2025年8月10日日曜日

「Nu.D.40」から「バイラクタル・アクンジュ」まで:デミラー氏のレガシー


著:シュタイン・ミッツアー と ヨースト・オリーマンズ(編訳:Tarao Goo)

 この記事は、2021年5月19日に本ブログのオリジナル(本国版)である「Oryx-Blog(英語)」で公開された記事を翻訳したものです。 意訳などにより、僅かに本来のものと意味や言い回しが異なっている箇所があります。

 Benden bu millet için bir șey istiyorsanız, en mükemmelini istemelisiniz. Madem ki bir millet tayyaresiz yaşayamaz, öyleyse bu yaşama vasıtasını başkalarının lütfundan beklememeliyiz. Ben bu uçakların fabrikasını yapmaya talibim. - この国のために私に何かして欲しいなら、最も素晴らしいものを求めるべきだ。飛行機なしでは国家は生きられないのだから、私たちはこの生きる術を他人の恩恵に期待すべきではない。私はこれらの飛行機の工場を建てることを熱望している:ヌリ・デミラー

 航空大国としてのトルコの台頭について、その規模と範囲、そしてスピードの面で、近代史において比類のないものです。この偉業は、彼らが防衛分野でのほぼ自給自足を達成させるという目標に向けた不断の努力と、外国のサプライヤーやトルコに何度も制裁を加えている国への依存度を軽減させてきたことが大いに影響しています。この政策の成果はすでにトルコ軍のほとんどの軍種で活躍していますが、自給自足を達成するための最も野心的な試みは、間違いなく新型ジェット練習機「ヒュルジェット」とステルス戦闘機「TF-X(カーン)」の開発でしょう。いずれもこの10年で初の試験飛行が予定されています。(注:前者は2023年4月25日、後者は2024年2月21日に初飛行を実施しました)

 しかしながら、トルコによる軍用機開発・生産への取り組みは有人システムだけに限定されるものではありません。トルコには現在、無人戦闘機の開発計画が少なくとも2つあります。そのうちの1つは、今年後半に就役する予定のバイカル・テクノロジーが開発した「バイラクタル・アクンジュ」です。「アクンジュ」は、巡航ミサイルや視界外射程空対空ミサイル(BVRAAM)発射能力を含む斬新な能力をこの分野にもたらし、自身がそれらを実行可能な世界初の無人プラットフォームとなります。このUCAVはトルコの無人機戦能力の範囲を飛躍的に拡大させることになるでしょう。というのも、100キロメートルも離れた敵機やUAV、ヘリコプターも標的にできるようになるからです。

 「アクンジュ」の生産が意欲的に進められている一方で、もう1つの無人戦闘機「MİUS(Muharip İnsansız Uçak Sistemi)」計画が進められています。2023年までに初飛行を予定しているこの超音速戦闘無人機は、戦闘空域で精密爆撃、近接航空支援(CAS)任務、敵防空圏制圧(SEAD)を遂行できるように設計されています。(この記事を執筆した2021年5月)現在のところ、MİUS計画はまだ設計段階にとどまっていますが、トルコの防衛産業が盛況していることを示すものです。 独自の解決策で困難を克服する素晴らしい能力のおかげで新しい計画が迅速に採用され、トルコは複数の防衛分野で技術革新の最前線に立っていると言っても過言ではありません注:「MİUS」は「クズルエルマ」と命名され、試作機が2022年12月に初飛行を記録しました

 しかし、多くの人に知られていないのは、「TF-X」も現在開発中の「MİUS」も、トルコが初めて国産戦闘機の設計に挑戦したものではないという事実です。このような航空機を実現させようと最初に挑戦したのは、実は1930年代まで遡ることができます。当時、トルコの航空機設計者であるヌリ・デミラー(1886~1957年)が型破りで革新的な双発単座戦闘機の設計に着手したのです。 残念なことに、ヌリ・デミラーの功績はトルコ国外ではほとんど注目されておらず、国内でも彼の斬新な飛行機が最近まで全く知られていませんでした。


 ヌリ・デミラーの功績と「Nu.D.40」そのものについて詳しく説明する前に、より富んだ洞察力を得るために第二次世界大戦勃発以前のトルコにおける航空産業史を簡単に説明します。1930年代にはヨーロッパの大部分の国が何らかの形で航空機産業を抱えていましたが、トルコでは武力衝突や(民間)輸送における航空機の役割が急速に拡大することを見越しており、すでに1925年2月にトルコ航空協会(Türk Hava Kurumu - THK)が設立されていました。そして、彼らは初期段階のサポートと専門知識を得るために外国のパートナーとの提携を求め、ドイツのユンカース社と契約を結び、1925年8月にTayyare and Motor Türk AnonimŞirketi(TOMTAŞ)が設立されるに至りました。[1]

 ユンカースとの契約では、小型機の生産とオーバーホールを行う工場をエスキシェヒルに、大型機の生産と整備を行うより大規模な施設をカイセリに設立することが定められました。当初はドイツが中心となって運営されていたものの、ドイツの関与は徐々に縮小して現地の部品や労働者による生産に置き換えられ、最終的には真の意味での国産化へと進んでいったのです。[1] 

 TOMTAŞで最初に生産されたのはユンカース「A20」偵察機と「F13」輸送機で、それぞれ30機と3機が生産されました。同社が最終的に年間約250機の航空機を生産することを計画していたことは、この設立が国産航空機産業を立ち上げるための形だけの試み以上のものであったことを示しています。

 ところが、設立直後からユンカース側の財政難を主因として、最終的にプロジェクト全体を崩壊に導くような問題が発生し始めました 。この時すでに倒産寸前であったユンカースに対するドイツ政府の支援が打ち切られた後、同社は1928年6月にトルコとの提携を正式に解消し、その数か月後にはTOMTAŞも閉鎖されてしまったのです。[1]

 工場についてはトルコ国防省へ移管後も整備・修理事業を継続し、1931年にカイセリ航空機工場と改称され、1942年まで航空機の組み立てを続けました。[2] 現在、カイセリにあるTOMTAŞの跡地にはトルコ空軍の主要な戦術輸送航空基地である(エルキレト空軍基地)があり、「A-400M」、「C-130」、「CN-235」輸送機が配備されています。

1930年代のカイセリ航空機工場で生産中のPZL「P.24」(ライセンス生産)

 トルコの国産航空機産業の役割が、いつの日か航空機を設計・製造するという当初の目標ではなく、組み立てに絞られるようになったことで、トルコの実業家ヌリ・デミラーは、この分野におけるトルコの取り組みを再始動させるという構想を抱き始めました。彼は技術革新や大規模な建設プロジェクトを全く知らなかったわけではありません。というのも、彼の会社が1920年代の時点でトルコ全土に約1.250kmの鉄道を敷設したことがあるからです。[3] 

 トルコ鉄道発展への貢献を称え、1934年、ムスタファ・ケマル・アタテュルク大統領は彼にデミラー(鉄の網)という姓を与えました。彼の次のプロジェクトはさらに野心的なスケールのもので、私財を投じて1936年にイスタンブールのベシクタシュ地区に航空機工場を設立したのです。すでに同年、デミラーと彼の技術チームが設計した最初の飛行機が形になり始めていました。「Nu.D.36」は2人乗りの初等練習機で、最終的に24機が生産されています。[3]

 まもなく、より野心的な設計の双発旅客機「Nu.D.38」が登場しました。試作機の製造は第二次世界大戦中も続き、1944年には初の試験飛行が行われたものの、試作で終わっています。成長と航空事業をより円滑に進めるため、デミラーはイスタンブールのイェシルキョイに土地を購入し、現在のアタテュルク空港がある場所に飛行場と飛行学校(1943年まで約290人のパイロットを養成)を設立しました。[3]

 彼の幅広い野心と分野を超えた多大な取り組みは、自身の目標が航空機の設計と製造だけにとどまらず、 トルコ全体の航空関連活動に対する大衆の参加と関心を高めるプロセスを立ちあげることも目指していたことを十分に証明していると言えるのではないでしょうか。

1942年、イェシルキョイ空港に並ぶ「Nu.D.36」




1940年代初頭、「Nu.D.38」の試作機が製造されている光景

 献身的な努力にもかかわらず、やがて彼は、自国の航空産業が繁栄するために必要な環境を提供できないばかりか、その存続そのものに積極的に反対する政府に直面することになります。THKは24機の「Nu.D.36」を発注していましたが、イスタンブールからエスキシェヒルへの試験飛行後に不時着した(パイロットのセラハッティン レシット・アランが死亡に至らせた)事故を受け、同機の発注をすべてキャンセルしたのです。[3]

 これに対し、デミラーは訴訟を開始しました。何年にもわたる長引いた裁判でしたが、航空機には何の欠陥もないことを証明する複数の専門家の報告にもかかわらず、裁判所は最終的にTHKを支持する判決を下しました。[3]

 同様に、待望の「Nu.D.38」は、(ターキッシュ エアラインズの前身である)トルコ国営航空やその他の政府機関からの注文を獲得することができませんでした。さらに追い打ちをかけるように、デミラーの飛行機を他国へ輸出することを禁止する法律が制定されたことで、スペインを含む「Nu.D.36」に関心を示していた数か国との交渉が打ち切られてしまったのです。[4]

 そして、トルコ空軍からの発注も得られなかったため、彼の工場は1943年に閉鎖を余儀なくされました。 この状況を覆すため、デミラーはイスメト・イノニュ大統領を含む政府高官に何度も陳情したものの、結局は効果が得られませんでした。[3]

 こうして、彼の多大な努力は実らず、国産航空産業の有望なスタートが途絶えてしまったのです。トルコ航空界への貢献を記念して、2010年にはスィヴァス空港に彼の名前が付けられました。彼の名前が認知されるのは遅くてもないよりはマシですが、トルコの歴史においてデミラーが十分に評価されていない人物であることは間違いないでしょう。

 ヌリ・デミラーと彼の航空機工場の物語はここで終わったと思われていました。数年前、研究者のエミール・オンギュネルがトルコとドイツの公式文書から、デミラーと彼の技術チームによる別のプロジェクト「Nu.D.40」の存在を発見するまでは。その型破りなデザインとドイツで風洞実験が行われた機体という事実を考えると、この飛行機の存在が長い間にわたって忘れ去られていたことは、実に驚くべきことと言えるでしょう。

 「Nu.D.40」に関する情報の多くは、1938年にドイツのゲッティンゲンにある空気力学研究所 (Aerodynamische Versuchsanstalt, AVAが実施した風洞試験に由来します。試験終了後、AVAはデミラーに、(試験で判明した事項を詳述した)110ページにも及ぶ包括的な報告書を送付しました。[5]

 ところが、度重なる連絡ミスにより、AVAは当初要求していた資金の一部しか集めることができず、1940年には「Nu.D.40」に関する機密報告書をドイツの航空会社2社に譲渡してしまったのでした。[6]

 「Nu.D.40」について、機体の構成やエンジンの種類、武装案等はほとんど知られていません。第二次世界大戦が勃発する前に設計されたため、国産化できない部品(特にエンジンと武装)は海外から調達する必要があったものの、ヨーロッパ全土で戦火が拡大する中での調達は不可能に近いものでした。この事実を無視して、仮に完成させた場合を考えてみますと、ドイツ製の航空機用エンジン2台と、機関砲または重機関銃2挺と軽機関銃2挺という武装の組み合わせが、もっとも妥当な機体の構成だったように思われます。


 やがて、エミール・オンギュネルは自分の発見をトルコ航空宇宙産業(TAI)のテメル・コティル会 長兼CEO(当時)に対し、興奮気味に『この飛行機を絶対に作るべきだ!』と伝えたとのことです。こうして、「Nu.D.40」復活チームが結成されたわけですが、まずは3Dのデジタルモデルが作成された後、1/24スケールの模型が製作されました。次のステップには、「Nu.D.40」のUAVモデル(1/8と1/5スケールが1機ずつ)の組み立てが含まれます。[7]

 最終的には、実物大の1/1レプリカモデルが製作され、デミラーの夢である「Nu.D.40」の飛行をついに実現させる予定です。


 計画されている1/1のレプリカモデルの機体構成の場合、「Nu.D.40」は同時代にフォッカーが設計したオランダの「D.23」単座戦闘機と驚くほどよく似た姿になるでしょう(実際のところ、ヘッダー画像は第二次世界大戦時のトルコ空軍の塗装が施された「Nu.D.40」に似せて修正された「D.23」なのです)。

 「D.23」計画は、最高速度約535km/h、13.2mm機関砲2挺と7.9mm機関砲2挺を装備する迎撃機として1937年に構想がスタートしたものです。実寸大のモックアップが1938年のパリ航空ショーで初公開され、翌年の1939年3月に試作機が完成しました。[8] 「D.23」はその2か月後に初飛行を実施しましたが、1940年4月の11回目の試験飛行中に機首車輪が損傷したため、分解して修理のために輸送しなければならない状態となりました。[8]

 1940年5月にドイツ軍がオランダに侵攻したとき、「D.23」はまだ機首の車輪を修理しておらず、格納庫に保管されたままだったため、ほとんど無傷で生き残ることができました。オランダ征服から僅か2週間後、ドイツ空軍がこの飛行機の視察と、ドイツへの輸送準備をしにやって来ました。有望なプロジェクトをそう簡単に敵に引き渡すわけにはいかなかったフォッカーは、ドイツの代表団に対し、「D.23」はオランダ空軍ではなくフォッカーの所有物であり、ドイツがこれを欲しいのであれば高額の買収費用を支払う必要があることを要求したことで、ドイツ側の関心が急速に失われていったのです。 [8] 

 結局、この機体は「記念品ハンター」によって次第に分解されていき、連合軍によるスキポール空襲で破壊されました。「D.23」が就役していれば、その時代で最も興味深い航空機の一つになっていたでしょう。しかしながら、第二次世界大戦の勃発によって、この飛行機は大きな期待に応えることができなかったのは言うまでもありません。






 長年にわたる綿密な調査を経て、エミール・オンギュネルは「Nu.D.40」に関する全ての知見を『Bir Avcı Tayyaresi Yapmaya Karar Verdim』という本にまとめました。この本は、ドイツとトルコの公文書館から収集した公文書を用いて、この航空機の設計史に焦点を当てています。現在はトルコ語版しかありませんが、将来的には英語版も出版されることを期待しています。『Bir Avcı Tayyaresi Yapmaya Karar Verdim』は、トルコの有名オンラインストアやトルコ科学技術研究会議(TÜBİTAK )で260トルコリラ(約943円)で注文可能です。


 トルコ初の(無人)国産戦闘攻撃機は、「Nu.D.40」の設計から約83年後の2021年に就役する予定です。「Nu.D.40」が当時革新的であったように、「アクンジュ」も革新的なものです。ヌリ・デミラーは今ではほとんど忘れ去られてしまいましたが、近代的な国産航空産業に対する彼のビジョンを受け継ぐ人々がいることは注目に値します。

 バイカル・テクノロジーのような企業は、非常に献身的な人々のチームが何を達成できるかを実証しています。 彼らはデミラーのようにリスクを恐れず、祖国と技術への愛を第一とし、多くの利益を得ることを二の次にしているのです。100年近く前にデミラーが知っていたように、これらの目標を達成するためには人々の関心を集めることが重要です。デネヤップテクノフェストといった技術ワークショップやイベントを通じて、バイカルは同社の工場や他のトルコの技術系企業に同じ志を持つ大勢の人々を引き寄せるに違いありません。未来を見据えるこれらの企業は、空における自国の運命のみならず、人々の心にも変革をもたらそうとしているのです。

 編訳者注:「アクンジュ」は2021年8月29日に就役し、対テロ作戦など実戦に投入されています。ムラドAESAレーダーの統合試験などが実施されています(この統合によって、BVRAAMなどの運用能力が付与され、本来想定していた能力が完全に発揮できることになります)。


[1] Turkey's First Aircraft Factory TOMTAŞ https://www.raillynews.com/2020/07/The-first-aircraft-factory-turkiyenin-tomtas/
[2] TOMTAS - Tayyare Otomobil ve Motor Türk Anonim Sirketi http://hugojunkers.bplaced.net/tomtas.html
[3] Aviation Facilities of Nuri Demirağ in Beşiktaş and Yeşilköy https://dergipark.org.tr/tr/download/article-file/404341
[4] The 24 Nu.D.36s that had been produced for the THK were donated by to the local flight school and later scrapped.
[5] Nuri Demirağ’ın Almanya’da kaybolan avcı uçağı: Nu.D.40 https://haber.aero/sivil-havacilik/nuri-demiragin-cok-az-bilinen-ucagi-nu-d-40/
[6] Nuri Demirağ’ın Bilinmeyen Uçağı: Nu.D.40 https://www.havayolu101.com/2019/01/10/nuri-demiragin-bilinmeyen-ucagi-nu-d-40/
[7] We’re very proud to realize Nuri Demirağ’s dream https://defensehere.com/eng/defense-industry/we-re-very-proud-to-realize-nuri-demirag-s-dream/75967
[8] Fokker D.23 https://geromybv.nl/home/fokker-d-23-willem-vredeling/



 2025年現在の情報にアップデートした改訂・分冊版が発売されました(英語のみ)

2025年7月26日土曜日

シュート&スクート: アルメニアの軽量型多連装ロケット砲


著:シュタイン・ミッツアー と ヨースト・オリーマンズ(編訳:Tarao Goo)

 この記事は、2021年7月30日に本ブログのオリジナル(本国版)である「Oryx-Blog(英語)」で公開された記事を翻訳したものです。 意訳などにより、僅かに本来のものと意味や言い回しが異なっている箇所があります。

 2020年ナゴルノ・カラバフ戦争において、アルメニア軍の砲兵部隊とロケット砲部隊ほど深刻な損失を被った兵科はなかったでしょう。彼らをカバーするはずだった防空網がドローンを無力化できなかったため、見渡しの良い陣地にある榴弾砲と多連装ロケット発射砲(MRL)が上空を飛行する「バイラクタルTB2」に完全に無防備な状態となり、(視覚的に確認できるものだけでも)152門の大砲と71基のMRLが破壊されてしまったからです。[1]

 アルメニア軍が放棄した後にアゼルバイジャン軍によって鹵獲された105門の大砲を加えると、アルメニアはこの戦争で砲兵戦力の大部分を喪失し、MRLに至っては保有数の約2/3に相当する損失を被りました。 [1]

 アルメニアの深刻な不足状態にあるMRLのストックについて、ロシアが代替品の供給を通じて部分的に補充した可能性はありますが、今後の紛争では2020年の戦争で発生した事態が繰り返されることは確実であり、とどまるところを知らないドローン戦の影響を少なくとも部分的に抑制させるためには、全く新しい戦術が必要不可欠です。

 このような戦術の転換を示す最初の兆候は、2021年6月下旬にアルメニアの道路で確認された新型MRLです。[2]

 トヨタ「ハイラックス」に搭載された8連装の122mm MRLから構成されるこの新型MRLシステムは、火力を犠牲とする代わりに機動性と小型化を重視したものであり、武装無人機に対する脆弱性を低減させる可能性があるでしょう。

 このようなMRL自体は特に目新しいものではありません。というのも、小型かつ機動性のある状態で遠方の目標を打撃する能力を持つMRLを自軍に装備させるために、他国も同様のシステムを採用しているからです。しかし、アルメニアがこのようなシステムへ関心を示したのは、大型MRLの弱点を実際に目撃した後だったようです。アルメニアのMRLの大半は、前線後方にある陣地から射撃任務中に標的とされました。これらの陣地は砲撃などに対しては十分な防護力を発揮しましたが、武装無人機に対しては完全に無防備でした。アルメニアの兵士が一部の「BM-21」を木の枝や葉で擬装し始めたものの、いざ隠れ家から出て射撃を開始すると目立ってしまい、最終的には逆に攻撃されてしまったのです。

アルメニア軍の「BM-21」:画像は「バイラクタルTB2」の「MAM-L」誘導爆弾が命中する直前の様子。

右側の茂みから出てきた擬装を施されたアルメニアの「BM-21」:木や茂みの下に退避していても、こうしたMRLが搭載する大型エンジンの熱放射は、上空を飛行する「バイラクタルTB2」に自身の位置を探知される可能性を大幅に上げた。

 2020年ナゴルノ・カラバフ戦争では「BM-21」が陣地に固定配置されていたのに対し、新型MRLはロケット弾を発射後、速やかに新たな射撃位置や再装填位置、あるいは上空を飛ぶドローンの探知から逃れるためのガレージや小さな建物に設けられた隠れ家に移動することができます。

 見通しの良い場所で発見された場合でも、そのコンパクトなサイズと熱放射量の少なさのおかげで、(特に発射装置を隠蔽する措置を講じれば)即座の探知を回避できる可能性があります。トヨタ「ハイラックス」の速度、優れたオフロード性能、コンパクトなサイズは、このような戦術に最適な存在と言えるでしょう。

 このような策は、敵がアルメニアの砲兵とMRLを無力化しようとする試みを著しく困難なものにさせるでしょう。各MRLが敵に発射できるロケット弾の数は「BM-21」に比べてはるかに少ないものの、トヨタ「ハイラックス」をベースにした新型MRLは無人機戦でもたらされる猛攻撃から生き残る個体が多いと見込めるため、より長く戦闘を継続できる可能性があります。こうした新戦術が、目標に対して大きな効果を発揮する可能性はあるものの、空中の脅威に対して極めて脆弱で非対称戦では間違いなく効果を失うだろう高コストな大規模な砲兵戦術の重要性を低下させるかもしれません。

 新型MRLと同様のシステムの評判の高さについては、リビア、シリア、イエメン、スーダンなどで大規模に使用されていることで既に証明されています。アルメニアに同種のシステムが登場したことは、この国が現時点で保有する限られた軍備を最大限活用しようとする過去の取り組みを考慮すれば予測可能だったかもしれません。

 しかしながら、この新型が実際に配備されるかどうかは依然として不明です。多くの他の有望な国産装備と同様に、新型MRLも資金不足に直面して試作段階で頓挫する可能性も否定できません。それでも、アルメニアが置かれた状況を考慮すれば、こうした兵器の生産は合理的な選択と言えます。こうした状況を踏まえると、MRLの探知と無力化という面での優位性を維持させるために、アゼルバイジャンが無人機技術への投資を拡大せざるを得なくなるという懸念が出てきますが、長い目で注視していく必要があることは言うまでもありません。

ArmHighTech-2022で展示された「SMLRS」

 編訳者による追記:2022年にエレバンで開催された武器展示会「ArmHighTech-2022」では、この新型MRLが「SMRLS(小型多連装ロケット砲)」という名で展示されました。掲示物には、「BM-21」で使用するロケット弾を使用するもので、自動射撃管制システムや車体安定システム、無線システムを搭載しているとの説明がありました。この展示会は2022年以降開催されておらず、その他を調べても「SMRLS」が試作段階なのか軍に採用されたのかは不明のままとなっています。

[1] The Fight For Nagorno-Karabakh: Documenting Losses On The Sides Of Armenia And Azerbaijan https://www.oryxspioenkop.com/2020/09/the-fight-for-nagorno-karabakh.html
[2] https://twitter.com/Caucasuswar/status/1408446699358543874
[3] https://missilery.info/gallery/variant-boevoy-mashiny-rszo-dlya-rs-kalibra-122-mm-armeniyaRecommended Articles:

2025年に改訂・分冊版が発売予定です(英語版)


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2025年7月19日土曜日

アタテュルクの潜水艦:トルコ海軍で運用されたドイツのUボート


著:シュタイン・ミッツアー と ヨースト・オリーマンズ(編訳:Tarao Goo)


 この記事は、2023年4月4日に本ブログのオリジナル(本国版)である「Oryx-Blog(英語)」で公開された記事を翻訳したものです。 意訳などにより、僅かに本来のものと意味や言い回しが異なっている箇所があります

 Yeni dört denizaltı gemimiz için bildirdiğimiz isimler şunlardır; 1) Saldıray, 2) Batıray, 3) Atılay, 4) Yıldıray. Bunların manalarını izaha bile hacet olmadığı kanaatındayım. Manaları, som Türkçe olan bu kelimelerin kendisindedir, yani saldıran, batıran, atılan, yıldıran. – 私たちが発表した4隻の新潜水艦の名称は次のとおりです:1) サルディライ、2) バティライ、3) アティライ、4) イルディライ。これらの名前の意味については、説明の必要はないと思います。これらは純粋なトルコ語であり、それぞれ「攻撃する者」「沈める者」「射る者」「威圧する者」を意味します:ムスタファ・ケマル・アタテュルク

 1930年代の急速に近代化を進めるトルコは、社会や公共サービスなどのさまざまな分野での近代化に大きな関心を寄せていたため、ドイツの高度な産業に目を向けました。それからの10年間を通じて、ナチスから逃れた約300人のドイツ系ユダヤ人科学者がトルコに温かく歓迎され、研究を続けたのです。その一方で、トルコ空軍は1937年にドイツから合計24機の 「He 111」爆撃機と26機の「Fw 44 /58K」練習機を注文する動きを見せています。[1]また、 1940年、国営の鉄道会社であるTCDDは、当時ヨーロッパと世界で最も先進的な列車と肩を並べるドイツの「MT5200」気動車6両を発注しました。[2]

 ドイツのハイテク技術を導入する試みの中で最も重要と言っても過言でないものは、1936年にトルコ海軍がドイツの「UボートIX」級を基に設計された「280号計画型/アイ」級潜水艦4隻を発注したことでしょう。

 「アイ」級は、オランダのダミー会社「NV Ingenieurskantoor voor Scheepsbouw」によって正式に開発された艦です。同社はドイツの潜水艦開発のフロント企業でした。というのも、この時点で自国での潜水艦の設計等はヴェルサイユ条約で禁止されていたからです。発注された潜水艦について、2隻はドイツで、残りの「アティライ」と「イルディライ」はイスタンブールのタシュキザク造船所で建造される予定でした。ドイツで建造された「バティライ」は機雷敷設用潜水艦として完成したものの、完成後の1939年にドイツ海軍に接収・就役するという運命を迎えたので、トルコ海軍とは無縁の存在となっています。

 トルコにとって幸いにも、「サルディライ」は「バティライ」よりも数か月早く完成したため、接収される運命から免れることができました。 Uボートの建造は1937年2月にキールのクルップ・ゲルマニア造船所で開始され、翌年7月にドイツとトルコの高官の立会いの下で進水しました。その後、大規模な艤装を経て、1939年初頭に引き渡し可能な状態になったのです。[3] 

 ところが、戦争前の緊迫した情勢下で、完成した潜水艦をトルコへ航行させるための十分な人員を確保できないという事態に陥ってしまいました。これにより、「サルディライ」の出航は1939年4月2日まで延期されることになり、最終的ドイツ国旗を掲げ、トルコ人水兵とドイツ人将校で構成された乗組員の手によってエーゲ海へ出航したのでした。[3]

1938年7月、「サルディライ」の進水式でクルップ・ゲルマニア造船所で働く作業員たちがナチス式敬礼を行ってい(背後には敬礼するドイツ海軍将兵の姿が確認できる)。右側は建造中の「バティライ」である。

 トルコ政府が自国の水兵をドイツに派遣するという決定は、「サルディライ」をトルコから救った最大の要因と考えられます。仮に回航が数か月遅れていれば、同艦もドイツ海軍に接収されていたはずだからです。1939年6月5日、イスタンブールの金角湾で「サルディライ」の就役式典が実施された時点で、「イルディライ」と「アティライ」は、僅か数キロメートル離れたタシュキザク造船所でまだ建造中でした。これらの潜水艦はドイツの指導の下でトルコの作業員によって建造され、主に現地で調達された資材が使用されました。[4]

 「アティライ」は1939年に進水して翌年に就役しましたが、第二次世界大戦の勃発に伴うドイツ人技術者の帰国や部品の供給が途絶えたため、「イルディライ」は進水から6年後の1946年にようやく就役しました。

1939年、金角湾で進水した際の「アティライ」。

1939年の「イルディライ」進水式の様子。ドイツの技術支援の打ち切りと重要な部品の供給停止により、トルコ海軍が同艦の実戦配備に成功したのは1946年になってからだった。

 4隻の高度な洋上型Uボートの調達と国内での建造はトルコの防衛にとって極めて重要なものです。そうした理由もあって、トルコ共和国初代大統領ムスタファ・ケマル・アタテュルクは自ら潜水艦の名前を命名することを決定しました。1938年1月17日、彼はマフムト・ジェラル・バヤル首相宛てに4隻の潜水艦の名前を通知する書簡を送ったものの、同年11月に死去したため、最初の潜水艦がトルコに到着する光景を目にすることはありませんでした。 

 アタテュルクが潜水艦の命名について手書きで記した大統領令についてはイスタンブール海軍博物館で展示されており、それがトルコ海軍にとって重要な意味を有していること(そして、おそらく象徴的な意味では今でも)を物語っています。

高速で航行中の「アティライ」。司令塔の前方に装備されている10.5cm砲に注意。

 「アイ」級潜水艦は533mm魚雷発射管を6基(船首に4基、船尾に2基)装備しており、合計14発の魚雷を搭載可能です。この潜水艦は3,500馬力の出力を誇るデンマークのブアマイスタ・オ・ウェーイン製ディーゼルエンジン2基と2基のモーターを装備し、水上で約20ノット(約37km/h)、潜航時で約9ノット(約16.5km/h)で航行することができました。[4]
 なお、「バティライ」の航続距離は水上10ノットで13,100海里(19,400km)、潜航時4ノットで最大75海里(144km)でした。[5]

 他の3隻は、水上では10ノット(18.5km/h)の速度で8,000海里(14,800km)の航続距離を誇っていました。乗組員は約45名の士官と水兵で構成されています。「アイ」級潜水艦4隻は、司令塔の前方に「L/45」10.5cm砲を装備していました。なお、「サルディライ」と「アティライ」は、司令塔の後方にエリコン製20mm対空機関砲も装備しています。「バティライ」は、魚雷発射管から射出できる機雷を最大で36発も搭載することができました。

 ところで、「アイ」級はトルコ海軍に就役した最初の(ドイツ起源の)潜水艦ではありません。1925年、ドイツのダミー企業であるNV Ingenieurskantoor voor Scheepsbouw(IvS)は、トルコ海軍向けに第一次世界大戦時代の「UB III」級潜水艦をベースにした「46号計画型」沿岸型潜水艦2隻を受注しました。両艦はオランダのロッテルダムにあるウィルトン・フェイエノールト造船所で1927年に建造され、1928年にそれぞれ「ビリンジ・イノニュ」と「イキンジ・イノニュ」と命名されてトルコ海軍に就役しました。[6]

 「46号計画型」に続いて「111号計画型」設計されましたが、この設計も同じくIvSによって行われています。そもそも、この潜水艦の建造は1930年にスペイン海軍向けに開始されたわけですが、同海軍が関心を示さなかったため、1935年にトルコ海軍に売却され、「ギュル」として就役しています。[7] 

 そして、イタリアから2隻の潜水艦を調達したことで、1930年代におけるトルコの海軍整備事業が完了したのでした。 [8] [9]

「46号計画型」沿岸型潜水艦は、IvS社によって第一次世界大戦時代の「UB III」級をベースにトルコ海軍用に開発されたものだ。トルコ海軍は1925年に2隻を発注し、1928年に就役した。名称はオスマン語のアラビア文字で表記されているが、1928年にラテン文字を基にした現代のアルファベットに置き換えられた。

 「サルディライ」と「イルディライ」は、1957年に元アメリカ海軍の「バラオ」級潜水艦に更新されるまで、トルコ海軍で平穏無事な経歴を送りました。

 「アティライ」は、1942年7月14日にダーダネルス海峡で触雷して沈没し、乗員38名全員が艦と運命を共にする悲惨な運命を迎えました。この潜水艦が目的地に到着にしなかったことから捜索救助作戦が開始され、同日午後8時30分頃に海面に「アティライ」の浮標が発見されました。浮標に設置された電話は正常に機能していたものの、何度かけても「アティライ」からの応答がなかったことから、その悲惨な運命が確認されたのでした。「アティライ」沈没から52年後の1994年、この潜水艦の残骸は海岸から約6km離れた地点の深さ68メートルの海底でついに発見されました。

 「アティライ」と悲しい運命を共にした乗員たちについては、当時の著名なトルコ人歌手ハミイェト・ユジェセスの歌『Gitti de Gelmeyiverdi(彼は行き、そして帰らなかった)』で偲ばれています。彼女の夫も乗員の一人だったのです。

「アティライ」と運命を共にした乗員たち。1942年7月、同艦は1915年のガリポリの戦いで敷設された機雷によって沈んだ。画像は沈む数か月前に撮影された。

 1939年に完成直後に接収された「バティライ」については、同年9月20日に「UA」としてドイツ海軍に就役しています。機雷敷設用の潜水艦として装備されていたものの、ドイツはこれを(「バティライ」のベースとなった)通常のUボート「IX」型として運用しました。運用期間(1940年6月から1941年3月まで)中、同艦は6回の航海を実施し、その間に連合軍の艦船8隻を沈めるという戦果を挙げています。これらの中には、イギリスの補助巡洋艦である「HMSアンダニア」も含まれていました。

 第二次世界大戦中にドイツ海軍に配備された14隻の外国潜水艦によって沈没した艦艇は10隻ですが、その中の8隻が「UA」によるものです。この潜水艦は1942年7月から訓練用として使用され、それ以降は戦闘任務に就くことはありませんでした。結局、1945年5月3日にキールで自沈処分されるという運命を迎えています。

トルコ海軍の「バティライ」は引き渡し前にドイツに接収され、「UA」という名で就役した。

 1930年代に確立された "ドイツ先進的な潜水艦を運用する" という伝統は、完全にドイツが設計した潜水艦で構成された現代のトルコの潜水艦隊で継承されています。

 今後は、すでに就役している「209型」潜水艦に加えて、2020年代に就役する(ドイツの「214型」潜水艦をライセンス生産した)6隻の「レイス」級潜水艦によって潜水艦隊の強化が図られる予定です。 これらのいずれにも「アイ」級潜水艦の名称が付与されることはありませんが、これらの謎多き潜水艦の精神は、ほぼ1世紀後に登場する後継艦に受け継がれることでしょう。

 「アティライ」の遺産をより具体的な形で継承するため、その残骸を水深30メートルの海底博物館の一部として移設する試みが提起されています。こうした計画は依然として実現に至っていません。そもそも、船体の状態が構想を実現不可能にする可能性すらあります。38名の乗員の最後の安息の地として、この船が静かな海で残りの時を過ごすことが最善かもしれません。


Gitti de gelmeyiverdi - 出て行ったあの人は戻ってこなかったわ
Gözlerim yolarda kaldı - あの人の帰りを待つわ (道を見ながら)
Hele nazlım nerde kaldı - あの人は何処へ?
Ne zaman ne zaman gelir - いつになったらあの人は帰ってくるの?
Gel a nazlım lahuri şallım - 来て、私の愛しいラウリ・シャリム
Sağı solu dolaşalım - 一緒に歩きましょうよ
Ne zaman ne zaman gelir - いつになったらあの人は帰ってくるの?

海底で眠る「アティライ」

[1] The unlikely haven for 1930s German scientists https://physicstoday.scitation.org/do/10.1063/pt.6.4.20180927a/full/
[2] Presaging Modernity: Turkey’s MT5200 Trains https://www.oryxspioenkop.com/2021/12/presaging-modernity-turkeys-mt5200.html
[3] TÜRK DENİZALTICILIK TARİHİ http://www.denizalticilarbirligi.com/db.dztarih.htm
[4] SALDIRAY submarines (1939-1946) https://www.navypedia.org/ships/turkey/tu_ss_saldiray.htm
[5] BATIRAY submarine https://www.navypedia.org/ships/turkey/tu_ss_batiray.htm
[6] BİRİNCİ İNÖNÜ submarines (1928) http://www.navypedia.org/ships/turkey/tu_ss_birinci_inonu.htm[7] GÜR submarine (1934) http://www.navypedia.org/ships/turkey/tu_ss_gur.htm
[8] DUMLUPINAR submarine (1931) http://www.navypedia.org/ships/turkey/tu_ss_dumlupinar.htm
[9] SAKARYA submarine (1931) http://www.navypedia.org/ships/turkey/tu_ss_sakarya.htm



【お知らせ】この本の英語版については、2025年7月15日に改訂・分冊版の1冊目が発売されました。

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2025年7月11日金曜日

【復刻記事】影から姿を現す:シリアで「BM-30 "スメルチ"」の存在が確認された



著:シュタイン・ミッツアー と ヨースト・オリーマンズ編訳:Tarao Goo)

 この記事は、2014年12月27日に本ブログのオリジナル(本国版)である「Oryx-Blog(英語)」とベリングキャットで公開された記事を翻訳したものです。 意訳などにより、僅かに本来のものと意味や言い回しが異なっている箇所があります。

 新たに入手した画像によって、シリアで悪名高い「BM-30 "スメルチ"」多連装ロケット砲(MRL)の存在がついに明らかとなりました。その「9M55K」300mmロケット弾は、ハマ北方のカフル・ジタAl-Tahで使用されたことが記録されているものの、発射機の画像はまだ確認されていなかったのです。発射機の登場を長く待たなければいけなかった理由としては、「ブーク-M2」や「パーンツィリ S-1」、「BM-30」といった高度な兵器の位置が特定されることを避けるため、その近くでの撮影が禁止されたことに関係していると思われます。

 シリアは内戦中にベラルーシか(より可能性が高いと思われる)ロシアから数台の「BM-30」を調達し、2014年初めに納入されたことが確認されています。その数か月後、「UR-77 "メテオリット"」地雷除去車がダマスカスのジョバルに出現したことで、ロシアがアサドにあらゆる兵器を供給する意志があることが改めて強調されました。

 内戦前からシリアで長く運用されている「BM-27 "ウラガン"」に見られるように、「BM-30」も同じような緑色の塗装が施されています。こうしたカラーリングはハマーに見られるような緑豊かな地域に最適です。


 これらの「BM-30」をダマスカスに投入するの合理的だと思われるかもしれませんが、反政府勢力の進撃を阻止するため、全「BM-30」がハマー近郊に配備されています。ハマーはアサドにとって戦略的に重要な場所です。これは何も戦略的な位置にあるという理由だけではありません。空軍基地があるほか、南部には地下ミサイル施設もあるからです。

 ダマスカスには多数の「BM-27 "ウラガン"」やIRAM(Improvised Rocket-Assisted Munition or Mortar:急造ロケット推進弾・迫撃砲)も配備されており、戦闘の多くは共和国防衛隊の拠点であるカシオン山から近距離で行われているほか、砲兵部隊も定期的に投入されているため、この地における「BM-30」の必要性が低いことも理由に入るでしょう。

 ハマーとその周辺における全戦闘はシリア軍と国民防衛隊(NDF)、その他の民兵組織によって行われているため、シリアの「BM-30」は共和国防衛隊ではなくシリア軍の管轄下にあります。下の画像は、Al-Tahで「BM-30」が発射した「9M55K」ロケット弾の残骸です。


 「9M55K」は「BM-30」から発射できるロケット弾の一種に過ぎませんが、野外に晒された歩兵に対して絶大な威力を発揮するために今でも好んで使用されています。ちなみに、このロケット弾には72個の「9N235」対人クラスター子弾が搭載されています。


 作戦がシリア全土で展開されるにつれ、「BM-30」はしばらく仕事に困ることないため、シリア内の別の地域に投入される可能性が十分に考えられます。このMRLの引渡しはロシアがアサド政権を支援していることを改めて示すものであり、両国の関係は時間とともに強まってきています。シリアに最近納入された「BM-30」や「UR-77」、その他の兵器は、今後の展開の兆しなのかもしれません。

【編訳者による補足】この記事が執筆された10年後の2024年12月にアサド政権が崩壊したことは周知のとおりです。この間にシリアの「BM-30」がキャッチされる機会がありませんでしたが、崩壊前日の12月4日の時点でアレッポのアル・サフィラとその郊外で放棄された個体が2台確認されました。[1]

 こうした発射機の損傷状況が修復可能なレベルか否かは判然とせず、ほかに存在するかもしれない個体を含めて新シリア軍が運用するのかは不明です。

アル・サフィラでシリア軍が遺棄した「BM-30」

[1] https://x.com/clashreport/status/1864188921598402660

改訂・分冊版が2025年に発売予定です(英語版)

2025年7月6日日曜日

【復刻記事】鋼鉄の野獣: シリア軍のT-62戦車


著:シュタイン・ミッツアーとヨースト・オリーマンズ(編訳:Tarao Goo)

 この記事は、2014年11月27日に「Oryx」本国版(英語)とベリングキャットで公開された記事を日本語にしたものです。10年前の記事ですので当然ながら現在と状況が大きく異なっていたり、情報が誤っている可能性があります(本国版ブログは情報が古くなったとして削除)。ただし、その内容な大いに参考となるために邦訳化しました。 

 登場当時の「T-62」戦車は技術的な奇跡の産物と考えられていました。なぜならば、最先端の115mm滑腔砲を搭載していたからです。しかし、この戦車は「T-55」から多くの問題を受け継いだだけでなく、さらに多くの新たな問題も生み出してしまいました。

 NATOが恐れていた115mm砲については、「T-55」の100mm砲で新型の砲弾が使用可能になったため、冗長なものとなってしまいました。この理由と毎分僅か4発という受け入れがたい発射速度が合わさって、「T-62」は同時代の戦車の中で「厄介者」となったのです。

 実際、ブルガリアを除くワルシャワ条約機構加盟国は「T-62」を導入せず、より多くの「T-55」を調達する道を選びました。

 それでも、この戦車は中東や北アフリカのソ連勢力圏内にある国々に広く輸出されています(注:2010年代後半においてもシリアやリビアへ供与された)。エジプトとシリアは実戦で「T-62」のテストを試みており、その後1973年の第四次中東戦争で投入したものの、期待に応える結果を得ることはできませんでした。

 1960年代の終わりから70年代にかけて、シリアは最大で800台の「T-62」を入手したと推測されています。このうち500台弱が依然として現役か予備兵器扱い、あるいは保管状態にあります。

 1962年に形式不明の戦車の追加バッチが納入されたとされていますが、結局その情報は誤ったものであり、実際は「T-55A」戦車のバッチでした。また、リビアから供給された「T-72」戦車に関する情報もありますが、独自には確認できていません。

 「T-62」の "1967年型"と"1972年型"の両モデルがシリアに納入されました。このうち後者がシリア陸軍で最も運用された型です。この型は空中からの脅威に対する防御力を高め、地上目標への使用も可能にする大口径の「DShK」12.7mm機関銃を装備しています:"1967年型"にはこうした対空用の機関銃はありません。


 「T-62」は1982年のレバノン戦争にも投入されました。ところが、シリア軍の戦車は第四次中東戦争よりも活躍したにもかかわらず、イスラエル軍の歩兵や戦車、そしてヘリコプターによる攻撃の結果、約200台もの「T-62」戦車が失われました。

 この戦争では「RPG-7」や「RPG-18」、「9K111 "ファゴット"」「ミラン」対戦車ミサイルで武装した遊撃対戦車部隊の方がはるかに活躍したことが知られています。ベイルートとその周辺で活動する彼らは、狭い路地で攻撃を実施して圧倒的な優位に立ったのでした。

 興味深いことに、シリア軍が保有していた「T-62 "1967年型"」の1台が南アフリカ国防軍に配備されていることが明らかとなっています。同軍はすでに仮想敵(OPFOR)訓練用としてだけでなく、アンゴラで将来起こりうるこれらの戦車との衝突に備えて評価するために「T-55」の部隊を運用しているのです。


 シリア軍の「T-55」とは対照的に、「T-62」は戦闘能力を向上させるための大幅な近代化改修を受けていません。その代わり、90年代には一部の「T-62」が保管庫送りにされています。現役で残っていた「T-62戦車」については、被占領地であるゴラン高原から遠く離れた場所に配備され、主に予備部隊によって運用されていました。

 少数の「T-62」戦車には、風力センサーを搭載するという小規模な改修が実施されました。本来ならば将来実施されるかもしれない近代化計画の試作車両として用いられる可能性が高かったものの、改修された戦車の数が極めて少なかったこともあり、同計画が開始されることはなかったようです。

 少なくともこの1台がシリア内戦で反政府軍に鹵獲されたことが確認されています。下の画像の改修型「T-62」には、「بشار(バッシャール)」と「منحبك يا بشار(我らはバッシャールを愛す)」の文字がペイントされています。


 シリア内戦は、シリア軍における「T-62」戦車の3度目の実戦投入でした。その大部分はシリア・アラブ陸軍に配備されていますが、ある程度は民兵組織である国民防衛隊(NDF)スクーア・アル・サハラ(デザート・ファルコン)にも配備されています。

 なお、残りの一部は戦略予備として保管状態のままです。 これは、シリア政府がいつでも数百台の戦車を投入することで戦闘による損失を埋め合わせができることを意味しています。もちろん、この状況はシリア・アラブ軍にとって有益なものとなっています。というのも、シリア軍が保有する戦車の数は減少し続けているからです(注:上述のとおり損失の埋め合わせに困らないため)。

 2台の「T-62」がタブカ市で活躍しました。残存した航空機やヘリコプターが空軍基地から脱出できるよう、滑走路の周囲を長時間にわたって防御したのです。

 他の「T-62」は砂漠地帯でスクーア・アル・サハラの攻撃部隊に参加しましたが、これらの戦車がこの部隊の指揮下にあったのか、それともシリア軍の管理下にあったのかは定かではありません(注:スクーア・アル・サハラはシリア軍の支援を受ける民兵組織だったため)。


 少数の「T-62」は僅かながらも防御力の向上が図られました。こうした改良は、一般的に戦車の運用者がどれだけの労力とリソースを投入したかによって度合いが左右されます。つまり、改良と一口で言ってもレベルはピンからキリまであるということです。例えば、単に土嚢で覆うという策(下の2番目の画像)から装甲版の追加といった大幅な改良まで、全く異なる改良がなされる場合があるわけです。

 このような応急的な改良は通常のロケット擲弾(RPG)に対して多少は役に立つ可能性があるものの、「T-62」をシリアの戦場に蔓延する非常に変わりやすい対戦車戦をめぐる情勢に持ちこたえる助けにはなりそうもありません。


 それでも、内戦によってシリアにおける鋼鉄の野獣が徐々に減少し、すぐに使用できる戦車の数も少なくなっているため、「T-62」戦車が今後の極めて過酷な戦いで非常に重要な役割を果たす可能性は高いと思われます。


2025年6月6日金曜日

沿ドニエストルの戦争:1992年のトランスニストリア戦争で各陣営が喪失した兵器類(一覧)


著:シュタイン・ミッツアー と ヨースト・オリーマンズ(編訳:Tarao Goo

 この記事は、2023年3月20日にOryx「本国版」(英語)に投稿されたものです。意訳などにより、僅かに本来のものと意味や言い回しが異なっている箇所が存在する可能性があります。

 トランスニストリア(沿ドニエストル)の存在は、ソ連邦崩壊後の1992年にモルドバがルーマニアの一部になることを恐れたロシアの支援を受けた分離主義勢力とモルドバの間で起こった短期間の戦争に起因しています。

 この戦争については、当時のモルドバ・ソビエト社会主義共和国に駐留していたロシアの第14軍がトランスニストリアに代わって介入し、新たに独立したモルドバ共和国の軍を打ち破ったことで終結しました。

 勃発した同じ年に武力紛争が終結したにもかかわらず、沿ドニエストルの状況は依然として複雑なままとなっています。この未承認国家はロシア連邦への加盟を望む一方で、経済生産の面ではモルドバへの僅かな商品の輸出に大きく依存し続けていることがそれを浮き彫りにしています。

 トランスニストリアの人々はソ連崩壊前から戦争の準備を始めており、すでに1990年夏には数多くの自衛民兵組織を設立していましたが、 1991年になるとこれらの組織が統合されて「ドニエストル警備隊」と呼ばれる統合戦闘部隊が発足しました。

 同じ頃、数百人ものロシア人コサックがこの地方に到着しました。その後に彼らはトランスニストリア人たちと一緒に第14軍の武器庫を襲い、武装を開始したのです。こうした出来事の一例として、トランスニストリア市民の群衆が射撃訓練から戻ってきた第14軍の部隊を塞いだ後に包囲に成功し、その過程で「T-64BV」戦車10台と「BTR-70」APC10台の捕獲した出来事が挙げられます。[1]

 1992年6月、モルドバ政府によると依然として自国領と主張する地域にモルドバ人が入った後、ベンデル市とその近郊で市街戦が勃発しました。

 沿ドニエストル側が以前に第14軍から奪った数台の「T-64BV」を投入したことで「T-64」最初の実戦デビューが記録されましたが、2台の「T-64」はモルドバが制圧したベンデルの一部への前進を試みた際に「MT-12」100mm対戦車砲によって即座に破壊され、さらに4台が損傷または鹵獲されてしまいました。

 ちなみに、この紛争ではモルドバ側の「BM-27 "ウラガン"」多連装ロケット砲や「MiG-29」戦闘機など、入手したばかりの兵器の運用を市民がマスターするのに苦労したために、DIY式の装甲戦闘車両が広範囲にわたって使用されたことは大きく注目すべきでしょう。

  1. 以下の一覧では、トランスニストリア戦争で撃破や損傷、鹵獲された各陣営の兵器を掲載しています。
  2. この一覧は、視覚的証拠に基づいて撃破や損傷、鹵獲されたと確認できたものだけを掲載しています。したがって、実際の損失はここに記されたものより多いと思われます。
  3. この一覧の対象に、トラック類は含まれていません。
  4. 各兵器類の名称に続く数字をクリックすると、撃破や鹵獲された当該兵器類の画像を見ることができます。

沿ドニエストル (10, このうち撃破: 5, 損傷: 4, 鹵獲: 1)

戦車(6, このうち撃破: 2, 損傷: 3, 鹵獲: 1)

装甲戦闘車両(1, このうち損傷: 1)
  • 1 GMZ-3 地雷敷設車(AFVに転用したもの): (1, 損傷)

急造の装甲戦闘車両 (2, このうち撃破: 2)
  • 1 PTS水陸両用輸送車ベースの移動トーチカ: (1, 撃破)
  • 1 カマズ製ガントラック(「 ZU-23」対空機関砲搭載型): (1, 損傷)

歩兵戦闘車(1, このうち撃破: 1)


モルドバ (9, このうち撃破: 7, 鹵獲: 2)

装甲戦闘車両(3, このうち撃破: 1)

装甲兵員輸送車 (2, このうち撃破: 1, 鹵獲 1)

牽引砲 (1, このうち鹵獲: 1)

対空砲(3, このうち撃破: 3)

[1] Боевое применение танка Т-64БВ в боях за г. Бендеры http://btvt.info/5library/t64benderi1992.htm