最近になってシリア沿岸部に大規模に投入したことが把握されています。共和国防衛隊は、「T-72」や「BMP-2」、「2S3 "アカーツィヤ"」122mm自走榴弾砲とともに、2015年6月中旬にラタキアに到着しました。同部隊への「BTR-82」の引渡しも同時期に行われたと考えられます。

 シリアは2013年末から2014年初めにかけて、化学兵器の廃棄に関する合意の下でロシアから少数の「BTR-80」を受け取ったことが知られています。ちなみに、化学兵器の輸送と警備を任務とした車両は1台もロシアに返却されていません。前述の合意の下で引渡された「BTR-80」については、その全てがマーキングが施されていないオリーブドラブに塗装されました。映像の「BTR-82A」は迷彩塗装が施されている上に「111」の番号が付与されています。これは、すでに長い年月にわたって使用されているシリアの軍用車両に見られる識別用のマーキングとは全く異なるのです。


 から地中海に向かうロシア海軍の揚陸艦によって、シリアへの装備の引渡しが定期的に行われています。つい3日前の8月20日には、ロシア海軍の艦船ニコライ・フィルチェンコフが甲板にトラックや装甲車を積んでイスタンブールを通過したばかりです。

 甲板上に車両が存在することは注目に値します。なぜならば、装備品類は今まで貨物室に積載されていたために外から見ることができなかったからです。この状況は、シリアに送られる車両の規模が貨物室に収まらないほど大きかったことを示唆している可能性が高いと思われます。


 長砲身の「2A72」30mm機関砲のおかげで、「KPVT」14.5mm重機関銃を装備した一般的な「BTR-80」と「BTR-82A」の区別は容易です。しかし、同じ機関砲を装備した旧型の「BTR-80A」との区別は困難を極めます。

 両者の主な違いは、BTR-82の砲塔には「TPN-3」昼夜兼用砲手用照準器ではなく「TKN-4GA-02」 が搭載されていることです。2 つ目の識別ポイントは、下の画像でも分かるように排気口の形状です。

BTR-82A

BTR-80A

 最近のシリアに対する「BTR-82」の引渡しは、シリア政府(アサド政権)を支援するというロシアの強い関与を思い起こさせるものであり、将来的にはほかの車両や兵器が納入される可能性が高いことを示唆しています。アサド大統領の政権維持に対するロシアの関与は非常に過小評価され続けていますが、実際は誰もが予想していたよりも大きなものである可能性を否定できません。

2025年8月22日金曜日

ロシアの戦争:第一次チェチェン戦争で両陣営が損失した兵器類(一覧)


著:シュタイン・ミッツアー と ヨースト・オリーマンズ(編訳:Tarao Goo)


 この記事は、2022年11月21日に当ブログの本国版である「Oryx-Blog(英語)」で公開された記事を翻訳したものです(本国版はリンク切れ)。

 第一次チェチェン戦争は1994年12月から1996年8月までロシアとチェチェン・イチケリア共和国との間で戦われたものであり、最終的に1997年の和平条約締結とチェチェンの事実上の独立に至りました。ロシアの侵攻とそれに続く2年にわたる紛争に先立ち、1994年11月には、親ロシア派のチェチェン人勢力とロシア情報機関がジョハル・ドゥダエフ政権の転覆を狙ったクーデターを支援するための秘密介入を行っていますが、失敗に終わっています。 

 ロシア軍の機甲部隊による首都グロズヌイへの攻撃の撃退に成功した後、ドゥダエフはクーデターへの関与をロシアに認めさせるため、数十人のロシア軍捕虜を処刑すると脅しました。当時、チェチェンの著しい無法地帯ぶりにうんざりし、チェチェンにおける政権転覆を企図した秘密裏の作戦が失敗に終わったことを理解したロシアは、チェチェン侵攻計画を策定し始め、結局、12月11日にこの未承認のポスト・ソビエト国家に侵攻したのです。

 2022年のウクライナ侵攻と同様に、ロシアのチェチェン侵攻は、自国の能力を過大評価する一方で、チェチェン人の領土防衛に対する決心を極端に過小評価したことに特徴があります。(ロシア軍司令部からも非常に不評でしたが)ロシア国防省は、参謀本部や侵攻を実行する北カフカーズ国内軍管区に何ら相談することなく、侵攻を計画したのでした。[1]

 ウクライナの首都キーウを数日で占領するというロシアの予想と同様に、ロシアの パーヴェル・グラチョフ国防相は、たった1個空挺連隊を使って数時間でドゥダエフ政権を打倒できると豪語し、さらに侵攻作戦は「無血の電撃戦」であり、1週間も続かないと述べたのです。

 結局、戦争は2年間も続き、ロシアの敗北とグラチョフ国防相の解任という結果に終わったことは言うまでもないでしょう。[2]

 第一次チェチェン戦争は一般的にロシア近代史上最悪の軍事的敗北と考えられていますが、この戦争でロシア軍が被った損害は、2022年のロシア・ウクライナ戦争で被った損害の前では大したものではありません。[3]

 ロシア軍が数十両もの「T-72」と「T-80」戦車を失った、悪名高いグロズヌイの戦いで頂点に達した戦争初期の通常戦が1995年に終了した後、彼らはチェチェンの戦闘員が隠れ家のネットワークを構築していたチェチェンの 山岳地帯を制圧しようと試みました。その大半が徴兵された兵士で占められていたロシア軍部隊は、訓練もされていなければ十分な装備すらないにもかかわらず、ゲリラ戦に突然投入されることになったのです。

 1995年8月初旬に発効した和平協定が戦闘停止に失敗した後、戦闘は1996年8月にロシアとアスラン・マスハドフ独立派参謀長(注:ドゥジャエフ大統領は4月にロシアによって殺害された)の間で最終的な停戦協定が結ばれるまで続きました。ちなみに、同月にチェチェン軍は首都グロズヌイを奪還しています。

 チェチェン戦争といえば、待ち伏せ攻撃や道路脇のIEDを多用した山岳ゲリラの戦いを連想する人が多いかもしれません。しかし、チェチェン軍は当初、「T-72」戦車や「2S3」自走榴弾砲、「BM-21 "グラート"」多連装ロケット砲、「9K92 "ルナ-M"」戦術ロケット、「9K31 "ストレラ-1"」と「S-75」地対空ミサイル(SAM)、さらには自国領土に駐留していたソ連軍部隊から引き継いだ「Mi-8」ヘリコプターや「L-29」及び「L-39」練習機兼軽攻撃機を装備した通常戦力を頼りにしていたのです。

 これらの装備の大半は1992年2月に首都グロズヌイで行われた軍事パレードに参加したものの、「ルナ-M」、「S-75」、「L-29/L-39」のような高度なシステムは要員不足のため、ほとんど運用されなかったか、まったく使用されませんでした。[4]

 これらの大多数は戦争中に失われ、1999年に第二次チェチェン戦争が勃発する頃には、チェチェンの戦法は通常戦からゲリラ戦へと発展したのでした。

  1. 当一覧は、2022年に当ブログの本国版である「Oryx-Blog(英語)」で公開された記事を翻訳したものです(翻訳者は損失の精査には関与していません)。
  2. 第一次チェチェン戦争における両軍の兵器類の詳細な一覧を以下で見ることができます。
  3. この一覧は、写真や映像によって証明可能な撃破または鹵獲された兵器類だけを掲載しています。したがって、実際に喪失した兵器類は、ここに記録されている数よりも多いことは間違いないでしょう。
  4. 迫撃砲、トラックや以前から用廃となっている兵器類はこの一覧には含まれません。
  5. ロシアの巨大なスクラップ置き場で見つかった(部品が剥ぎ取られた)装備については、修理が不可能なレベルで損傷しているか、共食い整備に使用された場合にのみ含まれます。記載されている日付は、その装備が失われた正確な日付を示しているとは限りません(あくまでも概算です)。1991年以前に製造されたものについては、ソ連国旗を付しています。
  6. 各兵器類の名称に続く数字をクリックすると、破壊や鹵獲された当該兵器類の画像を見ることができます。

ロシア (767, このうち撃破: 706, 損傷: 24, 鹵獲: 38)

戦車 (192, このうち撃破: 167, 損傷: 3, 鹵獲: 22)

装甲戦闘車両 (48, このうち撃破: 42, 損傷: 2, 鹵獲: 4)

歩兵戦闘車 (302, このうち撃破: 291, 損傷: 4, 鹵獲: 7)

装甲兵員輸送車 (153, このうち撃破: 144, 損傷: 8, 鹵獲: 1)

指揮通信車両類 (4, このうち撃破: 3, 鹵獲: 1)

工兵・支援車両 (4, このうち撃破: 3, 損傷: 1)

砲兵支援車両 (5, このうち撃破: 4, 鹵獲: 1)

自走砲 (23, このうち撃破: 20, 損傷: 2, 鹵獲: 1)

自走対空砲 (5, このうち撃破: 3, 損傷: 2)

航空機 (6, このうち撃破: 6)

ヘリコプター (24, このうち墜落: 21, 損傷: 2, 鹵獲: 1)

装甲トラック(1, このうち撃破: 1)


チェチェン (41, このうち撃破: 33, 鹵獲: 8)

戦車 (26, このうち撃破: 21, 鹵獲: 5)

装甲戦闘車両 (5, このうち撃破: 3, 鹵獲: 2)


歩兵戦闘車 (1, このうち鹵獲: 1)

装甲兵員輸送車 (7, このうち撃破: 5, 鹵獲: 2)

指揮通信車両類 (3, このうち撃破: 1, 損傷: 1, 鹵獲: 1)

牽引砲 (1, このうち撃破: 1)

自走砲 (2, このうち鹵獲: 2)
  • 1 2S9 "ノーナ" 120mm自走迫撃砲: (1, 鹵獲)
  • 1 2S3 "アカツィヤ" 152mm自走榴弾砲: (1, 鹵獲)

多連装ロケット砲 (1, このうち鹵獲: 1)

戦術ロケット (1, このうち鹵獲: 1)

自走対空砲 (1, このうち撃破: 1)

レーダー (1, このうち撃破: 1)

航空機 (4, このうち撃破: 3, 鹵獲: 1)

ヘリコプター (4, このうち撃破: 4)

特別協力:Lost Armour(敬称略)

[1] Anatol Lieven: Chechnya. Tombstone of Russian Power. Yale University Press, New Haven and London, 1999.
[2] Former Russia defense chief Grachev dies https://www.reuters.com/article/us-russia-grachev-death-idUSBRE88M0BB20120923
[3] Attack On Europe: Documenting Russian Equipment Losses During The 2022 Russian Invasion Of Ukraine https://www.oryxspioenkop.com/2022/02/attack-on-europe-documenting-equipment.html
[4] Парад в Грозном / Чечня / Ичкерия https://youtu.be/QU6PEUaxCLE



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